第一章 世界の開ける日・1
何時の間にか眠っていたらしい。
タマラが目を開けると、そこは見知らぬバンガローの中だった、毛布を被った少年が自分を膝の間に抱え、暖炉の炎をじっと見つめている。
大人達の姿がなかった。
外に連れて行かれると夜になっており、切り株に座り込んだ二人は焚き火をしていた、携帯電話みたいなものを金髪が弄ってる。
「戦術データリンクの調子はどうだ?」
「駄目だな、通じやしねえ」
お手上げのポーズを取り、金髪が「Connection out」と表示されたデバイスをモアイに放り投げた、両手を頭の後ろに回して天を仰ぐ。
「やっぱ衛星は全滅したのかねえ――偶然だと思うか?」
「さあな」
にべもない、とは正にこの事だ。デバイスを仕舞いこんだモアイが焚き火に薪を一本放り込む。
「つまらねえ奴だな、推論ぐらいできねえのか」
「労力の無駄だ」
もう一本追加して、言葉も付け加える。
「性分だ」
くっくっくっ、おかしそうに笑った金髪はバンガローから出てきた二人に目をやり、手招きする。
「おー、起きたか、こっち来いよ」
二人は言う事に従い、焚き火の前に座ろうとした時点でタマラは気付いた。
切り株が三つしかない。
彼女が寝ている間にだろう、少年が研究所の兵士と同じ軍服に着替えていた、少々サイズは大きいものの、袖を詰めれば動くのに支障はないようだ。
下着すらない、薄い患者服の上に毛布を羽織っているのはタマラだけだ、足に履いているのも室内履き。雪の積もった地面にそのまま座り込むのはもってのほか、断面も荒い切り株の上にそのまま座るのも躊躇われた。
ぽんぽんと、金髪が太ももを叩く。
「こっち来いよ、お前もそれでいいな?」
後半は少年に向けた言葉らしく、彼が無言で頷くのが見えた。
何がそれでいいんだろう、タマラが頭上に?を浮かべていると彼女を膝に載せた金髪が口火を切った。
「さて、情報交換の時間と行こうか――そうだな、呼び名がなくちゃ不便だ、お嬢ちゃん、名前はなんて言うんだ?」
金髪の顎がプラチナブロンドの上に載せられる、タマラは母親譲りのアメジストで彼を見上げた。
「タマラ」
聞き心地のいい、鈴を転がしたような声、わかりやすく金髪が相好を崩す。
「じゃあタマラ、俺たち三人は訳あって名前を名乗れないんだ、それぞれあだ名を付けてくれねーかな」
「リェーフ」
リェーフと呼ばれた金髪が「お」と面白がるような声を出す。
タマラは続いてモアイを指さす。
「キートゥ」
タマラはただ見て感じたそのままを言葉にしただけだが――なるほどと言わんばかりに、他の二人は頷いていた。
とすると少年はどうなるのだろうか、犬か馬辺りだろうか。
「ヴォールク」
少年が言葉に詰まった。
「はっはっはっ、タマラにもわかってるみたいだぜ」
リェーフが陽気に笑い、ヴォールクと呼ばれた少年に視線を向けた。
そこにも敵意も殺意もなかった――にも関わらず、少年が軽く身構える。
「で、底も割れそうだし、そろそろ俺らを皆殺しにするか?」
ヴォールクも、キートゥと呼ばれた大男も平然としていた、状況が飲み込めてないのはタマラだけだった、ポカンと口を開きながら三人の顔を順に見比べている。
「やるなら最初からやってる」
そして少年は一拍置いて、
「どこまでわかってる?」
そうだなー、と考えたリェーフの代わりに口を開いたのはキートゥだった。
「咄嗟に母国の言葉を使っていたな」
聞かれてたのか、と言わんばかりに少年は舌打ちを一つ。
そう言えば研究所で這裡と叫んでいたような気がする、タマラには馴染みのない言葉だった。
「あとはこれだな」
そう言ってリェーフが取り出したのは黒い金属製の円筒だ――サブマシンガンのスパイラル・マガジン、目盛りに空いた穴からは弾丸がフルに詰まっているのがわかり、それがまるでハンマーで何度も打ち付けたかのように、半分くらいまで凹んでいた。
研究所で掌打を防いだ時の跡だ、たったの一発の。
「何食ったらこんな事できるんだ?」
ヴォールクはふー、と天を仰ぎ、溜息を一つ。
つられてタマラも夜空を見上げ――
「わぁ」
本日二回目である、感嘆の声をあげた彼女に、三人は緊迫した空気を忘れた。
満天の星空が広がっていた、視界いっぱいに。
そこでキュルルルと、腹の虫が鳴る。
爆笑された。
ヴォールクが地面に引っ繰り返った、失礼な事に手足までがヒクヒクと痙攣している、雪の上なのに冷たくないのだろうか。
キートゥまでが深く俯いて肩を震わせていた――見た目ほど怖くはないのかもしれない。
何もそこまで笑わなくても――憮然とした表情をしたタマラの頭を、リェーフが楽しそうにポンポンと叩く。
「よし、メシにすっか」
旅が始まった。
その日々は目が回る事の一言に尽きる。
何せそれまで目の届く範囲が村一つとまたその隣、という田舎の小娘である。幾何学的な速度で広がる世界の前にただ圧倒されるばかりだ。村の外にも他の村があり、町があり、海の向こうには他の国まであるという事は知識で知ってはいても、それが圧倒的な現実となって叩き付けられるのとは全くの別物だった。
大人二人が交替しながらひたすら車を走らせ、食事ついでの補給やトイレの時だけ車を止める。ヴォールクも一応運転はできるようだが、「大人しく座ってろ未成年」という二人の言葉により、後部座席でタマラ専用のヒーター兼抱き枕という役目を頂戴する事になった。
世界中には自分一人しか残ってないと思っていたのが嘘のように、様々な人間がジープの窓に現れては過ぎ去って行く。
それが何故かはわからない――皆どこか緊張しては見えたが、それでも人生は続くと言わんばかりに生活のために往来する彼らの姿は、タマラが故郷で知っているものと大差はないように見えた。
三人の中で一番人生を謳歌していそうなリェーフは美味しいものが大好きだった。缶詰をただ熱して食べるという事に我慢がならない彼はタマラと共通の話題があるので、あれこれと肉や魚を使った料理を教えてくれたし、タマラが調味料を使わずに、少量の乾し肉から美味しいスープを作ると感心したように唸った。あれほどの事があっても近所のおばさん達から聞かれたレシピが頭の中から消える事はなかったらしい、それを忠実になぞったタマラの初めてのボルシチの出来についてだが――口にした三人が、未練がましく空になった皿をほじくり返すという示威行動に出たという事実だけをここに記す。
なんだそのナイフの使い方は、なっちゃいないな、田舎でなら問題ないが外に出たのなら苦労するぜ。いいから聞いとけよ、俺みたいな出来た奴のような例外を除けば男なんて食べるだけ、酒を飲むだけ、女にアレを突っ込むだけの三拍子だ。逆に言えば男は胃袋とアレを両手でそれぞれ握っておけば征服したも同然だ、抵抗したら爪を軽くて立ててやれ、それで泣きながら謝らないのはオカマかチャイニーズ・ユーナクぐらいだ。
意味が全部理解できた訳ではない。が、なんとなくニュアンスでわかるのでタマラは顔を真っ赤にしながら頷く。その様子がまた面白いらしく、彼は運転しながら更に色々と話す。女も沢山食わなきゃならねぇぞ、特にお前みたいな細いガキは食って締めて食いまくれ、男は女のボン、キュッ、ボンが大好きなんだ、下の締まりも良ければ文句無しだ、とタマラの華奢な体をミラー越しの視線で上から下までなぞる、不思議と嫌な感じはしなかった。
「下品だぞ」と、流石に助手席で目を閉じていたキートゥが嗜めるが、しまいには「うるせぇ、お前もヴォールクも辛気臭くてしょうがねぇからセクハラしか楽しみが無いんだよ、嫌なら口から火を吹くか車を降りやがれこのモアイ野郎が」と開き直る始末である。
旅を始めて数日経った日、驚天動地の事件が発生した。
それはある意味では研究所で目撃した衝撃的な場面よりも屈強な男達を右往左往させ、唯一平然としていたキートゥが調達してきた脱脂綿をタマラに渡し、使い方がわからないと知るや余った服を切り裂いて即席のナプキンを作ってくれた。タマラの瞳を見て「紫色は珍しい」と言い、彼女の不安な表情を見て「男は珍しい女を大事にしてくれる」と優しく頭を撫でてくれた。
ある日休憩だと言って、バンガローに入った年長の二人が一日中眠りこけた事があった。全く起きる気配がないのでタマラが腕によりをかけて、自分でもお祝いの時にしかお目にかかった事のないご馳走を作るとその匂いで二人とも跳ね起きる。
気が付けば食事を作るのは彼女になった。薪を調達して火を起こすのはヴォールクだ――「それぐらい役に立て」と年長の二人に言われたのだ。タマラが育った村だったら誰も振れないような斧を小柄な体で軽々と肩に担ぎ、十分ほどもしたらタマラの体より太い丸太を細く割ったものを、ロープで括って引き摺ってくるのだ。ひょっとして中身は狼ではなくて大きな熊なのかもしれない。
手頃な木が無い時は粘土を燃やした――ヴォールクが研究所から拝借してきた背嚢の中に結構な量が入っていたらしい。
信じられるか? これが一欠片でここにいる4人を皆殺しにできるんだぜ、と粘土を手に取ったリェーフが笑いながら驚かしてくる――何故か少年は気まずそうにそっぽを向いていた。
リェーフのリクエストで料理のレパートリーは日々に増えて行き、車の上で冷たい缶詰をほじくる回数は日に日に減って行く。
誕生日の時の夢を、タマラは数日か置きに見た。母と一緒に作った誕生日ケーキ、父が得意気に持って帰ったテディベア。
虚しくはなかった、かと言って懐かしく感じるほど遠くもなかった。
三人にポツポツと話すと、リェーフは笑いながらタマラの頭を叩いたものだ。そうか、そりゃ苦労したな、でもグレるんじゃねぇぞ、命がけで守ってくれた母さんに申し訳ないだろう。苦労してんのはお前だけじゃないし、それを抜きにしても世の中にはグレてない奴の方が多いんだ。そこの役立たずが俺等を素手のまま5秒で皆殺しにできるのは知ってるな? だがこいつはやらねぇ、何故か知ってるか? グレてないからだ。キートゥの事は知らんが俺も似たようなもんだ。だからお前を閉じ込めたロリコン共の事なんか忘れちまえ、よくしてくれた人達の顔を心に浮かべて生きてくんだ。
タマラが、はい、と答えると反応は三種三様だった。――リェーフはそういやそれがあったかと額を叩き、キートゥは顎に手を当てて「これは魔性の女になるな」と感心し、ヴォールクは眩しいものを見たように目を眇める。
十年も蕾だった花が一気に咲くような、綺麗な笑顔だったのだ。
――ロリコンって何、と後で聞くと、三人は「変態だ」と口を揃えて言った。
今まで生きてきた十年が、まるで十日しか過ごしていないと思えるほど濃密な一ヶ月だった。