いなくなる
日記①(4月31日)
筆不精だったはずの僕が今さら日記を書こうと決めた理由は他でもない。今世界中で起きている現象がそうだ。万が一に後世の人間(そんなものが残っていればの話だが)が何かの偶然でこの手記を見つけたら間違いなくこの内容を鼻で笑うかもしれない。この筆者は完全に頭がおかしいと。それが当たり前の正しい反応だろう。
だが現在起きているそれらの脅威はまぎれもない事実なのだ。例えば今これを書いている僕の部屋は窓を開けている。僕のマンションの近くには空港や工場地帯が広がっている。かつては旅客機の離陸音やトラックの行き交う騒音が定期的に響いていた。僕のいる部屋の階下からは赤ん坊の泣き声がよく聞こえた。数週間前まではそれが当たり前だった。
しかし今は何も聞こえない。あまりにも非現実的過ぎる事は自分でも分かってる。だがこれは僕の周りだけで起きているのでも僕自身の妄想でもない。それは世界中で進行中の現象である。
世界で起きている事。それは人間が次々と消えていく超常現象。メディアはこれを人間連続消失現象と呼んでいる久しいが、勿論その原因は分かっていない。誰だってそうだ。
おそらくこれからもそうだろう。
一応関連する記事を時系列に貼り付けておく。
『目の前で人が消えた?謎の神隠し事件発生か?』(毎読新聞4月12日夕刊)
本日の午後二時頃、伊丹警察に一本の電話が掛って来た。通報したのは、同伊丹市出身の女性(26)で、同日の通報から数分前に、「目の前を歩いていた通行人が突然消えた」と伊丹警察に電話をかけていた。通報を受けた警官が証言する場所を捜索したが、異常は見つからず……。
『偶然か、事件か!?全国で行方不明相次ぐ(毎読新聞4月15日号朝刊)』
現在、各地で頻発する人が忽然と蒸発する事件が、実は全国で相次いでいる事実が、警視庁並び政府の調査で判明した。最初に起きたとされる“消失”は、今月の12日。兵庫県伊丹市在住の男性(24)、宮崎県在住の女性(53)、東京都在住の男性(35)他、15名の消息が途絶えた事が分かり、さらに14日までの間、新たに14名の不明者が増えた。現在、12日以前にも“消失”現象は確認されたかを至急調査中であり……。
『現代のマリー・セレスト事件?消失事件未だ捜査進展なし』(4月16日夕刊)
全国で発生している人間消失現象は、今もなお解決の糸口すら見えていないのが現状である。また「目の前にいた知り合いが次の瞬間には消えてしまった」という目撃情報も相次いでいる。これらに対し警視庁は「現状でのコメントは差し控えたい」とし、本件は益々混迷を極めつつある。
一連の事件は1786年にイギリスで実際に起こったマリー・セレスト号事件との類似点が多く見られ……。
『人間消失現象、世界中で続発』(毎読新聞5月1日号夕刊)
我が国で頻発している連続人間消失現象が、海外でも猛威をふるっている事実が、本日、首相官邸で発表された。発表によるとアメリカ、韓国、中国、(北朝鮮は黙認)、フィリピン、タイ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、オーストラリア、スイス、スウェーデン、その他140カ国以上の国や地域で国内と同様の現象が見られ、国連の調査により判明した、消失した人数の総合計は、約10億9998人に達するとした。これは世界人口の6分の1に当たり、今後、この現象が失速なく続いた場合、……。
『世界中で暴動。「陰謀だ」北、数発の核ミサイル発射を示唆』(毎読新聞5月3日朝刊)
世界中で今なお続く人間消失現象は留まる気配はない。また世界中では、宗教団体や政治運動グループによる大規模なデモ行進、小競り合いや暴動も起き、治安当局もまた人不足により機能不全に陥っている。かつては世界経済の象徴でもあったニューヨークのウォール街はまるで廃墟のように静まり返り、もはや国内はおろか、世界の経済活動そのものが死に体になりつつあり……。
これが配達された翌日から新聞は投函されなくなった。当然のように読んでいた新聞や雑誌、ニュースは元々人間が作っているのだ。人間が消えていくこの世界で彼らの消えない保証なんてあるはずがなかった。それにこの先は誰でも予想は出来るだろう。
この現象は世界中で起きている。後は何が起こったかは嫌でも分かるだろう。新聞の通り経済は機能しなくなりほどなくして世界各地で暴動が起き始めた。なぜか日本ではそう言った報告がない。それも時間の問題かもしれないが。
ともあれこの事態が続く限りこの日記も三日坊主で終わらずに済むだろう。もしくは僕が消えるまで。
1‐A:5月8日
錆びが浮いた硬質な鉄扉を開けると、長い廊下が続いている。通路の途中には真向かいになった和室とバスルームが左右にある。短い通路を抜けると、無機的なイメージを想起させる白いデザインのリビングが広がっている。
向かって左側にはキッチンテーブルも備えられたダイニングルームと向かって右側には寝室に続くドアがある。
リビングの正面はベランダになっており、壁に設置されたエアコンからは静かな冷風が部屋に流れ、真下の窓にかかった白いカーテンを揺らしながら、純白の部屋に合った静謐さを保っていた。
寝室には、二人の男女がいた。どちらも二十代前半で大学の卒業を控えていた学生である。どちらもベッドの中で寝そべっていたが、どちらも部屋の明るさとは反対にその表情は暗い。
毛布に包まっている女は壁の方を見つめたまま微動だしない。
男の方も、硬質な黒い壁の方に背中を任せて座り込み、彼女の顔をじいと見つめる。女性は身動きせず、まるで人形のようだった。
青年の名前は、シュウ。女性の方は、リンという。
「今――どうなってると思う?」
唐突に発したリンの言葉を聞いて、シュウはぼんやりしていた顔を上げた。遠くで花火に似た轟音が微かに耳に入った。しかし、その音源が花火ではなく、銃声であると二人は知っていた。
数日前からこの各地で響く。もう外に出る者もいない。
「分からないよ。でも今日は大丈夫だった」
そう言いながら、枕元の脇にあるラックの上に置かれたデジタル時計を指差す。ホログラムで時刻が浮き出るそれは、『5月8日、FRI、00:02:36』を示していた。
設定により青く光る数字を見つめる目はしかし、言葉とは裏腹に不安で影を帯びているのをシュウは感じ取っていた。狂気は思うよりも進行が早い病だ。インフルエンザなど比べ物にならない。
彼女はゆっくりと起き上がった。生身をシーツでくるい――そこから覗く、微かにあばらの浮く細い裸体は、ここ数日の拒食から来る影響を雄弁に語る――枕元まで這うと、青く光る電光板に指をかざした。
差し入れた人差し指を境に数字が波のように割れた。V字型になった青い波は、暗い部屋と、虚ろな二人を照らし続けた。
日記②(5月3日)
今日、リンがここへ来た。彼女の家族もいなくなったという。僕の方もお袋がいなくなって、今では親父が実家にいるだけだ。それもどうなるかは分からない。明日にも親父か僕か、もしかしたらリノが消えるかもしれない。僕の場合、この手記が止まった日が、僕がいなくなった日という事になる。
彼女はここへ来るなり、ぼくに涙を見せた。無理もない。もう彼女には家族はいない。もう戻る所はないのだ。これからは何があっても彼女は僕が守っていかなくては。
先刻外から微かに聞こえた音はおそらく銃声だろう。外出はますます物騒になっていくから、今のうちに食料を大量に買い込んでおく必要がある。もう死ぬまで外には出られない。はたして部屋から出られるのはいつの事か?
僕ら以外の人間がいなくなるまでに決まっている。
1‐B:5月10日
「ちょうど君のお母さんが最後に消えて一週間になる」
長い沈黙に耐えられない様子で、シュウは話を切り替える。
「僕の親父が消えたのは、一ヶ月半前で、お袋は3週間前に消えた。やっぱりニュースで言っていたように、人種や地名に共通点はないみたいだ。両親が消えたのに僕らだけが残っているから――」
シュウは話をできるだけ長引かせようとする。あらかじめ考えてある話題となるストックをいかに引き延ばして話そうと会話はいつか途絶える。そうなった時ほど気まずくさせるものはない。
「シュウ、皆はどこへ行ったと思う?」
やはり、いつものように辛い所に話題を持ってくる彼女に、シュウは言葉を詰まらせながら、「それは誰にも分らない」と一般的な答えしか出せないのが立場であったが、彼にはそれはどうでもいいような事であった。少しでも、彼女の均衡を保てるのならば、と彼は思いつき限りの仮説を並べた。
「だけど、なんとなくだけど、僕は皆が亡くなったとは思っていない。むしろ、こことは違う別の世界――あの世以外の――に移動したと思う。どういう場所かは分からないが、彼らは生きているかもしれない」
「じゃあ、皆は生きてると言うの?」
「希望的観測だけど。例えば、このいなくなる人達は皆、服を着たまま消失しているんだ。もしも、その人間の存在自体が消滅するなら、その生身だけが消えて、服だけが残される方が自然だよ」
長い沈黙が続き、ショウは乾いた喉を癒すために、コップに注いだ水を一気に飲み干した。
リンは、さきほどの話に耳を傾けていたのは確かだが、彼には、彼女がその内容を理解しているとは思えなかった。こちらを睥睨しているようで、実はその向こうに透ける別世界を見つめるような抑揚のない目、そして小刻みに動く口のせいだった。
彼の主張からしばらくして、唐突にリンは口を開いた。
「じゃあ、これはいつ終わるの?」先ほどよりも低く、消え入りそうな声は、前々から危惧していた神経衰弱が日に増して進行している事を示し、シュウもまた少なからずそれに気づいていた。
しかし彼もまた、リンと同じとは言わずとも神経をすり減らしているのも事実である。少なくともリンの前ではおくびにも出してはいけない事を心得る事で耐えているに過ぎない。
「たぶん……皆がいなくなるまでさ」
「私もあなたも含めて、そうなるの?」
分かり切った答えをいつも彼に言わせようとするリンは、心の均衡を少し前に失い、以来恋人であるシュウが彼女を引き取り、同棲生活の形を取っている。
彼らの家族や友人達はもはや、どちらもこの世界にはいない。他の人間も姿を消しつつある。このマン ションのフロアにしても、住んでいるのは、一週間前から彼らだけである。
大多数はこの不可解な現象を阻止する手立てを知る由もない。二人はその中の一部に過ぎない存在なのだ。今、彼らを脅かしているのは、もはや知り合いの消失だけでは留まらなくなった。
次は自分達の出番である。だとするならば――。
どちらが先に消えるのか。誰が後に残るのか。
日記③(5月12)
最近リンは落ち着いてきたようだ。以前からの少食は相変わらずだが、幾分顔色も良くなったような気がする。
もしかしたら毎日会話をする事で彼女の中で冷静さを取り戻しているのではないか。確か、毎日毎日同じ質問だかりが繰り返され僕がそれに同じ答えを返している。一見すれば彼女の言動はおかしく感じるかもしれないがそれはリンなりにこの現象がもたらす現実を見極めようとしているじゃないか。そうと思いたい。
ここに来た日、衰弱していた彼女とは大違いで、いつものリノに戻ってくれたみたいだ
今日の夕食はリンの手料理だった。突然どういう風の吹き回しかは分からないが、味の方は結構よかった。彼女の料理は初めてなので不安であったが、あまりない材料をうまく使っていた。
僕の方もこの日記を三日坊主にせずに済んで安心しているが、半面不安も残っている。無視はできない不安だ。
僕達はいつ消えるのか?その疑問はずっと頭の中にある。彼女も気づいているはずだ。この平穏はとても不安定でもろいのかを。
幸運なのは、今日がその日ではなかったという事だ。では明日だろうか?もうこの考え方は止めよう。
日記④(5月14日)
気掛かりな事が一つだけある。彼女はいつもテレビをじっと見ている時間があるが表現がしにくいが深刻な印象を受けたのだ。あの現象が起きてからは、テレビ番組の内容も劇的に変わった。バラエティやドラマの放送は皆無となり、ほとんどがニュースや昔の映画やドラマの再放送ばかりが流れる。
NHKの国会中継も放送されなくなった。やはり現象の影響で政治家もたくさん消えたらしい。噂では総理大臣もとうの昔にいなくなったとかいう噂がネット上にも流れている。そのネットも、最近では閉鎖するサイトも増えた。代わりに終末論を仰ぐ怪しげな団体のサイトが軒並み増えた気がする。ヤフーもグーグルもその手のワードで検索すると優に1000万件以上も出てくる。
とにかく虚ろな目でテレビを見ている時の彼女は少し様子がおかしいみたいだ。あれではまるで死人と変わらない。しかし今の彼女は生きているし所持の時には普通に動く。寝る時にも寝息を立て、起床の時にはいつも僕の傍にいる。
どうか僕の気のせいであってほしい。
そう言えば彼女は質問を最近してこなくなった。
2‐A:5月16日
リビングの中央でリンは口を小さく開けたまま、テレビに映るニュースを見つめている。ニュースには、毎回新しい司会者やキャスター、コメンテーターが様変わりする。次に付けた時には、先程までニュースを読み上げていた女性キャスターがいなくなってスタジオが騒然となっていた事もあった。最近では見た事も聞いた覚えのない名前の、素人にしか見えないスーツ姿の司会者がカンニングペーパーを確認しながらたどたどしく棒読みする光景も、リノは見た事はある。人手が不足しているという証拠である。
もっとも、それらは彼女の記憶には残っていないだろう。リンには、目の前で母親と弟が一度に消失した光景を最後に、記憶という名のカテゴリーの戸は閉められている。それが開かれる事は、彼女の精神状態から考えると皆無に等しい。
見慣れた彼女の姿を遠く見ながら、キッチンテーブルで有り合わせの調理をしていたシュウはいたたまれない様子で包丁を走らせていたが、ふと、それが止まり、彼女の方を凝視した。それは彼には短い時間だったかもしれない。その顔には、冷房が掛っているのにもかかわらず、なぜか小さな汗がぽつりぽつりと流れていた。
「そんなものを見ていても何も変わらない」
テーブルに食事を運んだシュウは、彼女に食事を告げるが、その頭はテレビの方に向いたた動かない。衝動的に、彼はリモコンを手にとって電源を消した。液晶がブラックアウトする。
すると、からくり仕掛けの人形のように、リンはゆっくりと彼に向きなおった。その虚ろな両眼はやはり、恋人を通り越し、その背後の壁さえも越えた先を、ただ見つめるだけだった。
日記⑤(5月18)
リンがここへ住み始めてから二週間以上(正確には17日か)が経った。以前彼女が言った疑問が今になって気になりだした。
この現象が終わるのは、世界中の人間が消えた時だとするなら、その日はいつになるのかという事だ。
消失現象に関連した蒸発事件があったのは確か4月の上旬あたりだった。そして5月の頭に現在世界中で確認できる消失人数は約10億人と確認された。現在はそんな計算をする機関に努める人間もいなくなり計上できる術はない。しかしこの現象により国の大小を問わず満遍なく消えているのだとしたらどうなるだろうか。日本の人口は約一億人。二十数日で世界人口の六分の一がいなくなった。
乱暴な考え方だが25日で10億が消えたと考えよう。この場合世界中の人間がこの地上からすべて消え去るのが150日はかかる。つまり約5か月分になる。現象が始まったとされる4月の上旬頃から数えて8月の上旬にはすべてが終わっている計算になる。
勿論これは大雑把な推測だ。人間が消失以外にそれに伴う事故や事件によって命を失う者もいるならばもっと速くなるかもしれないしこれより遅くなる事はあり得ないだろう。ただ一つだけ言えるのは、今年の夏の中頃にはこの地球に人間という種族は一人もいなくなるだろう。
リンは僕が現実逃避をしていると言った。否定はしない。しかしそうせざるを得ないのが僕や他の人間の立場だ。
むしろ、この事態を直視してから何をすべきか誰に分かるだろうか。僕のように当たり前の生活を無視して続ける者も中にはいるだろう。消えると分かっているならジタバタしていても仕方がない。泣き叫んだ末、自暴自棄になる者もいるし、その中には犯罪に手を染める者もいるかもしれない。そしてその行動をとがめる余裕などもう誰も持っていない。
しかしそれでも彼女の言動には気が掛る。普段は気丈でクールを装っているリンのような人ほど、心の均衡を図るのが難しいのかもしれない。それも限界に差し掛かっている気がしてならない。
その時が来るまではどうか何も起きてほしくない。
2‐B:5月20日
「シュウはいつもそう。現実を見ようとしないわ」
何の前触れもなく、食器を止めたリンが放つ言葉を聞き、シュウもまた手元を止めた。
「現実を見ようとしない?……まあ、確かにそうだな。変わらない現実には、僕らには何も太刀打ちできない」
椅子に座り淡々と食事を始まる彼をリンは冷たく睨む。シュウはリモコンでテレビをつけて、チャンネルを順番に押していく。
「それができれば、こんな事にはならないさ」
テレビは今、NHKを除いて砂嵐しか映らない。勿論それは故障ではなく、電波を流しチャンネルを提供するテレビ局には、それができる人間がほとんど残っていないのだ。残った局も同じように消えるのも時間の問題である。
「今、全部の人間に起こっている現象には、もう原因を追究しても仕方がないんだ。できたからと言ってそこに答えはないからだよ。そうだ、僕たち人間は、ただこの地球からいなくなるだけだ。その後は知らない」そこまで言ってまた食事を再開する。
リンもテーブルにつき、フォークに触れようとしたが、震える手からそれは抜け落ちた。テーブルから床に落ちたそれを拾おうとするが、何度も落下音を鳴らしてしまう。
居たたまれなくなり代わりに拾おうと、彼が屈もうとした直後、両手で食器を掴んだリンと、盛られた皿と一緒に、テレビに向かって投げつけた。スパゲティを被ったテレビ。
彼女は耳を塞ぎながらその場で屈みこんだ。「リン!」と叫び急いで彼女の肩に触れようとしたが、激しく払いのけられる。
「もう嫌……。夢なら覚めてよ!ここはそうなんでしょう!ねえ、そうなんでしょう!」顔を上げた彼女はシュウにすがって来る。彼もリンを強く抱きしめる。どちらも離れない。彼らにとってはそれは特別な儀式であるかのようだった。
それでもリンの顔には生気が完全に死んでいる。シュウにはそれが分かっている。明日の自分を見ているような気がしたからだ。
その日の夕方、彼女は寝室に籠城した。
日記⑥(5月20日)
リンが寝室に閉じこもってから2時間が経つが全く出てくる気配はない。いくら呼びかけても返事がない。もしかしたらいなくなっているのではと気持ちがやきもきするばかりだ。
恐れていた事ではあったが、同時にいつかは起きるのではないかと恐れていた。やはり彼女は家族が消えた記憶をずっと引きずっていた。そして今日までの孤独はリンの心を蝕んでいた。もうその重荷に耐えられなくなってしまったのだ。
自分が情けない。僕は今まで彼女との真正面の対話を恐れてきた。僕は現実から逃げていると彼女は言った。
だがその批判は妄言ではなかったのだ。僕に助けを求めていた。崩れかかる脆い心の柱を一番傍にいる僕に支えてもらい少しばかりの気慰みを共有したかったのだ。
なぜそれが分からなかったのだろう。誰だってこの事態に冷静でいられるわけではない。何かをして気を紛らわすしか他にない。慣れない日記を書いて愛する人と残りの時間を共有する。だが心はどうだっただろうか。僕達の心は同じ屋根の下にいながら、まったく向き合ってなんかいなかった。
このまま、彼女は消えてしまうまで寝室に籠るつもりなのだろうか。一体どうすればいい?
もしかすると
3‐A:5月20日
彼女が取り乱して寝室に閉じこもってから、約三時間が経過していた。その間、シュウは何度も説得にかかっていたが、出てくる兆しは皆無だった。そして深夜11時を回ろうとしていた今も、ドアを背にして座り込んでいた。
一方リンは、部屋中の電気をつけて、ベッドの上で胎児のように丸くなったまま固まって動かない。
ある時点になり、彼らの部屋のブレーカーが落ちた。すべての電気が遮断される。リビングが一瞬で闇に閉ざされ、寝室もただ薄く光る置時計を残すのみとなった。突然電気が消えた事で、寝室の中からリンの悲鳴が上がる。
「シュウ、助けて!助けて!」そう何回も呼びながら、扉を叩く彼女は取り乱しているのかノブを回そうともしない。
「ドアの鍵を開けるんだ」シュウは落ち着いた口調で宥めようするが、扉が開く気配もない。
中からは彼女のすすり泣く声が聞こえ、果てには「お母さん、お父さん。誰か、誰か、神様、どうか――」と聞いたシュウはドアに体当たりし、椅子で殴りつける。頑丈な設計ではなかったドアは、数十回ぐらい叩き続けた所で、蝶使いから外れた。寝室に入ったシュウは、壁の隅でリンが失禁して座り込んでいるのを見て、ゆっくり歩み寄り手をさしのばした。
「気にしていないから。バスルームで洗おう」
その時シュウは、コクリと頷いた彼女が幼い子供のように指を吸い、目を伏せているのに気づいた。それでも彼女をゆっくりと起こすと、バスルームに連れて行って介抱した。
「大丈夫だよ、リン。僕らはまだ消えない。少なくともまだここにいるよ」
背後から細くなった肩を抱きしめながら、暗闇の中で彼らはシャワーの冷水に打たれた。その水も翌日には、キッチンの蛇口と同じく使えなくなった。
それからシュウは正午になると、人形のようになったリンに、彼女がここへ来た時着ていた純白のワンピースを着せて、ベランダの窓の前に置いた椅子に座らせた。
「見てごらん。君は、本当はこんなに綺麗なんだ」
日が暮れて、寂しい夜景が照らす彼らの姿が窓に鏡のように映し出される。そして、反射した二人の虚像は何度目かの口づけを交わす。壊れた彼女の無垢な心が、その行為に対して別段抵抗を示さない事に、シュウは逆に罪悪感を抱いた。しかし、人間が著しく欠如したこの世界に、もはやそれを咎める者や倫理もない。
「僕らには、もう家族はいない。二人きりだ。だから君に傍にいてほしい」
「いつまで?」幼児のように舌足らずな言葉を発した顔を見つめ、深く息を吸ってからシュウは言う。
「どちらかがいなくなるまで」
そして、二人の唇が再び重なった。
日記⑧(5月22日)
電力の供給が止まった。世界中の人間が消え続けているのだからいつかは電力会社の人間も消える事は予測していた。
だがそれによって彼女の心は完全に壊れてしまった。むき出しになった心は安心できる厚い壁の中に閉じこもってしまい今のリンは子供の頃の記憶をとどめたままになっている。どこかの本で読んだが人間は精神の許容を超えた衝撃を受けると、防御の目的で精神が幼児化するというもの。彼女もそれと同じなのだ。
くそ!それにしても、停電になった事でこのパソコンも充電ができなくなった。使える時間は90%で100分ぐらいだ。今後はこまめに起動して省力しないといけない。
もう多弁も許されない。ツイッターみたいな感じになる。
3‐B:5月25日
それから数日後、シュウはいつものようにクレヨンで画用紙に蝶の絵を描いているリンの頭を優しく撫でて、昼食に取り掛かる。とうとうガスまで止まり、今では卓上コンロで火力を補っている。そのボンベもそろそろ数が少ない。
料理が出来上がって、「さあ、リン。ご飯の時間だよ」と料理を乗せたトレイを手に、キッチンテーブルを出た彼の目には、いつもとは違う光景が映った。
開かれた窓に揺れる白いカーテン。風に吹かれて揺らめく画用紙。そこには虫や鳥。山や海など、幼いころのリノが得意であった絵が描かれている。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。いつものように低く屈んでクレヨンを手にしているはずのリンはいなかった。
「リン?」
その理由を感じつつそれを打ち消したかのように、シュウは部屋中を探しまわった。玄関、バスルーム、和室、寝室、そしてまたリビングに戻った。ふと、目を向けたベランダに出て、手すりから真下の地面を見る。そこには何もなかった。
彼は、ただ欄干につかまり、しゃがみ込んだ。その目からは涙がとめどなくあふれ、彼を悲しみの淵へと追いやった。ちょうど正午を少し過ぎた頃だった。
この世界から、リンはいなくなったのだ。
日記⑨(5月25日)
リンが消えた。そうだ消えてしまったんだ。なぜ。
分からない。嫌そんなはずはない。いつかはそうなると分かっていた。むしろ、これでよかったのではないだろうか。もし僕が先に消えれば一人残された彼女はどうなる?どうせ最後には皆が消える。これでよかったのだ。前から僕は心の底でそれを望んでいた。そしてリンが消えた人々のいる別世界に行き着いた事を願う。
これで僕は一人になった。家族も消えた。愛する人もいなくなった。
これから僕はどう生きる?順番が来るまでどうすればいい?
日記⑩(5月26日)
リンは消えた。そうなのか?本当にそうか?そうかもしれない。
僕の出番はいつになる?
日記⑪(5月27日)
夢を見た。彼女がいなくなった夢を見た。
消えるよりも残される方が耐えがたい。
しかしもう遅い。彼女は消えた。
日記⑫(5月28日)
りんはどこにいる。天国か?
もしもそうならここは生き地獄だな。
4‐A:5月29日
彼女が消えてからの数日間、シュウはベッドに入っていたが、朝になるとむくりと起き出して、自分の横に置いていた彼女のあの白いワンピースに向かって言葉を発する。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
それをゆっくり持ち上げ、リビングの中央に置かれた椅子の上に置く。そしてベランダの窓を開き、壁にかかったカレンダーに立って、前日の数字に×マークを付ける。
椅子に乗せたワンピースが風に揺れる。椅子の足元に散らばった数枚の画用紙が外に舞う。それに気にする事なく、シュウはノートパソコンに向かい、小一時間ぐらいキーボードを叩き続けた。
正午に差し掛かった頃、キッチンテーブルに向かった彼は、卓上のガスコンロに火をつけて調理を始めるようとする。しかしガスボンベはとうに底を突き、何度つまみを引いても、カチチチと無機質な音が鳴るだけだったが、その上に空になってフライパンを乗せていたしばらくそのままでいた。
缶詰の中身を適当に盛った皿を乗せたトレイをテーブルに運び、椅子に掛けられたワンピースの方に呼びかける。
「お昼ご飯にしようか」
椅子ごとテーブルまで運び、その向かいにシュウは座る。淡々と食事を薦める彼の正面には、ただワンピースが置かれた椅子だけがある。そしてそこに彼と同じように盛られた食器。しばらくすると、彼は話―ピースに向かって話し始めた。内容は、まだ世界が平穏だった頃、大学での思い出、初めて二人が出会い、恋人同士になるまでの事など、彼の明るい声が無人のリビングに響く。一歩通行の会話だけが小一時間続く。
日記⑬(5月29日)
リンが帰って来た。夢でも幻でもない。突然いなくなっていたはずの正真正銘のリンが帰って来たのだ。彼女がいなくなった時僕は人生の中で一番神様を強く憎んだが彼女が戻ってきたと分かった瞬間どれだけ神様に感謝した事だろう。彼女が言うにはマンションの近くを流れる河原まで出かけていたというのだ。僕と一緒に行こうと思ったらしいが、外は危ないと言ってやめると思い黙って外出していたらしい。本当に困った子だ。でも彼女の気持ちも分かる。こんな所でずっと缶詰になっていたら心がおかしくなるのも無理はない。外へ出たいと思うだろう。確かに僕もここしばらく外に出た事がない。黙って外にいたお詫びに彼女は光石を僕に渡してくれた。僕が好きな青色をした綺麗な石。それでも彼女の心は幼い少女のままだ。やはりあの一件以来彼女の本当の心は殻に閉じこもったままだ。そこから助け出したい。そう思ってもそれができない不甲斐なさが恥ずかしい。せめて僕に出来るのは純粋無垢なリンに答えてあげるぐらいだ。
そうだ今度彼女を連れて海にでも出かけよう。どうかそれまで僕が消え間ないことを切に願う。
4‐B:6月4日
食事が終わり、彼は再びノートパソコンの前に座る。そしていつもの日課である日記を数日ぶりに描き始めた。電気の供給もなくなり、パソコンの起動時間は減りつつあったが、それでも一心不乱にその手はキーを打ち続ける。
予兆は勿論、それを暗示する前触れもなかった。パソコンの前に座るシュウが突然消失した。それは瞬きする間もない刹那の出来事だった。そして、これと同じ事が世界で同時に起きた。
リンに続き、シュウもついに消えた。今日、そのマンションの住人は管理人も入れて全員がいなくなり、そこは無人と化した。
二人の主が消えた部屋は静まり返る。とうの昔にバッテリーが切れたパソコンは埃を被り、日が経つにつれて、外から入る風で流れてきた小さな塵は純白だった壁に点々と汚れを浮かせた。電力の供給が停止して以来、無用の長物となって久しい冷蔵庫に収まっていた食料にはカビが生え始めた。
ただ、椅子の上にある埃にまみれたワンピースだけが風に揺れ、ベランダから差し込む夕日がそれを照らす。
今もその現象の残り火が延々と粛々続く世界の一部に過ぎない、小さな国の片隅での、幾千に一つの出来事は過ぎ去った。
何十億年もの間変わらないままずっとそうだったように、その日もまた黄昏からゆっくりと夜へ向かおうとしていた。
日記⑭(6月4日)
最近心が何だかすがすがしい気持ちになる。どうしてかは分かっている。リンはある時、ニコリと笑いかけた。蝋人形のように動かなかったはずの彼女が、長い眠りから目を覚ましたように、僕の顔を見て微笑んだのだ。思えば数週間前だった。昼食後に壊れたように暴れ出して、寝室に飛び込んで出てこなかった日があった。僕はその間に彼女がいなくなるのではと不安に苛まれていた事か。彼女の精神がおかしくなった原因は、なにも現象のせいだけではない。僕が言葉足らずに接した事で彼女の不安をあおってしまった。リンと同じ立場なら自分も普通ではいられまい。だがもう心配はない。今、リンは僕の顔を見て笑い、さっきまで描いていた絵を僕に見せてくれた。それは海を背景に砂浜に立つ二人の人間が書いてあった。勿論僕らがモデルだ。僕が綺麗に描けているねと言うと、彼女はまだまだ描き足りていないと言った。背景の海にたくさんの魚やイルカ、クジラを入れて、空には鳥や大きな虹、真っ赤な太陽を描き足していくつもりだと言った。分かる通り彼女の心はまだ過去という鉄の箱に閉じこもったままだ。ある意味、あの寝室から出ていないともとれる。だが、リンはまだ目の前にいる。まぎれもない彼女はまだ、あの白いワンピースを着て、椅子に座りベランダから見える青空を眺めている。僕と食事だってしている。夜は僕の横で寝ている。もうあの寝室には入っていない。彼女が怖がるから、シーツと毛布だけを持ってきて使っている。彼女は消えやしない。あの日だって、いなくなったと思ったら、次の日は帰ってきたじゃないか。彼女だけが特別なんだ。僕だってもしかするとリンと同じようにここへ戻ってこられるかもしれない。きっとそうだ。彼女だけを一人にはしたくはない。その想いがあればきっと僕はいなくならずに済む。そしてこれからもずっとずっとずっとリンと共にずtt
【了】
日常の風景で彼らを淡々と描き、そこで省いた心情を日記の書簡体で描く、というのが今作にコンセプトでした。最後の日記での締め方は、いつかやってみたかったので使いました。