プロローグ・1
分厚い革の手袋に包まれた両手で薪を抱え、少女は小さなお尻で薪小屋のドアを閉めた。
思いがけず雪に反射された日の光に目をしかめる。後ろ庭は連日降る白い雪で覆われてはいるが、家と小屋の間だけには足跡にまみれ、黒と白のモザイク模様をかたどっている。その模様に新しい足跡を刻み込みながら、彼女はうんしょうんしょと積もり積もった雪をロングブーツで掻き分けながら家に戻る。
十歳になったばかりのタマラにとって、膝まで届く積雪はマイナス温度の泥沼に等しい。たった数歩の距離を往復しただけで足が棒のようになってしまった。
裏口のドアを閉めた所で、待ち切れないという感じで家の中に向かって声を張り上げる。
「ママー、薪取ってきたよー」
年配が多い教会の聖歌隊で、大人に混じったたった一人の子供でもあるタマラの声は静かな家の中でよく通り、即座に返事が返ってくる。
「ありがとう、暖炉に持ってきてー」
「はーい」
叫びながら両手一杯の薪を運ぶ。
歩みが速いのは寒いからだけではない。軽い足取りでタマラがリビングに入ると、天井まで伸びるレンガ製のペチカが目に入った。
タマラの自慢の髪と同じプラチナブロンド、ペチカの前にいる母がケーキの生地を流し込んだ型を片手に待っている。
そう、今日は十歳の誕生日なのだ。その事実にタマラの顔が思わず崩れる。
母は傍に置かれた薪に手を伸ばし、ふと思いついたように動きを止め、タマラに振り向く。
「自分で入れてみる?」
一瞬『?』を頭上に浮かべたようなタマラの表情が、母の言葉の意味を理解した途端パッと笑みに変わる。
「ホント!?」
タマラがひまわりなら母は太陽、微笑みを浮かべながら薪をタマラに渡し、「気を付けなさい」と母が注意する。
「うん!」
返事も一際元気が良い。
隣村にある実家がパン屋のお母さん。シチーもボルシチも誰が作るのより美味しくて、月に一回のコトレータは近所がこぞってお裾分けを貰いに来る。何度も近所のおばさんに作り方を聞かれ、そのおかげで今まで火に関するものは触れさせてすらもらえないタマラは数えきれないレシピをそらで唱えれるようになっている。
お母さんのようになるのが夢だったのだ。
父親には悪いがこれ以上の誕生日プレゼントはありえない。心中小躍りし、タマラが恐る恐る薪をペチカの中に次々と押し込んでいると当の父親が――
黒い髪に黄色い肌、そんな毛色をした熊と説明したら思わず納得してしまいそうな筋肉隆々の男が抱えた、大きな熊のぬいぐるみ。
「ただいま」
きゃあああああ!屋根に積もった雪が地面に滑り落ちそうな歓声をあげながらタマラはぬいぐるみに飛びついた。どうだ、と父親が自慢気な笑みを母親に向けたのにも、その母親がぬいぐるみの値段を頭の中で暗算した表情の後、しょうがないと言った風に呆れた笑みを返した事にも全く気付いていない。
気付いていなかったのだ――なのにその光景が再生されたのは、想像できるからなのかもしれない。
タマラは目を開けた。
生まれた時からペチカの上に備え付けられたベッドで寝ていたせいだろう。仰向けになった彼女にとって天井は遠く、その色の文字と同じように白々しく感じる。
小柄で軽い彼女が体を起こすだけで、パイプで組み立てられたベッドはギギッと軋む音を立てた。
ベッドサイドのライトを点けると黄色い光が部屋の一角を満たす。明かりは他にもあるのだが、今のタマラにはもはやそれを点ける気にもならない。
簡素なベッドと机以外には何もなかった。窓一つない壁の上に貼り付けられたパイプは暖気が通っており、そこから微かに空気のこすれる音が聞こえる。壁の一面にはシャワーだけがある浴室兼トイレ。そしてもう一面にある出入り口――そこにはそれが一番金がかかっていると言いたげなような重厚な金属のドア。
彼女はしばらくボーとしていたが、やがて全身が水に絡まれたような、のろのろとした動きで出入り口の横にある取り出し口に向かう。
そこにあるのは外から置かれていたトレイ、上には硬いコッペパンと一欠片のチーズ、生暖かくまでに冷めたスープ。模様一つない、病院の患者が着るような着替え。
特段不味くはないが美味しくはない一人ぼっちの食事、特に可愛くはないが暖炉と合わせれば寒くも暖かくも感じない服。
死なせない、ただそれだけを目的としただけの環境。
ただ食べて、シャワーを浴びて、寝る。そんな籠に入れられたペットのような生活を始めてもう何十年も経ったかのように感じるが、夢の中の自分とは違和感を感じてないという事はまだ子供のままなのだろう。ひょっとして一ヶ月ぐらいかもしれない。
もう悲しさは感じない。
最初は幸せな頃の夢を寝る度に待ちわびていたが、それが負の感情と一体両面だと気付くのにさほどの時間はかからなかった。
夢から醒めた今は、ただただ虚しい。
トレイを机に移し、もそもそと朝飯を口に運ぶタマラの脳裏にもう一つの漠然とした光景がよみがえる。
今から思えば、それが全ての始まりだったかもしれない。
大きく口を開きながら空を見上げるタマラ。タマラの手を握りながら、驚きと喜びの表情をした父親が家の中の母親に向かって外に出てこいと叫ぶ。何事だと思って各々の家から出てくる年配の村人達は夜空に向けて顔を上げた途端、同じ型で取ったかのように表情を揃えてその光景に見入る。
ただ幸せに満ちた日々、それを代表するかのような誕生日から僅か数ヶ月後のあの日。
黒い空をみじん切りにする満天の流星群――そして何かが村の近くに落ちたような、地面を揺るがす一瞬の衝撃。
それを境に彼女の世界は一変してしまった。
最初は近所のナターシャおばさんだ。
夕方になっても兎狩りに出かけたミーチャおじさんが戻らないと心配そうな顔で村長の家に駆け込み、一番若いタマラの父親を先頭に村のおじさん達が探しに出かける。
帰ってきた男衆のために教会で作られた食事は一晩経った後も暖炉で暖められる事はなく、その時点で残った老人と女子供が広々とした教会に集められる。
似たような年の子供が他にいない事に今更ながら気付いたタマラは硬い表情をした母親の手をギュッと握る。大丈夫よ、という呟きと共に頭を撫でられたタマラは母を支えるようにその体にもたれ掛かる。
お父さん達は遂に戻らず――数日後、真夜中の悲鳴と共に全てが動き出した。
父親からの誕生日プレゼントを抱きながらペチカの上にあるベッドで寝ていたタマラはかん高い悲鳴を聞いてもなおウトウトとしていたが、突然引き起こされ、お母さん?と呟きながら寝ぼけ眼に入った母を見て一瞬で目が覚める。
タマラが物心付いてから初めて見る表情だった。それが子供を守る狼と同質のものだと理解が及ぶ前に抱きかかえられる。
家の外では怒号と悲鳴が増々広がり、事ここに至って何かが起きていると悟ったタマラの耳に突如、猛獣が唸ったのを何十倍にもした声が響く。凍りついた窓がビリビリと震えた。
お母さん、お母さん、どうしたの?
叫ぶタマラに母は答えない、恐らく彼女にも訳が分かっていなかったのだろう――何らかの危険が迫っているという事以外は。
大丈夫よ、いいから静かにね、何があっても音を立てちゃ駄目よ。
シー、と人差し指をタマラの唇に当て、母は小さい体を箪笥の中に押しこんで服で埋めるように隠す。
お母さんは?と不安げに聞くタマラ。
母は大丈夫、別の所に隠れてるから、何があっても音を立てちゃ駄目よ、と返す。
タマラには自慢がある、物心ついてから両親の言いつけを一度も破った事はないのだ。
だから両親に怒られた事は滅多にないし、その時も口に両手を当てていた。
箪笥を何かが叩く音がしても、分厚い服の下でタマラはひたすら音を殺した。
一晩後、服の下から這い出たタマラを迎えたのは静寂だった。
家のどこにも母はおらず、ペチカの横に転がっていたテディベアをベッドに戻す。
他では特に何か破壊された痕もなく、外に出ると通りの両側に並び建つどの家も特に変わったような様子がなく、隣の家のドアが開けたまま凍りついている。
村の建物を手前から順に見回したタマラは息を飲む――通りの一番奥にある村長の家が黒々と焦げていた。
開いたままで凍ったドアを潜り抜ける。ナターシャおばさんはいなかった、火が消えたペチカの中にはまだ新しい、黒い燃えかすだけ。机の上に置かれたカップではお茶が氷の膜を張っていた。
村中のドアというドアを叩くがどこも返事がない。ごめんなさいと謝っては方々のガラスを割って建物を探して回る。
怖くなった。走りながら泣き、顔の上を流れる涙が凍りかけては家に帰ってペチカに薪をくべる。
無人の建物が怖かった。それでも村人の誰もいないのはもっと怖かった。お腹が空いては家に帰って缶詰を温め。食べ終わっては再び村中を探し回る。村は静かだった、たまに聞こえる鷹の叫び声も、たまに森の方から聞こえる狼の遠吠えも何故か聞こえない。
やがて夜の帳が降り、タマラは家に戻った。
村には誰もいなかった、彼女だけを除いて。