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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第10話 大陸――運命を見る者たち

 目を開けた瞬間、誠二は、何に最初に気づくべきか少しだけ迷った。


 近い。


 まず、それだった。


 暗さは薄い。仮眠室の、眠るためだけに整えられたやわらかな明るさがまだ残っている。息を吸えば、清潔な布と少しだけ甘い、神界の寝具特有の匂いがする。その静かな空気の中で、いちばん強く意識に入ってきたのは、目の前にある顔と、胸元にかかるやわらかな圧だった。


 向かい合っている。


 昨日は背中側から抱かれて目が覚めた。今日は違う。顔が近い。肩も腕も、脚の位置も、寝返りの結果として自然に重なっていて、そのままリュシアの胸が自分の胸へ押し当たっている。強くではない。けれど、離れているとは到底言えない近さだった。


 誠二は少しだけ息を止める。


 そこで、目の前の睫毛がかすかに動いた。


 リュシアも、起きた。


 しばらく、どちらも動かなかった。


 気まずい、というほどではない。

 昨日の夜を挟んでいるぶん、完全な不意打ちでもない。

 だが慣れているわけでもない。

 その、ちょうど中間の静けさがあった。


「……起きた」


 先に言ったのはリュシアだった。声は低く、眠気が少し残っている。


「起きました」


 誠二も声を落として返した。


 また少し黙る。


 近い。

 近いし、柔らかい。

 それを無視して話せるほど、二人とも鈍くはない。


「今日は」


 リュシアが言う。


「かなり近いですね」


 誠二が言うと、リュシアはほんの少しだけ目を細めた。


「そう」


「……寝相ですか」


「たぶん」


「たぶん、で押し切りますか」


「押し切る」


 短くそう言ってから、リュシアは少しだけ口元を緩めた。笑ったというほどでもない。だが、緊張を解くには十分な変化だった。


「嫌?」


 昨日と同じ問い。

 けれど今日は、昨日より少し静かで、少し自然だった。


「嫌ではないです」


 誠二は答えた。


 するとリュシアは、間を置かずに言う。


「なら、もう少し」


 離れないまま、そう言った。


 誠二は思わず少し笑う。


「朝から堂々としてますね」


「気まずくする方が面倒」


「それはそうですね」


 リュシアの理屈は、たいていその通りだ。


 実際、そこで変に慌てて離れる方が、たぶん妙に意識してしまう。なら、起きたことを認めて、それでも嫌ではないなら数秒そのままでいる方が、よほど自然なのかもしれない。


 胸元の圧が、呼吸に合わせてわずかに動く。

 人の身体は、思っているよりずっと静かに近い。

 誠二は、その近さの中で自分が昨日より落ち着いていることに気づいた。戸惑いが消えたわけではない。だが、戸惑いの中に嫌さが無い。むしろ、重たいものを見続けてきた数日の後では、この近さが少しだけ現実へ戻すものとして働いている。


「誠二」


「はい」


「今日も重い」


「嫌な予告ですね」


「かなり」


「名前だけで分かるやつですか」


「分かる」


 そこでようやく、リュシアがわずかに身体を引いた。

 完全には離れない。

 ただ、会話をするだけの距離へ少しだけ戻る。

 向かい合ったまま、枕に頭を乗せている状態は変わらない。


「誰です」


 誠二が訊く。


 リュシアは、数秒だけ黙ってから答えた。


「ハイドリヒ」


 それだけで十分に嫌だった。


「……かなりですね」


「かなり」


「もう一人は」


「アイヒマン」


 誠二は天井を見上げたくなったが、向かい合ったままなのでそれもできず、ただ小さく息を吐いた。


「嫌な名前しか出てこない」


「うん」


「しかも、流れ的に共和国の“上”ですよね」


「そう」


 リュシアはそこでようやく上体を起こした。

 乱れた髪を手で払う仕草が、昨日より少しだけ自然に見える。

 誠二も起き上がる。


 ベッドの上には、やはり枕が二つ並んでいた。

 昨日はその二つが、妙に特別に見えた。

 今日はもう、特別ではあるが、異物ではない。

 使われた形跡のある二つの枕がそこにあるだけで、昨夜と今朝の距離が少し変わったことが分かる。


 仮眠室を出て、小さめの案件確認室へ入ると、リュシアはいつものように結晶板を机上へ展開した。姿勢はやる気があるようで無い。だが指先だけは正確だ。


 ベルリン。

 ラインハルト・ハイドリヒ。


 モスクワ。

 アドルフ・アイヒマン。


 東方エルサレム共和国運用図。

 人口移送。

 住民登録。

 境界管理。

 配給分類。

 職能配置。

 治安フラグ。

 行政執行。

 そこへ、中央設計と現地監督の二重の矢印が重なっている。


「国家の顔の上に」


 誠二が言う。


「設計者と執行者がいる」


「そう」


「かなり露骨ですね」


「露骨なくらいの方が、むしろ嘘が少ない」


 その返しに、誠二は少しだけ眉を上げた。


「それ、好きですか」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「それ好き」


「やっぱり」


「嫌な複雑さがある」


 短い。

 だが、その短さの中に、この人の嗜好が妙に正確に出ていた。

 単純な悪ではない。

 現実があり、合理があり、その上に神話や理念が被っている。

 そういう、割り切れない嫌さにリュシアはよく反応する。


「行きますか」


 誠二が言う。


「行く」


 移送先はベルリンだった。


 落ちた先の空気は、東のそれとはまるで違った。

 東方中枢の、むりやり押し込めた密度とは違う。

 こちらは磨かれている。

 冷たく、整えられ、余白のある中枢の空気だ。


 石の建物。

 重たい扉。

 光沢を抑えた床。

 廊下にいる人間の足音まで、統制の一部みたいに響く。

 ベルリンはまだ勝者の都だ。

 それが嫌なくらい、建物の隅々まで行き届いていた。


 案内役はドイツ中央行政局の男だった。名前は名乗ったが、誠二はすぐ忘れた。覚える必要のない顔だったからではない。逆に、代替の利く顔に見えなかったからだ。この中枢には、個人の印象より、役職と導線の方が先に立っている。


 通されたのは会議室とも執務室ともつかない部屋だった。

 机は広く、しかし無駄な装飾はない。

 壁には欧州全図。

 別の壁には海路図。

 英本国海域から地中海、スエズ、インド洋まで繋がる線。

 大陸の勝利を誇る部屋の中に、まだ取れていない海がはっきり貼られている。


 その前に、ハイドリヒは立っていた。


 想像していたよりも静かな人物だった。

 威圧で支配する類ではない。

 むしろ、よくできた文書みたいな顔をしている。整いすぎていて、どこが感情なのか分かりにくい。目だけが非常に速い。こちらが何を見て何を嫌がっているのか、その数秒で仕分けているのが分かる。


「観察官」


 声もまた静かだった。


「東を見られたそうですね」


「ええ」


「なら話は早い」


 余計な歓迎はない。

 だが、話をする価値がある相手かどうかは、最初の一言で測っている。

 そういう種類の人間だった。


 ハイドリヒは机上の文書を一枚だけ動かした。


「共和国は機能しています」


「していますね」


「承認され、行政を回し、住民を収め、境界を持つ」


「ただし、中枢は別」


 誠二が言うと、ハイドリヒは否定しなかった。


「成立の初期には、設計が要る」


「設計」


「国家は発生しません。組まれる」


 その言い方に、誠二はわずかに背筋が冷えるのを感じた。

 建国を語っているのではない。

 制度設計を語っている。

 しかもそれを悪びれず、当然の工程として。


「東方エルサレム共和国は」


 ハイドリヒが続ける。


「感傷で作られたわけではない」


「でしょうね」


「配置です」


 短い。

 あまりにも短い。

 だが、それで全部が出ている。


「対スラブ系緩衝」

「住民収容」

「行政可能化」

「対外説明可能性の確保」


 彼は指で文書の項目を順に叩いた。


「虐殺より管理の方が長く持つ」


 それを平然と言うことが、どれほど嫌か。

 だが、ここで怒りへ寄る方が、むしろこの人物の思う壺なのかもしれない。

 誠二は感情を抑えたまま訊いた。


「国家を作ったつもりですか」


 ハイドリヒはわずかに目を細める。


「形を与えた」


「管理に」


「住民に」


「同じことです」


「そうでもない」


 短いやり取りだったが、その一往復だけで十分だった。

 この男は、管理を国家の形式へ変換することに何のためらいもない。

 しかもそれを、“人間を人間として残すための形式”と“秩序に必要な整理”の両方として同時に扱える。


 机の上には、人口配置図と住民再分類表があった。

 職能別。

 家族単位。

 危険度。

 言語。

 居住区。

 境界通行条件。

 国家の基本台帳というより、巨大な登録簿だ。


「ここでは国民が生まれているのではなく」


 誠二はその表を見たまま言う。


「登録対象が整えられている」


 ハイドリヒは否定しなかった。


「登録なくして統治はない」


「統治なくして国家もない」


「その通りです」


 その言い方が、妙に冷たく正しいのが嫌だった。


 部屋を移ると、今度は別の書類が出てくる。

 境界管理。

 通行証。

 再移送優先順位。

 配給等級。

 思想監視。


「アイヒマンは」


 誠二が言う。


「これを現地で回している」


「回している」


 答えは側近の一人から返った。

 ここでも名前の扱いに躊躇いがない。

 つまり、その実務は隠すものではなく、この秩序にとって当然の工程だと見なされている。


「モスクワは」


 ハイドリヒが壁の地図へ目をやる。


「中央設計を現地へ落とすための執行点です」


「クレムリンはドイツ行政」


「共和国政府は別庁舎」


「見た目の中枢と実務の中枢が別」


「そう」


 誠二は、その返答の簡潔さに少しだけうんざりした。

 ここでは嫌なものほど端的に言える。

 たぶん、日常だからだ。


 窓の外にはベルリンの街が広がっていた。

 整った街路。

 崩れていない建物。

 大陸の勝者の中枢。

 その部屋の中で、東方の住民配置が静かに設計されている。


 勝者の都は、血より先に書類で支配する。

 その感じが、目に見えていた。


「総統は、これをどう見ているんです」


 誠二が訊いた時、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。


 ハイドリヒ自身は表情を変えない。

 だが周囲の気配が一瞬だけ緊張する。


「歴史の秩序として」


 答えたのは、ハイドリヒではなかった。

 ベルリン側の政治補佐官らしい男が、低く整った声で言った。


「新しい秩序」


「秩序」


「大陸の帰結です」


 綺麗な言葉だった。

 綺麗すぎて、逆にその向こうのものが透ける。


 その後、誠二は総統本人の言葉が整理された記録を読む機会を与えられた。

 演説の断片。

 内輪向けに整理された発言要旨。

 そこに、現実政治の言葉と、少しだけ神話へ寄った表現が混じっている。


 三極。

 運命。

 太陽の火。


 核兵器をそう呼んでいた。


 兵器として理解していないわけではない。

 理解している。

 それでも“太陽の火”と呼ぶ。

 国家の格を決め、歴史を焼き直し、世界の序列を見せつける火として。


「……気持ち悪いですね」


 誠二が小さく言うと、隣にいた政治補佐官は表情を変えなかった。


「比喩です」


「比喩だから嫌なんです」


 現実を分かっていない妄言なら、まだ切り分けやすい。

 違う。

 現実を理解している人間が、理解した上でそれを神話へ言い換えている。

 それが一番危ない。


「勝っているから神話化しているわけじゃない」


 誠二は資料から目を離さずに言った。


「勝ちきれていないから、神話で埋めている」


 その一言に対しては、さすがに誰もすぐ答えなかった。


 誠二は壁の海図を見た。

 大陸ではドイツは勝者だ。

 欧州を押さえた。

 モスクワを落とした。

 核も使った。

 それでも、海は取れていない。


 英本国海域。

 地中海。

 スエズ。

 インド洋。

 日本の海。

 アメリカの巨大な半球。


 大陸の勝者。

 だが世界の勝者ではない。


「海を取れていないんですね」


 誠二が言うと、ハイドリヒは今度こそこちらを見た。


「完全には」


「だから未完だ」


「未完という表現は、視点によるでしょう」


「でも海図はそう言ってる」


 ハイドリヒは否定しなかった。


 それで十分だった。


 ドイツは欧州大陸を押さえた。

 だが、海上物流の主導権を握っているわけではない。

 英国はまだ死んでいない。

 日本は海を理解している。

 アメリカは全部できるのに出てこない。

 その未決着を、“運命”の言葉で束ねようとしている。


 気持ち悪い。

 だが、妙に本当でもある。


 ベルリンを離れる頃には、誠二の疲れ方はいつもと少し違うものになっていた。

 東方の重さでもなく、海の乾いた重さでもない。

 現実を理解している人間が、理解したまま神話を使う時の嫌さだ。


 神界へ戻ると、リュシアは今日は最初から机に胸を乗せた状態で待っていた。こちらを見ると、少しだけ顎を上げる。


「おかえり」


「戻りました」


「かなり嫌な顔」


「かなり嫌でした」


「で」


 誠二は椅子へ座る前に、そのまま言った。


「ハイドリヒが設計して、アイヒマンが執行してました」


「うん」


「共和国は国家じゃないです」


「住民管理国家」


「ええ」


「建国ではない」


「住民管理に国章を貼っただけです」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「それ好き」


「やっぱりそこですか」


「嫌な複雑さがある」


「本当にそういうの好きですね」


「単純に悪いだけだと薄い」


「今回はかなり厚いです」


「うん」


 誠二はそこで一呼吸置いて、続けた。


「ヒトラーも気持ち悪かったです」


「どう」


「現実が見えてるんです」


「うん」


「海を取れてないのも、英国がまだ死んでないのも、アメリカが不気味なのも分かってる」


「でも」


「それを“運命”って言い換える」


 リュシアの目が少しだけ鋭くなる。


「太陽の火」


「出ました」


「それ好き」


「そこもですか」


「勝ってるのに足りない感じ」


「かなりそこです」


 机の端から、小瓶が押される。


「今日の分」


「飲むんですね」


「飲む」


 リュシアは今日も自然に隣へ来た。

 椅子を引いて座る動きに、もう確認はいらない。

 肩が少し近い。

 それが、今日は最初から当たり前だった。


「はい」


 グラスを渡される。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 一口飲む。

 隣の体温が少しだけ来る。


「どこが一番残ってるの」


 リュシアが訊く。


「海図です」


「海図」


「大陸の勝者の部屋に、まだ取れてない海が貼ってある」


「うん」


「そこへ“運命”を重ねてる感じがしました」


「未完」


「ええ」


「勝ちきれてない」


「でも、勝ったことにしたい」


「だから神話」


「そうです」


 リュシアは小さく息を吐いた。


「それ好き」


「今日はよく言いますね」


「好きだから」


「嫌なものばかりですよ」


「嫌なものの方が、本当が混ざる」


 短いのに、妙に腑に落ちた。

 この人が複雑さへ反応する理由はそこなのだろう。

 単純な悪や単純な正しさより、現実と欲望と制度が混ざったものの方に、本当が残る。


「まだ沈んでる」


 リュシアが言う。


「分かりますか」


「分かる」


「そんなに」


「今日は昨日と違う沈み方」


「そうですね」


「東の重さじゃない」


「ええ」


「でも嫌」


「かなり」


 しばらく黙って飲む。

 隣同士で黙っていても、今日は気まずくなかった。


「リュシア」


「ん」


「勝ってるのに足りない感じ、たぶん一番危ないですね」


「うん」


「全部取ったなら、まだ止まるかもしれない」


「でも取れてない」


「だから足りない分を、運命とか神話で埋める」


「そう」


「それが核と結びつく」


「嫌」


「かなり」


 リュシアはグラスを置いた。


「今日は昨日より、考えるの止まりにくい」


「そうです」


「なら早めに寝る」


「はい」


「今日も居るから」


 特に確認でもなく、そう言った。

 まるで昨日からの続きが、そのまま今日にも延びているだけのように。


「ありがとうございます」


「いい」


 また短い返事。


 仮眠室へ向かう廊下は静かだった。

 だが、昨日のような“二つの枕を意識する感じ”はもう少し薄い。

 入って、並んだ枕を見ても、今日はもうそれが不自然ではなかった。


 リュシアは先に横になる。


「今日は昨日より静かに寝る」


「昨日もだいぶ静かだったと思いますけど」


「考えてると、寝る音がうるさい」


「そんな器用なこと分かるんですか」


「分かる」


 誠二も隣へ入る。

 肩と腕が軽く触れる。

 抱き寄せるわけでも、離れるわけでもない。

 その距離が今日はもう、かなり自然だった。


「考えるの止めて」


 リュシアが言う。


「努力します」


「努力じゃなくて、寝る」


「はい」


 小さく笑ってから、誠二は目を閉じた。


 ベルリン。

 海図。

 ハイドリヒの静かな顔。

 太陽の火。

 運命。

 勝っているのに未完の大陸国家。


 嫌なものはまだ頭の中に残っている。

 だが、隣に人がいるだけで、沈み方は少し違う。


「リュシア」


「ん」


「今日も、ありがとうございます」


 少しだけ間。


「いい」


 肩に触れる熱が、ほんの少しだけ近づく。

 それ以上は何もない。

 それで十分だった。


 大陸を取っても、海は取れていない。

 勝っていても、世界の勝者ではない。

 だから未完の勝利を、運命の言葉で神話化する。


 その危うさを抱えたまま、誠二は静かに眠りへ落ちていった。

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