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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第18話 試行――嫌々でも回るところから始める

 目を開けた時、誠二はしばらくそのままだった。


 頬にやわらかい熱がある。

 鼻先へ落ちてくる呼吸がある。

 後頭部を支える手と、背中へ回された腕の重みがある。

 胸元へ顔を埋めている形も、もうすっかり馴染んでいた。最初の頃みたいに、起きた瞬間に状況を確認して戸惑う必要がない。ただ、ここにいるのが朝の一部になっている。


 リュシアも急かさない。

 起きたことは分かっているはずなのに、すぐに何か言うわけでもない。

 抱えたまま、静かに呼吸している。


 仮眠室の中は、相変わらず音が少なかった。

 寝具の擦れるごく小さな音と、近い呼吸だけがある。

 重い会議の前に、こうして何も急かされずに少しだけ留まれる時間があるのは、たぶんかなり大きい。


「……起きました」


 誠二がようやく言うと、頭の上で小さく気配が動いた。


「うん」


 短い返事だけ。

 それから、抱える腕が少しだけ位置を変える。

 離すのではなく、抱え直すような動きだった。


「今日はのんびりですね」


 誠二が言うと、リュシアが低く答える。


「今日は回し始める日」


「ええ」


「だから、少しは戻してから行く」


 その言い方が、妙にありがたかった。

 熱いシャワーだとか、固まるなだとか、ここ数日でリュシアは完全に誠二の“戻し方”を覚えてしまっている。今日はその前段として、こうして少し長めに抱えているのだろう。


「ずいぶん慣れてきました」


 誠二が、胸元へ顔を預けたまま言う。


「何が」


「朝にこうなってるの」


 少しだけ間が空いた。


「そう」


「他人事みたいですね」


「他人事じゃない」


 そこでようやく、誠二は少しだけ顔を上げた。

 近い位置で目が合う。

 リュシアの目はもうだいぶ起きている。だが、相変わらず寝起きの柔らかさが少しだけ残っていて、その分だけ視線が直で来る。


 何か言う前に、リュシアが短く寄ってきた。

 唇が軽く触れる。

 朝の静けさを壊さないくらいの短さだった。


 触れて、離れる。

 それだけ。

 前みたいに、その一回自体が大きな意味を持って立ち上がる感じではない。

 もう少し自然で、少しだけ落ち着いている。


「今日は軽いですね」


 誠二が言うと、リュシアが目を細めた。


「朝だから」


「基準が分かりません」


「いらない」


 その返しに、誠二は小さく笑う。

 たしかに、もうその都度意味を確かめる段階ではないのかもしれない。


「シャワー」


 リュシアが言った。


「はい」


「そのまま行かない」


「分かってます」


 ようやく腕が緩む。

 だが、離れる前にもう一度だけ髪へ触れていく。

 その癖みたいな仕草が、今ではかなり落ち着くものになっていた。


 熱いシャワーを浴びると、頭の中で渦巻いていた項目の並びが少しだけ整理される。

 今日は全面実装ではない。

 限定試行。

 嫌々でも、使える形に落とす。

 合意していないものを、まず回るかどうかだけ見る。

 誠二はタオルを首へかけたまま、小さく息を吐いた。

 やることは明確だ。

 明確だからこそ、逆に余計な理想を切らなければならない。


 確認室へ戻ると、リュシアはもう結晶板の前にいた。

 机へ身体を半分預けた、力の抜けた姿勢のまま、必要な項目だけは揃っている。


 海上接触ログ。

 核実験通知。

 移動民登録。

 境界通行記録。

 事故調査。


 その横に、試行条件が薄く並んでいた。


「限定海域」

「実験のみ通知」

「家族単位・窓口単位」

「越境時刻・人数・武装有無」

「責任確定前の事実確認」


「だいぶ小さくなりましたね」


 誠二が言う。


「その方が回る」


 リュシアが返す。


「綺麗じゃないです」


「綺麗じゃない」


「でも、回る形には近い」


「うん」


 そこで誠二は、ふと前に言われた言葉を思い出した。嫌なものの方が本当が混ざる。今まさにそれだと思う。理想の制度案はもっと整っていた。だが、整っていた分だけ重すぎた。嫌々でも使えるくらいまで削って、限定して、薄くして、ようやく回り始める。


「納得してないのに使う」


 誠二が呟く。


「かなりこの世界っぽいです」


 リュシアが目を細めた。


「それ好き」


「やっぱり」


「綺麗じゃないけど、本当」


「ええ」


 そのやり取りのあと、移送の光が足元へ広がる。


 会議施設の空気は、前日よりもさらに乾いていた。

 もう誰も“理念で話し合う”つもりはない。

 代わりに、どこまでなら嫌々でも持ち帰れるかを測っている。

 その意味で、今日は昨日までよりずっと実務的で、ずっと嫌らしい。


 楕円卓を囲む顔ぶれは同じだ。

 ドイツ。日本。英国。アメリカ。ソ連残存政府。東方エルサレム共和国。

 だが、今日はそれぞれの前に置かれた資料の量が違う。

 少ない。

 絞られている。

 絞られているからこそ、本気で嫌がる余地も減っている。


「全面実装ではありません」


 誠二は最初にそう言った。


「試します」


 短い。

 だが、その言い方が重要だった。

 永続的な制度ではない。

 まず回るかどうかだけを見る。

 そこへ落とせば、各国はまだ席を立ちにくい。


「どこから」


 日本が訊く。

 海軍側の代表の声だった。

 やはり、海の項目は反応が早い。


「海上接触ログ」


 誠二が答える。


「対象海域を絞ります」


 結晶板に海域が表示される。

 アデン、紅海入口、スエズ関連航路、その周辺の護送接触帯。

 世界中の海ではない。

 最も燃えやすく、かつ既に日英独の接触が現実に生じている場所だけだ。


「最小時系列のみ」


 誠二は項目を示した。


「接触時刻」

「位置」

「相手識別」

「警告有無」

「発砲有無」

「離脱時刻」


 日本側が資料を見ながら言う。


「これなら現場で残せる」


 英国もすぐに続いた。


「詳細報告を増やすなら破綻するが、この程度なら艦橋でまとめられる」


 誠二は頷いた。


「理想的な記録ではありません」

「ですが、誤認戦闘の一拍前だけは残せます」


 ドイツ側は不満そうだったが、全面海上統制に見えない以上、ここでは崩しにくい。

 自分たちの潜航や接触が完全に透明化されるわけでもない。

 だが、相手国同士の誤認接触を材料にできる余地は残る。

 そういう損得を計っている顔だった。


「核実験通知は」


 アメリカが口を開く。


「実験だけか」


「実験だけです」


「移送も配備も入れない」


「いまは入れません」


 ドイツがすぐに被せる。


「それ以上広げるなら無意味だ」


「広げません」


 誠二は即答した。


 ここで踏み込むと終わる。

 最初から分かっていた。


「通知の相手は」


 日本が訊く。


「当事三国を基本に、観測上直接利害を持つ相手まで」


 アメリカは少しだけ考えてから言う。


「保証機関化しないなら、試行は構わない」


 保証機関化しない。

 その一言が、アメリカを座らせる鍵だった。

 アメリカは知らせること自体を嫌うのではない。

 知らせることで“世界の最後の均衡役”に見られることを嫌う。

 だから、通知だけ。責任は負わない。その線が必要になる。


 ドイツも、目立った反対はしなかった。

 実験だけの限定通知なら、むしろ他国の誤読を減らす意味で自分たちにも利がある。

 日本にとっては観測材料になる。

 だからここも回る。


「移動民登録」


 次の項目へ光が移る。

 英国と東方共和国、そしてソ連が反応する。


「難民一次保護は入れない」


 英国が確認するように言う。


「全面義務にはしません」


 誠二が答える。


「まず登録だけです」


 表示される項目は少ない。


「氏名または家族単位」

「出発地」

「到着地」

「一次受入窓口」

「移送主体」


「港湾、鉄道、仮宿営を経る場合だけでいい」


 英国が言う。

 こちらも、かなり実務の顔だ。


「全経路を拾うなら無理だ」


「拾いません」


 誠二は頷いた。


「まず、流れがどこで見えなくなるかを減らします」


 東方共和国代表が慎重に言う。


「登録は国家窓口を通る形か」


「そこを基本にします」


「外側の管理台帳へ直結しない」


「しません」


 その確認が取れると、共和国側の警戒が少しだけ変わる。

 国家承認を薄める登録ではなく、国家窓口を補助する最低限の流れとして置く。

 それならまだ意味がある。


 ソ連残存政府は硬いままだが、無視はしなかった。

 移動民がどこへ流れたかも分からない状態よりは、敵意の向け先が少しだけ限定される。

 それもまた現実だった。


「境界通行記録」


 ここはやはり空気が固くなる。

 ドイツ、ソ連、東方共和国の順で、視線が鋭くなる。


「境界の正しさは扱いません」


 誠二は最初にそう言った。


「越えたか、越えていないか」

「誰が、いつ、どこを、どう通ったか」

「武装の有無」

「人数」

「それだけです」


 ドイツが冷たく言う。


「それが後で主権争いへ使われる」


「使われます」


 誠二は否定しなかった。

 それで、ドイツ側の視線が少しだけ変わる。


「否定しないのか」


「使われる可能性はあります」


「なら」


「何も残らないまま局地衝突を言い張り合う方が、もっと燃えます」


 そこで英国が低く言った。


「小さくても、記録がある方が火は遅い」


「はい」


 ソ連代表が不機嫌そうな顔のまま言う。


「固定線を飲んだわけではないぞ」


「分かっています」


「越境の正当性も認めていない」


「そこも扱いません」


「ただ、通った事実だけを残す」


「それだけです」


 その「それだけ」が、この話ではかなり重要だった。

 たったそれだけ。

 だが、だから回る。


「事故調査」


 最後の項目に移る。


「法的責任の確定はしません」


 先に釘を刺す。


「事実確認だけです」


 ソ連代表が低く唸るように言った。


「それで足りると思うのか」


「足りません」


 誠二は答えた。


「でもゼロよりましです」


 その言い方に、会議室の空気がわずかに動く。

 足りない。

 足りないことを認める。

 その上でゼロよりましだと言う。

 理想を押し通している顔ではない。

 現実に残る最小単位だけを見ている。


「対象を絞ります」


 誠二は続ける。


「海上事故」

「越境発砲」

「港湾事故」

「移送中事故」


「小さい事故から」


 英国が言う。


「大きいものは触らない」


「いまは触りません」


 ドイツもアメリカも、そこには明確な反対を出さなかった。

 法廷化しないなら、事実確認だけなら、完全に損とは言い切れない。

 各国とも、その程度までなら飲める。


 並べ終わったあと、会議室にしばらく沈黙が落ちた。

 誰も理念で納得してはいない。

 だが、嫌々でも使える形になっている。

 そこが昨日までとの違いだった。


「合意ではありません」


 誠二は言う。


「試行です」


 日本が口を開く。


「期間は」


「限定します」


 英国が続く。


「対象海域と港湾も限定」


「はい」


 アメリカが言う。


「保証人役は無し」


「無しです」


 ドイツが言う。


「主権確定と法廷化は入れない」


「入れません」


 ソ連が苦い顔のまま言う。


「足りない」


「ええ」


「だが、回るかは見たい」


 それが出た時点で十分だった。

 納得ではない。

 同意でもない。

 だが、試してみるところまでは来ている。


 東方共和国代表が静かに言う。


「国家窓口を通るなら、移動民登録は座って見られる」


 それもまた、小さいが大きい一歩だった。


 会議が終わった時、誠二は少しだけ違う疲れを感じていた。

 削る仕事とも、置く仕事とも違う。

 今度は回し始める仕事だった。

 しかも全面ではない。

 限定的で、嫌々で、条件だらけで、それでも回る形。


 神界へ戻ると、リュシアはいつものように確認室にいた。

 小瓶とグラスはもう準備済み。

 隣へ来るのも自然だ。

 もうここに説明はいらない。


「おかえり」


「戻りました」


「今日は少し違う」


「どう違います」


「嫌々だけど、動きそうな顔」


 誠二は苦笑した。


「かなりその通りです」


 グラスを受け取る。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 一口飲む。

 喉を通る熱が、会議室の乾いた空気を少しだけ溶かした。


「嫌々でも、使える形には落ちました」


 誠二が言う。


「うん」


「納得してないのに回すの、かなりこの世界っぽいです」


「それ好き」


「やっぱり」


「綺麗じゃないけど、本当」


 その言い方に、誠二は小さく笑う。


「もう、好きって言われても前ほど止まりません」


「慣れた」


「少し」


「でも、まだ効いてる」


「ええ」


 リュシアはグラスを軽く傾けてから、空いた方の手を自然に誠二の近くへ置いた。

 意識しているようでしていない動きだった。

 誠二は少しだけためらって、それからその手に触れた。

 軽く。

 すると、リュシアはそのまま指を絡める。

 確認も何もない。

 もう自然だった。


 肩も少し近い。

 寄れば、そのまま寄れる距離。

 会話を止めるほどではなく、だが離れているとも言えない。


「海上接触ログが最初に回りそうです」


 誠二が言う。


「海は早い」


「ええ。日本も英国も、嫌々でも残した方がましだと分かるので」


「核通知は」


「実験だけなら、アメリカもドイツも落ち着きました」


「全部じゃない」


「全部じゃないから回る」


 リュシアが目を細める。


「それ好き」


「全部じゃないのが、ですか」


「回る方」


「なるほど」


「綺麗な正しさより、嫌々でも回る形」


「たしかに、この世界にはそっちの方が要りますね」


 手はつないだままだった。

 話しながら、自然にその温度がある。

 前ならそこで少し意識しただろう。

 今はもう、あること自体が落ち着く方へ寄っている。


 しばらく話しているうちに、誠二の方から少しだけ肩を寄せた。

 大きくではない。

 ただ、つないでいる手の延長で距離が少しだけ縮む。

 リュシアもそのまま受ける。

 肩が触れる。

 それ以上を急がない。

 その程度で十分だった。


「今日はまだ考えてる」


 リュシアが言う。


「分かりますか」


「顔」


「いつもですね」


「かなり」


 少し黙る。

 つないだ手の熱だけが静かに残る。


 誠二は、その沈黙の流れのまま顔を向けた。

 リュシアも同じタイミングでこちらを見ている。

 距離が近い。

 前みたいに“今いい?”と確認する空気ではない。

 近くにいて、手をつないで、肩が触れていて、その延長で自然に顔が寄る。

 そのまま唇が重なった。


 今度は少しだけ長い。

 深い、と言うほどでもない。

 ただ、触れて終わるだけより一歩だけ深く、静かに続く。

 それでも騒がしい感じはまるでない。

 会話の流れの中にそのまま混じるくらいの自然さだった。


 離れたあとも、二人ともすぐには何も言わなかった。

 気まずいわけではない。

 ただ、これがもう“進展のイベント”ではなく、近い位置にいることの延長へ入り始めているのが分かる。

 その静けさが心地よかった。


「シャワー」


 リュシアが先に言った。


「はい」


「今日は先」


「分かりました」


 もう、朝も夜もその流れが定着している。

 飲んで、少し話して、熱を落としてから寝る。

 それが二人の夜になりつつあった。


 誠二が先に浴びて戻ると、仮眠室の中は静かだった。

 二つの枕。

 もう完全に自然な光景。

 少ししてリュシアが入ってくる。

 髪の水気はだいぶ落ちているが、熱い湯の名残と少し甘い石鹸の匂いがまだ近い。


 ベッドの縁に座る。

 誠二が顔を上げると、リュシアは言葉を挟まず、そのまま短く唇を重ねた。

 夜の二度目。

 それももう、特別な確認ではなくなりつつある。


「寝る」


 低い声。


「はい」


 横になると、いつものように腕が回る。

 抱き寄せられる。

 胸元へ額が落ちる。

 体温が近い。

 そこへ収まるのが、今はもうほとんど自然だった。


 髪へ指が入る。

 軽く梳くように動いて、それから頭を支える位置で止まる。


「今日もここ」


 リュシアが言った。


 誠二は、その言葉を胸の奥でそのまま受け取った。

 今日も。

 もう一時的な避難場所ではない。

 重い日ごとに戻る場所として定着していく感じがある。


「はい」


 少しだけ顔を埋め直す。

 やわらかい。

 熱い。

 落ち着く。


「もう考えない」


 リュシアが言う。


「努力します」


「努力じゃなくて寝る」


「……はい」


 少しだけ笑って目を閉じる。


 海上接触ログ。

 核実験通知。

 移動民登録。

 境界通行記録。

 事故調査。


 全面合意ではない。

 理想でもない。

 だが、限定して、薄くして、嫌々でも回るところから始める。

 それがいま置ける最小単位だった。


「リュシア」


「ん」


「今日は、回り始める感じがしました」


 間を置いて、返事が来る。


「うん」


「好き勝手に納得したわけじゃないのに」


「でも動く」


「ええ」


「それでいい」


 抱える腕に、ほんの少しだけ力が入る。

 強くではない。

 ここに収めて、そのまま眠らせるくらいの近さで。


 誠二は、その熱を感じながら静かに眠りへ落ちていった。

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