プロローグ・2
翌朝になり、タマラはようやく電話の存在を思い出した。
両親に抱きかかえられながら隣村を訪ねていた頃、まだおばあちゃんがレジを打っていたパン屋では警察官のおじさんがお昼ごはんを買っていた。
知っている限りの電話番号をダイヤルする度に背筋が寒くなる、誰も出ない。
ひょっとして、もう世界中には自分一人しかいないのかもしれない。
パパ、ママ。半泣きで呟き、警察への番号である緊急番号を押す。
「アロー?」
ひっく。一日ぶりに聞こえた大人の声。タマラの喉から嗚咽が漏れる。
おまわりさん、助けて。
地べたに坐り込んだ彼女の声は口から出した時点で自分でも聞き取れるかどうか怪しい、それでも様子がおかしいと気付いた電話向こうで騒ぎ出す声が微かに聞こえる。
その後起こった事については、今でも完全に理解できていない。
どこかの警察署に通じている事しかわからない緊急番号に連絡してから半日ほど、テディベアを抱きながらペチカのベッドに縮こまっていたタマラが見たのは制服を着た警察官ではなく、性別すらわからない、防護服を着た宇宙人の群だった。
驚くべき事に宇宙人は人間の言葉を喋った、タマラに身分の確認をした宇宙人は問答無用でテディベアを彼女から引き剥がし、車のような宇宙船に押しこんだ。
それ以来、タマラは宇宙人しか見た事がない。
下着一つない服装を着せられ、宇宙人から何があったかと聞かれ、宇宙人に質問された。パパとママは?と聞いても答えてもらえず、寝かせられたまま巨大なドーナツを何度も潜らされた。
同じ言葉を喋ってはいるものの、タマラをただの10歳の女の子として扱っている人間はここにはいなかった。
宇宙人だからだ。
目が覚めた、暗い部屋の中でボーとしていたらついウトウトしていたらしい。時計がなく、窓一つない部屋の中では三食だけが時間の目安だ、室内灯を点けていないと。朝飯がまだ半分残っているトレイを取り出し口に持って行く。何時ものように昼飯が置いてあった、献立のローテーションが何周したかは数えてない。
泣き叫ぶべきなのだろう、宇宙人にパパとママが欲しいとダダをこねるべきだ、と頭の中のどこかが警鐘を鳴らしている。
しかしその気になれない。宇宙人はどこまで行っても宇宙人で、宇宙人だから誘拐した子供をパパとママに会わせてはくれない。頼んでもくれないのなら頼む意味はない。
十という齢になったばかりの少女、彼女を同じ年頃の子供と同じ反応をさせないように心を雁字搦めにさせるものの正体。
それは諦観という名の茨だった。
その時、少年はダクトの中を這っていた。
――あー、かったりい。
全身はダクトを這って真っ黒け、フードを被っていなければ髪は真っ白になっている所だ。
クソ寒い。ダクトが繋ぐ各部屋では暖房が十分に効いているはずだが、厚い毛皮を着込んでも尚それを貫く金属面の冷たさは、取り込んだ空気が建物自体の冷たさに屈服した事を意味する。
(何で俺に白羽の矢が立つかな、北国出身の奴に行かせればいいのに)
そう思いながらも手足は止めない。金属製のダクトに篭った音は存外響く、よだれが垂れないように口端でライトを咥え、大きい音を立てないように細心の注意を払って少年は一直線になったダクトの中を進む。
一定の距離を置きながら横に伸びる枝道へ入り込み、部屋の天井への通り口を見つけてはポーチに入った小型カメラで室内を記録する。今覗いている室内では研究員が子供をCTでスキャンしている所だった。MRIじゃなくてよかった、流石に磁力でダメになるような機械は持ってきていないが、巨大なドーナッツ状の磁石はかなり遠方の金属でも吸い寄せてしまう。
いや、実のところ自分にお鉢が回った理由はわかってる。つまるところただの愚痴である。どうせ言葉に出した所で誰も聞いてないから別にいいだろう。
生肌で触っていればいずれ接着されるような零下の金属の筒を這い回り、室内の情報を可能な限り集める、やっている事は地味にハードだが、ハードでも地味なので愚痴の一つでもこぼさないとやってられない。
児童販売の売り物である黒孩児出身の少年は、その中でも大宗を占める南方の生まれだ――大宗である理由は簡単で、防寒に金をかける必要がない分、暖かい方がコストも死亡率も抑えられるからだ。
黒孩児とは戸籍を持たない子供の総称で、遠くは自称ゲリラ戦の開祖である禿が産めよ増やせよと皆を無責任にそそのかした後、タンクで無抵抗の学生を轢き殺した事で有名なデコっぱげが、禿の尻ぬぐいのために一胎化という無茶苦茶な政策を実行した負の産物である。
以上、彼――人民解放軍総参謀部第二部第八処所属間諜、地蛇三號が寒さに弱い理由である。
コンドームでも無料で配れコンドーム。
三号の母国は何でもかんでも――それこそ抗生物質にさえ兵器のような名前を付けたがる、流石にミサイルと薬品の違いがわからないほどお花畑なお偉い様だらけではないだろうが、世界を回っている内に母国のネーミングセンスの酷さは嫌というほど身に染みていた。
さて、任務である情報収集自体は順調だ、問題はと言えばその情報が下っ端の三號から見ても明らかに面白味がないぐらいだが、それで頭を悩ますのは無駄に甘いタピオカティーで腹を膨らませ、年を無駄に食ったオタク達のしごとである。
覗きを続ける、雪に埋もれた荒野の一棟建て――前情報では研究所だとの触れ込みだが、どう見てもちょっと医療機材が豪華な収容所にしか見えない、特に虐待されている気配も感じない。少年とは大差のない年頃の子供達が個室に押し込められているのを一人一人録画して行くのは存外退屈だ。
幸い退屈には慣れていた、だが寒い、ライトを咥えたままの口もだるい。それほど疲れた訳ではない、ただ寒い。
どこか適当な部屋で暖を取るべきか――そう少年が考えた時の事だ。
ズズンンンンンン・・・
重厚な残響が研究所を震わせたのは。