第12話 巨人――両方できるのにやらない国
最初に感じたのは、またしても息苦しさだった。
ここ数日、目覚めの最初に来る感覚としてはだいぶ慣れてきたはずなのに、今日の苦しさはいつもより少しだけ深い。胸の奥で息が一拍つかえ、鼻先へ柔らかい圧がかかっている。布ではない。枕でもない。温度があって、わずかに呼吸の動きがある。
誠二は半分眠ったままの意識の中で、息を継ぎ直そうとして、顔の前へ広がる柔らかさにようやく思い当たった。
埋まっている。
リュシアの胸に。
しかも今日は、ただ抱えられているだけではない。頭をしっかり抱え込まれ、逃げ道のない角度で胸元へ押し当てられている。背中に腕。後頭部に手の重み。少し顔を動かしても、動いた先にまた柔らかさがある。苦しい。だが、その苦しさの正体が分かった瞬間に、別の意味で余計に目が覚めた。
「……苦しいです」
まだ半分眠った声のまま言うと、頭の上から気の抜けた返事が落ちてきた。
「起きた」
「起きました」
「かなり?」
「かなりです」
そこでようやく、後頭部を押さえていた手がほんの少しだけ緩んだ。
完全に離す気はない。
ただ、息が通るくらいには余裕を作る。
その加減が妙に意図的で、誠二は少しだけ笑いそうになった。
「分かっててやってますね」
そう言うと、リュシアはすぐには答えなかった。
数秒だけ間を置いてから、小さく言う。
「少し」
「少し、で済ませるんですね」
「済ませる」
低い声だった。眠気がまだ残っている。
だが、分かってやっていることはこれで十分伝わる。
誠二は、ようやく顔を少しだけ持ち上げた。
近い。
とても近い。
目を開ければ、そのままリュシアの顔がある。寝起きのせいでいつもより少しだけ輪郭がゆるく、髪も乱れていて、だが腕だけはしっかり回されたままだ。
起きてからも離さない。
それが、今日はいつもより少しだけはっきりしていた。
「嫌?」
短く訊かれる。
前にも聞かれた問いだ。
けれど今日は距離が違う。
顔が近い。
胸のやわらかさも、頭を包む腕の重さも、意識の中心にある。
「嫌ではないです」
誠二は答える。
するとリュシアは、ほとんど間を置かずに言った。
「なら、もう少し」
そのまま抱えたまま、そう言った。
気まずいほどではない。
慣れているわけでもない。
だが、これを過剰に取り繕うより、そのまま受け入れた方が自然だということは、もう二人とも分かっている。
誠二は小さく息を吐いた。
「朝から強いですね」
「今日は少し」
「いつもより、ですか」
「うん」
「何かありました?」
訊くと、リュシアはようやく腕を緩め、けれど完全には離さないまま答えた。
「今日はアメリカ」
それだけで、十分だった。
世界のほとんどがどこかしら壊れている第99世界の中で、アメリカという名前だけが別種の重さを持っている。壊れていない、という嫌さ。足りないのではなく、足りているという不気味さ。
「嫌な予感しかしないですね」
「うん」
「それで朝からこうなってるんですか」
「少し」
同じ返し方だった。
その一貫性がおかしくて、誠二はようやく少しだけ笑った。
そこで、リュシアも腕を外す。
完全に離れる前に指先だけが後頭部に残り、軽く髪をかき分けるようにしてから離れた。
それも一拍分だけ長い。
そして何も言わない。
上体を起こして髪を整える仕草は、だいぶ自然になっていた。
誠二も起き上がる。
並んだ二つの枕が、今日はもうほとんど説明を必要としないものに見えた。
案件確認用の小部屋へ戻ると、リュシアは椅子へ座り、昨日までと同じように机へ半分身体を預けた。まだ眠気は残っているはずなのに、結晶板を呼び出す指先だけは相変わらず正確だ。
表示される。
大統領 ウェンデル・ウィルキー。
副大統領 チャールズ・L・マクナリー。
国務長官 アーサー・ヴァンデンバーグ。
蔵相 ジョン・W・ヘインズ。
陸軍長官 ハンフォード・マクナイダー。
海軍長官 ウィリアム・H・スタンドレー。
商務長官 ルイス・W・ダグラス。
名前の並びを見て、誠二は小さく首を傾げた。
「地味に強いですね」
率直に言うと、リュシアが少しだけ目を上げた。
「うん」
「抑制的です」
「でも弱くない」
「かなり嫌です」
「かなり」
結晶板の隣に、別の図が開く。
工業指数。
造船能力。
鉄鋼。
石油。
鉄道。
農業生産。
海軍建艦可能量。
陸軍動員可能数。
半球内資源。
核開発進度。
誠二はその数字の並びを見て、少しだけ息を止めた。
多い。
というより、全部ある。
「この国だけですね」
「うん」
「陸も、海も、工業も、自前で成立してる」
「そう」
「しかも核までやってる」
「ネヴァダ」
短い一語で十分だった。
「……全部持ってるじゃないですか」
誠二が言うと、リュシアは頷いた。
「全部ある」
「なのに出ない」
「出ない」
「それ好きですか」
訊くと、リュシアは少しだけ間を置いてから言った。
「それ好き」
「やっぱり」
「嫌な複雑さがある」
その言い方に、誠二は少しだけ納得した。
アメリカは弱いから不介入なのではない。
壊れているから役割を放棄しているのでもない。
全部持っている。全部できる。
その上で、やらない。
その選択だけがある。
確かに、これはリュシアが反応する類の嫌な複雑さだ。
「行きますか」
「行く」
移送先はワシントンだった。
空気が違う。
ベルリンとも、モスクワとも、東方中枢とも違う。
張りつめているのに、焦ってはいない。
誰もが忙しく動いているのに、それが破綻の手前ではなく、余裕の配分として成立している感じがある。
広い廊下。
静かな足音。
磨かれた床。
軍人も官僚もいる。
だが、戦争に巻き込まれて痩せた顔ではない。
みな、まだ「選べる国家」の顔をしている。
案内役は国務省側の人間だった。
中年。痩せすぎず太すぎず、いかにもアメリカの官僚らしい、余裕のある身なり。
彼は簡潔に名乗り、必要最低限の説明だけを落としていく。
「大統領は本日、半球防衛委員会と産業調整会議を優先しています」
「外の会議ではなく」
「外は待たせることができます」
その一言が、もうアメリカだった。
待たせることができる。
そして本当に待たせる。
その立場にある国は、世界の中でも限られる。
この国は、その限られた一つなのだ。
最初に見たのは、海軍省でも陸軍省でもなく、統合的な資料室だった。
地図がある。
しかし地図の作りが、ドイツや日本とはまるで違う。
ヨーロッパ全図。
太平洋。
大西洋。
カリブ海。
大陸内部鉄道。
産業分布。
輸送量。
造船能力。
港湾処理能力。
全部が同じ資料室に並んでいる。
つまりこの国は、陸と海を分けて考える必要が無い。
両方持っているからだ。
「ランドパワー」
誠二が言う。
「シーパワー」
「はい」
「巨大工業力」
「はい」
「全部ある」
案内役は少しだけ口元を引いた。
「我々は、合衆国ですから」
言い方に自慢は薄い。
むしろ、当然の前提として言っている。
それが余計に不気味だった。
そこへ、海軍省側の実務官僚が加わる。
スタンドレーの直属らしい。
軍人ではなく、海軍を制度と予算と建艦で支える人間の顔をしている。
「艦隊は出せます」
彼は最初にそう言った。
「大西洋にも太平洋にも」
「でも出さない」
誠二が返す。
「大統領の選択です」
「長官は?」
「出撃可能性を維持するのが海軍長官の仕事です」
「使うことではなく」
「持つことです」
それが、アメリカ海軍を一言で説明していた。
持つ。
しかも、使える形で持つ。
その上で政治が出さないと決めるなら、出さない。
弱いからではない。
強すぎるからこそ成立する理屈だ。
「艦隊は持たねばならない」
実務官僚は続ける。
「だが、持っていることと使うことは同義ではありません」
誠二は、その言い方にぞっとした。
間違っていない。
むしろ非常に正しい。
だが正しすぎる。
この国は、責任より先に選択肢の保有を優先している。
続いて、国務省側の机へ案内される。
ヴァンデンバーグ周辺の外交整理文書が見える。
中立。
半球防衛。
自由通商の維持。
国内経済の安定。
欧州均衡への直接責任回避。
必要な時のみ介入可能性保持。
「つまり」
誠二は文書を見ながら言う。
「世界秩序を作る気はない」
案内役が答える。
「世界秩序のために、アメリカが自らを摩耗させる必要はない、という考えです」
「できるのに」
「できるからこそです」
そこまで言われると、もう反論の余地がない。
できない国が役割を断るのは、ただの不足だ。
できる国が役割を断るのは、戦略になる。
アメリカはその位置にいる。
「副大統領と商務長官の役割がよく分かりますね」
誠二が別の資料へ目をやりながら言うと、案内役は頷いた。
「国内の土台が優先です」
農業。
物流。
市場。
内需。
生産調整。
アメリカは世界を救う国である前に、自分の土台をさらに太くする国であり続ける。
それがこの世界では、対外不介入ときれいに噛み合っていた。
蔵相の資料も重い。
ヘインズの下で整理された財政見通しは、軍事のためだけの数字ではない。
不介入のままでも、出る力だけは残しておく。
それを壊さない財政。
つまり、この国は戦わないために貧しくなる気がない。
むしろ戦わないままさらに太れる構造を目指している。
「いやですね」
誠二が言うと、案内役は少しだけ視線を動かした。
「何が」
「全部できるのに、役割をやらないところです」
少しだけ、沈黙が落ちる。
案内役は政治家ではない。
だから綺麗な答えは用意しない。
「責任には、消耗が伴います」
淡々と言う。
「我々は、その消耗を避けられる位置にいる」
それが全てだった。
ネヴァダの資料は、別格の嫌さがあった。
実験記録。
出力推定。
評価。
抑止。
将来的運用可能性。
つまりこの国は、核を持つ。
持った上で、それを世界秩序形成の責任には結びつけない。
「ドイツは神話に使う」
誠二が言う。
「日本は均衡へ計算する」
さらに続ける。
「アメリカは、持つだけ持って責任へ繋げない」
誰も否定しなかった。
ネヴァダの砂漠写真は乾いている。
そこには都市の死も、象徴の崩壊もない。
ただ、実験が成功した国の静かな余裕だけがある。
それが一番嫌だった。
「できる」
誠二は小さく言う。
「全部できる」
陸も。
海も。
工業も。
財政も。
核も。
「なのにやらない」
その理解が、ようやく一本になる。
アメリカは出られないのではない。
出ないことまで選べる。
役割をやれる国が、役割を拒否している。
それが、この世界のアメリカだった。
神界へ戻る頃には、疲れ方はまた違うものになっていた。
ドイツの神話化とは違う。
日本の内部分裂とも違う。
もっと巨大で、もっと冷たい。
巨人が動かない時の、静かな嫌さだ。
報告区画へ入ると、リュシアは今日は椅子へ深く座っていて、机に胸を乗せる前の姿勢でこちらを見た。誠二の顔を見てから、ゆっくり机へ身体を預ける。
「おかえり」
「戻りました」
「かなり嫌そう」
「かなり嫌でした」
「で」
誠二はそのまま言う。
「全部ありました」
「うん」
「陸も、海も、工業も、核も」
「うん」
「それ好き」
「早いですね」
「分かりやすい」
「そして、やらない」
「そこも好き」
誠二は小さく息を吐く。
やはりそうだと思う。
リュシアは、こういう“持っているのにやらない”構造へ強く反応する。
「弱いから不介入なんじゃないです」
誠二が言う。
「強すぎるから、役割を拒否できる」
リュシアが目を細める。
「そこ」
「今日の芯です」
「いい」
短い。
だが十分だった。
「海軍も、出せる状態を維持してます」
誠二が続ける。
「でも政治が出さない」
「持つことと使うことは別」
「そのまま言われました」
リュシアは小さく頷く。
「嫌」
「かなり」
「巨人」
「ええ」
「でも立たない」
「そうです」
「一番面倒」
「はい」
机の端から小瓶が押される。
「今日の分」
「飲むんですね」
「飲む」
リュシアは隣へ来て座った。
動きはもうかなり自然だ。
確認も、照れも、ほとんどいらない。
椅子を引いて、肩が少し近い位置にそのまま落ち着く。
「はい」
グラスを受け取る。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
一口飲む。
今日の重さは、少し薄まりにくい。
「どこが一番残ってるの」
リュシアが訊く。
「ネヴァダです」
「核」
「持ってるのに、秩序を作らない」
「うん」
「止められるのに、止めない」
「うん」
「この国、できるのに役割をやらないんです」
リュシアはそこで少しだけ目を細めた。
「それ好き」
「本当に好きですね」
「嫌な複雑さがある」
「かなりあります」
隣同士で少し黙って飲む。
沈黙は静かだ。
だが、今日はどこかで少しだけ引っ掛かる感じが残る。
「誠二」
「はい」
「今日は、元気づけてもあまり上がらない」
少し意外な言い方だった。
誠二は隣を見た。
リュシアは机を見たまま、グラスを軽く回している。
「そんな感じですか」
「うん」
「かなり分かるんですね」
「分かる」
少しだけ間があった。
「でも」
リュシアは続ける。
「今日は私もちょっと疲れてる」
誠二は、そこでようやく彼女の声がいつもより少しだけ低いことに気づいた。だるさとは別の疲れだ。世界の重さを見続けて、少しだけ削れている時の声。
「アメリカですもんね」
「うん」
「全部できるのに、やらないのは」
「嫌」
「かなり」
リュシアはグラスを置いた。
「今日は私が疲れてるから」
そこまで言って、少しだけこちらを見る。
「横にいる」
短かった。
だが、それで十分だった。
今まで、重いものを見た後は主に誠二が沈み、リュシアが先に支える側へ回っていた。今日は少し違う。リュシア自身も、巨人の静かな不在に少し疲れている。だから隣にいる。慰めるためだけではなく、自分もそうしたいから。
「分かりました」
誠二が言う。
「ありがとうございます」
「うん」
それだけ。
仮眠室へ向かう廊下は、今日も静かだった。
並んで歩く足音は、もうすっかり自然だ。
部屋へ入り、二つの枕を見ても、今日はもう説明の必要を感じない。
リュシアは先にベッドへ入る。
誠二もその隣へ横になる。
肩と腕が軽く触れる。
その距離も自然になっていた。
「今日は私が疲れてるから横にいる」
リュシアがもう一度言う。
「はい」
「だから、今日はあまり考えない」
「努力します」
「寝る」
「はい」
短いやり取りのあと、静けさが戻る。
隣から来る体温は、昨日までと少し意味が違った。
支えられているだけではない。
今日のこれは、同じ重さを見た者同士が、同じ側で横になっている感じに近い。
「リュシア」
「ん」
「今日も、ありがとうございます」
少しだけ間があって、返事が来る。
「いい」
そのあと、肩に軽く重みが寄る。
大きくはない。
だが、確かにこちらへ預けられた重さだった。
巨人は立てる。
だが立たない。
全部できる。
だから、やらないことまで選べる。
その不気味さを抱えたまま、誠二は静かに目を閉じた。
隣には、今日は自分も少し疲れていると言った人がいる。
そのことが、妙にありがたかった。
考えは完全には止まらない。
だが、ひとりで沈む時の沈み方ではない。
静かな熱を感じながら、誠二はゆっくりと眠りへ落ちていった。




