第一章 世界の開ける日・2
極寒の世界における奇妙な四人の生活に余裕ができてきた頃、リェーフがノートを取り出してABCと書き始めた――英語だ。ヴォールクが史上最強の宗教国家の言葉だと言い、リェーフが女王を頂点とする変態の国のだと何故か胸を張る、そして今世界で一番使われている言葉だとキートゥが締め括った。
タマラはキートゥの言う事だけを覚えた。彼女にもそれくらいはわかるのだ。
やがて国内最長の川が縦横無断に氷の枝を伸ばす極東の州へと、タマラ達は入り込んでいた。
タマラの村にあった川も冬になれば凍ったが、そこは国内最長の川である、もはや湖と言えるぐらいに広い。巨大な氷の塊と化した川はジープが載ってもビクともしない――どころか、大型トラックの群が轟音を立てながら車窓の外を横切るという、スケールの違う光景をタマラは口を開いてポカーンと見送る。
「やっぱ軍用車が多いな」
「ああ」
前部座席の会話を尻目にヴォールクを見る、彼は腕を組んで窓に寄りかかって外の風景を眺めていた――ここ一ヶ月で見慣れた姿勢に袖を詰めた軍服姿、気が付けば寝ている事も多々ある、雪国のタマラとしてはほっぺたの皮が窓に貼り付かないか心配だが、幸いにしてまだ悲劇は起こってない。
見ているのに気付いたのだろう、少年が目を閉じた、寝たふりである。
それが本当に眠ってないとわかったのは今のようにほら、助手席にいる金髪が「おいガキども」と注意を促した時のように目を開いて即座に反応するからだ、気だるげに車ドアに預けた体がまるで振り子のような動きで毛布を敷いた後部座席の下に転がり、無抵抗のタマラを引っ張りこんで分厚いビニールを被る、適当に物を詰めた背嚢やら衣類が毛布の上に置かれるまで5秒。
ジープの前では川から陸地に上ったトラックの荷台から軍人が出てくる所だった、冷凍の牛肉を嗅いで顔をしかめている。
ギアを切り替える音。エンジンの震動が止まり、ギィィ、とパーキングブレーキが上がった。
「よう、ご苦労さん」
何故か流暢な地元語を喋れるリェーフの声が毛布越しに聞こえる――軍人は部外者には厳しいが身内には甘い、川が凍りつくほど寒くなれば尚更面倒くさくなってよろしい。検問をしていた軍人は銃器だけが横たわるトランクを開けた後は気安そうに愚痴をこぼしていた。「大変そうだな」「全くだ、大人しく大気圏で燃え尽きてりゃいいものを」とかいう会話が聞こえる。
今回は身分確認すら無し、チョロい。
再びエンジンのかかる音。
何時まで経っても座席に戻らない子供達を大人達は訝しがらなかった――そのままビニールの下で二人が寝こけるのは初めてではないからである。
張り手は鼓膜が破れる危険性があるという事がわかるぐらいに教養のついてきた頃の事である、横っ面が殴られた。
殴ったのは施設でも笑面仏のあだ名を持つ教官で、その時も彼はニコニコしながら端的に要求を口にした。
「笑え」
我に返る前に再び鈍い音、手加減されていても殴られると痛い、それが何度もだと尚更で、苦痛が累積されるのを初めて知った。
ようやく状況が理解できたので口端を吊り上げる。
「笑え」
ゴン。
お気に召さなかったらしい、横に逸れた視線を戻すと一体人生のどこがそんなに楽しいかと聞きたくなる表情が目に入る。
「笑え」
目を細めては殴られた、笑顔で。
「笑え」
目元を緩めては叩かれた、笑顔で。
「笑え」
歯を剥き出しにしてはどつかれた、笑顔で。
目の前の教官と同じ模様の仮面を被るべきとようやく理解できた時、少年の顔は教官の納得する表情以外が判別できないほど腫れ上がっていた。
イヤな夢を見た。
生活のために作り笑いなど世界のどこでも珍しくないが、それが十にも満たない年から施設に放り込まれて日夜拷問と大差のない訓練に明け暮れ、英才教育と見紛うような講義漬けの子供だと話は違ってくる。施設を出たばかりの頃に作り笑いのできるガキなどロクでもないと言われた覚えがあるが、無茶を言うなと今の地蛇三號は言いたい。
最も、言い放った当の相手には少年の事情など知る由もないし、そこまで深く考えての発言ではなかったのだろうが。
だが言われた当人にとっては、それが全ての始まりだったのだ。
うー。
思考に沈んだヴォールクの意識を不機嫌そうな唸り声が引き戻す。ビニールと毛布に挟まれて真っ暗な空間の中、少女が猫のように丸まっているのも、さほど重くはないが荷物にのしかかられて自由に寝返りが出来ないのも手に取るようにわかる。
エンジンの鳴動は止まっていた。
荷物を押しのけてビニールをどかす、冷たい空気が頬を叩き一気に目が覚めるが、少女は身じろぎしつつも目を覚まさない、流石は雪国育ちと言いたい所だが、風邪を引くのは慣れではどうしようもない、毛布と一緒に彼女をおんぶして少年はジープのドアを開いた。
タマラが背中で寝ていて見れないのが惜しいと思えるほどの、見事な夕焼けだった。乾いた冬には黄砂が吹き荒れる祖国と違って、この土地は空が実に美しい――かつては事実上の戦争奴隷を酷使し、工業大国として名を鳴らしていたとはとてもではないが思えない。
今日の宿は要所に設けられた中継施設のようだ、屋根からどかされた雪が地面に積もる二階建て、寒い冬空の下で焚き火をするドライバー達は厚着の下からでもわかるほど筋肉隆々、巨大な駐車場にこれだけトラックが居並ぶのは壮観ですらある。
同行者達はどこに行ったのだろう、と辺りを見回すと、たまらなくいい匂いと歓声があがったのでその方向に足を進める。
最近わかってきた――奴を探すなら美味いものがある所に行けばいい。
ビンゴ。
陽気なライオン男は大雑把に切った大ぶりの肉を鉄串に刺した奴に胡椒をかけ、ドラム缶に穴を空けた即席のオーブンに突っ込んでいた。油が薪に滴る度にジュウウと音を立て、もはやご馳走と化した煙が囲む鼻に漂い込む度に周囲の男達はよだれを拭う。
「おー、すっげぇなこの肉」
ケバブを回しながらリェーフが快哉の声を上げ、わーはっはっはっとドライバーの一人らしき男が得意気に胸を張る。
「そうだろうそうだろう、故郷の牧場で育てられた自慢の牛よ」
男は余程嬉しかったのか、トラックの荷台に乗り込んで冷凍された牛を丸ごと担いで出てくる。ヴォールクは呆れた、売り物を調理してるのだ――案の定、リェーフがツッコミを入れる。
「でもおっさん、荷物を勝手に食っちまってヤバくないか?」
「なぁに、一匹二匹足りなくても気付きはせんよ、いざとなりゃ宇宙人に食われたとでも言っとくわい」
わーはっはっはっ、そりゃいいやと笑う男達。
それでいいのか。
しかし楽しそうに笑うドライバー達を見ると、本当にこれでいいと思ってくるから不思議だ。
「おーい、こっち来いよ」
こっちに気付いたリェーフが手を振る。
背中では少女が肉の焼ける豪快な匂いに叩き起こされ、寝ぼけ眼をこすっている所だった。
一眠りした後、そこは熊達の集会所だった。
古今東西、マッチョな野郎が女と子供に勝てた試しはない。両方揃えばもはや手のつけようがない。
それがどういう事になるかと言うと――今説明しよう。
まず、焚き火を囲んだドライバー達がタマラの前にドカンとケバブの山を置いた。香ばしく焼けた肉の表面をナイフでこそぎ落としていたリェーフが呆気に取られ、直後に響いた陽気な笑い声に過ちに気付いたドライバー達も大笑いする。
次に少女が憤って抗議した――大人たちの彼女への扱いではない、食材への扱いにだ。
結果として施設に暴徒の群が出現した、奴等は売店だけでは飽き足らず、並み居るトラックの積み荷までをひっくり返して売り物の食パンを奪取して行った。馬鹿騒ぎは聞きつけた他のドライバー達も巻き込んで、バターで焼いた食パンの犠牲になった冷凍牛が三匹増えた。
後に施設の人員はこう語る、ケバブサンドを求めるやに下がった荒くれ者達の列を前に、私は売店の奥で震える事しかできなかったと。
すげぇ騒ぎだった。施設丸ごとを巻き込んだお祭りは深夜になっても終わらず、窓の外で未だ展開されている大人の時間を子守唄にして、タマラは綺麗に洗濯されたシーツの上で丸くなる。
そしてお祭りが終わった。
熊達とビールの飲み比べをしながらも、顔色一つ変えないモアイ野郎の腰際に備え付けられたポーチの中、携帯電話みたいな端末の画面。「Connection out」からは何時の間にかoutの文字が消えていた。