飛べないペンギン
「両翼、尾翼よし。風向、風量、共によし!」
どこまでも広がる青の中、白い雲が流れていく。モコモコとしたちぎれ雲の間から、元気な声が響いている。
「ローラー回転数正常。姿勢制御装置、異常なし!」
黒く細身の翼に取り付けた、薄膜を広く展開する。白い骨組みは綿魚の軽骨だ。前回の反省から、軽さだけでなく柔軟性も重視した。硬いだけでは、衝撃で折れてしまうから。
「いてて……」
前回強打した胸の竜骨突起がまだ痛む。折れてなくて本当に助かった。ひときわ強く吹いた風に、一度頭を強く振る。雑念を追い払い、いざ征かん!
小さな丘の天辺から、ペンギンは駆け出した。飛び込むように腹ばいになると、腹に付けた補助輪たちの助けも借りて、ぐんぐんと加速する。
じきに緑の丘は終わる。その先は青。何もない絶壁だ。
「離陸!」
このままでは落下する。そんなギリギリで、ようやくペンギンは両翼の膜を操作した。尾翼の角度を微調整し、最後に途切れる地面をひと蹴り――
(やった……!)
ふわっと柔らかな風が、己を宙へ持ち上げた。
広い広い、空の世界。
己の両翼に感じる、確かな風の抵抗が心地よい。
(まだ、油断しないぞ)
即座に姿勢制御装置を稼働しようとし、胸にずきりと痛みが走った。わずかに動作が遅れたその瞬間、
ビュオオオオオ――――
突発的な、上昇流。
身体はいとも簡単に突き上げられ、回転し、錐揉みするように落下していく。
「……九百九十八回目。試験飛行、失敗」
プランプランと、命綱の先端で、虚しく宙に揺られながら。ペンギンは悔しくて、なんとか涙を飲み込んだ。
「おいおい、お前も懲りないなぁ」
そんなペンギンの頭上から、野太い声が降ってきた。見上げると命綱の先、飛び出した元の小さな島から、大きな頭が覗いている。
「さっさと上がってきたらどうだぁ?」
「……放っておいてくれ。僕は今、忙しいんだ」
ペンギンはまた下を向く。落ち込んでいるんじゃない。懐から取り出した冊子に、今日のデータを書き込むのだ。
「おーい。唯一の友達相手に、それはないだろぉ?」
上からの声は止まなかった。それどころか、ぐいと身体が引き上げられる。あっという間に景色が動き、気づけば柔らかな草地の上へと放り出されていた。
「千回やっても、変わんねぇだろ。いい加減、諦めたらどうだ?」
「……まだ、九百九十八回目だ」
仰向けに倒れる自分を見下ろす相手に、ペンギンはブスッと告げた。
緑の巨大な体は、爬虫類が立ち上がったような姿だ。立派な牙、尾の先には鋭いトゲがついている。腕はない。代わりに一対の翼が、今は大きな体の両側に、折りたたまれるように収まっていた。
「大差ないだろ。そんな小細工するくらいなら、素直に"飛行機"使ったらどうだ?」
「それは――」
"飛行機"。
それは、「飛べない」者たちのために開発された補助道具。
「飛べない」――それはこの世界では、まともに生きられないことを表していた。
***
世界は空でできていた。
シュワシュワと蒸気が湧き上がる雲の大地。
足場といえば、ポツポツと浮かぶごく小さな浮島があるのみだ。だから大半の生きものは、空を飛んで生きていた。
翼、滑膜、羽に翅……飛べることが当然の世界で、「飛べない」ことは"烙印"だ。
「――なあ。何がそんなに気に入らないんだ?」
双足竜――僕の唯一の友人、ログは、僕の後をついて話しかけてきた。
(姿勢制御装置自体に問題はない。空中での咄嗟の操作に、僕自身が追いつけなかった)
友人の言葉は無視して、僕は体に付けた装置を一つずつ外していく。これから失敗原因の究明と、新たな改良を考えねば。
「やっぱ金かぁ? 確かに"飛行機"は高いが、障害者申請すれば、補助金でんぞ」
僕が広げた機器のひとつを、ログは無遠慮に持ち上げた。翼の先は鉤爪になっており、ペンギンの翼なんかより、遥かに器用なのだ。
「それとも"障害者枠"が苦痛ってか? 確かに、就業制限とかも多いしなぁ」
「それ、返して」
奪われた機器を取り返そうと、ペンギンは黒い翼を伸ばした。しかしログは、機器を掴んだままの鉤爪をさらに高く持ち上げる。
「分かるぜ。だけどお前にはオレがいる。ちゃんと助けてやるからよぉ」
ああ、掲げられた機器にすら、届かないこの翼。
細くて硬い、黒の翼。風を掴んで飛ぶことはない。ログみたいに先が鉤爪になってる訳でもなく、ひたすらに不器用だ。
「別にいいよ。放っておいて」
取り返すことは諦めて、僕は残りの機材を手早く集め、風呂敷に包んでいった。場所を変えよう。といっても、この小さな浮島は、歩いて5分もすれば反対側に辿り着いてしまうのだが。
「……困ったら、いつでも言えよ」
立ち上がった僕に、ログは小さくそう言った。そして奪った機器を、そっと押し付けるように返してくれた。
***
「ペンギン、おかえり」
「今日も遅かったわね。ご飯、温め直したわよ?」
真っ黒な体に、白い顔とお腹がチャームポイント。並ぶとそっくりな大小の二羽が、ペンギンを出迎えた。
昼間、試験飛行を繰り返した浮島の周囲には、立つのが精一杯な小さな足場がたくさん浮かんでいる。それらを渡った先(飛べないペンギンには命がけの跳躍だ)に、ペンギンの自宅はあった。
乾いた草で編んだ籠を伏せたような形の家。その一室で、食事を終えたペンギンは、自分のベッドに伏せていた。ピラリと嘴でくわえたチラシを持ち上げる。
『あなたらしさを大切に。つながる輪』
それは夕食の席で母から渡された、支援団体のチラシである。
『『飛べない』方々と支援者の集まりだそうよ。心配なら、お母さんも一緒に行くわ』
『ペンギン。金のことは心配ない。欲しいなら、飛行機だって最新型を……まあ、さすがに中古にはなるが』
ふわふわの羽でそっと僕の頭を撫でる母。父だって、ぎこちないなりに、僕を気遣ってくれている。
……優しい両親だ。先日まで、僕の試験飛行だって、黙って見守ってくれていたのだ。どれほど我慢してくれていただろう。
渡されたチラシと両親。僕の視線は両者をしばらく行き来した。両親たちの黒くて広い翼に、丸っこい白ふわボディ。
(なんで僕の翼は、こんな棒切れみたいなんだろう――)
「……分かった」
長い沈黙のあと、僕が絞り出した返事に。両親が息を緩めるのを感じた。だから本当に申し訳ない。だけど、最後のワガママだ。
「あと2回だけ。千回目の試験飛行で、終わりにするから」
そしたらきっぱり諦めて、母と一緒に支援団体へ向かおう。父と一緒に、飛行機のカタログを見に行くんだ。
***
九百九十九回目の試験飛行の日。
残り二回のチャンスに備え、入念に準備した。
「気をつけろよ」
ログが腹回りの命綱のベルトをキュッと締め直してくれる。気の良い緑の友人は、僕の話を聞きつけて、手伝いに来てくれたのだ。
「ありがとう」
「おうよ。んじゃ、行ってこい!」
とんと背中を軽く押され、僕は丘を駆け始めた。下り坂。両側にピンと突きだした僕の翼に、取り付けた翼膜がバタバタと風をはらむ。
体を持ち上げる揚力を感じ、しかしギリギリまで耐える――今だ!
ちょうど追い風に掬われるように、僕はふわりと浮き上がった。そのまま姿勢制御装置を起動。
「すげぇ、すごいぞ! ペンギン、お前飛んで――」
背後でログが出した大声は、それ以上聞こえなかった。
バサササササ――
ザザッ「ガァーッ」「グゥア」「ガガ」ザザザー
衝撃、回転、煽られ飛ばされ、またいくつも衝撃が――
気づけば姿勢はめちゃくちゃで、僕は上を仰いでいた。
(雁の群れ……)
大勢の羽ばたく翼に、僕はあっけなく巻き込まれ、下へ落下を開始した。
さらに悪いことに、
ぶちり――
度重なる試験飛行で、ついに限界が来たのだろう。使い込まれた命綱が、根元付近でぶっつり切れた。
「ペンギン――!」
友人の悲鳴が、雁の群れのさらに向こうから。それも一瞬で遠ざかる。
(ああ……)
このまま、落ちて死ぬのだろうか。
雲海の下、遙かなる闇の底には、死の世界が待ってるという。
「おや、坊や」
巨大な羽ばたき音と共に、僕の体は落下を止めた。
「危ないところだったね」
飛び立った浮島くらい巨大な体。四枚の翼が交互に羽ばたき、ゆったりと空を進んでいく。
虹色にきらめく鬣を揺らしながら、僕を救った相手は、首だけでこちらを振り返った。
「あなたは、大龍?」
「左様。そなたは、クロツノメトリの奇形児かい?」
不躾に僕の体を上から下へ眺める大龍。だけど、それほど嫌な感じはしない。
「坊やは……もしかして歩行者かい?」
「ウォーカーって何?」
地響きのように大龍の体が揺れた。どうやら笑っているようだ。
「飛ばずとも、その足でしっかり生きる者共のことだ。敬意を表し、我は歩行者と呼んでいる」
それは初めての感覚だった。
「飛べない」ではなく「飛ばない」。「飛べない」ではなく「歩く者」。大龍の表現は、聞き慣れないものだった。
「さぞ苦労したことだろう。おいで。よい場所へ連れてってあげよう」
蔑みも嘲りもない。まっすぐな眼差しを向ける大龍に、僕は黙って頷いた。
***
大龍に運ばれた先は、それはそれは大きな浮島だった。
「坊やの足で丸一日歩いても、反対側にはつかないよ」
本当に、驚きだ。
いつも試験飛行を繰り返した浮島は、地元では大王島と呼ばれるほど。だけどその実、5分も歩けば渡りきれる。
「すごい……端が見えないや!」
大気が振動した。
背後で大龍が笑ったのだ。
「飛ぶ必要なんてない。君のその立派な足で、歩いて生きていけばいい」
「ここでは皆そうしている。仲間もたくさんいるからね」
どこまでも続く草原に、一本の道が伸びている。その先にはたくさんの家、畑、そして様々な生き物が"歩いていた"。
「あら、君。新入り?」
近くにいた者達が、こちらに向かって駆けてきた。最初に話しかけてきたのは、鮮やかな青い羽をもつ僕より小さな鳥だった。
「住むところ決まってる? よかったらうちに来ない?」
よく見ると青い鳥は、羽が片方しかなかった。
「何言ってんの。そんなことよりご飯だろ。君、何が好きかな。アレルギーとかは――」
割り込んできたのは、四つ足の竜。ドスドスと足音を立てるものだから、土ぼこりが立っている。竜の誇りと呼ばれる翼には――穴がいくつも開いていた。
「働かざる者食うべからずっちゃ!」
驚いた。いつの間にか真下に、翼鼠が立っていた。
「お前、何かできることは?」
責めるようなキンキン声に、思わず体が縮こまる。
「飛べない」僕にできる仕事なんて――
「ランバ! ダメでしょ。彼、怖がってる」
「そうよ。段階を踏んで説明しないと――」
固まる僕を庇うように、青鳥と竜が間に立った。
「ごめんね、驚いたよね。あたしはルルゥ。こっちの竜がパンタンで、あっちのクソ鼠がランバ」
「クソ鼠ったぁなんだっちゃ!」
翼鼠のランバが怒って腕を振り上げている。腕と体の間には、立派な翼膜が広がっていた。
「安心して。ランバも飛べない。高所恐怖症だから」
「っちゃ! 飛べなくても仕事はできる。それでお前は――」
うるさい島の住民にもみくちゃにされ、僕は目を回していた。
(でも皆、楽しそう――)
皆が自分の足でしっかりと生きる姿に、僕はほっと力が抜けた。
***
しばらく、幸せだった。
僕は結構体力がある。それから、小難しいことを気長に考え続ける根気。手先は器用ではないけれど、そこは翼鼠のランバがよく手伝ってくれた。
「助かったよ。しばらく手作業だったから」
鶴のお婆さんはそう言って、ふかし芋を分けてくれた。織り機の回転軸が折れて困っていたのを、僕とランバで修理した。
「この修理屋ランバさまに、お任せあれっちゃ!」
「ほぼペンギンの指示だったけどねぇ」
ふんぞり返るランバの隣に、いつの間にやら青鳥のルルゥが立っていた。
「あがり? 久々に飲みに行こーよ」
「パンタンは?」
「少し遅れるけど来れるって」
島での生活は、忙しいけど充実していた。こうして合間に食事に行ける友人もいる。
飛べないものしかいない島。ある程度は自給自足しているとはいえ、それでも足りないものがある。そうしたものは、理解ある支援者たちが、空を飛んで運んできてくれた。
「ご両親と離れて寂しくないか?」
酒の席で、大きな図体のパンタンが、こそっと僕に囁いた。
「大丈夫。手紙もやり取りしてるし――」
基本、「飛べるもの」はこの島に立ち入り禁止。無用な軋轢を避けるためで、外とのやり取りは支援者たちが介してくれた。
もちろん、希望すれば「飛行機」を手配してもらえる。頻繁には無理だけど、たまになら両親の元へ帰ることだってできるのだ。
同じ境遇の友人たちに、理解のある支援者。仕事も、娯楽だってある。こんな場所に連れてきてもらって、僕は本当に幸せ者だ。
だけど、だけど――
「一日じゃ無理だけど」
二日と半分も歩けば、島の端から端へたどり着いてしまった。
まっすぐな小道、整然と並ぶ家々。島の縁はどこも、緑の草原で覆われていた。
――どこも同じような景色ばかり。
見上げると、雲が形を変えて流れていく。
(同じものなんて、一つもない)
常に色形を変えて、流れ行く雲は、世界の広さを教えてくれる。そして自分は――
(少し大きくなっただけで、変わらない)
自分も。置かれた環境も。
贅沢だって、ワガママだって、分かってる。
だけど飛べない自分は、この小さな島から出られない。
飛行機を使っても、予め申請し、誰かに手伝ってもらい、決められた道程を時間と労力、金をかけて、行かねばならない。
(苦しい)
どうしようもなく苦しかった。
かたり、と物音がした。
振り返ると、クローゼットの戸が開き、機材がいくつか落ちていた。試行錯誤を重ねた、僕が空飛ぶための機器。そっと拾い、片付けようと引き出しを開く。――いつも身につけてたせいでボロボロの、記録冊子が目に入った。
パラパラとページをめくる。
最後の書き込みは「999」。試験飛行の数はそこで終わっていた。
(最後飛行――)
***
つけるのは最低限の装備のみ。
「ついに千回目……」
なぜか笑いが漏れてしまう。
それは終わりの見えない挑戦が、ようやく終わることへの安堵だろうか。
「離陸――」
言いかけて、はたと足を止める。
腹の周りに留めた金具。そこから伸びた長い紐。
(命をかけて飛び出せば、この翼も覚醒して飛べるんじゃ――)
ペンギンは留め金を外した。
そして思い切り、駆け出した。
過去一番に体が軽い。
命綱すら置き去りにして、ペンギンは駆ける。駆ける。
力強く地を蹴って、虚空へ――翼がしっかりと風を捉え――
――――落下する。
落ちるペンギン。
雲の大地を突き抜けて、受け止めるものはなく、深く深く、深い闇の中へどこまでも。落ちていく。
ペンギンは気がついた。
闇の中、自分が飛んでいることを。
そこは冷たくて、身体を動かせばはっきりと抵抗がある。その冷たい抵抗を翼で押せば、進む。
もっと押す。進む!
進むのだ。
もっと、もっと……
一度見えた光に向かってまっすぐに……冷たい世界から飛び出した。
空気。
無意識に止めていた息を大きく吸って。飛び上がった先の、硬いゴツゴツとした足場を蹴って登っていく。
これ以上登れないところまでくると、ペンギンは一度空を見上げた。先ほど自分が落ちてきた、雲が流れる青い空。
そして下に目を向ける。
恐る恐る、断崖の下を覗けば、頭上よりもはるかに青い。
――冷たい、知らない空が広がっていた。
ゾワリと足先から頭に向かって怖じ気が這う。
ここには誰もいない。この先、何があるかも分からない。両親も友人たちも、知る人は誰もいない未知の世界だ。
(だけど――)
ペンギンは飛び込んだ。
水でできた空へと、矢のように一直線。
信じられないスピードで、青から深い青、藍色から闇色へ、ぐんぐんと水の空を飛んでいく。
(もっと飛びたい……!)
もう、上に帰ることはできないかもしれない。
だけど今は、ただひたすらに、衝動のままにこの翼を動かしたかった。
ぐんぐんと、さらに勢いを増し――やがてペンギンの姿は闇へと消えた。
ここは海。海しかない世界。
そこで初めてペンギンは、自由に飛べるようになった。




