第三章「御名をあがめさせたまえ -Hallowed Be Thy Name-」
森は昼下がりであった。霧は薄くなり、今では天高く聳え立つ密林の、それぞれの木々の表情とも呼ぶべき畝や、きらきら光る藻類、透き通って冷たい草花などがくっきりと冷たく見える。コンスタンス・ダニルは見上げる限りの木々の下でまっすぐに立ち、見上げた。無風だが、わずかな大気の流れに乗って、白く輝くカララの胞子が高く浮かび上がっていく。コンスタンスの印象に残っている種の胞子というものはたいてい皮膚に悪さをするものだが、カララのそれは有害ではないばかりか、これをひとつふたつ捕まえることができたら幸運だ。ずっと昔から知られていることなのだが、これはふわふわした一種の砂糖であり、しかも摂取したものを、酒のように酩酊させるのである。
コンスタンスは深い色の森林迷彩服と、樹脂素材の巻きゲートル、厚底のブーツ、それに海軍特殊部隊に共通の肘あて、膝あてを身に付け、黒い指なしの手袋で軽機関銃を掴んでいる。これは厄介な代物で、取り回しがいいとはいえないし、魔導による身体の強化がなければ深刻な苦痛をもたらしたであろうほどに重たかった。巻きゲートルの中には鉄板が仕込んであるし、迷彩服の下にも同じように、致命的な損傷を防ぐために魔導強化した軽い金属板が隠してある。これらの装備品を全部合わせると、ほとんど大人ひとり分ぐらいの重さになるのだ。それから障害物になるような植物を除去するためのサバイバルナイフ、予備武器としての拳銃、一回で獣の首をすっぱり落としてしまう強化された剣とを持っているが、これらはあまり使わないままだ。
彼女の髪は本当は冷たい霜のように真っ白なのだが、今は黒髪だった。厳密には戦争を直接に担う部隊ではないので、仕事の最中に陽光を受けてきらきら輝く白髪というものがどれほど危険かについては議論の余地がありそうだが、彼女自身は、それを喜ばなかった。だから作戦中には艶のない黒に染めるようにしているのだ。細い体や髪と同じに白い肌はやや血色が悪く、石膏細工の人形のようだった。長い睫に隠れた暗い瞳は琥珀色で、表情も冷たい。一度誰かが、彼女のことを<氷の魔女>と呼んだことがあった。射撃訓練か何かでいい成績を挙げたときに、それを讃えて呼んでもらったのだった。しかしどうにも、コンスタンスはそれを光栄だとは思えなかった。ヘミンの獣の耳は隠す術もなく、髪と一緒に染めてあった。必要とあらばヘルメットで隠してもいいが、別にこの部隊ではヘルメットを強制しなかった。機銃陣地と戦うつもりはないからだ。
鳥たちは押し黙っていた。彼らは恐れているのだ。コンスタンスが黙り、やはり畏れているのと同じように。
七日間この森を進んだ。神の建造物とも呼ぶべき巨大な木の上では用意に寝そべったり座ったりできるので、コンスタンスと仲間たちはそこで眠った。見かけだけの恐怖は最初の二日で消えてしまう。それは知らないもの、異質なものへの恐怖であり、本当の恐怖ではないとコンスタンスは思う。誰だって森や、暗い海の底は怖いのだ。でも慣れというものがあって、この種類の恐怖は薄らいでいくのだ。
だが本当の恐怖は、こうした見かけだけの恐怖が薄れ始めると、より強くなるのだ。木々に草花に親しみ、冷たい朝露の匂いや、獣道の温かな芳香を知って始めて、である。
森には精霊がある。それは本当のことなのだ。北西の森に伝わる精霊とは全然別の精霊で、こいつはたった一種類しかいない。そして森の全てを知っており、侵入者に向かってどろどろとした危険という名前の刺客を差し向ける。この刺客はやがて侵入者をすっかり飲み込んでしまい、窮地に陥らせるだろう。同時にこの精霊は、平時には、森のあらゆる均衡を保ち、獣たちの生と死をつかさどっている。
この精霊を認識することこそコンスタンスの思う“本当の恐怖を感じること”であり、つまり自然の摂理とでも呼ぶべきものなのだ。
森では、コンスタンスのよく知っている生活が行われた。獣たちを焚き付けないように静かに、植物とごく少量の果実を食べる生活である。コンスタンスはこのとき、獣たちと一緒に、決して木々をも焚き付けないように気を付けていた。それは具体的にどうするということではないが、絶対に植物たちに対して無神経にならず、彼らをなきもののように扱うことはしない、ということだった。森に対して尊大な態度を取れば、彼らは少し冷徹になってしまうような気がするからだ。
この七日間の生活に先立ち、コンスタンスの部隊は基地から四日かけて<パク村>へ辿り着いた。十五人の隊員が完全装備でひたすら行軍した。行軍、食事、交代の睡眠だった。基地でさえ、山のふもとにあり、森の中にあるので、そこから四日間森を進むと、もう前人未到の地といってもよかった。だがパク村はそこにあるのだ。ほかにもいくつかの村々が、この一帯には残っていた。彼らは原始的な狩猟と採集の生活を営んではいるが、あの忌々しいガタルガ小銃のコピー品やら密輸入品やらを大量に所持しており、特に位の高いものは町の人々と同じようにラジオを聴いたり振袖シャツを着たりもした。彼らの中には公用フリギア語をおぼろげながら解するものもいるのだった。彼らが持つそうした現代的な物品の全ては、ひとえに武器商人から買うのだった。武器商人は貴重な毛皮や鉱石とこれらを交換した。武器商人は一挺のガタルガ小銃を村の人々にしか狩ることのできない珍しい森オオカミ一頭と交換できた。そしてこのオオカミ一頭で、ガタルガ小銃が三十挺買えるのだった。学生が古物市で買ってくるような十年もののラジオが、彼らにとってはほとんど偶像だったが、嘆かわしいことに、これもオオカミ一頭と交換されたのだった。コンスタンスの仲間たちには、こう言うものもいた。「やってもいいのなら、せめてあのガタルガをちゃんと整備してやりたいもんだ」と。誰だって深い森に住む先住民たちを哀れんでいた。しかしガタルガを得た村の人々もまた、狩りが楽になったので、羽振りがよくなっていた。
行軍の四日目の夕、コンスタンスたちは村に辿り着いた。小銃はもはや、村民にとって偉大な戦士の象徴になっていた。十年前には、彼らは手作りの槍にビーズや宝石の飾りを付けていたというが。とにかくコンスタンスたちを迎えたふたりの戦士は自動小銃を持ち、残酷なほど刺青を入れており、半裸であった。村長と話を付けるのは隊長だったが、彼の護衛として始終付きまとっているのがコンスタンスの仕事だった。村民はこちらに敵意を抱かないばかりが、一種の尊敬を表現してもくれたが、聖獣への恐怖から来るものでしかなかった。
コンスタンスは自分自身がこのような村で過ごした過去を持っているので、彼らの礼儀には敏感だった。仲間たちを、村民から見たところの侵略者から、立派な紳士に鍛え上げたのはコンスタンスだった。目を合わせて話さないことは積極的な侮辱にあたるのだとか、用がないときには、絶対に女性と目が合ってはいけないとかだ。コンスタンスは二年間森にいたあと、十四歳で町に戻った。十四歳のそのころには、都市の人々がいかに尊大で下品に感じられたことか。彼らは通り過ぎるとき、コンスタンスをちらと盗み見ることが多かった。というのも、一種の異様な殺気を放ちながら歩く十四歳の少女は、絶対に珍しかったからだ。
パク村の人々は聖獣の活動が活発になっていることを恐れていた。彼らは決して、自分たちの力で聖獣を殺そうとはしなかった。それは絶対にできないことと信じられていたからだ。
森には被使役階級というものがあり、つまり奴隷と召使のあいだだった。身分が低く食事は制限され、いくつかの“忌まわしい仕事”と思われている業務を預かる人々である。だいたい、三十人から五十人が住む村に、こうした階級が五人から多くて十人ほど含まれていた。彼らを見分けるには、被使役階級を表す石のアンクレット、額の刺青を探せばよかった。そして村によっては――例えばこのパク村でもそうだが――こうした被使役階級のものは求められた場合以外に言葉を発することを禁じられていた。それで、彼らは例え求められても、全然言葉を話せなかった。複雑な言葉を聞き取って理解することはできるのに、発音しようとすると、それに全ての意識を注がなければならず、うまく考えることもできなくなってしまうのだ。一語を一生懸命に発音するあいだに、次に来るはずの単語がどれだったか思い出せなくなってしまうほど、疲労するのだ。部隊の生活の手伝いをしたのはこの階級の人たちであった。“聖域”に踏み込めば必ず<ラーナ>、つまり地獄のような場所に送られると考えられていたので、村民は付いて来なかった。隊員のうち数名は、聖域での生活のとき、被使役階級を必要以上に可愛がったりはしなかったが、決して乱暴にも扱わなかった。笑顔を贈るものさえいたが、絶対にそれは返ってこなかった。
十五人の部隊とふたりの被使役階級は、初日の夜にはふた手に分かれた。さらにそれぞれの班は無線で連絡を取り合いながら、散開した。聖域をできるだけくまなく洗い出すためだった。哀れなふたりの地獄送りの村民は、それぞれ班長が受け持つことになった。火を焚いてはいけないので、食事は植物か昆虫、それに残りわずかの携行食糧だけだった。昆虫の中には、いわば森で暮らすものにとってはご馳走のようなやつもいるのだ。コンスタンスは歩きながら、かつて珍しくてあまり食べられなかった種類の虫がいっぱい住み着いている木を見つけた。このときには、思わず戦慄が走ったものだ。森で暮らしていた昔のコンスタンスの、古い感動が押し寄せたのである。
そして孤独な七日が経った。計画通りに部隊は進んでいたが、聖獣は発見されなかった。
部隊は引き上げようとしていた。七日目の夕には集合地点でガンシップが迎えてくれることになっていた。機関銃を二門載せていて、パイロット以外に余分に兵隊が六人乗れる優れものだ。輸送用ガンシップ三機と護衛用のガンシップ二機が集合地点に舞い降りてくるが、きっと素晴らしい景色に違いない。コンスタンスはそのまま発着場で一時間の休暇を貰ったあと、王都セリアに飛ばねばならなかった。新しい任務が与えられているのだ。
コンスタンスは今、命令通りに集合地点に向かっていた。三時間ほどで辿り着くだろう。
「ああエンディオ、君がただ、僕のそばにいてくれさえしたら――」
コンスタンスはお気に入りの戯曲の、お気に入りの行を呟いていた。
「そしたら僕は、ほかには何もいらなくて、全て満ち足りた完全な男となるのだ。男と女は、どちらか片方では絶対に不具なのだ、肉体的にも、精神的にも……」
これは聖獣が一向に現れなかったことへの一種の冗談のつもりだったのだが、思いもかけず、効き目があった。
全ての獣が黙りこくっているというのに、ただひとつ、“そいつ”は荒々しく呼吸し、猛っていた。七日に渡る侵入者たちの愚行にすっかり苛立っていた。
こちらとて同じことだった。コンスタンスは無線通信で告げた。
「エース・セヴンより、隊長へ。やつです。こちらに向かってきます」
「でかしたぞ。エース・シックスとファイヴ、援護に向かえ。コンスタンス、維持できるか?」
隊長の声だ。コンスタンスは唸る。
「援護まで待てるかどうか。やつはかなり興奮しています」
「ひとりでやってもいいが絶対に命を賭けるな。今はそんなときじゃない。周囲の遮蔽物をうまく使って、必要以上に近付けるな」
「了解」
「やる気か……」
「仕方のないことだと思います。こちらが望まなくとも」
「幸運を、エース・セヴン」
通信が切れた。仲間たちはそれぞれ、すっかりばらばらに進んでいるのだ。最初から、接触したものが自分で片を付けなければならないことは分かっていたのだ。そして、それは今回はコンスタンスだった。
「待ちくたびれたわよ……」
狩りのときに誰もが感じるその甘さが、吐息に混じっているようだった。
森の人々が<所有者>と呼ぶものが、コンスタンスのまっすぐ前に待ち構えていた。そいつは怒り狂い、最初の犠牲者をコンスタンスに定めていた。<所有者>は推定二百歳以上の聖獣で、外見は四足の獣だ。コンスタンスの印象としては、そいつは通常の二倍ある黒牛だった。ただしこいつの体毛は気味が悪いほど艶がなく、その背中にはヒスイ石とそっくりな骨か何かが、腫瘍みたいにぶつぶつと噴き出して固まっていた。石化病にかかったがどうにか難を逃れたでかい牛だ。牛でありながら、長い尾は竜のように太く、蹄は金属のように鈍く輝いていた。
そしてこの恐るべき聖獣の顔には、鋭く真っ赤に充血した両目のほかに、てんでばらばらな位置に今にも飛び出しそうな眼がいくつか余分にあり、笑うように歯をむき出した口はふたつ、上下に二段並んでいた。
そして<所有者>は憐憫に満ちた声で長く鳴いた。驚くべきことだが、一分近く同じ調子で、横笛のように美しい声で鳴いた。彼には口がふたつもあるのに、それらは笑ったように閉じたままだった。全然別の器官から出る音だった。事前に報告を受けていた通りの特徴だ。この声が響き渡ると、全ての獣は震え上がり、村の人々は怯えて大神に祈るという。
コンスタンスは怯えなかった。代わりに、口を開けた。十四歳のころ、森ライオンと戦うときに、戦士たちが耳を塞いで口を開けるという話を聞いていた。森ライオンの咆哮を間近に聞くと鼓膜が破れるのだ。そして戦士たちは、耳を塞ぐのと一緒に口を開けておくと、鼓膜が破れにくくなることを経験から知っていた。
現代の兵士は手榴弾の炸裂や味方の砲撃のときにこのようにするように教えられている。聴力を失った兵隊というのは、使い勝手がすこぶる悪いからだ。爆音に対して耳を塞ぎ圧力の変化を和らげるが、それでも火薬が起こす凄まじい圧力波は鼓膜を襲う。口と耳は繋がっているもので、口を開けておいてやれば、口からも圧力の変化が入り込んできて、鼓膜は内外から押し込まれることになる。それで、片方から押されるときよりは、両側から押されたときのほうが、力が互いに打ち消しあってしまうので、鼓膜にかかる力は小さくなるのだ。それでも、口から入り込める力はその狭い通り道のあいだに減衰してしまうので、耳の外側から入る分よりは弱い。あんまり気違いじみた爆音と圧力波を食らえば、たとえ内外からの圧力波が互いを打ち消しあったとしても、残った差分が大きいので、鼓膜は破れてしまうかもしれない。もしも聴力を失いたくないなら、一番いいのは、でかい音を出すものに近付かないことだけだ。
しかし、獣と戦うときにもこれが必要だと教わっているものは、コンスタンスたち聖獣狩りだけに違いなかった。陸軍の歩兵も、砲兵も、獣に宣戦布告したりはしない。しかしコンスタンスたちには本当に重要なことのだ。聖獣というのはたいてい図体がでかく、声も普通の獣より大きいのが通例だからだ。
<所有者>は鳴き終わった。濁りのない、どこまでも通るような音だった。
コンスタンスは怯えなかった。
今まで“処理”した案件の中には、こんなものよりずっと酷いものがたくさんあった。こいつは少なくとも汚らしくないし、誇り高い獣だ。ほとんどの聖獣というものは、天の動物デザイン担当官の精神異常を疑わせるような醜悪なものだ。そうしたたくさんの例に比べれば、どちらかといえば<所有者>は美しいといってもよかった。そして体の大きさは別に大したこともなく、これなら無茶な戦いというほどでもないだろう。しかしこんなに純粋に美しい鳴き声の聖獣は、コンスタンスの覚えている限りこれが初めてである。これまでに倒してきた聖獣はどいつも、胴体を左右に引き千切られるときみたいに悲痛な、醜い悲鳴を上げた。千もの罪深い魂が苦痛に絶叫しているような声で鳴く鳥やら、修道院で聞こえてくる男性による一声聖歌を一オクターブも下げたような、鬱屈した低音を出す大蛇、金属の廃材がひしゃげるときのような甲高い音を出す鹿、というような具合だ。
連中は必要以上に醜く、いつも怒り狂っていて、どいつもこいつも残忍だった。あるとき、森の聖獣が農場に侵入するようになり、家畜を襲うようになったという報告を受けたことがあった。コンスタンスたち海軍の聖獣狩り部隊は意気揚々と出かけていき、胸の悪くなるような牛の死体を三つも見つけた。牛は丁寧に腹を切り裂かれて、まるで医学の演習ででもあるかのように納屋の床に広げられていた。そして内臓だけがなくなっていた。納屋の牛たちは怯えて体調を崩していた。隊員たちは、たかが牛のために本当に心を痛め、怒り心頭だった。本当に頭に来たのだ。聖獣はいつだって精神異常者だ。
聖獣は、最も進んだ考え方では既存の動物の魔法による突然変異種と考えられているが、まだ詳しいことは分かっていない。絶対数が少なく、高い知能と豊富な魔法力を持ち、それぞれが個性的な、異様な生態を持つ。ときおり、よく似た点をいくつか共有している個体が見つかることがあり、こいつらには“何々級”という呼称が付く。最初に発見された個体の名が、種族の名として使われるのだ。
あとになって隊員たちは、牛を殺した犯人と対峙することになった。<ナ・バガラ級>と呼ばれる種だということが分かった。北方の大国カドニでは二度報告されている種だった。隊員たちはこれに<フィオール>と名を付けていた。
ナ・バガラ級は薄気味の悪い、人間のような形のずっと長い腕を四本備えた熊だった。しかし腕は腹から伸びており、腕と一緒に何やら消化器官のようなものも飛び出している。熊の形をしているが、頭には知性が感じられず、確かに熊のそれと同じ形をした口からは、群生した醜い植物が垂れ下がって地面に引きずられていた。そして足は関節が無意味にたくさん付いており、膝が三つあった。それでいて、下腹はでっぷり太っていて、本当に気味が悪いものだった。この獣はセミのような鳴き声と、声の太い女性の悲鳴とを使い分けた。セミの鳴き声のほうが興奮したときや怒っているときの声で、威嚇するために使われるものだった、女性の悲鳴のほうは、喜びとか安堵を表していた。
<フィオール>は襲撃を受けていた農場に接する森の中に住んでいた。コンスタンスたちは堂々とたいまつを燃やして入り、炎に怒った聖獣が出てくるまで、どんどん歩いた。忘れもしないが、八時間ほど進んで空も白み始めたころ、聞き慣れない音が聞こえてきた。ジーと、機械のように淡白な音だった。睡眠不足で疲れた隊員たちも、はっきりとそれを聞き分け、戦慄した。そして<フィオール>は全くの無音で、森の中を進んできた。異常なまでの異臭が漂い、これは工業用の廃液に思えた。あとで分かったことだが、この獣に独特の、体外に露出した消化器官から、消化液や消化した食物の悪臭が漂うのだという。
しかし隊員たちは、その瞬間に引き金を引いていた。二挺の軽機関銃、十二挺の自動小銃が一斉射撃を行った。しかしこいつは傷付きながらも高速で近付いてきて、隊員のひとりを気味の悪いほど長い四本の腕で掴んでしまった。隊員はもちろん避けるようにしたのだが、火器の威力に対してあまりにもこの獣が平然としていたために、不意を取られてしまったのである。しかし自動火器の猛然とした一斉射撃の雨は続いた。同士討ちの心配があるのだが、みんな射撃の腕はいいのだった。獣はついにこの隊員を取り落とした。誰もがほとんど無意識に、やつの腕の付け根を狙っていたのだ。的はほとんど動かなかったので、この至近距離で弾を外すものはほとんどなかった。この隊員は、消化器官にやられなかったので無事だったが、腕を折られていた。しかしそれだけだ。隊長の支持でロケット式の焼夷弾が使用された。この醜い獣は一瞬のうちに火の悪魔の呪いとも思えるような炎に包まれ燃え上がり、やがて溶けてしまった。隊員のほとんどがその後三時間に渡って頭痛や吐き気を訴えたが、原因ははっきり分かっていた。あの悪臭である。しかしみんな無事で帰ることができた。聖獣狩りというものは、たいていこんな具合なのだ。誰も、少しも達成感など感じなかった。胸糞の悪い怒りばかりだった。罪人がこの世からいなくなっても、彼のなした罪は、悪行は、消え去らない。聖獣は人を嫌な気持ちにさせるものだ。
帰りのガンシップの上でも、みんな、酷く不名誉な罵り方をされた上に、反論もできずに耐えるしかなかったというような沈黙を保っていた。くそおもしろくもない帰り道だった。でも、いつかは立ち直るものだ。みんな、夜にはカードで遊んだりいつも通りのくだらない話をするようになっていた。少し無理をしていたところはあるが、そうやって嫌な気分を吹っ飛ばすことは、絶対にやる価値のある仕事だった。
そのときの<フィオール>や、似たような仲間の連中に比べれば<所有者>は美しいほうだった。コンスタンスは気持ちがいいとさえ思った。
コンスタンスはポケットから耳栓を取り出した。あいつがしょっちゅう鳴くとすると、いちいち耳を塞ぐのは不利になるからだ。幸運にも、両耳に栓をしてしまう時間はあった。<所有者>はゆっくりと進んできたのだ。
コンスタンスは軽機を構えると、迷いもなく引き金を引いた。どんなに寛容な森の精霊でも飛び上がって眉をひそめるような轟音が鳴り響いた。それは弾薬を“ばら撒く”ための装置にほかならない。獣の気味の悪い頭部のど真ん中を弾道が貫いていることは確かだった。少しだけ撃って、コンスタンスは様子を見た。連中は致命的な損傷を受けても平時と同じように動くきらいがあり、また傷が全然なくても、弱ったみたいに大人しく振る舞ったりするのだ。
獣は同じ速度でこちらに向かっていた。コンスタンスは、この距離なら自分の弓矢の腕前でもどうにか命中させられそうだ、と思う。もう一度、引き金を引いた。二秒掃射し、止める。
<所有者>は女性の悲鳴を長いこと上げ、急にそれを降下させて、不気味な低音にした。この声も途切れると、三度ほど、鳥のように鳴いた。
コンスタンスは機関銃をそっと地面に置くと、ナイフを引き抜いた。魔導強化の回路を<行軍用>から<サーカス用>に切り替える。
次の瞬間、<所有者>が勢いよく突進してきた。隊長からの言葉を思い出す。接近させてはならない。
魔導強化のおかげで、地面はトランポリンのように感じられた。自分が風船のように軽く感じられるようになった。コンスタンスは手榴弾のピンを器用に片手で引き抜くと、前方に投げてから垂直に跳躍した。落下に二秒ほどかかりそうなほど高く跳び上がっていた。大きなバッタにでもなった気分だ。その直後、<所有者>の醜いふたつの口が、顎が外れたみたに大きく開き、そんなものが体内にあったことを疑うほど長い金属の棒が飛び出した。これはもちろん金属以外のものに違いないが、見かけは鋼鉄だった。そしてこの鋼鉄の棒は、コンスタンスが立っていたところに突き刺さり、むごたらしい音を立てた。女性の悲鳴がまた上がった。
手榴弾が炸裂した。これは相手の少し前方で炸裂した。
落下の前に、事前に目星を付けておいたツタを掴む。思った通り、落っこちずに済んだ。振り子のように揺れたので、そのまま勢いを付けて加速していく。その途中で、手榴弾をもうひとつ落とした。空爆をしているみたいで気分は良かった。別のツタに飛び移りながらも、聖獣を観察していた。やつは金属の棒を地面から引っこ抜くと、これを、コンスタンスのいるほうに伸ばしてきた。火薬でも使っているような速さで伸びてきたが、どうやらここまでは届かないらしい。
手榴弾は致命傷を与えるには至らないようだった。
コンスタンスの一種の挑戦的な義務の心が、ナイフを仕舞わせた。そして、強化された剣のほうを抜かせた。何の装飾もない地味な剣だが、石だろうと切れるぐらい鋭く硬いのだ。
「安全は最も尊い。ワインより、女より、我らただ我が身の息災を欲するなり」
これもお気に入りの台詞だった。町工場の親父という、本当に何でもないやつの台詞なのだが、印象に残っているのだ。コンスタンスはツタを離した。体は二秒かかって落下した。着地し、すぐに跳躍。
直後、<所有者>の背後から、背中の真上を飛び過ぎる。そして背中を斬り付けた。剣はやすやすと背中の肉に入った。減衰し、背中の上で静止する。すぐに剣を抜き、頭部に突き立てようとするが、<所有者>は静かに体を揺すぶって、コンスタンスを叩き落した。さらに直後、金属の棒を突き刺してくる。後転で復帰しなければやられていたところだった。棒を一度は引っ込めるが、またすぐに、次の攻撃がある。牛のような外見をしているのに、とどのつまりこいつは槍兵なのだ。
二度目は、体をかわすだけで、避けた。そしてこの獣が槍を引っ込める前に、頭部めがけて跳ぶ。
剣は最初に、この獣の顔面を垂直に斬り上げた。そして次に、斜めに斬り下ろしている。コンスタンスは頚部に着地していた。
まるで剣をぐるぐる回す剣舞のように、この頭部に向かって幾度となく剣を下ろした。肉はいとも容易く切れ、骨は手応えがあった。首の上に立っていたが、一歩ずつ尻尾のほうに向かって後退しながら、どんどん斬り付ける。剣舞は続き、千切りにでもしようかというほどだった。真っ黒な血がたくさん溢れた。もはや聖獣は動かなかった。ときおり痛みに震えながら、じっと耐えているだけだった。首の根まで斬り終わると、前に進み出て、脳がありそうな場所に突き立てた。獣の体が大きく痙攣した。
彼の体の中で、鈴虫の群れがいっせいに鳴いた。これが聖獣<所有者>の断末魔の叫びだった。コンスタンスが剣を深くに押し込んでいくほど、この声は騒がしくなった。突然、獣の四本の足が力を失い、重たい胴体が崩れ落ちた。
彼女が恋をした男を殺したのは、聖獣だった。村民たちが<バーリ>と呼ぶ大きな黒い鳥だ。
それより前、親なしのコンスタンスは教会の隣にある収容施設で暮らしていた。町でヘミンの暴動があったとき、混乱に乗じて逃げ出した。孤児収容施設という場所において、ヘミンというものがいかに手酷い仕打ちを受けているかについては、近年ようやく知られるようになったところである。そもそも種族問題という言葉を今みたいにみんなが使わなかったころなのだ。抑圧されたヘミンたちの暴動や、エルフたちの過激な行動などは、遠い国の話と誰もが信じていた。
とにかくコンスタンスは、その場所を逃げ出したかった。ヘミンの大行列が町を闊歩したとき、そしてコンスタンスは決意を固めた。自分もそこにいるべきだと思ったのだ。フェンスを乗り越えるのは容易かった。
結局、この暴動は圧倒的なフリギアの武力によってすっかり鎮圧されたのだが、悲惨な流血事件となり、少しは世間を騒がせた。こうした事件が増え始めている時期だった。コンスタンスは、逮捕されないようにと逃げ出して、そのままどんどん北上した。独りでいられるのは本当に嬉しいことだった。旅の途中、ヘミンの共同体に数日入り浸ったりもしたが、まだ落ち着く気にはなれなかった。
十三歳だったが、森の中にヘミンの部族がいるという話を聞いていた。誰もそこへ行くことを推奨しなかったが、止める気もないらしかった。
コンスタンスは眠れるような場所を樹上に見つけ、ここで一種の警戒任務を行った。軽機関銃を抱えたまま、すっかりだらしなく座り、仲間たちが集まるまでのんびりやるというものである。ガンシップの集合地点もここに変更になった。暇をもてあましたので、林檎によく似た、もう少し色合いの薄い果実を見つけ、これを無断でかじっていた。休憩してもいいとは言われていないのだ。しかし、七日間まともな食事はしていないので腹ペコだった。
樹上から見下ろすと、死んだ<所有者>は全然動かなかった。悪臭も気分の悪さもなしだ。
それに、喜びも安心もなしだった。
今や、主を失った森は急速に弱りつつあった。一番大切な柱を横からコンスタンスが蹴っ飛ばし、外してしまったようだった。そして幾千幾万の種の巨大な共生体の屋根が、そのあまりの重さに耐えることもできず、軋み始めていた。森は数千年そうであったように静かで、暗く、多彩で、恐ろしい場所だった。だがこの森にはもはや、人を寄せ付けないあの“本当の恐怖”がすっかりなくなっている。暗い影も、今ではすっかり無毒化された液体のように無味無臭だ。
この森の豊かさと生命力とが失われたのだった。森は誰かがやらない限り、破壊されることなく生き続けるだろう。でも、ここでは獣たちは誇りを失い、虫たちは異様な気味の悪さを失うだろう。植物たちは、もはや会話することをやめるだろう。
この森を骨抜きにしたのはコンスタンスと、その仲間たちだった。聖獣を狩るということは、その一帯をこんな風にしてしまうことなのだ。
今日の<所有者>は六十体目だった。コンスタンスが参加した作戦で討伐された聖獣の数だ。コンスタンス自身が手を下したものの中では、これが十二体目になる。五体になったときと、十体になったとき、それぞれ勲章を貰った。二十五体になると一番いい勲章が貰えるが、しばらく成績を伸ばすチャンスは失われることになる。もうコンスタンスは、この隊を抜けるからだ。
やがて時間が経ち、仲間たちが順番に集まってきた。そして全員が集合する前に、ガンシップが到着した。攻撃型の二機は甲殻翼竜のプーコ種、兵員輸送用の三機は美しい白竜のヘリカレ種だった。よく見慣れた型だ。竜たちはばさばさと羽ばたいて、周囲の鳥たちをすっかり怖がらせていた。食べかけの果実を捨て、水をひと口だけ飲み、それでコンスタンスの密かな祝いの儀式は終わった。空腹で死にそうだった。仲間たちは、今夜のためにイノシシ狩りをする許可を得ていた。彼らはコンスタンスに夕食をご馳走してくれようというのである。そのために少しだけ集合に遅れが出たというわけだが、こういう事情がある場合には、あまり咎めないのが聖獣狩り部隊の伝統である。聖獣狩り部隊は軍人でありながら、必ずしも冷徹な殺戮マシーンである必要はないのだ。ただひとつ、陰鬱でなければいいのである。聖獣との戦いは哲学的な問題をはらみ続けているから、そうした禅問答にも迷わないような、よく晴れ、考え込まない人物が必要なのだった。
かつては――今でもだが――自然の神の顕現と信じられ畏怖されてきた聖獣を殺すことは、より小さきものであるヒューマンやヘミンにとって、常に、罰を覚悟で神に背くような恐ろしい仕事なのだ。だが、誰かがやらなければならない、とコンスタンスは結論付けている。初めて聖獣を殺したときから、その決意は揺らがなかった。聖獣は恐怖をばら撒き、神秘に満ちたやり方で、ときおり天災のごとく襲い掛かってくる。コンスタンスは、もう聖獣に何かを奪われるのは我慢ならないのだった。