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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第13話 会議――勝者を同じ部屋に座らせる

 最初に胸へかかっていた重さで、誠二は目を覚ました。


 ここ数日、起き抜けに息苦しさを感じること自体は、もう珍しくなくなっていた。だから今日も、意識が浮かび上がるより先に、ああまただ、という妙な納得の方が先に来た。柔らかい圧迫感。胸元にかかる熱。頬に触れている布ではない感触。呼吸のたびに少しだけ押し返されるやわらかさ。何に顔を埋めているのかは、さすがにもう、考えるまでもない。


 薄く目を開けると、視界の大半が近い。近すぎる。リュシアの胸元に顔を埋めたまま、両腕の中へ収まるように抱えられていた。肩から背中にかけて回された腕は、最初の頃よりも遠慮がない。押さえつけているわけではないが、寝返りの流れでこうなりました、だけでは済ませにくい程度にはしっかりしている。


 息を整えながら少しだけ顔を上げると、すぐ上に顎の線があった。さらにその先へ視線を上げると、まだ寝ぼけた色の残るリュシアの目が、半分だけこちらを見下ろしていた。


「起きた」


 眠気を引きずった、少し低い声だった。


「起きました」


 誠二も声を落として返した。こういう距離だと、自然に声量が小さくなる。


「苦しい?」


「少し」


 正直に答えると、リュシアは後頭部を支えていた手をほんの少しだけ緩めた。逃がすほどではない。息が通る程度に余白を作るだけだ。


「これで」


「まだ近いですけど、だいぶ」


「そう」


 そこで数秒だけ、どちらも黙った。


 近い。柔らかい。起き抜けの意識へ人の体温がそのまま流れ込んでくる。最初の一回目なら、たぶん誠二はもっと固まっていた。二回目でも、戸惑いはまだ濃かった。だが、今日はもう三回目だった。慣れたと言えば嘘になる。けれど、驚きより先に状況を受け入れられる程度には、身体の方が覚え始めている。


 リュシアが小さく息を吐いた。


「嫌だった?」


 問いそのものは短いのに、今までより少しだけ真面目だった。眠気の下に、わずかな確認が混じっている。


 誠二は数瞬だけ考えた。考えた、というより、自分の反応をそのまま確かめた。


「……むしろ良かったです」


 口にした途端、リュシアの目が少しだけ大きくなった。ほんの少しだけだが、予想外だったらしい。すぐに元へ戻る。だが、そこで返事が一拍遅れたのは確かだった。


「そう」


「はい」


「なら、もう少し」


 そう言って、離しかけた腕をむしろ少しだけ戻した。


 誠二は思わず笑う。


「そこは即断なんですね」


「今のは、そうするところ」


「基準が分かりません」


「私の」


 それもそうか、と思う。こういう時のリュシアは、筋の通った理屈を出すより、自分の感覚をそのまま先に置く方が自然だった。だが、その感覚がまるきり独りよがりでもない。誠二の返答を受けて、なら少しだけ長く抱える。その判断は妙に素直で、だからこそ妙に心地よい。


 しばらく、そのままだった。


 神界の仮眠室は、現実の朝と違って音が少ない。どこかで鳥が鳴くこともなければ、外の車の音が混じることもない。ただ呼吸と寝具の擦れる気配だけが、静かに存在している。そんな場所で人の腕の中へ収まっていると、時間の流れ方が少しだけ変わる。急いで離れる理由がなければ、そのまま数秒いることにも意味が出る。


「今日は会議ですね」


 誠二が言うと、リュシアが胸元へ落としていた視線を少しだけ上げた。


「うん」


「固くなりそうです」


「なる」


「否定しませんね」


「今日は最初から固い」


 言いながら、リュシアはようやく身体を少し起こした。後頭部に置いていた手が抜ける。だが完全に距離が開く前に、その指先が髪をひと撫でしていった。寝起きの髪を整えるでもなく、ただ確認みたいに触れて、それから離れる。


「会議の前に戻した」


「何をです」


「人間っぽさ」


 淡々と言うわりに、その言葉は妙に優しかった。


 誠二も起き上がり、乱れた寝具を見た。二つの枕が並んでいる。昨日の夜には、もうそれは特別な光景ではなくなっていたが、朝になるとまた別の意味が出る。二つともちゃんと使われていて、その間に昨夜の近さがそのまま残っている。変に意識しすぎるほどではない。けれど、何も変わっていないふりをするには無理がある。そんな距離だった。


 簡単に身支度を整えて、小さめの案件確認室へ入る。リュシアは椅子へ座るなり、いつも通り机へ身体を半分預けた。やる気があるのか無いのか曖昧な姿勢のまま、結晶板を呼び出す指だけが正確に動く。


 表示された名前の並びを見て、誠二は小さく息を吐いた。


 ドイツ。

 日本。

 英国。

 アメリカ。

 ソ連残存政府。

 東方エルサレム共和国。


 並べるだけで場が悪くなる顔ぶれだ。しかもどれも、ここまで見てきた嫌な現実を一つずつ背負っている。


「よく同じ部屋に入りますね」


 率直に言うと、リュシアは結晶板から目を離さないまま答えた。


「入れる」


「そこまでが今日の仕事ですか」


「今日はそこが大きい」


 誠二は頷いた。


 その通りだと思う。設計図を最初から全部出せば壊れる。誰かの正しさへ肩入れした瞬間にも壊れる。まず必要なのは、同席そのものを成立させることだ。


「裁きの場にはしない」


 誠二が自分に言い聞かせるように呟くと、リュシアが短く返した。


「うん」


「正義の会議にも」


「うん」


「延焼停止」


「そこ」


 リュシアがそこで初めて視線を上げた。


「今日は、それだけ言い切ればいい」


「“それだけ”が重いんですが」


「重い」


「分かってますか」


「分かる」


 短いやり取りのあと、移送準備の光が足元へ広がる。


 落ちた先は、第99世界側に設けられた中立会議施設だった。


 神界ほど清潔で静かではない。現実世界の重みを残したまま、どの陣営にも寄りすぎないよう設計された空間だと分かる。石と金属を主材にした広い会議棟。温度は一定に保たれているが、居心地よくする気はあまり感じられない。どこかの帝国の宮殿や、どこかの勝者の都合が前に出るのを避けるため、逆に少し味気なく作ってある。


 入口からして物々しかった。各陣営がそれぞれ最小限の護衛と随員を連れてきている。制服の色も質感も違う人間たちが、同じ廊下へ等間隔に並ぶ光景は、それだけで不穏だった。彼らは今すぐ互いへ銃を向けるほど粗野ではない。だが、向ける理由ならいくらでも持っている。そういう空気が静かに満ちている。


 誠二は主会議室に入る前、一度だけ立ち止まった。巨大な楕円卓。各席に置かれた国名札。ドイツ、日本、英国、アメリカ、ソ連残存政府、東方エルサレム共和国。文字で見るだけでも、並びの悪さが分かる。


 最初に入ってきたのはドイツ側だった。ベルリンの冷たさをそのまま連れてきたような空気。勝者の余裕というより、勝者であることを当然とする乾いた自意識がある。会議の主導権を最初から握ろうとする強引さは見せない。むしろ、主導権が自分たちの側へ来るのを待つ顔だ。


 次に日本。

 こちらは一枚ではない。席へ着くまでの短い動きの中にも、陸と海の温度差が微かに見える。だが表には出さない。見せないことに慣れている国の顔だった。観察している。使える場なら使うし、損な場なら距離を取る。最初からそれを決め打ちはしない。


 英国は実務の顔で来た。理念の大旗を持ち込む気は薄い。帝国を回している人間の顔をしている。会議がどう美しく見えるかではなく、会議が現場の邪魔になるか、役に立つか、その点だけを測っている感じが強い。


 アメリカは重かった。

 声が大きいわけでもない。威圧的でもない。

 それなのに、ただ席にいるだけで“いつでも外に出られる”感じがある。呼ばれたから来た、という温度を崩していないくせに、その余裕そのものが場を圧迫する。できるのに、まだ引き受けない国の空気だ。


 ソ連残存政府は、入室した瞬間から敵意を隠さなかった。露骨ではない。だが、消す気もない。ここへ国家として来ている。だからこそ、感情も個人の怒りではなく国家感情の顔をしている。首都も象徴都市も失ったまま、なお国家として席に座る者の硬さがあった。


 最後に東方エルサレム共和国。

 国家として扱われるかどうか、その一点に神経が張りつめているのがすぐ分かった。旗も代表もある。だが、その主権の薄さを、彼ら自身が誰より知っている。だから、この席は形式ではなく生存の一部だ。


 全員が揃う。

 その時点で、空気は既に最悪だった。


 司会役として最低限の進行だけを担う中立事務官が、定型の開会文を読み上げる。だが、それが終わる前から、もう何人かの顔に「余計なことを言うな」と書いてある。誠二はそれを見て、逆に少しだけ冷静になった。ここで間違うと、二度と同じ面子は座らない。


 最初に口火を切ったのはドイツ側だった。


「確認したい」


 静かな声だった。


「この場は、勝者を拘束するための法廷ではないという理解でよろしいか」


 言葉は整っている。

 だが、その中身は剥き出しだ。

 勝者が自らを縛る理由はない。

 そこが出発点にある。


 間を置かず、ソ連残存政府側が返す。


「法廷ですらない場に何の意味がある」


 声は低く抑えられている。怒鳴らない。だが、その抑え方そのものが痛い。

 裁かれない勝者の会議など茶番だ、と言外に言っている。


 英国側はすぐそこへ乗らない。


「理念の競り場であるなら、本国は別の用事を優先させる」


 冷たい実務の声だった。

 理念を嫌っているのではない。

 それで帝国は回らない、と知っているだけだ。


 アメリカはさらに一歩引いた位置から言う。


「責任の押し付け合いで時間を使うなら、我々は帰った方がいい」


 帰れる国の声だと思った。

 しかも、それを本当に実行できる国の。


 東方エルサレム共和国側は、ずっと押し黙っていたが、そこでようやく言葉を出した。


「国家承認を曖昧にする議論であるなら、我々の参加理由は消える」


 その指摘は鋭かった。

 会議の定義を曖昧にすると、東方共和国は国家としての存在理由ごと削られる。


 日本はそれらを一通り見てから、初めて口を開いた。


「場の目的が不明瞭なままでは、議論の負担と利益が釣り合わない」


 曖昧な反発ではない。

 かなり日本らしい反応だった。

 要するに、何の場か分からないなら損が勝つ、ということだ。


 何も始まっていないのに、既に壊れかけている。

 だが、壊れているのではなく、まだ定義が与えられていないだけだ。

 誠二はそこで初めて、自分の席の前へ置かれた資料を閉じた。いま設計表を出すのは早い。出した瞬間に、全員が自分に不利な部分だけを見つけて殴り合う。


 必要なのは工程ではない。

 まず、場の名前だ。


 誠二は口を開いた。


「確認します」


 会議室の空気が、わずかにこちらへ寄る。


「この場は、裁きのための場ではありません」


 短く切る。

 法廷ではない。

 戦犯裁判でもない。

 ここで誰が正しいかを確定する場でもない。

 まずそれをはっきり言う必要がある。


 ドイツ側の視線が少しだけ緩み、ソ連側の視線は逆にさらに硬くなる。予想通りだ。


「戦後秩序の完成を一挙に決める会議でもありません」


 英国が表情をほとんど変えずに聞いている。日本は動かない。アメリカは腕を組んだまま視線だけを寄越してくる。


「では何だ」


 ソ連残存政府側が問うた。


 誠二は、そこで一拍だけ置いた。

 間を作る。

 正義の語彙を使わない。

 理念へ乗らない。

 ここまで見てきた第99世界の嫌な現実を、そのまま会議の定義へ落とす。


「延焼停止のための会議です」


 誰もすぐには言葉を返さなかった。

 意味が分からないからではない。

 全員、分かったからこそ、一瞬だけ沈黙した。


「海上誤認」

「国境摩擦」

「住民移動」

「補償未処理」

「核通知の不在」


 誠二は一つずつ並べた。


「いまこの世界にあるのは、未処理の正義ではなく、未処理の延焼要因です」


 ドイツ側の一人が眉を動かす。

 日本の海軍側が微かに視線を上げる。

 英国はそこで初めて、わずかに身体を前へ寄せた。


「この場は、誰が善か悪かを決めるための場ではない」


 誠二は続ける。


「再戦、誤認、局地衝突、報復連鎖、核の即断。その延焼率を下げるための、最低限の会議です」


 言い切った。


 それで空気が劇的に変わるわけではない。

 だが、少なくとも全員が“何の話をしているのか”は同じ線に置かれた。


 アメリカが最初に口を開く。


「責任論ではない、という理解でいいか」


「はい」


「役割の押し付けでもない」


「はい」


 英国が続く。


「帝国実務を全面的に縛る場でもない」


「全面的には」


 誠二はそこだけ少し残した。


「まずは事故防止に限ります」


 日本側が、ほとんど独り言のように言う。


「事故防止」


「はい」


「理念ではなく」


「事故防止です」


 そこで、東方エルサレム共和国代表の顔から、わずかながら強ばりが抜けた。国家承認そのものを争う場ではない。少なくとも今日そこまでは行かない。そう理解したのだろう。


 ソ連残存政府はまだ納得していない。

 だが退席理由を失っている。


「正義の確定を先送りにしろと言うのか」


 低い声。


「順番を変えると言っています」


 誠二は返した。


「まず燃えないようにしてからでなければ、正義の議論そのものが次の戦火の導火線になります」


 その言い方は、ソ連にとって心地よいはずがない。

 だが、間違ってもいない。

 ここで怒りだけを優先させれば、次の局地戦はむしろ近づく。

 残酷だが、それが順番だった。


 ドイツ側は、そこで初めてはっきりと頷いた。


「裁きでないなら聞こう」


 聞こう。

 受け入れる、ではない。

 だがそれで十分だった。


 会議は、そこでようやく始まった。

 まだ何も決まっていない。

 だが、各陣営が退席せずに同じ楕円卓へとどまっている。

 それ自体が、いまは成果だった。


 残りの時間は、ほとんど場の確認に使われた。


 海上接触がどの海域で最も危険か。

 国境摩擦がどの線で燃えやすいか。

 難民と移動民がどこで報復口実にされやすいか。

 核について、少なくとも“何も知らされないまま動く”状態がどれだけ危険か。


 各国とも、自分に都合の良い言い方しかしない。

 だが、延焼停止という名前が付いたことで、話は不思議と少しだけ前へ進む。

 誰も正義の相手を認めない。

 けれど、自分に不利な事故だけは避けたい。

 そこにだけ、薄い共通利益がある。


 会議が終わった時、誠二は椅子へ座ったまましばらく動けなかった。


 何も決まっていない。

 条文もない。

 合意文書もない。

 だが、壊れなかった。


 今日の仕事はたぶん、そこまでだ。

 何かを置く前に、まず置ける床を壊さずに確保した。

 それだけのこと。

 けれど、この面子相手には、それだけでかなり大きい。


 神界へ戻ると、報告区画はいつも通り静かだった。

 扉を開けた瞬間に、リュシアがこちらの顔を見た。

 机に胸を預けたまま、顎だけ少し上げる。


「おかえり」


「戻りました」


「だいぶ削れてる」


「かなり」


「で」


 短く促されて、誠二は鞄も置かないまま言った。


「座らせただけです」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「うん」


「何も決まってません」


「壊れなかった」


「はい」


「なら進んでる」


 その言い方に、誠二はようやく少しだけ肩の力が抜けた。


「今日はそれで十分、ですか」


「十分」


「ずいぶん甘い評価ですね」


「甘くない」


 リュシアは淡々と返す。


「今日の面子で、何も決まらず壊れないのは、かなり大きい」


「それは、そうかもしれません」


「そう」


 短い。

 だが、納得するには十分だった。


 机の端から、小瓶が指先で押しやられてくる。


「今日の分」


「飲むんですね」


「飲む」


 いつもの小さめのグラスが二つ。

 リュシアは確認するでもなく、自然に誠二の隣へ来て座った。

 椅子を引く動きも、距離の取り方も、もうほとんど迷いがない。

 肩が近い。

 だが、それが特別なことのようには感じなくなっている。


「はい」


 グラスを受け取る。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 一口飲む。

 喉を落ちる液体の熱と一緒に、会議室に残してきた張りつめた空気が少しだけ遠くなる。


「どこが一番嫌だったの」


 リュシアが訊く。


「最初の数分です」


「うん」


「何の場か、誰も同じ意味で座ってなかった」


「それは嫌」


「かなり」


「でも変えた」


「名前だけです」


「名前が先」


 そう言われると、その通りだった。

 延焼停止会議。

 その名前が付いたことで、少なくとも今日の場は法廷でも講和会議でもなくなった。


「裁きじゃない、って言った時」


 誠二がグラスを見ながら言う。


「ソ連側の顔が、かなり硬くなりました」


「そうだろうね」


「でも、退席もしなかった」


「順番を変えたから」


「ええ」


 リュシアはそこで少しだけこちらへ肩を寄せた。


「今日は固かった」


「朝に戻してもらったのに、また固くなりました」


「知ってる」


「分かりますか」


「見る仕事」


 それはいつもの返しなのに、今日は少しだけ柔らかく聞こえた。


「リュシア」


「ん」


「朝のあれ、効いてました」


「うん」


「会議の前に、人間っぽさが戻ったのは本当です」


 隣で、リュシアがほんの少しだけ気配を緩める。


「それならよかった」


 その言い方は短いままなのに、いつもより少しだけ素直だった。


「明日からです」


 誠二が言う。


「本当に面倒なのは」


「うん」


「全員が自分の正しさを持ってるから、噛み合わない」


「そう」


「悪意だけなら、まだ簡単なんですけど」


「正しさの方が燃える」


「ええ」


 そこへ、リュシアは間を置かずに言った。


「それ好き」


 誠二は少しだけ笑う。


「やっぱりですか」


「嫌な複雑さがある」


「かなりありました」


「うん」


 しばらく、二人とも黙って飲んだ。


 静かな時間だった。

 隣にいることが特別ではなくなりつつあって、それでも近いことの意味が消えているわけではない。

 ちょうどいい距離だった。


「今日はもう、あまり考えない方がいい」


 リュシアが言う。


「でもたぶん、勝手に考えます」


「知ってる」


「止めてくれますか」


「寝かせる」


 その言い方が、妙にありがたかった。


 仮眠室へ向かう廊下は静かだった。

 今日の静けさは、会議場の張りつめた音の無さとは違う。

 こちらは、疲れた人間が少しずつ呼吸を戻すための静けさだ。


 部屋へ入ると、二つの枕が並んだベッドがある。

 もうそれを見て立ち止まることはない。

 自然に靴を脱ぎ、自然に横になる。


 リュシアが先に入って、誠二もその隣へ収まる。

 肩と腕が軽く触れる。

 それだけで、今日のところは十分だった。


「今日は、壊さなかった日」


 リュシアが低く言う。


「はい」


「だから寝る」


「はい」


「考えるのは明日」


「努力します」


「努力じゃなくて寝る」


「そうでした」


 誠二は小さく笑って目を閉じた。


 会議室。

 勝者たち。

 敗者の国家。

 薄い主権。

 重い正しさ。

 それでも壊れずに残った場。


 今日の成果は小さい。

 だが、小さいからこそ現実だ。

 そういうものを置くのが、自分の仕事なのだろう。


「リュシア」


「ん」


「今日も、ありがとうございます」


 少しだけ間。


「いい」


 その返事のあと、肩へ軽く温度が寄る。

 強く抱きしめるほどではない。

 だが、隣にいることをちゃんと伝えるくらいの近さだ。


 誠二は、その熱を感じながら静かに意識を手放した。

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