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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第15話 分解――燃える理由を先に分ける

 今日は息苦しさより先に、温かさで目が覚めた。


 目を開ける前から、顔の前に柔らかいものがある。呼吸のたび、少しだけ押し返される。もう何に埋まっているのかは考えなくても分かる。後頭部のあたりには腕の重みがあり、首筋から肩へかけて人の熱が落ちてきている。抱えられている。かなりしっかり。しかも、今日は起きた気配を見せても、すぐに緩む感じがない。


 誠二はそのまま、ひとつ息を吐いた。

 前なら苦しい、と真っ先に言っていた。今日は少し違う。苦しくないわけではない。だが、その窮屈さより先に、ここに顔を置いている方が落ち着く感覚の方が強かった。


「……起きました」


 胸元へ半ば埋まったまま言うと、すぐ頭の上で気配が動いた。


「起きた」


 リュシアの声はまだ少し低い。寝起きのままの、余計な飾りのない声だった。


「今日は離さないんですね」


 誠二が言うと、後頭部を抱えている腕に、ほんの少しだけ力が入る。


「重い日」


「分かってるんですね」


「分かる」


 短く返してから、少しだけ間が空いた。

 それから、いつもの問いが来る。


「嫌だった?」


 問い方は前と同じなのに、今日は意味が少し違う。嫌だったら離す、ではなく、もう答えを半分知っている人間の確認に近い。


 誠二は、そのまま正直に答えた。


「いいえ」


「うん」


「かなり、良いです」


 そこまで言うと、リュシアの呼吸が少しだけ変わった。笑ったわけではない。だが、その返答をちゃんと受け取った気配がある。


「なら」


 低く言って、さらに一拍だけそのままにする。


「これ好きなら、そのまま居るべき」


 妙な理屈だと思った。けれど、リュシアが言うと妙に筋が通っているようにも聞こえる。


「暴論ですね」


「正しい」


「そうですか」


「そう」


 誠二は、小さく笑った。

 胸元へ顔を置いたまま笑うと、少しだけ声が籠もる。そういう自分の状態を、もう無理に取り繕う必要がないことが少し可笑しい。


 しばらく、静かなままだった。

 神界の仮眠室には朝の鳥の声も、外を走る車の気配もない。あるのは呼吸と、寝具が擦れる小さな音だけだ。その静けさの中で、誰かの腕に抱えられたまま顔を埋めていると、時間の流れ方が少しだけ変わる。急いで抜け出す理由がないなら、そのままでいることにも意味が出る。


「今日は、分ける日」


 リュシアが言った。


「分ける」


「正しさじゃなくて、燃える理由」


 誠二は目を閉じたまま、その言葉を頭の中で反復した。

 たしかにそうだ。昨日までは、各国がどうして拒絶するか、その硬さばかりが前に出ていた。今日は、その硬さの中身を分ける必要がある。何が燃料か。何が導火線か。何が正しさの顔をして、実際には延焼要因になっているのか。


「だから固まりすぎない方がいい」


 リュシアが続ける。


「分けるなら、硬いままだと見落とす」


「分かってるつもりでも、なりそうですね」


「なる」


 即答だった。


「今日は行く前に、熱いの浴びる」


「シャワーですか」


「うん」


「前も言われました」


「前より重い」


「そこまで」


「そこまで」


 そこでようやく、腕の力が少しだけ緩んだ。

 頭を上げる余地ができる。

 誠二がゆっくり顔を離すと、近い位置にあるリュシアの目と合った。


 近い。

 それでも、もうそこまで強くは戸惑わない。

 戸惑わないこと自体に、少しだけ驚くくらいだ。


「顔、もう固い」


 リュシアが言う。


「そんなに分かりますか」


「分かる」


 それから、口元だけ少し意地悪く緩めた。


「重いまま行くと固まる」


「たしかに」


「固くていいのはそこじゃない」


「朝から言いますね」


「今だから」


 その一言に、誠二はまた笑ってしまった。

 笑わせるために言っているのか、ただ思いついたから言っているのか、その境目はたぶんリュシア自身にも曖昧だ。けれど、結果として固さは少しほどける。そこまで分かった上で言っているなら、もう十分すぎるくらいに優しい。


 シャワーを浴びて戻ると、肩と首のあたりに残っていた余計な力がだいぶ落ちていた。確認室へ入ると、リュシアはすでに椅子へ座っている。机に胸を乗せるほどではないが、背筋を伸ばしているわけでもない。力の抜けた姿勢のまま、結晶板だけはきっちり整えてある。


 そこに並ぶのは、昨日の会議記録と各国の主張の抜き出しだった。


 ドイツ――勝者が自らを縛る理由はない。

 日本――海は回っている。余計な拘束は損だ。

 英国――帝国実務を机上で止めるな。

 アメリカ――役割を押しつけるな。

 ソ連残存政府――敗者固定を認めない。

 東方エルサレム共和国――国家承認を空文化するな。


 並べるだけで、互いに噛み合わないことがよく分かる。


「見事に全部違いますね」


 誠二が言うと、リュシアが頷く。


「うん」


「でも、どれもその側から見れば正しい」


「そう」


「だから切りにくい」


「悪意の方がまだ切れる」


「ええ」


「そういうの、一番面倒」


 昨日の夜と同じ言い方だった。だが、今日はそれが会議の中核へさらに近づいている。


 誠二は、もう一度結晶板を見た。

 昨日までは、何の場かを定義するのが仕事だった。

 今日は、その先へ進まなければならない。

 正しさそのものを争うと、会議は壊れる。

 正しさを認めた上で、それが何を燃やすかに落とさないといけない。


「まず燃える理由を分けます」


 半ば独り言みたいに言うと、リュシアがすぐに返した。


「それ好き」


 誠二は、一瞬だけ手を止めた。

 今までも何度か言われた。

 嫌な複雑さがある時。

 単純な善悪で済まない時。

 そのたびにリュシアは、短く、端的に「それ好き」と言う。

 前はそのまま流していた。

 だが今日は少しだけ引っかかった。


「好きなんですね」


 確認するみたいに言うと、リュシアは当然みたいに頷く。


「うん」


「嫌なものですよ」


「嫌なものの方が、本当が混ざる」


「本当」


「綺麗に割れるものは、だいたい薄い」


 その言い方が妙に腑に落ちた。

 たしかに、いま第99世界で見ているものは、どれも綺麗に悪ではない。

 正しい。

 だから危ない。

 そしてその危なさを、誠二は今日、要因へ落とし直そうとしている。


「行きますか」


「行く」


 会議施設の空気は、昨日よりさらに乾いていた。

 昨日は正面衝突の熱があった。

 今日はそれを越えて、互いが“どこまで踏み込まれるか”を測っている感じがある。


 主会議室へ入ると、各陣営は昨日とほぼ同じ位置に座っていた。だが、それぞれの前に置かれた文書の厚みが違う。今日が、昨日より深く踏み込まれる日だと皆分かっている。


 誠二は最初から設計図を出さなかった。

 今日やるのは設計ではない。

 切り分けだ。

 燃えているもの、燃えそうなもの、すでに導火線へ火が回っているもの。それを同じ土俵へ置き換える。


「昨日の続きから始めます」


 短く言う。


「皆さんがそれぞれに正しいことは変わりません」


 ドイツ側の代表が微かに眉を動かす。

 日本は無表情。

 英国は待っている。

 アメリカは腕を組んだまま。

 ソ連残存政府は硬いまま。

 共和国は警戒を消していない。


「だから今日は、正しさを争いません」


 誠二は続けた。


「その正しさが何を燃やすのかを分けます」


 数秒、沈黙が落ちる。

 会議室の全員が、その言葉の意味を測っているのが分かった。


「分ける?」


 ドイツが最初に反応した。


「ええ」


 誠二は結晶板を展開した。

 そこに現れたのは国名の上下関係でも、責任配分でもない。

 項目だけだ。


 海上誤認。

 国境摩擦。

 難民・移動民。

 補償未処理。

 核通知不在。

 発射権限不明。

 住民登録・移送不整合。


 英国側が、そこで初めて少しだけ身を乗り出した。

 実務に落ちた項目だと理解したのだろう。


「それぞれの正しさを、まず延焼要因の種類へ落とします」


 誠二は言った。


「ドイツ側」


 視線が向く。


「勝者が自らを縛る理由はない」


「当然だ」


「それ自体は、ここでは争いません」


 争わない。

 そう先に言う。

 だが、そのままでは置かない。


「ただし、その勝者論理が境界線の扱いを一方的に押し切る時、何が起きるか」


 誠二は国境摩擦の項目へ光を当てた。


「局地接触が、相手側からは主権侵害に見える」

「報復の名目が生まれる」

「勝者にとっては秩序維持でも、敗者側では再戦動機になる」


 ソ連残存政府の代表が、わずかに顎を引いた。

 ドイツは表情を動かさない。

 だが、否定もしない。


「つまり、勝者論理そのものを裁いているのではありません」


 誠二は言った。


「勝者論理が、国境摩擦と報復の種になる箇所を見ています」


 次に、日本。


「海は回っている。余計な拘束は損だ」


 日本側の海軍代表が、黙ってこちらを見る。


「これも正しい」


 誠二は即座に言った。


「海を止めれば損害は増えます。護送を遅らせること自体が燃料になります」


 そこへ海上誤認の項目を重ねる。


「ただし、護送が回ることと、接触時の識別が足りていることは別です」

「護送側の実利優先は、接触時には早い判断を生む」

「その早さが、識別不備と結びつくと、海上誤認になる」


 日本側は否定しなかった。

 海が回っていることを止めろとは言われていない。

 その回り方の中にある火種を示されているだけだ。

 そこまでなら、日本もまだ座っていられる。


「英国側」


「はいはい」


 英国代表が、少し面倒そうに応じる。


「帝国実務を机上で止めるな」


「その通りです」


「これも争いません」


 誠二は答えた。


「港湾、補給、保険、通行、植民地行政。どれも止まれば別の火種になります」


「なら話は早い」


「ですが、その実務の中で、難民と移動民の流れがどこへ吸い込まれているかは別です」


 難民・移動民の項目が光る。


「帝国実務そのものが悪いのではない」

「ただし、通行管理の穴、一次保護の不在、港湾判断の揺れが、移動民を報復口実へ変える」


 英国は、そこで初めて無言になった。

 これはかなり実務の痛いところを突いている。


「アメリカ側」


 腕を組んだままの代表が、目だけを向ける。


「役割を押しつけるな」


「ええ」


「そこを否定するつもりはありません」


「なら何だ」


「抑止の空白です」


 その言い方で、アメリカの表情が初めて少しだけ変わった。


「役割を拒否するのは自由です」

「ですが、役割拒否の結果として、どの空白が生まれているかは別に見なければならない」


 誠二は核通知不在と発射権限不明の二つを示した。


「全部できる国が、責任を背負わない」

「それ自体を裁く話ではない」

「ただ、その結果として、最終保証や抑止確認の空白が生まれている」


 アメリカは黙ったままだ。

 だが、それは無関心ではなく、聞いている沈黙だった。


「ソ連残存政府」


 代表の目が細くなる。


「敗者固定を認めない」


「当然です」


 ここは短く即答する。

 相手が嫌がる前に認める。


「敗者固定は再戦動機を固定するのと同じです」


 再戦動機の項目へ光が落ちる。


「首都喪失」

「象徴都市喪失」

「補償未処理」

「境界固定」

「これらが未処理のまま残ると、怨恨は個人ではなく国家動機になる」


 ソ連代表の顔から敵意が消えることはない。

 だが、少なくともいま言われていることが“感情論”として片づけられていないのは分かったはずだ。


「東方エルサレム共和国」


 共和国代表が、硬いままこちらを見る。


「国家承認を空文化するな」


「はい」


「それが一番怖い」


「理解しています」


 誠二は、住民登録・移送不整合の項目を示した。


「承認された国家であることと」

「住民管理の台帳が他国導線へ抜けていること」

「その二重構造が、主権の薄さと境界衝突を生む」


 共和国代表は、そこでほんの少しだけ表情を変えた。

 怒りではない。

 見えている、と受け取った時の変化だった。


「つまり」


 誠二は会議室を見渡す。


「皆さんの主張は、そのままでは噛み合いません」


 誰も反論しない。

 それはすでに全員が知っている。


「ですが、正しさを争う前に、何が燃えるのかを分けることはできる」


 そこまで言った時、リュシアの朝の声がふと頭をよぎった。

 今日は分ける日。

 正しさじゃなくて、燃える理由。

 その通りだった。


「海上誤認」

「国境摩擦」

「難民・移動民」

「補償未処理」

「核通知不在」

「発射権限不明」

「住民登録・移送不整合」


 一つずつ、誠二はもう一度読み上げた。


「皆さんが正しいことは、止めません」

「止めるのは、その正しさが事故と再戦に変わる導線です」


 英国が最初に口を開いた。


「つまり、会議で帝国を裁くのではなく」


「導線を見たい」


「そうです」


 日本が続く。


「海は止めない」


「止めません」


「だが、誤認と接触の記録は見直せるかもしれない」


「そこを見ています」


 ドイツ側は、腕組みを解かずに言う。


「勝者論理を放棄する気はない」


「放棄を求めていません」


「だが境界摩擦の導線は区別する、と」


「そうです」


 ソ連残存政府は、しばらく黙ってから低く言った。


「我々の怒りを、動機として扱うのか」


「怒りそのものではありません」


 誠二は返す。


「怒りが国家動機へ固定された時に、どこで着火するかです」


 そこにアメリカが口を挟んだ。


「つまり、責任を取る国を決める前に」


 その言い方は、少しだけ皮肉が混じっている。


「責任が不在だとどこが燃えるかを見る」


「はい」


 アメリカ代表はそれ以上何も言わなかった。

 だが、その沈黙はさっきまでの拒絶とは少し違っていた。


 会議後半は、合意というより分類作業に近づいていった。


 海で何が誤認になりやすいか。

 どの海域か。

 識別、通報、接触、先制の閾値。

 国境で何が局地摩擦になりやすいか。

 どの線か。

 住民移動がどこで報復口実になるか。

 港湾、鉄道、仮宿営、追跡。

 核関連で何が最も危険か。

 通知不在か、発射権限不明か、観測誤差か。


 全員、譲っているわけではない。

 だが、自分の主張が“何を燃やすか”を否定しきれなくなると、少しだけ口調が変わる。

 それが、今日の小さな変化だった。


 会議が終わった時、誠二は昨日よりも別種の疲れを感じていた。

 壊れかけたものを押しとどめる疲れではない。

 バラバラの正しさを、一段下の項目へ落とし続ける疲れだ。

 頭の奥が熱い。

 だが、昨日よりは少しだけ先へ進んでいる感覚もある。


 戻ると、報告区画の扉を開けた瞬間に、リュシアが顔を上げた。


「顔、重い」


 開口一番、それだった。


「そんなにですか」


「かなり」


「でも昨日よりは、少し分けられました」


「その顔してる」


 それからリュシアは、間を置かずに言う。


「まず熱いシャワー」


「またですか」


「また」


「報告は」


「それからでいい」


 そこまでは昨日と同じだった。

 違ったのは、その次だ。


「今日は私も浴びる」


 そう言われて、誠二は少しだけ目を瞬いた。


「珍しいですね」


「今日はちょっと、同じくらい重い」


 短い言い方だったが、それで十分だった。

 今日は巨人でも帝国でもなく、全員の正しさが互いを燃やす話だ。

 リュシアもそれを嫌っている。

 嫌っていて、少し削られている。

 だから一緒に温度を落とす。

 そういうことだろう。


 熱いシャワーを浴びたあと、戻ってくると部屋の空気が少しだけ変わっていた。

 湯気の名残と、石鹸の匂いがまだ微かに残っている。

 リュシアが隣へ来て座った時、その匂いが少しだけ近くなった。

 大げさな香りではない。

 だが、熱い湯のあとに残る清潔な甘さが、いつもより少しだけ強く感じられる。


 グラスが渡される。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 一口飲んでから、誠二は言った。


「全員、自分は間違ってない顔で壊しに来ます」


 リュシアは頷いた。


「そういうの、一番面倒」


「かなり」


「でも今日は、少し分けられた」


「はい」


 誠二は、グラスを見たまま続ける。


「昨日は拒絶そのものが前にありました」

「今日は、その拒絶が何を燃やすかが少し見えた」


「うん」


「勝者論理」

「実利優先」

「帝国実務」

「役割拒否」

「怨恨」

「薄い主権」


「全部、別の火種だった」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「それ好き」


 誠二は、その言葉を今度は流さなかった。


「前から言ってましたよね」


「うん」


「“それ好き”って」


「言ってる」


「そんなに好きなんですか」


 訊くと、リュシアは短く頷いた。


「好き」


「嫌なものですよ」


「嫌なものの方が、本当が混ざる」


「今日のもですか」


「かなり」


 リュシアは指先でグラスを少し回した。


「正しさが複数あると、きれいに割れない」


「ええ」


「でも割れないまま燃える」


「だから分ける」


「そこが好き」


 その言い方に、誠二は少しだけ胸の奥が引っかかる感じがした。

 何度も聞いてきたはずの短い言葉が、今日は少しだけ違う意味を持って聞こえる。

 好き。

 もちろん、いまリュシアが言っているのは“そういう構造が好き”という意味だ。

 それは分かっている。

 分かっていても、以前より少しだけ引っかかる。

 たぶん、こちらの受け取り方が変わってきている。


「どうしました」


 リュシアが訊く。


「少しだけ、引っかかっただけです」


「何が」


「“好き”って言われるの」


 リュシアは少しだけ止まった。

 それから、ほんの少しだけ口元を緩める。


「今さら」


「そうかもしれません」


「今まで流してた」


「流してました」


「今日は流れなかった」


「そうですね」


 そこで、誠二は自分でもほとんど意識しないまま、少しだけ身体を傾けた。

 大きくではない。

 前回より少し迷いが少ない。

 肩が触れ、腕が触れ、そのまま少しだけ重みを預ける。

 自分から寄るのは二度目だと気づいたのは、寄ってからだった。


 リュシアは何も言わなかった。

 ただ、当然みたいに受ける。

 そしてそのまま腕を回して、誠二を胸元へ引き寄せた。


「今日もここ」


 低い声で言う。


 前回と同じ言葉なのに、今日はもっと自然だった。

 寄ったらそこへ入る。

 もうその流れができている。


 誠二も、今度はほとんど迷わずにその位置へ落ちた。

 胸元へ額を預ける。

 シャワー上がりの少しいい香りがまだ残っていて、体温も近い。

 それだけで、頭の中の項目の並びが少しだけ遠くなる。


「……助かります」


「知ってる」


 短い返事。

 そして指先が、髪へゆっくり触れる。

 撫でるというより、考えすぎた頭を静かに落とすための触れ方だ。


 そのまま仮眠室へ移る。

 もう二つの枕は自然すぎて、見るだけで変な意識はしない。

 ベッドへ入ると、さっきの続きみたいに近い。


 誠二は、そのまま胸元へ少し埋まる形で落ち着いた。

 リュシアは何も言わず、ただ受ける。

 しばらくしてから、髪へまた軽く指が入る。


「今日もここでいい」


 低い声。


「はい」


「もう考えない」


「努力します」


「努力じゃなくて寝る」


「……はい」


 少しだけ笑ってから、誠二は目を閉じた。


 海上誤認。

 国境摩擦。

 難民と移動民。

 補償未処理。

 核通知不在。

 発射権限不明。

 住民登録と移送の不整合。


 燃える理由を、今日ようやく分けた。

 まだ止めてはいない。

 だが、何が燃料で何が導火線かを見ないままでは、たぶん何も置けない。


「リュシア」


「ん」


「今日は少しだけ、置けるものが見えました」


 間を置いて、返事が来る。


「うん」


「まだ設計じゃないですけど」


「でも見えた」


「はい」


「なら進んでる」


 その言葉のあと、胸元の柔らかさにもう少しだけ顔を預けた。

 苦しくはない。

 むしろ落ち着く。

 朝に言ったことは、たぶん本当だったのだと思う。


 髪へ触れる指がゆっくり止まり、その熱だけが残る。


 正しさを争う前に、何が燃えるのかを分けないと止められない。

 その理解を抱えたまま、誠二は静かに眠りへ落ちていった。

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