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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第1章 第七管理区画・第27世界

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転章 引き継ぎ――第67世界は、燃えていない

翌日の業務は、いつも通りに終わった。


人事部長としての会議、採用の進捗、退職面談の予定調整、評価制度の細かな修正。社内は燃えていない。だが燃える手前で燻っている案件はいくらでもある。前原誠二はそれを淡々と処理した。処理という言葉が正しいのかは分からないが、少なくとも“破裂しないように押さえる”ことはできる。


終業間際に飛んできたのは、評価の二次面談の追加依頼と、退職者の穴埋め採用の見込み確認。それから、どこにでもある「制度は守れ、でも現場は回せ」という矛盾した圧。前原は笑顔のまま受け取り、笑顔のまま机の引き出しにしまった。引き出しの中に入るのは書類ではなく、火種だ。


帰り道、駅前の居酒屋の提灯がやけに明るく見えた。平日。仕事終わり。誰かと飲む予定はない。だが今日は、スマホの通知が怖くなかった。


受諾期限は、出ていない。


“引き継ぎを送る”と言われている。引き継ぎがあるなら仕事として受けられる。仕事として受けるなら区切れる。区切れるなら燃えない。前原の中で、そこだけは守るべき線になり始めていた。


店に入ると、焼き鳥の煙と醤油の匂いが鼻に刺さった。油のはぜる音と、皿を置く乾いた音が混じる。カウンター席が空いている。前原はそこに腰を下ろし、生を頼んだ。仕事後の一杯は、身体のスイッチを切るための儀式だ。誰のためでもない。明日の自分のための手順だ。


ジョッキが置かれ、最初の一口を飲もうとした瞬間だった。


「……すみません、ここ」


横から、控えめな声がした。


反射的に視線を向ける。黒髪のショート。細縁の眼鏡。白いブラウスに紺のタイトスカート。黒いストッキング。肩にかかるカーディガン。派手さはないのに、胸腰尻のメリハリだけが妙に“整いすぎている”。それでも完全に日本の、仕事帰りのOLの格好だ。馴染みすぎていて逆に引っかかる。周囲の客も店員も、誰も違和感を持っていない。視線が一瞬も引っかからないのが、いちばん不自然だった。


前原は、一瞬だけ脳が追いつかなかった。


隣に座るその女性は、会釈をして、自然にハイボールを頼んだ。声のトーンも、仕草も、疲れの抜けない姿勢の直し方も、どこまでも現実的だ。だが――目の奥の冷たさだけが、現実の人間ではない。冷たいというより、深い。仕事の深い疲労が、底の方で凪いでいる。


「……リュシア?」


女性は眼鏡の奥で、ほんの少しだけ笑った。


「正解。変身、うまいでしょ」


「一瞬分かりませんでした」


「狙い通り。ここで女神の格好してたら、目立つ。目立つと面倒。面倒は嫌い」


言い方が完全に中間管理職で、前原は笑いそうになり、喉の奥で止めた。笑うと目立つ。目立つと火種になる。今日のテーマは、余白と静けさだ。


二つ目のジョッキが置かれた。前原の生と、隣のハイボール。枝豆、冷奴、焼き鳥がカウンターに並び始める。会話の入り口として、これ以上ない布陣だった。


「引き継ぎは、口でやる方が早い」


リュシアは当たり前のように言った。


「資料より?」


「資料は残る。でも、空気は残らない。第67世界の問題は空気。だから、空気のある場所で話す」


前原は一口飲み、胃の底に落ちる冷たさを確かめた。仕事の顔が少しだけ緩む。身体の中で何かが「今日はここまででいい」と言い始める。


「第67世界。燃えていない、って言ってましたね」


「燃えてない。むしろ――凍ってる」


凍ってる。前原はその単語を脳内で反芻した。


燃えている職場は分かりやすい。怒鳴り声、離職、責任の押し付け合い、指揮系統の崩壊。火種が見える。火が見える。止血の仕組みを入れれば火勢は落ちる。


だが凍っている職場は違う。静かで、正しくて、誰も叫ばない。誰も反対しない。表面上は問題がない。問題がないから、誰も助けを求めない。助けを求めないから、死んでいく。


「凍っている、というのは」


前原が言いかけると、リュシアが先に答えた。


「成果が出てる。指揮系統もある。評価制度もある。ログもある。会議体もある。現場はきれい。きれいに回ってる」


「それで、なにが問題なんです」


リュシアはハイボールを一口飲み、氷の音を小さく鳴らした。


「きれいすぎる。誰も、余白で生きてない」


職業的な警報が鳴った。


きれいすぎる。余白がない。完璧に回る組織ほど危険だ。完璧に回すために、誰かが息を止める。息を止めた人間は、表に音を立てない。だから壊れるまで誰も気づかない。


「燃えていない職場は、燃えます。遅れて」


「そう。遅れて爆ぜる。しかも、爆ぜた時に原因が分からない。みんな『突然だ』って言う。突然じゃないのに」


リュシアは指先を軽く弾いた。カウンターの上の空気に薄い光が走り、前原だけに見える資料が浮かぶ。周囲には見えない。見えないようにする技術が、妙に手慣れている。慣れているのが怖い。つまり、これを繰り返してきたのだ。


《第七管理区画・第67世界 状況概要》

・火勢:中(表面は安定、内圧上昇)

・成果:高(規律・生産性・戦果)

・離職:低(表向き)

・苦情:低(表向き)

・医療ログ:睡眠障害・胃痛・無気力が増加

・違反:少(しかし隠蔽疑い)

・会議体:機能(ただし意見の多様性ゼロ)

・評価制度:厳格(例外ゼロ)


前原は、ビールを飲みながら資料を読む。居酒屋のざわめきの中で、異世界の数字だけが浮いて見える。


「……“表向き”が多い」


「多い。だから凍ってる」


リュシアは少しだけ視線を落とし、眼鏡のつるを指で直した。その仕草が、やけに疲れたOLらしくて、前原は逆に胸の奥がざわついた。女神の格好の時よりも、この姿の方が“近い”。距離が近いのではない。生活が近い。疲れ方が近い。


「第67は、あなたが第27で入れたような仕組みを、昔から持ってる。しかも、よく出来てる。ログは改竄できない。例外は許されない。評価は厳格で公平。誰も不満を言えない。言う必要がないくらい、数字上は全部が正しい」


「数字上は」


「数字上は」


リュシアは繰り返し、疲れた息を吐いた。


「でもね、みんな“自分の言葉”で喋らない。会議で出るのは、規程の引用と過去の成功例の引用だけ。誰も“自分はこう思う”って言わない。言った瞬間に評価が下がるから」


前原は焼き鳥を一本つまみ、塩の強さで現実に戻った。こういう雑な味が、逆に助かる。頭を冷やすのではなく、地面に戻す。


「評価が、人を黙らせている」


「そう。英雄も聖女も黙ってる。黙って規程通りに働いてる。誰も暴走しない。誰も燃えない。でも、誰も生きてない」


隣席の会社員たちが笑っている。酔って愚痴を言い、上司の悪口を言い、明日も働くと言って笑っている。くだらないようで、あれが余白だ。あれが、人が折れないための逃げ道だ。


「だから、居酒屋みたいな場所が要る。業務外の余白。吐き出し。整理。区切り」


「それ。まさにそれ」


リュシアは、珍しく表情を崩した。肩の力が抜けるのが見える。完璧な造形の女神が、眼鏡のOL姿で、ただの疲れた同僚に見える瞬間だった。


「ねえ、ここ好き」


唐突に言った。


「この空気、好き。誰も正しさを求めない。誰も神託を持ち出さない。みんな勝手に喋って、勝手に笑って、勝手に帰る。……羨ましい」


前原は返す言葉を探し、結局、短く頷いた。


「ここは、逃げ道です。逃げ道があるから、明日も働けます」


リュシアは小さく「そう」と言い、次の瞬間、ほんの少しだけ前原の肩に頭を乗せた。


重くはない。けれど、確かに疲れが乗っている。


「……疲れた」


それは女神の言葉じゃない。責任者の言葉でもない。中間管理職が、誰にも見られない場所でだけ吐ける、ただの弱音だった。


前原は身体を固くしないように意識しながら、自然なトーンで返した。


「分かります。燃えてる方がまだ分かりやすい。凍ってる方が、助けづらい」


リュシアは肩に頭を置いたまま、ぼそっと言った。


「今度、宅飲みもしたい。ここも好きだけど……もっと静かな場所で、余白だけの時間が欲しい」


前原の脳裏に、一線という言葉が浮かぶ。制度の線。距離の線。依存の線。守らないと燃える線。


だから前原は、否定せず、肯定もせず、仕事の言い方で受け止めた。


「案件が終わって、区切れてから。区切った後なら、いいかもしれません」


リュシアが小さく笑った。肩に乗せた頭がわずかに揺れる。


「好き。区切るの、好き」


会話はそこから、具体に入った。


第67世界のキーマンは三人。リュシアは、それをあえて“神界の肩書”でなく、“人事の言葉”で並べた。前原が一番理解できる形で。


制度の守護者である執政局長は、規程を愛しているのではない。規程が崩れた時に起きる惨事を知っている。だから守る。守りすぎて、息ができなくなる。


聖女庁運用責任者は、例外ゼロを掲げる。善意でだ。例外を認めた瞬間、利権と身分が介入する。だからゼロにする。ゼロにしすぎて、人が壊れる。


英雄隊長は沈黙する最強だ。誰よりも現場を救っているのに、会議では何も言わない。言えば空気が割れると知っている。言えば誰かが傷つくと知っている。沈黙で世界を支えている。


リュシアはグラスを置き、淡々と結論を置いた。


「タグを付けるなら、こう」


前原が視線だけで促すと、彼女は短く言う。


「執政局長は“規程の番人”。聖女庁の責任者は“例外ゼロの正義”。英雄隊長は“沈黙する最強”」


その三つの言葉が、妙に刺さった。刺さるのは、前原にも覚えがあるからだ。どの会社にもいる。形を変えて、必ずいる。そして一番壊れやすいのは、たいてい“悪人”ではなく“善人”の方だ。


「悪人はいない。むしろ善人ばかり。善人が正しさを守り切った結果、世界が凍った」


リュシアが言うと、前原はゆっくり頷いた。


前原は、例外を“恣意にしない”設計を組み立て始める。救済枠。評価に影響しない一次吐き出し。ログに残す前の小会議。匿名の詰まり報告。正しさを否定せずに、余白を許す仕組み。


人事の仕事は、正しさを壊すことじゃない。正しさが人を殺さない形に組み替えることだ。


「制度を壊すんじゃない。制度に“息継ぎ”を入れる」


「うん。それ」


リュシアはようやく頭を起こし、ハイボールを一口飲んだ。氷が鳴る。眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ熱を帯びて前原を見た。言葉は短いのに、視線だけが長い。息をつく場所を見つけた、というより――今ここに居ていい、と許されたみたいな顔だった。


「受諾期限は、まだ出してない。あなたが明日、現実の予定を見て判断できるようにする」


「ありがとうございます。それなら受けられます。勢いで押さない」


「いい。私もそれがいい」


仕事後の一杯と共に、引き継ぎは続いた。燃えていない世界へ行くための、静かな準備として。


やがて店を出る時間になった。


前原が伝票を取ろうとすると、店員が首を傾げる。


「お会計、もう済んでますよ」


前原は一瞬固まり、隣を見た。リュシアは何事もなかったように、カーディガンの袖を整えている。


「……いつの間に」


「さっき。あなたが資料見てた時」


「割り勘に」


「不要。神界の経費。あと、こういうのは私が払う方がスムーズ。あなた、気を遣うと顔に出る」


刺さる。図星だ。


店を出て、夜風に当たった瞬間、酔いが少しだけ回っていることに気づいた。


酒に弱いわけじゃない。だが今日は、仕事の後処理を“ちゃんとやった”せいで、身体の緊張がほどけていた。ビールの冷たさが、ただの味じゃなくて、区切りとして染み込んでくる。胃の底に落ちる、あの「終わった」の感触。


隣を歩くリュシアは、まだ日本式のOLの姿のままだった。黒髪ショート、眼鏡、白いブラウスに紺のタイトスカート。派手さはないのに、妙に目を引く。理由は分かっている。造形が整いすぎているのに、疲労の癖だけが人間臭いからだ。そこに“現実の同僚感”が出てしまう。


彼女は半歩遅れて歩き、時々、ふっと笑う。笑いが大きくない。だから、疲れが見える。


「……ここ、好き」


さっき言った言葉を、もう一度だけ繰り返した。空気を確かめるみたいに。


「この空気、好き。正しさを求められない。責任を背負った顔をしなくていい。みんな勝手に喋って、勝手に笑って、勝手に帰る。……いいね」


前原は短く頷いた。


「逃げ道です。逃げ道がないと燃えます」


「うん。燃える。凍ってても、燃える」


リュシアは眼鏡の奥で目を細め、少しだけ身体を寄せた。さっき店内で肩に頭を乗せた時よりも、慎重で、控えめな距離感だった。それが逆に、彼女なりの気遣いなのだと分かる。距離を詰めたいのに、詰めすぎない。中間管理職の癖だ。


駅前の灯りの下で、彼女は立ち止まった。


「じゃ、私は戻る」


その言い方が妙に生活の言葉で、前原は内心で苦笑した。神の帰還を終電みたいに言う女神。だが、そういう言葉でしか吐けない疲れがあるのも分かる。


「第67世界の件、資料も送る。期限はまだ出さない。あなたが朝に判断できるようにする」


「助かります。勢いで押さないで済む」


「それでいい」


リュシアは眼鏡を指で直し、ふっと息を吐いた。酒の匂いじゃない。疲労の溜息だ。


「今度……宅飲みも、したい」


言い方が少しだけ子どもっぽかった。肩の力が抜けている。ここが“余白の場”だから、弱音の形が少し変わる。


前原は否定しなかった。だが、軽くも受けなかった。


「案件が終わって、区切れてから。区切った後なら」


リュシアは嬉しそうでもなく、不満そうでもなく、ただ納得した顔で頷いた。


「うん。区切って、それから。……区切るの、好き」


合言葉みたいに言って、リュシアは一歩下がる。


その瞬間、彼女の輪郭がわずかに揺れた。街灯の光が一瞬だけ滲み、風の音が薄くなる。周囲の人間は誰も気づかない。気づけないように、世界の認識が撫でられている。


黒髪ショートのOLの姿が、夜の空気に溶けるように消えていく。


最後に残ったのは、眼鏡越しの視線だけだった。


「……お疲れさま、人事部長」


それだけ言って、リュシアは帰還した。


前原はその場に立ち尽くし、しばらくスマホを確認しなかった。通知が出ていない今の余白を、きちんと守りたかったからだ。確認してしまえば、仕事になる。仕事になれば、区切りが薄くなる。薄くなった区切りは、火を呼ぶ。


仕事後の一杯は、慰労じゃない。区切りだ。

区切ったからこそ、明日の判断ができる。


前原はスマホをポケットの奥に押し込み、駅へ向かった。期限が出るまでは押さない。押すのは現実の朝。自分の生活を守れると判断した時だけ。


凍った世界に行くには、火を恐れる感覚が必要だ。

そしてその感覚は、こういう余白の夜でしか守れない。


――その時、胸ポケットのスマホが、震えた。


画面を見なくても分かる。今の振動は、いつものSNSの軽さじゃない。業務連絡の乾いた温度だ。前原は足を止め、息を一つだけ整えてから、ロックを解除した。


《引き継ぎ資料が届きました》

第七管理区画・第67世界

キーマン整理:

・規程の番人(執政局長)

・例外ゼロの正義(聖女庁運用責任者)

・沈黙する最強(英雄隊長)

付属:医療ログ抜粋/会議体議事録(直近30日)/評価規程(現行)

閲覧期限:24時間


前原は、画面を閉じた。


まだ押さない。押すのは明日の朝だ。

だが――引き継ぎが届いたという事実だけで、仕事はもう始まっている。


区切りは守る。

守ったまま、次の世界へ行くために。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この第一章(第27世界編)は、「異世界に行った人事部長が何をするのか」を、できるだけ早い段階で“実務”として見せるための導入でした。

英雄も聖女も女神も、尊い存在である前に、組織の一員として扱われる。

そこに違和感を覚える人ほど、この物語の読者だと思います。


第27世界は、分かりやすく燃えていました。

指揮系統の欠如。責任境界の崩壊。成果主義の暴走。奇跡の運用の属人化。

だからこそ、会議体を作り、ログを残し、基準を置くことで、延焼を止めることができた。


そして、もう一つ大事にしたのが、「打ち上げまでが業務」という条項です。


これはギャグではなく、管理の話です。

現場を燃やすのは問題そのものよりも、「感情の後処理がされないこと」だったりします。

吐き出せず、整理できず、区切れず、次の火種が積み上がっていく。

だから打ち上げは慰労ではなく、業務としての区切り。

女神が中間管理職である以上、ここだけは譲れないラインとして描きました。


時給1380円。寿命復元。現実時間停止。

どれも冗談のようでいて、労働や管理職の感覚にかなり忠実です。

「削られた時間を、別の形で取り戻す」という発想は、現代人向けの異世界報酬だと思っています。


次の第67世界は、燃えていません。

むしろ、正しく回りすぎて凍っています。


燃えている世界は止血すればいい。

凍っている世界は、生かさないといけない。


ここから先は、前原誠二が“制度”だけではなく、“余白”や“空気”や“納得”に踏み込んでいく章になります。

派手なざまぁより、静かな是正と、制度が回り始める瞬間を描いていきます。


そしてリュシアとの関係も、恋愛というより先に、同僚、飲み仲間、相棒へと変わっていきます。

神と人間の物語ですが、やっていることはほとんど職場改善です。


この先も、英雄も聖女も、きちんと評価される世界を、引き続き一緒に覗いていただけたら嬉しいです。

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