ホワイトデー
三月十四日。
ホワイトデー。
放課後のトレ高。
音楽室には誰もいなかった。
静かなピアノ。
夕方の光。
その入口で、銀泉舞子は一人の男子に呼び止められた。
市原右京。
天体観測部、部員一名。
「これ」
差し出されたのは、小さな鍵だった。
舞子はそれを指先で受け取る。
「……鍵?」
市原は短く言った。
「音楽室」
一拍。
「モーツァルト」
それだけ言うと、くるりと背を向けて歩き去った。
舞子は鍵を見つめる。
「……どういう意味ですの?」
⸻
音楽室に入る。
壁に並ぶ作曲家の肖像画。
その中に、モーツァルト。
舞子はしばらく考える。
「……まさか」
肖像画を外す。
カチ。
壁の奥に、小さな鍵穴。
舞子はゆっくり鍵を差し込んだ。
ガチャ。
その瞬間。
天井から、
ギィ……
と音を立てて、ハシゴが降りてきた。
「……まあ」
舞子は驚きながらも、ハシゴを登る。
屋根裏。
そこには小さな部屋があった。
マットレス。
掛け布団。
そして――
望遠鏡。
天井の一部がガラス張りになっていて、空が見える。
夕方の空。
舞子はそっと望遠鏡を覗く。
遠くの星。
静かな光。
「……綺麗」
舞子はゆっくり周囲を見る。
ここは、市原のお気に入りの場所なのだろう。
誰にも教えていない秘密基地。
その場所の鍵を、
自分にくれた。
舞子の胸が、少し温かくなる。
「物ではなく場所を贈るなんて……」
小さく笑う。
「変な人ですわ」
一拍。
「でも」
空を見上げる。
「最高のお返しですわ」
⸻
同じ頃。
トレ高クレーンゲーム部の部室。
豚田武は机の前に座っていた。
箱が三つ。
すき。
沙希。
凛。
ホワイトデーのお返し。
中身は――
手作りチョコ。
本当はチョコでアニメのフィギュアを作るつもりだった。
しかし。
溶ける。
崩れる。
固まらない。
結果。
よくわからない形になった。
豚田は箱を見つめる。
(……大丈夫ぶひか)
少し不安だった。
でも今日はホワイトデー。
勇気を出す日。
⸻
部室の扉が開く。
「おはよー!」
沙希。
続いて、すきと凛。
豚田は立ち上がる。
「こ、これ」
箱を差し出す。
「ホワイトデーのお返しぶひ」
三人が箱を開ける。
中には、
微妙な形のチョコ。
沈黙。
豚田の心臓がドクンと鳴る。
(……失敗したぶひ)
だが、
次の瞬間。
「え、すご!」
沙希が笑った。
「手作りじゃん!」
すきも笑う。
「かわいい」
凛は静かに言う。
「努力は認める」
そして三人とも、その場でチョコを食べた。
「おいしい!」
「うん!」
「悪くない」
豚田の胸の奥が、じんわり温かくなる。
(……よかったぶひ)
本当に嬉しそうに笑った。
⸻
豚田は満足していた。
だが、まだ一つやることがある。
夢幻高校。
柚木運命。
バレンタインのお返し。
⸻
夢幻高校クレーンゲーム部。
扉を開ける。
「こんにちわぶひ」
中にいたのは、
寸胴姫歌。
松下蘭。
そして――
仁王立ちする神咲恵。
寸胴が言う。
「あ、豚田くん。どうしたの?」
だが、神咲が割って入る。
「貴様、何しに来た!!」
豚田がびくっとする。
神咲は豚田の手を見る。
「その手に持つ物体!」
「まさか!」
「我の運命先輩にホワイトデーを渡しに来たのではあるまいな!?」
豚田は戸惑う
「えっ」
神咲が畳み掛ける
「身の程知らずが!!」
小包を奪う。
「あっ……」
神咲は袋を開ける。
中にはクッキー。
そして文字。
さだめたん命
神咲が吠える
「笑止千万!!」
「殺す!!」
「貴様はこの場で確実に息の根を止めておく必要があるな!!」
⸻
その瞬間、
豚田の頭に、過去の記憶がよぎる。
中学生の頃。
財前ロリ子へのラブレター。
黒板に貼られた。
笑い声。
胸が冷たくなる。
(……あぁ)
⸻
「神咲」
低い声。
「……黙れ」
柚木運命だった。
久しぶりの闇堕ちモード。
神咲が直立する。
松下と寸胴も固まる。
事情を聞いた運命は頷いた。
「豚田くん、ごめんね。うちの神咲が」
神咲が跪き、クッキーを差し出す。
「どうぞ」
「……は、はいぶひ」
豚田が言う。
「バレンタインのお返しぶひ」
運命が笑う。
「ありがとう」
クッキーを見る。
そして――
一口で食べた。
周囲が固まる。
享楽が言う。
「おい、なんで一口で食うんだ」
リスみたいに頬を膨らませた
運命が
「え?だって、
さだめたん一口って書いてたよ?」
沈黙。
豚田は察する。
さだめたん一
口
(……そう見えたぶひか)
豚田は笑った。
運命はキョトンとしている。
胸の奥のトラウマが、
静かに消えていた。
⸻
その頃、
トレ高。
針千突。
正座。
すき、沙希、凛。
三人が腕を組む。
沙希
「で?」
凛
「ホワイトデーは?」
すき
「お返しは?」
針千
「……」
沈黙。
三人同時。
「最低!!!」
針千
「ごめんなさい!!」
⸻
ホワイトデーは、
少しだけ騒がしく、
そして少しだけ、
優しい日だった。




