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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2章 第七管理区画・第67世界

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第2話 監査――完璧な規程が、人を黙らせる

執政局の廊下は、朝でも音がしなかった。


前原誠二が歩くたびに靴底が石床を軽く叩く。その音だけが、世界に許された“余計な揺れ”みたいに響く。周囲の職員たちは整った歩調で行き交い、目が合えば礼儀正しく会釈するが、視線は長く留めない。規程どおりの距離感。規程どおりの礼。


昨日、英雄隊長が小声で落とした「息ができない」という一言が、まだ胸の奥に引っかかっていた。言った本人が消えても、言葉だけが空気に残っている。残った言葉は、氷の下で鈍く光る。


前原は胸元の白金の標章に指を当て、今日の行き先を決める。会議体にいきなり切り込むより先に、現状の“数字の作り方”を掴まないといけない。凍った職場は、数字が綺麗なほど危険だ。綺麗に整えられた数字は、たいてい何かを隠している。隠しているのは悪意とは限らない。むしろ善意だ。善意が、誰かの苦しみを“個人の問題”に押し戻す。


案内札に従い、記録結晶の保管・閲覧区画へ向かった。


扉の前には衛兵が二人、背筋を伸ばして立っている。いかにも門番の風体なのに、剣は飾りにしか見えない。彼らの役割は戦闘ではなく監視だ。世界が静かであるための、監視。


前原が標章を見せると、衛兵は即座に道を開けた。抵抗はない。権威が通りやすい世界は、便利で、そして危ない。権威が通りやすいということは、権威を疑う回路が弱いということでもある。


「代理人殿。閲覧規程に従い、入室の記録を取らせていただきます」


受付の職員が淡々と言う。声は柔らかいが、語尾に一切の温度がない。前原は頷いた。


「お願いします。こちらも規程を確認したい」


職員は結晶板を差し出す。触れると指先に冷たさが走り、薄い光が前原の標章へ跳ねた。名前、所属、権限、閲覧範囲、入室時刻。すべてが自動的に刻まれていく。


その瞬間、前原は背中を撫でられたような感覚になった。


閲覧する側が、同時に閲覧される側になる。


監査する立場のはずなのに、監査される立場の緊張が先に胸を締めた。覗いた時点でログが残る。触れた時点で記録される。悪いことをしなくても、悪いことをしたような気分になる。こういう“静かな圧”が積み重なると、人は本音を捨てる。捨てた本音の分だけ、組織は氷になる。


棚には結晶板が整然と並び、分野別、部局別、年月別に分類されている。異世界の行政なのに、情報の整理は現実の役所よりよほど優秀だった。前原はまず、全体の人員動態の結晶板を引き抜いた。次に欠勤・疾病、苦情、配置転換、懲罰、そして評価結果の集計。


結晶板に触れると、数字が空中に浮かんだ。


離職率は低い。驚くほど低い。表向きの退職者はほとんどいない。欠勤率も低い。苦情件数は限りなくゼロに近い。懲罰は少なく、評価分布は極めて狭い。突出した高評価も、突出した低評価もない。全員が一定の範囲に収まっている。


綺麗すぎる。


前原は意図的に視点をずらした。合計ではなく、内訳。平均ではなく、分散。月次の変化。部局別の偏り。現場で出やすい“歪み”を探す。


すると、数字の端に、別の数字が貼りついているのが見えた。


配置転換の回数。


退職は少ないのに、配置転換が異様に多い。しかも同じ人間が短い周期で動かされている。数ヶ月単位で部署が変わる。転職ではなく異動で疲れを処理している匂いがした。異動は万能薬ではない。万能薬として使った瞬間、副作用が出る。学習コストが積み上がり、現場の筋肉が落ち、そして何より“逃げ場がない”感覚が増す。逃げ場がない職場は凍る。


次に欠勤分類。


欠勤そのものは少ない。しかし、欠勤の分類が妙に細かい。しかも“欠勤”として計上されない区分が多い。短時間休、部局内調整休、業務軽減日、特別調整日。名目が上品で、運用は実質的な欠勤に近い。


数字は低く見える。見えるが、体が休んでいる事実は変わらない。


さらに苦情。


苦情件数はほぼゼロ。だが相談窓口の閲覧履歴が、やけに多い。窓口の説明を読んでいる人間は多いのに、投稿がない。相談の下書き保存だけが増えている。送信前に消している痕跡が残っている。


送れない。


送った瞬間に何が起きるか、誰もが知っている。あるいは、知っていると“思い込んでいる”。


前原は結晶板をもう一枚、引き抜いた。窓口運用の規程。そこに、答えがあった。


相談は匿名不可。内容は必ず所属上長へ共有。必要に応じて執政局へ転送。虚偽や誇張があった場合は規程違反として懲罰対象。相談内容は評価に直接影響しない、と明記されているが、共有される以上、実質的な影響は残る。


口では守っている。構造で裏切っている。


これは悪意ではない。むしろ逆だ。制度を悪用する者を排除するための善意だ。虚偽通報で誰かを貶める行為を防ぐ。組織を守る。秩序を守る。その結果、助けを求める声が消える。


前原は喉の奥で小さく息を吐いた。息が浅くなる世界で、息を吐くこと自体が仕事になる。


「代理人殿、閲覧の進捗はいかがでしょうか」


背後から声がして振り返ると、先ほどの受付職員が立っていた。柔らかい表情。丁寧な姿勢。だが瞳が揺れていない。規程どおりの親切は、規程外の揺れを許さない。


「確認したいことが増えました。執政局長に面会をお願いできますか」


職員の眉がごくわずかに動いた。面会という単語が、ここでは特別な意味を持つのだろう。だが拒否はない。拒否は規程外だ。


「承知しました。規程に従い、面会申請を上げます」


面会申請。承認。時間枠。議題。参加者。記録係。


前原はその一つひとつが、息を詰まらせるための工程に見えてしまう自分を抑えた。必要な工程はある。だが工程が人を黙らせるなら、工程に息継ぎが必要になる。いまはまだ、判断を急がない。


面会が通ったのは早かった。おそらくリュシアの代理人標章が効いている。権威は便利だ。便利なものは毒にもなる。前原はその毒を、使いすぎないように手の中で握り直した。


執政局長室は、廊下の突き当たりにあった。扉は重厚だが、装飾はない。見せびらかす権力ではなく、運用する権力。その匂いがする。


扉が開くと、執政局長は席を立って迎えた。


年齢は中年、あるいはそれに近い。髪はきちんと整い、服も完璧に手入れされている。姿勢が良い。声が低い。礼儀が過剰に丁寧で、逆に隙がない。


「代理人殿。着任早々、ご足労をおかけしました。執政局長、ルドヴィクと申します」


名乗りと同時に、視線が前原の標章へ落ちる。敬意は標章に向いている。だが恐れてはいない。恐れないのに、近づきもしない。距離の取り方が、完成している。


「前原誠二です。人事部長。代理人として、本世界の運用状況を確認しています」


「もちろん。規程に従い、全て開示可能です。どうぞ」


ここまでの言葉だけなら理想的な管理職だ。礼儀正しい。協力的。透明性がある。だが前原の目には、別のものが見えていた。


目が冷たい。


感情がないのではない。感情を規程で封じている。封じた感情は、氷になる。その氷は、優しい顔の下で人を傷つける。


前原は単刀直入に入った。


「離職がゼロに近いのに、配置転換が多い。欠勤分類が吸収されている。苦情窓口は閲覧されているのに投稿がない。相談の下書き保存が増えている」


執政局長は表情を崩さなかった。動揺がない。予想されている。あるいは、そういう質問に対する答えが規程として準備されている。


「配置転換は適材適所です。欠勤分類は労務規程に従った柔軟な運用です。苦情窓口については、抑止の効果が機能していると評価しています」


「抑止」


前原が復唱すると、執政局長は当然のように頷いた。


「虚偽の通報や誇張によって組織が乱れることが、過去にありました。世界が燃えました。だから規程を完成させた。完成させた規程は、燃えにくい」


燃えにくい。


その言い方が、凍ることを意識していない言い方だった。あるいは、意識していても優先順位が違う。燃えないことが最優先で、息ができることが二番手に落ちている。


前原は話をずらさない。ずらすと、この男は規程の森に逃げる。逃げられると、仕事にならない。


「医療ログが赤い。睡眠障害、胃痛、無気力が増加している。離職は低い。苦情は低い。だが体が先に壊れている。これは、制度が人を黙らせている兆候です」


執政局長は、ほんの一拍だけ沈黙した。規程に書かれていない問いを投げられたとき、人は一拍遅れる。遅れは、その人の“本音の形”だ。


だが彼はすぐに戻った。


「医療は医療部局の管轄です。執政局の責務は秩序の維持。秩序が崩れれば、救える命も救えない。燃えれば、死ぬ」


前原はそこで、敢えて踏み込んだ。


「例外を作らないと、仰いましたね」


執政局長の目が、さらに冷たくなった。氷の透明度が増す。


「はい。例外が世界を燃やす。だから例外は作らない」


その言葉は信念だ。信念は強い。強い信念は、悪人より手強い。悪人なら排除できる。信念は排除できない。信念と戦うなら、信念の目的を共有したうえで、手段だけを変えるしかない。


前原は頷いた。


「燃やさない。そこは同意します。例外が腐敗するのも、同意します」


執政局長の眉が、ごく僅かに動いた。反論ではなく確認。相手が敵か味方かを判定している。


「では、代理人殿も理解しているはずです。規程は、例外を許した瞬間に崩れます。人は“例外”を求め始める。権威ある者が“例外”を奪う。弱い者は沈黙する。燃える。過去に経験しました」


過去の火事が、この世界を凍らせた。その筋が一本、通った。


前原は、結論だけを置いた。


「だからこそ、いま起きていることを見てください。規程が完璧なほど、人は規程の外で死にます。ログが完璧なほど、ログの外で死ぬ」


執政局長は反射的に否定しなかった。否定すると、彼自身が“現実を見ない人間”になる。彼は現実を見ている。見た結果として凍らせた。だから、言葉が刺さる。


「……ログの外、とは」


「相談が送れない。送らない。送った瞬間に共有される構造がある。評価に影響しないと書いても、上長に共有されれば影響する。だから誰も送らない。窓口があるのに声が届かない。届かない声は、体に出る。睡眠障害が増える。胃が壊れる。無気力になる。動けなくなる」


前原はさらに続けた。


「離職が低いのは美しい。しかし配置転換が多い。欠勤分類が吸収される。数字は綺麗になるが、疲労は消えない。消えない疲労は、ある日まとめて破裂します。燃えてない職場ほど、遅れて爆ぜる」


執政局長は、机の上の結晶板に視線を落とした。反論の準備ではない。計算している。自分の信念が守りたいものと、いま目の前で起きていることが矛盾していないかを。


前原は、そこで一歩だけ引いた。押し込むと氷が割れて飛び散る。割れて飛び散るのは、現場に刺さる。


「今日は指摘までにします。あなたの目的は秩序の維持。私の目的も、秩序を壊さずに回すことです。違いは、呼吸の扱いです。呼吸を“個人”に押し戻すと、秩序は内側から腐ります」


執政局長は、ゆっくりと顔を上げた。


「代理人殿。あなたは例外を作りたいのですか」


前原は首を横に振った。


「例外を作りたいのではない。例外を“例外のまま”運用したくない。例外が必要になるなら、それを工程に落としたい。規程の中に入れたい。腐らない形で」


執政局長の目が、わずかに細くなる。警戒が残っている。だが拒否だけではない。条件を探っている。


「工程に落とす……」


「はい。規程は守る。そのために、規程に息継ぎを入れる。息継ぎがなければ、規程が守られるほど人が死ぬ」


執政局長は沈黙し、礼儀正しく頭を下げた。


「本日の指摘は受領しました。規程に従い、検討項目として記録します」


記録する。ログに入れる。


それが彼の誠意であり、同時に世界の氷でもある。前原はそこを責めない。責めても溶けない。溶かすには熱ではなく、仕組みが必要だ。


執政局長室を出ると、廊下の空気が少しだけ温かく感じた。温かいのではない。自分の中の圧が抜けたのだ。言葉にしたことで、氷の輪郭が見えた。見えれば、扱える。


前原は再び閲覧区画へ戻り、今度は“相談下書き”の傾向と、“部局内調整休”の増加曲線を結晶板に刻み直した。数字にする。凍った世界で数字は武器だ。武器は殴るためではない。守るためだ。


その日の終業の刻は、世界の方が先に教えてくれた。夕方の鐘が鳴るわけでもないのに、職員たちが同じタイミングで立ち上がり、同じタイミングで帰路に流れ始める。誰も残業しない。残業は規程違反だから。規程違反がない世界は、綺麗だ。綺麗なまま、静かに壊れる。


前原は標章に触れ、神界へ戻った。



執務室に戻ると、リュシアは机に伏せる寸前の姿勢で結晶板を読んでいた。完璧な造形のまま、疲労だけが濃い。前原の気配に気づくと、彼女は顔を上げ、短く笑った。


「おかえり。……どうだった」


「綺麗でした」


前原がそう言うと、リュシアは即座に顔をしかめた。綺麗、という単語が褒め言葉ではないと、彼女も分かっている。


「でしょ。綺麗は危険」


前原は今日の口頭報告を、淡々と投げた。閲覧ログが残ることの圧。配置転換の過多。欠勤分類の吸収。苦情窓口が“届かない窓口”になっていること。下書き保存の増加。執政局長の言葉。


「例外が世界を燃やす。だから例外は作らない、と」


リュシアは目を閉じ、短く息を吐いた。吐く息に疲れが乗っている。神の溜息は、世界の責任の重さになる。


「……言うよね。正しい人ほど言う」


「悪人じゃない」


前原がそう言うと、リュシアは目を開け、頷いた。


「うん。悪人じゃない。だから厄介。完成した正しさは、人を黙らせる」


前原は結論を置く。


「ログが完璧なほど、ログの外で死にます」


その言葉に、リュシアは一瞬だけ黙った。黙って、それから短く言った。


「正しい世界ほど危ない」


短いが、重い。二五五世界の責任者が吐く短い言葉は、現実の管理職が吐く短い言葉と同じ重さをしている。


前原は宣言した。


「ログの手前に、安全地帯を作ります」


「安全地帯」


「一次の吐き出し。評価と切る。報復禁止。内容は守る。監査するのは件数と傾向だけ。そこから必要なものだけを二次のログ決裁に上げる。そうすれば例外は“恣意”じゃなく“工程”になります」


リュシアの目が、少しだけ柔らかくなった。疲労の影の中に、小さな光が戻る。


「……好き。そういう言い方。工程。恣意じゃない。ちゃんと仕事」


前原はその言葉を受け止め、余計に返さなかった。余計な言葉は線を溶かす。線が溶けると、依存が始まる。依存は別の凍りだ。


だから、今日も打ち上げは“業務”として扱う。


リュシアが指を鳴らすと、机の上に瓶とグラスが現れた。つまみは控えめだ。派手にしない。派手にすると、感情が持っていかれる。持っていかれないための打ち上げなのに、持っていかれたら意味がない。


前原がグラスを取ると、リュシアも取った。


乾杯の言葉はない。ただ、二人とも同じタイミングで一口飲んだ。氷の音が、神界の執務室に現実を落とす。


しばらく、言葉がなかった。


言葉がない時間は、実は貴重だ。管理職は言葉で世界を繋ぐ仕事をしている。繋ぎすぎると、息が止まる。だから、繋がない時間が必要になる。


リュシアが先に口を開いた。


「閲覧ログ、刺さったでしょ」


前原は頷いた。


「監査される側の気分になりました。見ているだけで記録される。悪いことをしていなくても、悪いことをしているように感じる」


「そう。あれが積もると、本音が消える」


「本音が消えると、医療ログが赤くなる」


「うん」


リュシアは一口飲み、グラスを置いた。胸元の重さを、無意識に片腕で支えるような姿勢になる。完璧な造形の女神が、疲れを隠す癖だけは隠せない。その癖が、妙に人間臭い。


前原は視線を逸らしすぎないようにしながら、言った。


「あなたも、息が浅い」


リュシアの目が一瞬だけ丸くなった。指摘されると思っていなかった顔だ。次に、苦笑が混じる。


「……区画長だもの」


「区画長も中間管理職です」


「そう。最悪」


その返しが、昨夜の居酒屋の延長にいるみたいで、前原は少しだけ口元を緩めた。緩めるだけで止める。笑いすぎない。笑いすぎると距離が壊れる。


リュシアは、机の端の砂時計を指で弾いた。砂が逆流し、今日の稼働時間が結晶板に淡く刻まれていく。数字で区切る。数字で終える。仕事として終える。


「……今日も、ちゃんと終わらせたね」


リュシアがそう言った。褒め言葉というより、確認だ。終わらせることが、二人の共通の目的になり始めている。


前原は短く返した。


「終わらせないと、次が燃える」


「凍ってても燃える」


「凍ってても燃える」


同じ言葉を繰り返すと、仕事の合言葉みたいになった。合言葉は、距離を近づける。だが、合言葉は線を守る。線の内側で近づくことなら、悪くない。


リュシアは立ち上がり、廊下へ向かう前に振り返った。


「仮眠室、使って。シャワー。休めるときに休んで。倒れたら困る」


「規程通りですね」


「規程通り」


彼女はそれだけ言って、廊下へ消えた。入室はしない。近づきすぎない。だが放り出さない。中間管理職の優しさは、たいていそういう形をしている。


前原はグラスを置き、深く息を吸った。


神界の空気は、少しだけ吸いやすい。吸いやすい空気があるから、凍った世界へ戻れる。戻って、息継ぎの仕組みを作れる。


扉の向こうに、完璧で疲れた女神がいる。こちらには、すり減った人事部長がいる。どちらも剣も魔法も使わない。使うのは規程と工程と、少しだけ勇気だ。


前原は仮眠室へ向かった。


明日もまた、綺麗すぎる正しさの中で、誰かが息をできるようにするために。

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