第四章「撃ったら当てろ -Shoot, Then Hit-」
バルダイの戦線は二ヶ月に渡って膠着状態にあった。霜が降りた朝の塹壕は地獄の寒さだ。エリーザベト・リンネンの歩哨時間が終わりに近付いたとき、空が白み始めた。前方、相手が顔を出せば十分にそれを吹き飛ばせるという距離に、憎きエルエルの塹壕があった。亜人解放を謳う組織はいくつもあるが、エルエルより酷いものはなかった。連中は一種の全体主義的な体制を敷いており、今のところ無尽蔵の役に立たない兵隊を次々と前線に送り込んでくることで特徴付けられていた。そしてエルエルに洗脳された哀れな亜人たちはときに自分たちの死を喜びさえしたが、この過酷な戦線では、双眼鏡ごしに見る彼らの表情もこちらの兵隊たちのそれと同じようなものだった。みんなが疲れ切っていて、朝の寒さや、食糧不足や、睡眠不足に苦しんでいた。死の恐怖にではなく、である。
エリーザベトは白い息を細く吐き出しながら、いつも通りに前方に目を凝らした。敵の塹壕は何やら賑わっていた。みんなが目を覚まし、朝食の前に煙草を一服する時間なのだ。歩哨は退屈だった。敵が、こんな朝っぱらに朝食を犠牲にしてでも攻撃をしかけてくる見込みは薄かった。
すぐ後ろで煙草を吸っていたライデルはライフルの銃身を掃除しているところだった。最新式の突撃銃といえども、この塩辛い泥の世界では調子を悪くすることがあった。彼はエリーザベトの次なのだが、よく眠れたせいで目が覚めてしまい、退屈していた。ライデルだけでなくほかのみんながそうだが、眠ってもいいというときによく眠れないことは、何かの不吉な前兆と見なしていた。彼は自分がこの先の数十時間のうちに経験するであろう疲労や、睡眠不足の苦しみに思いを馳せ、憂鬱を感じていると告白した。しかし、エリーザベトが彼にしてやれることは何もない。彼は今から二時間の歩哨である。ひとたび歩哨に付いたら、そこでしっかり気を付けていなければならないのだ。
エリーザベトには、今が交代の何分前なのか分からなかった。どうせ交代のときになればライデルがそう言ってくれる。
ここですっかり顔を出していても、敵がこちらをうまく撃つことはほとんど全くなかった。彼らには旧式の、ほとんど手入れもされていない不良品のライフルしか与えられておらず、夜の奇襲攻撃を撃退したさいに分かったことだが、彼らの突撃部隊の中にさえ、子供の工作のようなピストル一挺しか持たぬものが含まれているのである。彼らの武器は最上のものですら粗悪品の酷いものだったし、その上、週に二度ほどの奇襲攻撃では、彼らの司令官は貴重な武器を消耗しないようにと、武器をほとんど持たない兵隊を混ぜ込んでいた。そして死体が抱えている武器の回収を命じられた部隊が夜になると茂みを這って動き回る。こちらの部隊は、それを見越して夜になると茂みに掃射の雨を降らせた。しかしそれが効果を上げたとは思えない。どんなに臆病な兵隊だって、余分の食事や休暇と引き換えなら、喜んで掃射の中に入っていくだろうからだ。そして機銃掃射というものは、相手を怖がらせるだけで、ほとんどの場合当たらないものなのだ。
エリーザベトはここに来てからすでに三十人ばかり仕留めていたが、全て、塹壕からではなく、別の位置から撃ったものだった。それはたいてい、こんな朝焼けの少し前にやるのだ。こちらは夜通しで照準器を覗いていて、目が慣れてくると夜だって色々なものが見えてくるものだ。それが、相手にとってはまだしっかりと夜で、朝焼けが近付いても、彼らには何も見えていないのと同じなのだ。そしてそんな朝焼けの数分前に、エリーザベトは目星を付けておいた人物か、手ごろな位置にいるものを撃つ。運がなくとも、うまく遮蔽物に隠れられない兵隊が大勢いるので、的には困らない。相手は無力な暴徒に過ぎないのだ。
そして三十人の的のうち、恐らく本当に有意義なヒットはゼロである。つまり、エリーザベトが撃ったのはいずれも恐るるに足りない、兵隊と呼ぶわけにもいかぬような民兵だったのだ。しかし、精確な狙撃の恐怖があるということを連中が思い知るには十分な働きだったのだろう。連中は相変わらず不注意で、最も警戒心の強いものでもただ怯えているだけというようなありさまだったが、指揮官や将校クラスの連中はあまり顔を出さなくなった。こちらの狙撃を警戒しているのだ。
薄い雲に白い光がかかり、山脈に朝を降り注がせ始めた。まだ空は青く暗いが、じきにはっきりと朝の姿を取るだろう。そして山の向こうに、白く燃える太陽が顔を出すだろう。
「ライデル、私、これでおさらばよ」
エリーザベトは振り返らず、塹壕の向こうの山脈を見つめながら言った。ライデルがゆっくりと煙を吐き出すのが聞こえた。
歩哨のあいだに誰かと話をするのは重大な軍規違反だが、この長い塹壕線では、そうしたことのいくつかが合法化しつつあった。うまく確保しておいた食料を食事の時間以外に食べることや、どう考えても致命的でないと言い切れるような状況で、作戦行動中に煙草を吸うようなことである。敵はでくの坊の集団だ。それを誰もがはっきりと、嫌になるほど肌で感じていた。
「出頭命令。デイーゼルの装甲列車で十八時間、王都セリア」
ライデルは別に感動したふうでもなかったが、何とも中途半端な険しい静けさで応じる。
「あそこじゃ暖かいし、平和なことだろうな」
「平和なのはここも同じだけど、ね。うん、でも、きっと暖かいんだろうな」
エリーザベトはくすりと笑った。白い息が横に流れていった。少し風があるようだ。
「私きっと、ゆっくりと眠るわ。一日眠る。塹壕も、機銃もないところでね」
「腕がなまらないようにするんだぞ。お前は狙撃チームでもベストなんだから」
「練習しておくわ」
肩をすくめる。
彼の指摘を喜んで受け入れるわけにはいかなかった。エリーザベトがチームでベストになったのは――彼女より優れた狙撃兵がみんな戦死したからである。彼女は今でも、あの英霊たちと狙撃演習の最難関コースで得点を競い合ったとして、彼女に勝てる見込みはないと思う。自分は腕利きの狙撃手には違いないが、彼らのようなスターとは違うのだ。ただ、とても運が良かったおかげで、何度か命拾いしている。不可能にも思えるサバディルでの脱出だって、魔導工兵が臨時の砲手を務めてくれなければ、また機械化歩兵部隊の軽機関銃がなければ、火力不足のために失敗しただろうし、おぞましい鎧を身にまとった重装竜騎兵が隊長を務めなければ、廃墟の町もしくは深い森林で足止めを食らって、やはり失敗しただろう。たいてい、幸運も不運も、全くもって前触れもなく、また理由もなく訪れるものなのだ。“今のは悪くすれば死んでいた”ということが、数え切れないほど何度もあったのだ。そしてそうした状況にも関わらず自分は運よく生き延びたということを、諸手を挙げて喜ぶほど幸運に感じることはできなかった。しょせんは大フリギアの運命の女神、あの忌まわしい五番目の天女の手の上で踊らされているというだけなのだから。
彼がライフルの掃除を終えたらしいので、交代時間が近付いているのが分かった。風が少し強くなっていた。
「風が出てきた。今朝は冷えるわよ」
「お前さんを失って、戦線が泣いてるんだ」
ライデルは冗談を言ったのに、あまりにも疲れているせいか、悲痛な声だった。そしてエリーザベトも、ていねいに笑ったりしなかった。ここでは誰も、ていねいに笑いはしない。泥にまみれた極寒の塹壕で、いつ終わるとも知れない退屈な膠着状態の中に身を置いていて、楽しい気分になどなれるはずもないからだ。いつも、笑いという記号を使いはするけれども、それは真実味を欠いた疲れた咳に過ぎない。ライデルは煙を吐くと、立ち上がって軽く体操を始めた。
「交代まで二分。気合いを入れろよ」
ライデルは純粋に歩兵だった。上陸作戦を三度経験していて、やはり強運の持ち主と噂されている。エリーザベトが自分のチームではあまり聞かない言い方を、彼はよく使った。“気合いを入れろ”である。これが特殊部隊となると、“殺せ、殺せ”となるし、海兵なら“アーイ”となる。各部隊の鳴き声みたいなものだが、歩兵の鳴き声は文化的だ。そして狙撃部隊に鳴き声があるとするなら、それは沈黙である。彼らの軍隊生活のほとんどは、沈黙のうちに過ごされるのだ。
しかしそれでも、塹壕戦となると、途端にみんな自分たちの鳴き声をあまり使わなくなった。ここでは誰もが共通の新しい鳴き声を覚えるのだ。溜め息や、気持ちを楽にするために煙草の煙をゆったりと吐く音、退屈ですっかり表情を失った顔を振ってから、力を入れようと喉を唸らせる音、などである。エリーザベトはここにいるみんなが狙撃教練課程を等しくパスしていたなら、どんなにかこの沈鬱な雰囲気がましになっただろうかとよく考えていた。少なくとも狙撃チームに入れるくらいの訓練を受けておけば、退屈というものに対して独特の、新しい見方ができるようになる。十二時間寝そべっていたって、ある種の危険の前兆のようなものに対しては十分に鋭敏でありながら、それ以外のほとんどのことに対しては、無関心でいられるようになるのだ。そうなると、ほとんど眠っているようなもので、必要なときにはすっかり目を覚ましてしまえる。これは思い出すだけでも吐き気を催すような膨大な訓練の賜物だが、このおかげで、狙撃手たちはみんな、宗教を必要としないほどに戦場から救われているのだ。
煙草の火を泥で消して吸殻をそのあたりに捨ててしまうと、ライデルはエリーザベトの肩に触れた。
「時間だ。五秒ほど超過勤務だったな」
エリーザベトは頷き、それから、引き下がった。
ライデルは今までエリーザベトが立っていたところに、その痩せた体を置いて、何度か足を踏み鳴らした。楽な姿勢を模索しているのだ。掃除を終えたばかりのライフルを抱えている。エリーザベトも同じライフルを持っていたが、これは武器庫に返すことになる。狙撃チームは自分の突撃銃は持たないで、狙撃銃だけを持つものだ。だからのこのライフルは、ここに送り込まれてきたときに歩兵のほうが貸し付けてくれたものなのだ。
「手紙を書いてね、ライデル。すぐに返事するわ」
「紙とペンが買えたらな」
彼は少しだけ明るい声で答えた。エリーザベトはくすりと、かすれたように笑い、歩き出した。
狭い塹壕を、うずくまっている控えの兵隊たちの上を乗り越えながら進む。向かいから、ライデルの控えであるルークというヘミンの兵士が歩いてきた。エリーザベトは軽く会釈したが、彼は頷いたような、何もしなかったような、曖昧な応答だった。
誰かが小さな声で、“パディの休暇”というポップスを歌い出した。ずっと前に陸軍省から“反戦的な内容”とケチを付けられ放送禁止になったのだが、軍隊のラジオでは相変わらず放送され続けていたといういわく付きの流行歌だ。くだらない内容だが、パディという二等兵が休暇をもらい一晩だけ家に戻ると、彼のガールフレンドは別の男と結婚していた、というような歌だ。それでパディは失意のうちに前線に戻り、戦死してしまう。メロディは明るいのだが、絶望的な詞だとエリーザベトには思えた。
塹壕を抜け出るための階段の周辺には、コンクリートの防壁が巡らしてあった。ここには二度ほど流れ弾が当たったが、傷にさえならなかった。これがあるおかげで、階段を上がって全身をすっかり地上にさらしてしまっても、撃たれる心配はないのだ。
後方はキャンプだった。土地にうまく隠れているので、ここでは訓練や、食事や、睡眠といった全てのことが行われている。そして不運にも塹壕での勤務を言い付けられると、あの泥まみれの恐ろしい空間に入っていなければならないのだった。エリーザベトはライフルを武器庫に返却し、帳簿にサインする。それから手榴弾やら発炎筒やらも返却し、氷のように冷たい金属製のドアを閉める。この武器庫は簡易なプレハブ式で、施錠はされなかった。
歩いていると、焚き火の煙が上がっている。休憩をもらった兵隊たちが暖を取っていた。
食事係は忙しく動き回っており、上官のテントの前には歩哨がふたりだ。エリーザベトはあくまでくつろいで敬礼する。
「リンネン伍長です。コッティ少尉に会わせてください」
儀礼上のスケジュール確認をしてから、十八歳の若い歩哨が頷く。
「どうぞ」
テント内に入るが、寒いのは同じことだった。こんな場所で事務作業ができようとは、思いも寄らないことだ。しかしコッティ少尉はそこに座っていた。敬礼し、気を付けの姿勢を取る。
「リンネン伍長、出頭しました、少尉どの」
「休め。くつろいでいろ、こんな朝早くからガミガミと玩具の兵隊みたいに振る舞うのはよせ」
エリーザベトは言われた通りに姿勢を楽にした。
彼はブラックコーヒーを少しだけすすり、顔を上げた。小太りの男だが、ほかの兵士たちと同様に疲れた顔付きをしていた。彼は三ヶ月もここにいるのだ。
「セリアでの勤務は長くなりそうだな。お前なら、部隊の名に恥じぬ働きができるだろう。少なくともおれはそう期待している。絶対に気を抜くんじゃないぞ。いつもの半分ぐらい的に当たれば、上等というところだろうからな。しかしそれが難しいのだ」
「テロリストを撃ち損じたくはありません、少尉どの」
「当たり前だ。しかし街場で暗躍しているテロリストなんぞは、訓練された最上の兵士とは比べ物にならんほど酷い代物だ。やつらは遮蔽物に隠れるということさえ知らないんだからな」
少尉はコーヒーをまたすすり、咳き込んだ。
「無駄話はよそう。お前が使うチケットはこれだ。これを渡したら、おれからお前には何の用もなくなるというわけだ。さっさとラッカルで山を降り、十一時半の便に乗れ。装備は自分のものを全部持っていくように」
「完全装備ですか、少尉どの?」
「そうだ。お前がどういう部隊から来たのかはっきり分かるような格好をしておけということだ。そしてお前に今できる最高の状態でな。ほかのメンバーもみな完全装備で出頭している」
エリーザベトは頷いて、彼の差し出したチケットを受け取った。少尉のスタンプが押してあり、これは最優先で鉄道に乗り込めることを意味している。
「“第十八狙撃分隊”――戦死した仲間たちにも、うまくやると約束するんだ」
「約束します、少尉どの」
コッティ少尉は頷いた。
「解散。暴れてこい」
エリーザベトは自分の装備を身に付けるのに五分かかり、それから馬やラッカル種の繋いであるところまで走っていった。
ラッカル種は頑強で巨大なロバといった風情の動物だが、教育が簡単であり、馬に比べると複雑な地形に強いので、山岳地帯の作戦には必ず連れてこられる。馬屋の管理をしている兵士に事情を告げると、すでに命令を受けて待機していた別の兵士が、エリーザベトの乗るラッカルを用意してくれた。この兵士というのが女性のヘミンで、ラスティ伍長と名乗った。エリーザベトと同じ伍長だ。正確には伍長勤務の上等兵だが、互いに“サー”を付けなくていいことは明らかだった。このヘミンの女性はやはり亜人らしく、ヒューマンにはないような、イヌのような長い耳を持っていた。ヘルメットを被ると不便に違いないが、彼らは彼らなりに、自身の肉体の欠点を補う方法をいくつも編み出しているものだ。ヒューマンよりもヘミンのほうがずっと戦争向きであることは確かだが、ヘミンはノミや、食糧不足といった問題に対してはより敏感だった。彼らはもちろん、ヒューマンよりもずっと空腹に強いのだが、それが長引いてしまうと、ヒューマンにはないある種の特徴を示す。それは、不機嫌になり、凶暴になる、ということである。
「舌を噛まないようにね」
ヘミンは言ってから、ラッカルに乗り込んだ。エリーザベトも頷いて、自分のラッカルに乗り込む。
「二時間ほどで着くわ。駅は退屈だと思うけど、頑張ってね」
ラスティがそう言うので、腕時計を見るとまだ朝の六時だった。
「本当だ……」
エリーザベトは小さく呟いた。十一時半の便ともなると、三時間ばかりは駅で待機することになるだろう。
「ここに来てから長いの?」
ラスティがたずねる。エリーザベトはそちらに目を向けたが、ラスティは前を向いていて、ラッカルを歩かせ始めるところだった。エリーザベトもそれに続きながら、物音で消えてしまわないように、少しだけ声を大きくした。ラッカルが歩き出した。
「二週間ほど前かな……転々としているから、あまり覚えてないんだ」
実をいえば、エリーザベトは全てをはっきりと覚えていた。二週間前にはバルダイ山より西の、アールティオスの平地にいた。そこで仲間がいなくなり、部隊を失ったリンネン伍長は、このバルダイの中隊に転属になったのだった。第十八狙撃分隊を撃破したのは、敵の優秀な狙撃兵ではなかった。激しい砲火である。そして敵地の偵察のために長距離行軍に出ていたエリーザベトをのぞいて、みんなが戦死するか、後方の病院送りになってしまった。
そしてその前にも、チームは各地で狙撃作戦を行った。その成果は華々しいものだった。エリーザベトはそれら全てをはっきりと覚えていた。忘れることはないだろう。
白い迷彩服に頑丈な防水ブーツ、大きなゴーグルと、今は首に落としているが、ネックウォーマーとフェイスマスクを兼ねたもの。銀色の腕時計、サバイバルナイフ、バックパック。そして三つに分解して縛り上げ、麻布を被せた狙撃銃。対物狙撃銃、通称は“フォートレス”。これひとつで要塞のごとき働きをしうる、という一種のスラングだ。これらの装備全てが、第十八狙撃連隊のメンバーに共通のものだった。しかし今となっては、これを着た兵隊はエリーザベトただひとりなのだ。
ふたりは決して、お喋りというわけでもなかった。一種の信頼というものを感じてはいたからこそ、かえって、口を利く必要に迫られなかった。沈黙は会話と同じだけ価値があった。二頭のラッカルの足音や、風の音だけが耳に入った。それら自然的な物音たちは、完全な静寂と同じに穏やかで、心を楽にしてくれた。
しかし、気を抜くと、あの風景を思い出す。怖いもの見たさもある。
そしてあの瞬間を思い出し、記憶のふちを覗いたところで、必ずエリーザベトは後悔するのだった。砲弾に破壊された兵舎、運び出される仲間たち。そのうち何人かは生きていて、悲鳴を上げていた。そして何人かは、物言わぬ肉であり、欠片であり、腕や足だった。すぐさま上官やチームメイトの亡骸に白い布が被せられ、担架で運ばれていった。みんなが大声で怒鳴り合い、負傷者を運んでいた。負傷者の悲鳴や泣き声が、死体に声をかける衛生兵の叫び声が、ほとんど生まれて初めて感じるよう深い絶望をエリーザベトに感じさせた。そしてその光景を思い出すと、どうしてかエリーザベトは、仲間を失った怒りも悲しみも全然なく、ただ恐怖する。全身が震え出し、こんな場所にはいられないと感じる。ひとりで歩哨に立っているとき、こんな考えが浮かぶ――この場で自分の頭を撃ってしまえば、それで全てが終わり、恐怖に怯えなくて済むのだ、と。歩兵たちはみんな勇敢で、こんなエリーザベトの臆病さには気付かないようだった。彼らはいつも気合いを入れていて、不死身で、何をするにも怖がったりはしなかった。彼らはどんなに激しい戦場を経験しても、また張り切って出かけていき、自分たちの仕事を全うするだろう。
三十分ほど進んだあたりでは、周囲に植物が増えた。黄色い花が一面に咲き、小川が流れていた。ここが戦場でなければ、旅行者がいただろうし、家畜を放す農民もいただろう。空には鳥がいない。風のせいだろうか。
突然、遠くで爆発の音がした。敵の早朝の砲撃だ。長く戦地にいれば、砲撃の音で、どんな種類の砲が使われたのか聞き分けることができる。砲の音というものは個性的なのだ。あの雷のような音は、敵が早朝に使う砲のもので、一度しかまともに当たったことはなかった。そのときは、こちらの食料庫の一部が粉砕された。砲弾はいつも塹壕の目の前か、全然別のところに落ちた。しかしそのたびに、仲間たちは顔を出し、砲弾がどこに落ちるのか楽しみにしていた。そして着弾と同時に砕け散った石や土が天高く舞い上がるのを、口笛を吹きながら眺めるのだ。
「鶏みたいなものね」
ラスティはそう言ったが、エリーザベトは少し緊張を覚え、やはり楽しい気持ちにはなれなかった。無理をして笑顔を作ったが、ラスティはこちらを見ていない。
砲撃の音はさらに続いた。別の砲も混ざってくる。あれはここ数日で追加された新型のもので、着弾地点もいい線をいっている。しかしやはり、まともに当たったことはなかった。今朝はいつもよりずっと多いが、いずれにせよ、そうした攻撃が致命的な打撃をこちらに与えることはないのだ。敵は訓練をまともに受けておらず、砲の運用はへただった。彼らがもしも優れた砲手を得ていたなら、ずっと戦局は複雑になっていただろう。バルダイの戦線ももう潮時で、味方は最新式の砲や大量の機銃、またガンシップを投入し、数日のうちにけりを付けてしまうことになっている。その掃討作戦に参加する前に、エリーザベトはセリア勤務になったのだった。
朝日が昇り、景色が鮮明に浮かび上がった。白い雲は近く、素早く流れていく。花々の黄色や赤がはっきりと目に入るし、ラッカルは前方に影を落としている。
「セリアに行ったことは?」
エリーザベトは突然気になって、そうたずねる。自分が今から行く場所について、ほとんど何ひとつ知らないのだ。そこは王都で、教会や要塞化した王宮がある、ということぐらいである。ラスティは首を横に振った。
「一度もないな。あなたは?」
「私もないの。でも、あそこは層状都市だし、とても美しいところだと聞いてるわ」
エリーザベトは層状都市というものを、幼い時分に体験しただけで、そこに住んだことはなかった。フリギアのいくつかの大都市は多層構造を持っているが、一種の放浪生活を送ってきたエリーザベトにとって、それは珍しい通過地点であり、遠くから眺める景色だった。クランニンの多層構造や巨大な尖塔、あらゆる方向に伸びる立体鉄道といったものは今でも覚えているのだが、それは決して美しい景色ではなかった。同じ層状都市のセリアが美しいという噂を聞いても、エリーザベトには信じがたいのだった。
「行ってみたら分かるわよ。酷いところかもしれないしね」
ラスティはそう言ったが、そんな悪意のない言葉でさえ、エリーザベトを怖がらせ、傷付けることができた。このところどこへ行っても酷い気分を味わっているから、どこへ行こうと、安寧は期待できなかった。ラスティの言う通りかもしれない。これから自分が行くセリアという都市も、破壊や憂鬱や、恐怖が支配しているのかもしれなかった。
砲撃の音は遠くなったが、相変わらず複雑な地形を跳ね返りながら届いていた。そのせいで、いろいろな方向から砲撃が聞こえるようだった。一度などそれが前方から聞こえてきたので、エリーザベトは顔を上げてラッカルを止めた。ラスティは笑いながら、ラッカルを進める。
「このあたりを通るときに砲撃があると、いつもこうなのよ。安心して」
そうだ、彼女の言う通りだ――エリーザベトは思った。塹壕の後方は、完全に味方が制圧した土地なのだ。そんなところから砲撃が聞こえてくるはずはない。しかしそれでも、幽霊の声のように、砲撃の音があらぬ方向から聞こえてくるのは不愉快だった。まるで砲撃の亡霊にでも取り付かれてしまったようだ。
さらに下ると、寂れた村があった。エリーザベトが想像したよりずっと、家畜の数は少なかった。少年がヤギを十頭ばかり追い立てていたが、こちらを見ると、珍しそうに、ちらちらと視線を送ってきた。彼はこちらが気分を害して発砲することを恐れているようだ。しかし最悪の場合、命令のない限り、彼が泥を浴びせてきたとしても、エリーザベトにはあの少年をひっぱたく権利さえ与えられていないのだ。村は美しい場所とはいえなかった。寂れていて、生活やけち臭い日々の苦労が滲み出ていた。村人は軍人を嫌っていた。しょっちゅう武器を携えてここを通り、彼らに怖い思いをさせるからである。それに大型のトラックなどが道路を通る場合には、彼らはすぐに道を開けなければならなかった。そうした一種の抑圧が、退屈をもてあました彼らにとってはいちいち大事件なのだ。
砲撃の音は二時間のあいだ、やむことがなかった。それは初めてのことだったので、いよいよラスティもおかしいと言い出したが、どの道エリーザベトは駅に向かわねばならなかった。旅の終わりごろになると山のふもとの町に入ったが、陸軍がこの三ヶ月ほどで作り上げた病院から救急車輌が何台も飛び出してきて、山道を登り始めた。それでエリーザベトにも全てがはっきりと分かった。上で戦闘があり、誰かが負傷した。それも大勢。もしかすると、砲弾がまぐれ当たりしたのかもしれなかった。
町も賑わっているとはいいがたかったが、少なくとも町らしい体裁は保っているし、住民は大勢いるのだ。それに兵隊向けの最低限の娯楽施設は用意され、しっかりと運営されていた。町の道路を進むと、憲兵が馬にまたがって朝のパトロールに出ていた。ラスティは彼に声をかけた。
「上で何かあったの?」
「さあ。でもいつも通りさ、ありゃ上で戦闘があったんだろう。それに負傷者が大勢出たんだ。でなきゃあんなに何台も出さないからな」
憲兵は眉をひそめる。
「あんたら、上から来たんじゃないのか?」
「私たちが出たときには何も……」
「あの砲撃の音は聞かなかったのか? いつもよりずっと多かった」
ラスティでさえ、それをたやすく信じることはできなかったのだ。敵の砲撃で負傷者が出たなどということを。
ふたりは黙ったまま駅までの道を進んだ。到着すると、ラッカルを降り、装備をまとめる。
「ありがとう、ラスティ。みんなによろしく、ね」
エリーザベトはそう言い、実のところラスティの顔さえ見ずに背を向けた。早くこの場所から逃れたいという衝動に、肉体が支配されていたのだ。それは恐怖とも、ただのいら立ちとも見分けが付かなかった。しかしもはや、エリーザベトは自分が勇敢で誠実な狙撃手ではないことを知っていた。これから前線に戻る仲間に対して、握手や抱擁さえも贈らないとは。
チケットを見るや駅員は目をむいたが、落ち着いたままでエリーザベトを通してくれた。ホームは空いていた。もちろん、こんな時間に鉄道に用事があるような人間はほとんどいないのだし、鉄道のほうだって、こんな時間に、こんな寂れた町に用事はないのだ。
座る場所を探していると、客向けのベンチに空きがある。トレンチコートを着た老人の隣だったが、彼に不快な思いをされてもかなわないと思い、結局立っていることにした。三十分ほどぼんやりしていたが、町はもう静かだった。砲撃の音は止まっていた。憲兵の言を信じるなら、ここまで砲撃の音は届くはずだ。折り畳んで布で隠した対物ライフルはそれなりに重たいので、今は足元に置いてある。自動車の通り過ぎる音や、家畜のベルが鳴る音、女たちの話し声などがときどき聞こえたが、平和なもので、戦争などどこにもないみたいだった。
頭上を竜が通り過ぎた。編隊を組んでいて、低空をかすめる。あのデルタ型の編隊は、空軍の竜だ。攻撃機かもしれない。
陸軍の武装列車は時間通りに現れた。大量の物資を引っ張っており、目の届く限り後ろまで続いていた。機関車には砲台やら銃眼が備えられており、分厚い装甲はグレイのペンキで塗り固められていた。さらに一定の間隔を置いて、物資を満載した車輌のあいだにも、砲台や銃座の載った車輌が挟まっていた。これは移動する機銃陣地もしくは砲台だった。また外見からは判断できないが、歩兵を乗せた車輌も含まれているはずだった。もしもこの列車に攻撃をしかけるような愚か者がいた場合には、その歩兵たちが飛び出してきて、敵を蹴散らすことになるだろう。彼らもまた、機械化歩兵の一種だった。
車掌の役割をしている伍長が出てきて、エリーザベトを確認すると車輌を案内した。そして、さっさと先頭の機関車に戻ってしまった。エリーザベトは急いでホームの端まで移動し、石の敷き詰めてある地上に飛び降りた。彼女が乗る車輌はずいぶん後ろにあるのだった。何とか列車が動き出す前に指定の車輌に乗り込むことができ、ほっと一息を吐いたときには、錆び付いた古参の車輌はぎいぎいと軋み始めており、景色がゆっくりと動き出していた。彼はエリーザベトが乗り込むかどうか、確認さえしなかったのだ。
彼女が乗り込んだ車輌は旧式の民間用の客車に装甲を施したもので、兵隊がたくさん乗り込んでいた。彼らはみなこちらに視線をよこしたが、挨拶をくれたりはしなかった。それで、エリーザベトも挨拶はしなかった。一番うしろの席が空いているので、そこに座る。迫害を受けているような奇妙な気分を感じたが、それはきっと間違いだ。みんな、こういう場所で友軍とすれ違うことに慣れていないだけだ。このエリーザベト自身を含めて。
車輌ががたがたと音を立てて進むうち、エリーザベトは眠った。
そして昼になり、夕暮れになり、夜になった。何度か目を覚ましても、変わらず景色は動いていた。次に朝を見たら、もう眠らないことにしようと、彼女は心に決めた。西部フリギアの広大な自然は雄大だったが、彼女の心を安らかにさせることはなかった。どうせ、こんな景色のひとつとして、彼女の人生を包んでくれるものはない。ただ通り過ぎ、あの王都セリアという新しい場所で、また新しい戦争を始めるだけなのだ。美しいものや安らかなもののうちで、彼女の目に映るだけで、ただ通り過ぎていくものの何と多いことか。そしてそのうちのひとつでさえ、もしも手に入れられたなら、どれだけ彼女の人生はよいものになることだろう。それでも人は、こうして列車に運ばれるほうを選んでしまうのだ。
悪夢で目を覚ましたとき、自分が悲鳴を上げたような気がした。しかし誰も、それに気付いたものはいないらしい。こちらに視線を送ってくるようなものはいなかったからである。もしかすると、悲鳴は夢の中だけのものだったのかもしれない。ゆっくりと息を落ち着けて外を見たとき、空は暗く、朝の色に染まり始めていた。王都が近いのだ。黄金の空の下に、背の高い塔や教会や、層状の都市が見えた。
王都セリアの駅には迎えがあった。人ごみの中で彼女が手を振りこちらに近付いてくるのを見たとき、エリーザベトにもすぐに分かった。クズネツォワというヘミンの魔導工兵だ。あのサバディルで一緒に脱出した兵士である。飾り気のない迷彩服を着て軍帽を深く被り、ヘミンの耳を隠している。銀色の柔らかな髪が帽子の下から飛び出していた。
「お久し振りですね、リンネンさん」
いかにも重そうなバックパックを背負ってはいるが、彼女の足取りは軽く、彼女と同年代の女性が旅先にいるときのようだ。彼女は全然くつろいだ敬礼をくれたので、エリーザベトも当惑しながらそれを返す。まるで別の国からやってきたかのようだが、それはある意味で本当なのだ。
どちらかといえば長身のエリーザベトに並ぶと、ただでさえクズネツォワの背は低いので、なおさら小さいのだった。
「それは“フォートレス”ですか?」
彼女は下のほうからエリーザベトの顔を見上げて、まっすぐに目を見てたずねた。こうしたやり取りとはご無沙汰しており、少したじろいでしまう。自分は、誰かの目をここ数日のあいだに見たことがあるだろうか?
「そうだよ」
抱えた荷物を掲げてみせる。
「完全装備で出頭するように命じられたの」
「私もです。あなたがここに来ると聞いていたので、本部に出頭する前に、こっちに出向いてみたんですけど」
エリーザベトは例の疲れた笑いのようなものを漏らした。
「ありがとう。道に迷う心配がなくなった」
自分を迎えに来るためだけに寄り道をするような人物が、この世界にまだいるのだということが、不思議でならなかった。そしてそれは、ささやかな幸福を感じさせてもくれた。すでにクズネツォワは歩き出していた。
「いえいえ。ところで、その服だと、暑くありませんか?」
そう言われてみると、ここは確かに暑い場所だった。温暖な気候というのは素晴らしいものだが、山上の塹壕戦で着るような軍服では、少し余分なのだ。しかし完全装備の命令に抵触してまで、装備を外すほどではなかった。エリーザベトは答える。
「まあまあね。でも、寒さに比べればましってとこ。つい昨日まで山の上にいたから」
「そうでしたか」
人懐っこい笑みを浮かべて、ヘミンの工兵は進んでいった。
歩きながら気付いたことだが、セリアは王都らしく、美しく栄えた都市だった。町中に巡らされた水路には小さな淡水魚が泳ぎ、その底には石造りの橋や像が沈んでいる。街路には馬にまたがり立派な礼服を着た憲兵がいるし、あらゆる層のために、あらゆる種の売店、旅館、酒場などが居を構えていた。
そして何より、人々の生活は平和の上にあった。彼らは死を恐れ、砲弾を恐れ、抑圧やあらゆるものの不足に耐えなくてもいいように見えた。こうしたものは、生まれてこのかた二十四年間というもの、エリーザベトには無関係だった。あの険しく忍耐強い少女時代の、父親と共に各地を巡った日々の、その続きを今でも彼女は生きているのだ。
「王都ともなると、さすがですね。まるでおとぎ話の王国みたい」
ヘミンは穏やかな口調でそう言うが、しかし彼女の歩調は毅然としており、早かった。工兵らしいというものだ。獣の血を持つヘミンという種族ならではだろう、彼女の土地勘は便りにできそうだった。飄々と進み、急な階段だってものともしない。しかしさすがに背の高さのフェンスを乗り越えるのははばかられたのか、こちらを振り返った。
「多分、こっちのほうが近道なんですけど、どうします?」
「行きましょう」
かくしてふたりの若い女性がフェンスを乗り越えることになったが、それもすぐのことだった。ヘミンは猫のように跳び上がるとフェンスのてっぺんを掴み、そのまま腕の力だけで登り切った。彼女が上で待機してくれているので、エリーザベトは“フォートレス”を投げ上げる。それを受け取ると、ヘミンは手を使わずに跳び下りた。そのあいだに、エリーザベトのほうもフェンスを乗り越えている。
自分の銃を受け取りながら、エリーザベトはこの奇妙な旅を楽しんでいる自分を自覚した。
今、この場所でだけは、恐怖や不安と無縁でいられる。いま自分自身が向かっている方向に、それらが待ち受けているのだとしても。
「最近はどうしてたの?」
「アギールの戦線にふた月ばかり。その前はアラゴーサの平地。穴を掘ったり、砲台の設置をやったり。年がら年じゅう、同じようなことばかりです」
彼女はうしろ向きに歩きながらそう言った。今度は、エリーザベトも相手の瞳を見ることに慣れていた。済んだ緑青色の瞳だった。
「でも、悪くないですよ。味方はたいてい、いい人たちだから」
思い当たることがあった。彼女が“たいてい”というのは、恐らく一部の兵士たちには、親ヘミン派でないものが混じっているのだろう。亜人の差別は軍隊内部ではかなり改善されており、むしろヒューマン種が迫害を恐れる側なのだが、それでも、種族間の微妙な感情のやり取りというものはなくならない。エルフは別のエルフを嫌い、ドワーフと呼ばれる頑強な小人種族を嫌う。オーク種は体力、知力ともに最高レヴェルの生物だが、かつて大陸を暴力で支配した時代の名残りで、今でも嫌われやすかった。それに彼らは今でも、実際に短気な部分がある。そしてヘミンは、どんな種族にもまして、多種族から迫害を受けやすいのだった。
彼女は打って変わったようにくるりと前を向くと、相変わらずの歩調で進んだ。
「集合時間までまだありますけど、急ぎましょう。早くみんなの顔が見たいんです」
エリーザベトはその背中に信頼と、愛情とを覚えた。そして、小走りに付いていく。