第10話 大陸――運命を見る者たち
目を開けた瞬間、誠二は、何に最初に気づくべきか少しだけ迷った。
近い。
まず、それだった。
暗さは薄い。仮眠室の、眠るためだけに整えられたやわらかな明るさがまだ残っている。息を吸えば、清潔な布と少しだけ甘い、神界の寝具特有の匂いがする。その静かな空気の中で、いちばん強く意識に入ってきたのは、目の前にある顔と、胸元にかかるやわらかな圧だった。
向かい合っている。
昨日は背中側から抱かれて目が覚めた。今日は違う。顔が近い。肩も腕も、脚の位置も、寝返りの結果として自然に重なっていて、そのままリュシアの胸が自分の胸へ押し当たっている。強くではない。けれど、離れているとは到底言えない近さだった。
誠二は少しだけ息を止める。
そこで、目の前の睫毛がかすかに動いた。
リュシアも、起きた。
しばらく、どちらも動かなかった。
気まずい、というほどではない。
昨日の夜を挟んでいるぶん、完全な不意打ちでもない。
だが慣れているわけでもない。
その、ちょうど中間の静けさがあった。
「……起きた」
先に言ったのはリュシアだった。声は低く、眠気が少し残っている。
「起きました」
誠二も声を落として返した。
また少し黙る。
近い。
近いし、柔らかい。
それを無視して話せるほど、二人とも鈍くはない。
「今日は」
リュシアが言う。
「かなり近いですね」
誠二が言うと、リュシアはほんの少しだけ目を細めた。
「そう」
「……寝相ですか」
「たぶん」
「たぶん、で押し切りますか」
「押し切る」
短くそう言ってから、リュシアは少しだけ口元を緩めた。笑ったというほどでもない。だが、緊張を解くには十分な変化だった。
「嫌?」
昨日と同じ問い。
けれど今日は、昨日より少し静かで、少し自然だった。
「嫌ではないです」
誠二は答えた。
するとリュシアは、間を置かずに言う。
「なら、もう少し」
離れないまま、そう言った。
誠二は思わず少し笑う。
「朝から堂々としてますね」
「気まずくする方が面倒」
「それはそうですね」
リュシアの理屈は、たいていその通りだ。
実際、そこで変に慌てて離れる方が、たぶん妙に意識してしまう。なら、起きたことを認めて、それでも嫌ではないなら数秒そのままでいる方が、よほど自然なのかもしれない。
胸元の圧が、呼吸に合わせてわずかに動く。
人の身体は、思っているよりずっと静かに近い。
誠二は、その近さの中で自分が昨日より落ち着いていることに気づいた。戸惑いが消えたわけではない。だが、戸惑いの中に嫌さが無い。むしろ、重たいものを見続けてきた数日の後では、この近さが少しだけ現実へ戻すものとして働いている。
「誠二」
「はい」
「今日も重い」
「嫌な予告ですね」
「かなり」
「名前だけで分かるやつですか」
「分かる」
そこでようやく、リュシアがわずかに身体を引いた。
完全には離れない。
ただ、会話をするだけの距離へ少しだけ戻る。
向かい合ったまま、枕に頭を乗せている状態は変わらない。
「誰です」
誠二が訊く。
リュシアは、数秒だけ黙ってから答えた。
「ハイドリヒ」
それだけで十分に嫌だった。
「……かなりですね」
「かなり」
「もう一人は」
「アイヒマン」
誠二は天井を見上げたくなったが、向かい合ったままなのでそれもできず、ただ小さく息を吐いた。
「嫌な名前しか出てこない」
「うん」
「しかも、流れ的に共和国の“上”ですよね」
「そう」
リュシアはそこでようやく上体を起こした。
乱れた髪を手で払う仕草が、昨日より少しだけ自然に見える。
誠二も起き上がる。
ベッドの上には、やはり枕が二つ並んでいた。
昨日はその二つが、妙に特別に見えた。
今日はもう、特別ではあるが、異物ではない。
使われた形跡のある二つの枕がそこにあるだけで、昨夜と今朝の距離が少し変わったことが分かる。
仮眠室を出て、小さめの案件確認室へ入ると、リュシアはいつものように結晶板を机上へ展開した。姿勢はやる気があるようで無い。だが指先だけは正確だ。
ベルリン。
ラインハルト・ハイドリヒ。
モスクワ。
アドルフ・アイヒマン。
東方エルサレム共和国運用図。
人口移送。
住民登録。
境界管理。
配給分類。
職能配置。
治安フラグ。
行政執行。
そこへ、中央設計と現地監督の二重の矢印が重なっている。
「国家の顔の上に」
誠二が言う。
「設計者と執行者がいる」
「そう」
「かなり露骨ですね」
「露骨なくらいの方が、むしろ嘘が少ない」
その返しに、誠二は少しだけ眉を上げた。
「それ、好きですか」
リュシアが少しだけ目を細める。
「それ好き」
「やっぱり」
「嫌な複雑さがある」
短い。
だが、その短さの中に、この人の嗜好が妙に正確に出ていた。
単純な悪ではない。
現実があり、合理があり、その上に神話や理念が被っている。
そういう、割り切れない嫌さにリュシアはよく反応する。
「行きますか」
誠二が言う。
「行く」
移送先はベルリンだった。
落ちた先の空気は、東のそれとはまるで違った。
東方中枢の、むりやり押し込めた密度とは違う。
こちらは磨かれている。
冷たく、整えられ、余白のある中枢の空気だ。
石の建物。
重たい扉。
光沢を抑えた床。
廊下にいる人間の足音まで、統制の一部みたいに響く。
ベルリンはまだ勝者の都だ。
それが嫌なくらい、建物の隅々まで行き届いていた。
案内役はドイツ中央行政局の男だった。名前は名乗ったが、誠二はすぐ忘れた。覚える必要のない顔だったからではない。逆に、代替の利く顔に見えなかったからだ。この中枢には、個人の印象より、役職と導線の方が先に立っている。
通されたのは会議室とも執務室ともつかない部屋だった。
机は広く、しかし無駄な装飾はない。
壁には欧州全図。
別の壁には海路図。
英本国海域から地中海、スエズ、インド洋まで繋がる線。
大陸の勝利を誇る部屋の中に、まだ取れていない海がはっきり貼られている。
その前に、ハイドリヒは立っていた。
想像していたよりも静かな人物だった。
威圧で支配する類ではない。
むしろ、よくできた文書みたいな顔をしている。整いすぎていて、どこが感情なのか分かりにくい。目だけが非常に速い。こちらが何を見て何を嫌がっているのか、その数秒で仕分けているのが分かる。
「観察官」
声もまた静かだった。
「東を見られたそうですね」
「ええ」
「なら話は早い」
余計な歓迎はない。
だが、話をする価値がある相手かどうかは、最初の一言で測っている。
そういう種類の人間だった。
ハイドリヒは机上の文書を一枚だけ動かした。
「共和国は機能しています」
「していますね」
「承認され、行政を回し、住民を収め、境界を持つ」
「ただし、中枢は別」
誠二が言うと、ハイドリヒは否定しなかった。
「成立の初期には、設計が要る」
「設計」
「国家は発生しません。組まれる」
その言い方に、誠二はわずかに背筋が冷えるのを感じた。
建国を語っているのではない。
制度設計を語っている。
しかもそれを悪びれず、当然の工程として。
「東方エルサレム共和国は」
ハイドリヒが続ける。
「感傷で作られたわけではない」
「でしょうね」
「配置です」
短い。
あまりにも短い。
だが、それで全部が出ている。
「対スラブ系緩衝」
「住民収容」
「行政可能化」
「対外説明可能性の確保」
彼は指で文書の項目を順に叩いた。
「虐殺より管理の方が長く持つ」
それを平然と言うことが、どれほど嫌か。
だが、ここで怒りへ寄る方が、むしろこの人物の思う壺なのかもしれない。
誠二は感情を抑えたまま訊いた。
「国家を作ったつもりですか」
ハイドリヒはわずかに目を細める。
「形を与えた」
「管理に」
「住民に」
「同じことです」
「そうでもない」
短いやり取りだったが、その一往復だけで十分だった。
この男は、管理を国家の形式へ変換することに何のためらいもない。
しかもそれを、“人間を人間として残すための形式”と“秩序に必要な整理”の両方として同時に扱える。
机の上には、人口配置図と住民再分類表があった。
職能別。
家族単位。
危険度。
言語。
居住区。
境界通行条件。
国家の基本台帳というより、巨大な登録簿だ。
「ここでは国民が生まれているのではなく」
誠二はその表を見たまま言う。
「登録対象が整えられている」
ハイドリヒは否定しなかった。
「登録なくして統治はない」
「統治なくして国家もない」
「その通りです」
その言い方が、妙に冷たく正しいのが嫌だった。
部屋を移ると、今度は別の書類が出てくる。
境界管理。
通行証。
再移送優先順位。
配給等級。
思想監視。
「アイヒマンは」
誠二が言う。
「これを現地で回している」
「回している」
答えは側近の一人から返った。
ここでも名前の扱いに躊躇いがない。
つまり、その実務は隠すものではなく、この秩序にとって当然の工程だと見なされている。
「モスクワは」
ハイドリヒが壁の地図へ目をやる。
「中央設計を現地へ落とすための執行点です」
「クレムリンはドイツ行政」
「共和国政府は別庁舎」
「見た目の中枢と実務の中枢が別」
「そう」
誠二は、その返答の簡潔さに少しだけうんざりした。
ここでは嫌なものほど端的に言える。
たぶん、日常だからだ。
窓の外にはベルリンの街が広がっていた。
整った街路。
崩れていない建物。
大陸の勝者の中枢。
その部屋の中で、東方の住民配置が静かに設計されている。
勝者の都は、血より先に書類で支配する。
その感じが、目に見えていた。
「総統は、これをどう見ているんです」
誠二が訊いた時、部屋の空気がほんの少しだけ変わった。
ハイドリヒ自身は表情を変えない。
だが周囲の気配が一瞬だけ緊張する。
「歴史の秩序として」
答えたのは、ハイドリヒではなかった。
ベルリン側の政治補佐官らしい男が、低く整った声で言った。
「新しい秩序」
「秩序」
「大陸の帰結です」
綺麗な言葉だった。
綺麗すぎて、逆にその向こうのものが透ける。
その後、誠二は総統本人の言葉が整理された記録を読む機会を与えられた。
演説の断片。
内輪向けに整理された発言要旨。
そこに、現実政治の言葉と、少しだけ神話へ寄った表現が混じっている。
三極。
運命。
太陽の火。
核兵器をそう呼んでいた。
兵器として理解していないわけではない。
理解している。
それでも“太陽の火”と呼ぶ。
国家の格を決め、歴史を焼き直し、世界の序列を見せつける火として。
「……気持ち悪いですね」
誠二が小さく言うと、隣にいた政治補佐官は表情を変えなかった。
「比喩です」
「比喩だから嫌なんです」
現実を分かっていない妄言なら、まだ切り分けやすい。
違う。
現実を理解している人間が、理解した上でそれを神話へ言い換えている。
それが一番危ない。
「勝っているから神話化しているわけじゃない」
誠二は資料から目を離さずに言った。
「勝ちきれていないから、神話で埋めている」
その一言に対しては、さすがに誰もすぐ答えなかった。
誠二は壁の海図を見た。
大陸ではドイツは勝者だ。
欧州を押さえた。
モスクワを落とした。
核も使った。
それでも、海は取れていない。
英本国海域。
地中海。
スエズ。
インド洋。
日本の海。
アメリカの巨大な半球。
大陸の勝者。
だが世界の勝者ではない。
「海を取れていないんですね」
誠二が言うと、ハイドリヒは今度こそこちらを見た。
「完全には」
「だから未完だ」
「未完という表現は、視点によるでしょう」
「でも海図はそう言ってる」
ハイドリヒは否定しなかった。
それで十分だった。
ドイツは欧州大陸を押さえた。
だが、海上物流の主導権を握っているわけではない。
英国はまだ死んでいない。
日本は海を理解している。
アメリカは全部できるのに出てこない。
その未決着を、“運命”の言葉で束ねようとしている。
気持ち悪い。
だが、妙に本当でもある。
ベルリンを離れる頃には、誠二の疲れ方はいつもと少し違うものになっていた。
東方の重さでもなく、海の乾いた重さでもない。
現実を理解している人間が、理解したまま神話を使う時の嫌さだ。
神界へ戻ると、リュシアは今日は最初から机に胸を乗せた状態で待っていた。こちらを見ると、少しだけ顎を上げる。
「おかえり」
「戻りました」
「かなり嫌な顔」
「かなり嫌でした」
「で」
誠二は椅子へ座る前に、そのまま言った。
「ハイドリヒが設計して、アイヒマンが執行してました」
「うん」
「共和国は国家じゃないです」
「住民管理国家」
「ええ」
「建国ではない」
「住民管理に国章を貼っただけです」
リュシアが少しだけ目を細める。
「それ好き」
「やっぱりそこですか」
「嫌な複雑さがある」
「本当にそういうの好きですね」
「単純に悪いだけだと薄い」
「今回はかなり厚いです」
「うん」
誠二はそこで一呼吸置いて、続けた。
「ヒトラーも気持ち悪かったです」
「どう」
「現実が見えてるんです」
「うん」
「海を取れてないのも、英国がまだ死んでないのも、アメリカが不気味なのも分かってる」
「でも」
「それを“運命”って言い換える」
リュシアの目が少しだけ鋭くなる。
「太陽の火」
「出ました」
「それ好き」
「そこもですか」
「勝ってるのに足りない感じ」
「かなりそこです」
机の端から、小瓶が押される。
「今日の分」
「飲むんですね」
「飲む」
リュシアは今日も自然に隣へ来た。
椅子を引いて座る動きに、もう確認はいらない。
肩が少し近い。
それが、今日は最初から当たり前だった。
「はい」
グラスを渡される。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
一口飲む。
隣の体温が少しだけ来る。
「どこが一番残ってるの」
リュシアが訊く。
「海図です」
「海図」
「大陸の勝者の部屋に、まだ取れてない海が貼ってある」
「うん」
「そこへ“運命”を重ねてる感じがしました」
「未完」
「ええ」
「勝ちきれてない」
「でも、勝ったことにしたい」
「だから神話」
「そうです」
リュシアは小さく息を吐いた。
「それ好き」
「今日はよく言いますね」
「好きだから」
「嫌なものばかりですよ」
「嫌なものの方が、本当が混ざる」
短いのに、妙に腑に落ちた。
この人が複雑さへ反応する理由はそこなのだろう。
単純な悪や単純な正しさより、現実と欲望と制度が混ざったものの方に、本当が残る。
「まだ沈んでる」
リュシアが言う。
「分かりますか」
「分かる」
「そんなに」
「今日は昨日と違う沈み方」
「そうですね」
「東の重さじゃない」
「ええ」
「でも嫌」
「かなり」
しばらく黙って飲む。
隣同士で黙っていても、今日は気まずくなかった。
「リュシア」
「ん」
「勝ってるのに足りない感じ、たぶん一番危ないですね」
「うん」
「全部取ったなら、まだ止まるかもしれない」
「でも取れてない」
「だから足りない分を、運命とか神話で埋める」
「そう」
「それが核と結びつく」
「嫌」
「かなり」
リュシアはグラスを置いた。
「今日は昨日より、考えるの止まりにくい」
「そうです」
「なら早めに寝る」
「はい」
「今日も居るから」
特に確認でもなく、そう言った。
まるで昨日からの続きが、そのまま今日にも延びているだけのように。
「ありがとうございます」
「いい」
また短い返事。
仮眠室へ向かう廊下は静かだった。
だが、昨日のような“二つの枕を意識する感じ”はもう少し薄い。
入って、並んだ枕を見ても、今日はもうそれが不自然ではなかった。
リュシアは先に横になる。
「今日は昨日より静かに寝る」
「昨日もだいぶ静かだったと思いますけど」
「考えてると、寝る音がうるさい」
「そんな器用なこと分かるんですか」
「分かる」
誠二も隣へ入る。
肩と腕が軽く触れる。
抱き寄せるわけでも、離れるわけでもない。
その距離が今日はもう、かなり自然だった。
「考えるの止めて」
リュシアが言う。
「努力します」
「努力じゃなくて、寝る」
「はい」
小さく笑ってから、誠二は目を閉じた。
ベルリン。
海図。
ハイドリヒの静かな顔。
太陽の火。
運命。
勝っているのに未完の大陸国家。
嫌なものはまだ頭の中に残っている。
だが、隣に人がいるだけで、沈み方は少し違う。
「リュシア」
「ん」
「今日も、ありがとうございます」
少しだけ間。
「いい」
肩に触れる熱が、ほんの少しだけ近づく。
それ以上は何もない。
それで十分だった。
大陸を取っても、海は取れていない。
勝っていても、世界の勝者ではない。
だから未完の勝利を、運命の言葉で神話化する。
その危うさを抱えたまま、誠二は静かに眠りへ落ちていった。




