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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第6章 第7管理区画・第0補助層

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第10話 試行――嫌々でも処理速度は戻る

 目を覚ました時、誠二は、胸元へ沈んだままでも昨日より呼吸が浅くないことに気づいた。


 仮眠室の白い光は相変わらず静かで、外界の朝みたいな騒がしさは何もない。

 後頭部に添えられた手。

 背中へ回る腕。

 頬の横にある体温。

 そのどれもはいつも通りなのに、身体の奥の感じだけが少し違った。


 重さが消えたわけではない。

 封鎖区画で見たものは、まだ胸の底に沈んでいる。

 それでも、昨夜はちゃんと眠れた。

 深く落ちたあとにしか来ない種類の、長くて重い眠りだった。

 その眠りを抜けた朝の身体は、沈んだままではなかった。


「……起きてます」


 胸元へ額を預けたまま言うと、頭の上から短い声が落ちてきた。


「うん」


 リュシアの声には、まだ寝起きの少し掠れた温度が残っていた。

 そのまま髪へ指が入る。

 ゆっくり撫でられると、自分がまだ胸の奥の重さを抱えたままでも、ちゃんと息をしているのが分かる。


 少しして、リュシアがぽつりと言った。


「今日、少し回るかも」


 誠二はゆっくり目を開けた。

 リュシアは天井の方を見たままだった。

 期待しすぎていない声だった。

 でも、昨日までよりほんの少しだけ前を向いている。


「そうだといいですね」


「うん」


 それから顔が少しだけ寄る。

 短いキス。

 深すぎない。

 けれど軽くもない。

 今日の補助層へ戻る前に、呼吸を一つ合わせておくための触れ方だった。


 シャワーを浴びて戻る頃には、頭の輪郭がかなり整っていた。

 リュシアは結晶板を出して待っている。

 壊れ方分類。

 一定休止基準。

 引継ぎテンプレート。

 ここ数日で置いてきた線が、狭い仮眠室のテーブルの上に静かに並んでいる。


「今日は効くかどうかを見ます」


 誠二が言うと、リュシアは結晶板を見たまま小さく頷いた。


「うん」


「正しいかどうかより、少しでも流れるかどうかです」

「分類だけでは遅いし、一時休止だけでは止まる」

「引継ぎだけでも迷う」

「三つを一緒に回して、やっと少し戻るはずです」


「嫌々でも」


 リュシアが短く言う。


「嫌々でも、ですね」


 誠二も返した。

 補助層へ行けばまた嫌なものを見る。

 それでも今日は、ただ見るだけではない。

 置いたものがどれだけ効くかを見る日だ。


 第0補助層へ入ると、いつもの白い光と乾いた処理音が迎えてきた。

 結晶板が差し込まれ、引き抜かれ、短い指示が飛び、ラベルが更新される。

 忙しい。

 その忙しさ自体は変わらない。

 だが、誠二の目には昨日までよりほんの少しだけ“流れ”があるようにも見えた。

 錯覚かもしれない。

 それでも確かめる価値は十分にある。


 個別処理区画へ入る。

 セレナはすでに数枚の案件板を並べていて、ミレイアは片手で別件を捌きながらこちらへ顔だけ向けた。


「始める?」


 ミレイアが言う。


「ええ」


 誠二は頷き、流れ込んできたばかりの案件を三件引き抜いた。

 以前ならまとめて“保留”か“要観察”へ落ちていた類のものだ。


 一件目は、現場側の判断だけが先走っている案件だった。

 報告はある。

 資源もまだ残っている。

 だが、止まる線が薄い。

 支援が遅れているようにも見えるが、最初に切るべきなのはそこではない。


「現場暴走型」


 誠二が短く言う。


 セレナが補助ログを引いた。


「支援遅延ではなく?」


「遅れてはいます」

「でも最初に止めるべきはそこじゃない」

「現場側に戻る線が無いまま支援だけ足すと、余計に暴走します」


 セレナは一瞬だけ考えてから、静かに頷いた。

 案件板の帯が変わる。

 行き先が、曖昧な保留ではなく、最初から明確になる。


 二件目は補給崩壊型だった。

 現場判断はむしろ悪くない。

 だが輸送路が細く、資源が足りず、このままでは現場の善戦ごと削れる。

 以前なら“長期難航・要観察”のあたりで濁っていたはずのものが、今は最初から補給崩壊として置かれる。


「迷わなくなりますね」


 セレナが言った。

 声は落ち着いたままだが、そこに少しだけ実感が混じる。


「最初に棚が切れているだけで、保留へ逃がさずに済みます」


 誠二は頷く。


「迷いが全部消えるわけじゃないです」

「でも、“何となく保留”は減らせます」


 三件目は支援遅延型。

 現地の核はまだ持っている。

 必要な支援判断が遅れているだけだ。

 以前なら保留へ流した方が楽だっただろう。

 だが今は、どこが止まっているのかを最初から切る。


「前なら、これも保留でしたね」


 ミレイアが言う。


「そうですね」


「今は?」


「支援遅延として触ります」

「保留にすると、待つ案件になります」


 ミレイアは軽く鼻で息を抜き、そのまま板を引き寄せた。


「待つの嫌い」


「知ってます」


「なら、これでいい」


 返しが早い。

 意味が通ればすぐ乗れるタイプなのだろう。

 実務上はありがたい。


 午前のうちに、ひとつはっきりした変化が出た。

 迷子案件が減る。

 それは派手な数字ではない。

 だが、以前なら保留棚の奥へ沈み、誰の目にも薄くなっていた案件が、最初から“どこを触るか”を持った形で置かれる。

 それだけで流れは変わる。


 次に効いたのは、一時休止基準だった。


 ミレイアが一件、再派遣待ち案件を開く。

 現地の報告は薄い。

 支援側の負荷は高い。

 中心核の崩壊も進行している。

 以前なら、“もう一回だけ”という空気で再派遣棚に残っていたはずのものだ。


「これ、前ならもう一回投げてた」


 ミレイアが率直に言う。


 誠二は板を見たまま返す。


「その“もう一回”を減らしたいんです」


 彼は一時休止の条件を当てる。

 情報不足。

 再派遣無効に近い。

 支援側疲弊。

 その三つで十分だった。


「止めます」


「嫌ね」


「嫌ですね」


「でも、前より納得はできる」


 ミレイアはそう言って、案件板を休止側へ送った。

 以前なら感情で抱えていた“もう一回”を、今日は基準が切る。

 無駄打ちが一つ減る。

 支援側の消耗も、その分少し減る。


 リュシアは少し離れた位置で、それを見ていた。

 表情はほとんど変わらない。

 だが、視線の止まり方だけが違う。

 自分が抱え込んでいた嫌な判断を、今日は別の手が基準で切っている。その変化を、そのまま見ている目だった。


 さらに効いたのは、引継ぎテンプレートだった。


 セレナが慎重に開いたのは、これまでリュシアしか触れなかった類の案件だ。

 高危険度。

 延焼停止。

 単独再開判断禁止。

 支援側の閾値も低い。

 引継不能として積まれていた理由は簡単で、嫌な判断が多く、中身が重かったからだ。


 だが今、その板には最低限の骨だけが残っている。


 危険度。

 現在位置。

 触るな領域。

 止める条件。

 再起動条件。

 最低限注記。


 セレナは何度か板を見返した。

 それから、ゆっくり次の処理へ進む。

 時間は少しかかった。

 だが、止まらなかった。


「これなら、事故らせずに継げます」


 小さい声だった。

 けれど、補助層ではかなり大きい一言だった。


 ミレイアが横から覗き込む。


「思ったより怖くない」


「怖いですけどね」


 誠二が返す。


「でも、怖いのと触れないのは別です」

「事故る線さえ見えていれば、触れる」


 セレナは板から目を離さずに頷いた。


「全部を理解しなくても、止める場所が見えれば継げるんですね」


「ええ」

「全部分かる必要はないです」

「外してはいけないところだけ見える方が重要です」


 そこで、リュシアがぽつりと呟いた。


「流れ方が前より嫌じゃない」


 誠二はそちらを見た。

 リュシアは板から目を離さないまま、もう一度だけ言う。


「少し」


 ほんの少しの言葉。

 それで十分だった。

 補助層の空気が、本人の感覚で変わり始めている。


 昼近くには、迷子案件は明らかに減っていた。

 新しく来たものをその場で壊れ方分類へかける。

 休止条件を当てる。

 引継ぎテンプレで次の手が入れる形へ崩す。

 三つを別々に置いても効きは薄い。

 だが、一緒に回すと少し戻る。


 大きくは変わっていない。

 それでも、置いた分だけ詰まりが減る。

 誠二の中には、その手触りが静かに立っていた。


 リュシアが必要な補助ログを、誠二が言う前に出す。

 誠二はそのまま次の判断へ入る。

 短い呼吸で意図が通る。

 それをセレナもミレイアも見ていたが、誰も余計なことは言わない。

 いま必要なのは、それを言葉にすることではなく、実際に補助層が少し回ることだ。


 午後に入ると、リュシア自身の案件でも試行が進んだ。

 以前なら彼女の区画へ残っていたはずの案件を、テンプレ化したことでミレイアが引き取る。

 セレナも、慎重さはそのままに一件受ける。

 リュシアは自分の手元に残る板がほんの少しだけ減るのを見ていた。

 大きな変化ではない。

 だが、それが補助層ではかなり大きい。


「少し静か」


 リュシアが言う。


「ええ」


「全部じゃないけど」


「全部じゃないです」

「でも、置いた分だけは効いてます」


 そう言ったあとで、誠二は一瞬だけ封鎖区画のことを思い出した。

 救えなかったものの重さ。

 雑に積まれていた残骸。

 あれが消えるわけではない。

 補助層が一気に綺麗になるわけでもない。

 それでも、いまここで起きている小さな改善は、確かに次の失敗を少し減らしている。

 その感触があるだけで、今日の仕事には意味があった。


 日が傾くことのない神界でも、仕事には確かに区切りがある。

 補助層を出る頃には、身体へじわりと疲れが戻っていた。

 だが、その疲れは悪くない。

 沈んだまま削られる疲れではなく、小さい成功を一つ掴んだあとの重さだった。


 仮眠室に戻る。

 今日は酒は要らなかった。

 湯だけで十分だったし、近さだけでも十分だった。


「少し、回りましたね」


 誠二が言うと、リュシアは短く頷く。


「うん」


 少し間。

 それから、ほんの少しだけ口元を緩めるみたいにして言った。


「嫌々でも」


 誠二は小さく笑った。


「嫌々でも、回るなら十分です」


 その一言で、今日の補助層の空気が全部まとまる。

 誰も気持ちよくはやっていない。

 嫌だと思うことばかりだ。

 それでも、少し回る。

 その“少し”が大事なのだ。


 リュシアは誠二を見て、少しだけ視線を落とした。


「今日から上向いたから、する」


 誠二は一瞬だけ言葉を失い、目を上げる。


「……そういう理屈ですか」


 リュシアは平然としていた。


「底だけしかないのは良くない」


 誠二は少しだけ息を漏らす。


「ずいぶん確認が早いですね」


 リュシアは視線を少しだけ下へ落として、短く言う。


「誠二の下も、ちゃんと上向いてる」


 その言い方が、仕事の上向きと身体の反応を同じ理屈で繋いでしまっていて、妙にこの人らしかった。


「見れば分かる」


「そうでしょうね」


「上向いたから、今日私が上になる」


 そこでようやく、誠二は小さく笑った。

 少し強引で、でも筋の通った理屈だった。

 底ばかり見て終わるのはよくない。

 今日から上向いたなら、夜も上で締める。

 そういうことなのだろう。


 仮眠室のベッドへ入る。

 リュシアが少し主導して、誠二を引き寄せる。

 いつもと同じようで、今日の近さは少し違った。

 重さを抜くためだけではない。

 上向いた流れをそのまま身体へ繋げるための近さだった。


 最初のキスは短い。

 次は少し深い。

 そこで終わらず、今日はリュシアの手つきにも、触れ方にも、静かな主導があった。

 誠二はそれを受けながら、同時に応じる。

 甘えに沈むのとも、切実に縋るのとも違う。

 上向いたまま終わりたいという気分が、そのまま身体の温度へ変わっていく感じだった。


 動きは急がない。

 でも迷いもない。

 滞りなく、前より少し素直に進んでいく。

 ひとしきり深く繋がったあと、二人とも静かに呼吸を整えた。

 騒がない。

 はしゃがない。

 ただ、少しだけ身体が軽くなっている。


 リュシアが誠二を抱いたまま、低く言う。


「少しだけ、息できる」


 誠二は胸元へ額を預けたまま答える。


「そのくらいがちょうどいいです」


 白い光の薄い部屋の中で、二人の呼吸だけがゆっくり落ち着いていく。

 全部は治らない。

 それでも、置いた分だけ迷子は減り、無駄な再派遣は減り、誰か一人にしか触れない案件も少し減った。

 第0補助層はその日、ほんの少しだけ前より回った。


 底だけしかないまま終わるのはよくない。

 その夜、二人は少しだけ前より上向いたまま眠りへ落ちた。

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