表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第一話 四月、そして五月

 水の音が聞こえた。


 目を開くと見慣れない天井があった。何度か瞬きをして、そこが自分のアパートだと気づいた。引っ越してきて今日で三日目。人気のない自室の風景にはいまだに慣れず、目をこすりながら布団を体からはがす。

 ベットの脇のテーブルの上には、卓上のカレンダーが置かれている。僕はパジャマから手をのばし、紙製の貰い物のそれを手に取る。四日後、来週の月曜日に赤字で入学式と書かれている。欠伸をしながらカレンダーを元に戻すと、机の上に置かれていた大学からの書類が目に入った。それを見て僕は、何となく物淋しい気持ちになった。

 あと少しで僕は大学生になる。

 嬉しくないといえば嘘になる。初めて親元から離れて、見知らぬ街で過ごすというのはわくわくするし、サークルやバイトにも憧れがあった。けれど高校を卒業し、知った人のいない場所で暮らすことに、どうしても不安を覚えてしまう。

 不安、といえばこのアパートもそうだ。

 自分が生まれた年にはすでに建っていたこのアパートは、壁紙こそ新しくしているものの、よく見ればところどころに傷があり、窓枠の金具にはサビが見える。それに年季のたった木材のすえた匂いが、どこからか漂っている。外見こそ飾っているものの、触れればメッキが剥がれ落ちそうな、そんな不安定さが部屋から感じられた。


 水の音が聞こえた。


 雫が水面に落ちたような、そんな音が聞こえた。僕は辺りを見渡す。僕のいる洋室にはベットと机があるだけで、水に関わるようなものは見当たらない。

 台所の蛇口が開いたままだったかもしれない。そう考え僕は、隣の部屋へと足を運ぶ。まだ家具や家電を揃えていないため、キッチンに皿やまな板を並べているだけで、我ながら殺風景な部屋だった。蛇口に近寄り握ってみるが、きちんと閉まっていた。念のため風呂場も見てみるが、こちらも蛇口から水は落ちていなかった。

「寝ぼけているのかな?」

 首を捻っても見当がつかず、仕方ないので僕は風呂場を後にした。

 後から思い返せば、この水の音が全てのきっかけだった。



 裏野ハイツは静かな住宅街にある二階建てのアパートだ。塗装をやり直しているものの、築三十年を迎えたアパートの、手すりは所々サビつき、少しずつ朽ちていく体を隠しきれずに居る。

 僕は手についたサビに軽く息をかけて払った。電信柱の蛍光灯は薄暗く、夕闇が濃ゆくなってきた春の夜を照らすほどの力はない。とはいえ一ヶ月も行き帰りを続けていれば、多少の暗がりはもう気にすることもない。

 階段に足をかけると、小さな悲鳴のような軋みが聞こえた。赤みを帯びた金属製の階段は、どこか傷んでいるのか、足を下ろす度に音をたてる。気にせず登った僕は、部屋へ戻ろうとして足を止めた。

「あら、こんばんわ」

 階段の上に白髪のおばあさんが立っていた。僕の2つ隣の部屋に住んでいる人で、すでに顔なじみだった。けれどこのおばあさんの名前を僕は知らない。このアパートでは表札を出していないので、扉を見ても名前はわからない。それに初めて合った時に聞きそびれてしまい、尋ねる機会を無くしてしまった。だから何となく、心苦しい思いを僕は持っていた。

「その荷物は、部活ね?」

「ええ」

 僕はカバンと一緒に背負っていたテニスバッグをお婆さんに指差した。買って間もない黒いバッグは、ジッパーの取っ手が電灯の明かりを浴びて白く光った。

「友達に誘われて、ちょっと前から始めたんですよ」

「それは良いわね」

 お婆さんは手を合わせて大きく微笑んだ。僕の胸ほどの背丈という小柄なせいか、お婆さんの大きな顔に浮かべた表情は、印象が強く感じる。

「じゃあ私、これから買い物だから」

 お婆さんが笑顔で会釈をしたので、僕も軽く顔を下げる。お婆さんはそのまま僕の隣を通り過ぎ、階段の下へと消えていき、次第に靴の音が遠ざかっていく。あとにはどこからか聞こえる蝉の鳴き声と、廊下の蛍光灯の周りを飛ぶ、羽虫の音だけがあった。人の気配はなく、どこか寂しい雰囲気だった。

 僕はバッグを担ぎ直し、お婆さんが出てきた201号室を通り過ぎる。

 裏野ハイツの二階には3つほど部屋がある。そのうち人が住んでいるのはお婆さんのいる201号室と、僕が住んでいる203号室で、その間の202号室には人が住んでいない。僕は202号室を通り過ぎつつ、横目で窓を伺う。窓の向こうは暗く、何の音も聞こえない。以前お婆さんに聞いたところだと、この部屋は数年ほど無人だそうだ。ただ人のいない部屋というのは、なんとなく不気味に思えて通る度に身構えてしまう。自分の部屋の壁一枚をへだてて、音も何も無い暗闇があるだけというのは、それだけで不安に感じる。実はその暗闇の中に得体の知れない何かが潜んでいるのではないかと、どうしても想像してしまう。

僕は足早に202号室を通り過ぎると、203号室の前に立ち、鍵を開けた。

暗い中を手探りで電灯のスイッチを点けると、積み重なった雑誌の束が目に入った。靴を脱ぎ、雑誌を避けて台所に上がると、テーブルの上に置かれたからのカップ麺があった。広いとは言えないキッチンには、飲み終わったペットボトルが何本か置かれている。まだ住み始めて一ヶ月しか経っていないにもかかわらず、すでに台所は雑然としていた。

そろそろ片付けないといけない。そう思いながら僕は隣の、洋室に入り荷物を置いた。床に投げられたコミックを、とりあえず机の上に置いてベットに腰掛けた。


水の音がきこえた。


また、だ。僕はため息を吐いて腰を上げた。念のためにキッチンを見てみるが、案の定蛇口はしまっていた。

入居してから五回か、六回目くらいになる。栓を開けてもいないのに、どこかから水が漏れている音がする。



台所だけでなく、トイレや風呂場を確認しても水を出してはいないのに、どこかから水の滴る音がする。古い建物だから、もしかしたら天井裏とかで雨漏りがしているのかもしれない。五月もそろそろ半ばになり、あと一ヶ月もすれば本格的に梅雨の季節になる。そうすればきっと音の頻度もふえるだろう。今のうちに大家さんにでも話をして、天井の点検をしてもらったほうが良いかもしれない。

そんなことを考えつつ、僕はベットに横になった。先ほどまでテニスで走り回っていたため休みたかったし、大家さんへお願いするなんて面倒なことを今はやりたくなかった。

汗ばんだシャツを着たまま天井を見上げていた僕は、次第に眠気を覚えた。シャワーに入らないといけない、とは思っていたが、それよりもベットの上にいたかった。


足音が聞こえた。


ベットから跳ね起き、あたりを見渡す。雑誌と教科書が詰め込まれた本棚に、ノートパソコンの置かれた机、壁際に置かれたテレビ。どこにも人影はいない。当たり前だ。この部屋には僕一人しかいないはずだから。

うとうとしながら聞いたので、どこからの音か今一分からない。

ーー気味が悪い。

ゆっくりとベットから腰をあげ、もう一度周囲を見渡すが、何もない。もしかしたら隣の部屋か、とも思ったが、隣には誰も住んでいない。階下の部屋にも人は入っているが、少なくとも下からの音、という風ではなかった。


 とん。


再び音がきこえた。僕は反射的に頭上を見上げた。天井の上を何かが通った、ような音がした。ネズミとか猫の足音のような気がする。どうやってかは知らないが、天井裏に紛れ込んだのかもしれない。

僕はしばらく天井を眺めていた。しかし白く塗装された壁の上からは、それきり足音は聞こえなかった。どこかに行ったのかもしれない。そう思い、僕は腰掛け用としてベットに手をおいたが、そのままの姿勢で、固まってしまった。天井の、先ほど音が出たであろう場所が、薄黒くなっていた。ちょうど水をかけて湿らせたように。

 水に濡れた生き物が、歩けばきっとこういうふうになるのだろうか。

 その正体がなんであれ、気味が悪かった。僕はそのまま天井を見続けた。しばらくしても一向に足音は聞こえず、次第に乾いてきたのか、天井のシミは消えていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ