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精神病

作者: 鬼火
掲載日:2016/05/07

 降伏します。私はもう生きてはゆけません。

 というのは誰もが私のことを知らないし、私も誰をも知らないし、そのために人々の存在自体が恐ろしく、街並みに繰り出すことはおろか、一寸した買い物をしにコンビニへ行くことさえが怖くて、身体が言うことを聞かず、脚が固まってうまく歩くけず、頭の中では常に「ああそこに人がいる。知らない人だ。そこにも知らない人がいる。ここは全体どこなんだ。私はなんのためにこんな地獄へ繰り出してゆかねばならないのだ。それは生きるために喰わねばならないが、どうして食い物一つ手に入れるのに、こんな地獄を彷徨わなくてはならないんだろう。ああ、そこの人が私を見つめている。私は睨み返す度胸がない臆病者。いや私は立派に認められた精神病患者なのだから、あの人はそのことに気が付いて、きっと奇怪な目で私の一部始終を監視しているに違いない。私が普通の人と違うことをもししでかしたとしたならば、すぐさまにその異変をあざ笑い、あの人の知人に『そら、あそこに気違いがいるぞ! 脅かしてみよう!』とでも唆すのに違いない。ああ私は逃げなくてはならない。こんな地獄からは。しかし私が生きてゆくにはこの粗末な弁当を買わねばならない。少しの辛抱だ。毎日が辛抱だ。生きてゆくことが辛抱だ。こんな些少のことで気を動顚させていてはいけない。さあレジだ。知らない人が私に話しかけてくるぞ。『お弁当は温めますか?』だって? それは警告なのか? 私に対する警告なのか? もしそれを拒否したならば、『この気違いのくせに、私に逆らうなんて!』とでも畳みかけてくるつもりなのか? 私には拒否することができない。私は逆らえない。――さあ、お金を渡さねばならない。絶対に手が震えるだろう。なんだって知らない人間に私の金、私の人生の一部を明け渡すのだから。それを彼女は腫物を触るようにして受け取って、私の精神病が感染してしまわないように細心の注意を払い、お釣りを渡してくるに違いない。私の震えは激しくなるだろう。手から腕、胴体、脚、首が奇怪に薄気味悪くガタガタと震えだす。傍から見てなんと気持ちの悪い人間なんだろう。震えが止まらないままに食い物を受け取って足早に店を後にする。私の首の骨がギシギシと鳴っているのが店中に知れ渡る。私が去った後にも店内は私の話で持ち切りだ。『あんな気違いは見たことがない』と。それにしてもこんな地獄と屈辱を味わってようやく食い物を買えるとは、なんて恐ろしい世の中なんだろう」という途轍もない怖れに裏付けされた自虐が繰り返されるのです。これが三六五日繰り替えされるとなれば、私の苦悩がささやかにも理解していただけるものと存じます。繰り返します。もう私は生きてはゆけません。

 一人でいるときだって、ぼんやりと椅子に座って本を読んでいると、突如として凄まじい寂寞感に襲われて、ああ私はこのまま何もできないではないか、何かしたいと思うのに身体が言うことを聞かないではないか、椅子から立ち上がることすらままならない、文庫本が金塊のように重く感じられる、とても持っていられない、頭の中で孤独感が旋風を巻き起こして荒れ狂う、私の自我が旋風と化している、とてもこの肉体では耐えきれない、そうだ仮説自殺だ、タバコだ、タバコを吸わなければ、タバコを吸うことは精神の自殺だ、私はそう信じてきたし、それは間違っていない、タバコを吸って精神を自殺しなければ、という虚妄に捲し立てられ、飛び跳ねるように席を立つと、何もないテーブルの引き出しからメビウスの八ミリを取り出し、ベランダへと向かうのです。

 最初の一服は、それはそれはきれいな精神の自殺です。燻ぶった火種を肺に取り込むように深く深く吸い込み、二秒ほど息を留めて、ゆっくりと吐き出します。私の精神は白く形骸化して空中に融け入って消えてゆきます。それを見つめるときのなんともいえない愉悦。私の精神を自殺させた。私の意志が私の精神を殺した。意志が精神を凌駕した。その諧謔といったらありません。しかしタバコの有効成分は六秒で脳内物質を分泌させるそうで、その最初の一服の後には地獄が待っています。私の体は無様に震えだし、思考は酩酊し、薬物中毒者の特有な恐怖感、被害者意志が萌芽します。私は怖い、私は怖い、私は怖い、私は怖い。意志が剥奪されてゆく。恐怖に憑かれた精神が再び私を支配しだす。私は怖い、私は怖い、私は怖い、私は怖い。タバコも失敗です。酒は飲めません。ビールを二杯も飲めばゲーゲーと朝までやります。胃が飛び出るほどにです。しかも酒を飲んでも精神は死にません。より鋭敏に他人の目が私をじっと見つめている気分に襲われます。

 私には生きる希望が残されていません。仕事は楽しくありません。自暴自棄になり、私は悪徳を働くようになりました。私は犯罪者です。私の居場所はどこにもありません。

 再三繰り返します。私はもう生きてはゆけません。願わくば、苦しまずに死ねる方法が見つかればよいと思います。それが臆病な私らしい、精神病を患った人間としてのささやかな願いごとです。


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