第8話 共和国――国家にされた緩衝地帯
東方エルサレム共和国の庁舎は、国家の顔をしていた。
門がある。
衛兵がいる。
掲げられた旗がある。
受付も、外務窓口も、住民登録局も、移送管理局も、治安局も、きちんと看板を持って並んでいる。
だから最初の一歩だけなら、そこは確かに国家の入口に見えた。
誠二は庁舎前の石段で一度立ち止まり、正面玄関の上に掲げられた国章を見上げた。意匠そのものは新しい。だが新しすぎて、かえって馴染んでいない。古い街の石造りの重さの上へ、後から制度だけを貼りつけたみたいに見える。
「ありますね」
思わずそう言うと、隣の案内役の男が短く答えた。
「あります」
男の名はリヒターと名乗った。ドイツ側行政連絡官。軍人ではないが、軍に近い行政官の歩き方をしている。姿勢は良く、言葉は無駄がなく、相手が何を見ているかを把握してから必要な説明だけを落とす種類の男だった。
「見た目は」
誠二が続ける。
「国家です」
「見た目だけなら」
リヒターはそう返した。
その言い方が、ずいぶん正直だと思った。
誤魔化すなら、もっと立派な理屈をつけるはずだ。民族自決でも平和秩序でも何でも。だが、この男は最初からそこをやらない。やらないということは、ここでは飾るよりも回すことの方が優先なのだろう。
庁舎へ入ると、空気が少し変わった。外の冷えた石の匂いから、暖房と紙とインクと人の気配が混ざる匂いへ切り替わる。建物の中は忙しかった。廊下を歩く職員たちは、避難先の仮庁舎で右往左往している感じとは少し違う。もうこの建物の使い方に慣れている。慣れてしまっている。
国家の入口は、慣れた瞬間に国家らしくなる。
それが嫌だった。
受付の横には、共和国の地図が掲げられていた。境界線は明瞭だ。行政区分もある。移送予定人口、開拓区域、居住登録、配給経路、治安担当区域まで、全部が色分けされている。国家の地図というより、管理の台帳に近い。
「最初にここを見るんですね」
誠二が言うと、リヒターは頷いた。
「ここが本体です」
「地図が」
「区分が」
短い返事だったが、十分だった。
土地ではない。
人でもない。
区分。
それが本体だと行政官が言う国家は、たぶんかなり危ない。
奥へ通されると、応接室に二人の人物が待っていた。
一人は年齢を重ねた顔に、知性と疲労の両方を刻んでいる。髪は薄く、声は柔らかいが、机に置かれた書類を扱う手の動きには曖昧さがない。チャイム・ヴァイツマン。対外的な顔としては、あまりに分かりやすい人物だった。国家承認を通し、会談を成立させ、書類の上で国家を国家として成立させる側の人間。
もう一人は、それより少し若い。目の奥に、正面から世界を信じていない人間の硬さがある。疲れているのに、疲れた顔を見せることに慣れていない。マレク・エデルマン。こちらは国家を語るために座っているというより、国家の形にされた現実の側からここにいるように見えた。
ヴァイツマンが立ち上がった。
「ようこそ」
声は穏やかだった。
「見ていただいた通り、我々には政府があり、庁舎があり、境界があり、住民がいます」
誠二はその言葉を聞きながら、そこに足りないものを数えた。
主権。
軍の独立運用。
最終決裁。
それらが、この部屋の中にはない気配がある。
「国家として必要な形は、揃っているように見えます」
そう返すと、ヴァイツマンは少しだけ目を細めた。
「形は重要です」
「実体よりも」
「実体を守るために」
その返しはきれいだった。
きれいすぎるとも言えた。
エデルマンがそこで初めて口を開いた。
「形が無ければ、人は帳簿に戻される」
低い声だった。
「国家の形があれば、少なくとも人間として数えられる」
誠二はその言葉の方が、ヴァイツマンの整った言い方よりずっと重く感じた。
国家を欲したのではない。
帳簿へ戻されないために、国家の形を必要とした。
そういう順番の建国は、もう建国ではなく配置に近い。
応接室の窓からは、遠くにクレムリンの塔が見えた。
見える。
けれど、そこは共和国の中枢ではない。
「クレムリンは」
誠二が窓の外へ視線をやると、リヒターがすぐに言った。
「ドイツ行政が使っています」
やはりそうだった。
「共和国政府は、ここ」
「ええ」
「中枢が二つある」
「そう見えるなら、正確です」
見えるならではない。
実際そうなのだろう。
ヴァイツマンはその指摘に怒らなかった。
「国家は一夜では作れません」
穏やかな声で言う。
「行政中枢、住民台帳、治安、配給、外交窓口。すべては段階的です」
「最終決裁はどこに」
誠二が訊くと、部屋がわずかに静かになった。
先に答えたのはリヒターだった。
「案件によります」
つまり、案件によっては共和国の外にある。
ヴァイツマンは否定しない。
「独立は常に段階です」
「段階」
「ええ。承認され、居住し、行政を回し、外に向けて話せるようになる。その過程です」
整った言葉だった。
だが、誠二の目には、そこに別の現実が重なって見えた。
承認。
居住。
行政。
それは確かに国家の形だ。
同時に、人を地図の都合で並べる時にも使える言葉だ。
部屋の机には、住民登録の台帳が積まれていた。
年齢。
出身。
職能。
家族単位。
移送区分。
居住予定区。
すべてが、整然と欄に収まっている。
「かなり細かいですね」
誠二が言うと、エデルマンがこちらを見た。
「細かくなければ、死ぬ」
その短さが、いちばん本当だった。
ヴァイツマンがその横から言葉を継ぐ。
「我々は国家を得たのです」
「国家を」
「ええ。承認は形だけではありません。国境管理、住民保護、外交窓口、法的責任、それらを持てる」
そこで誠二は、あえて訊いた。
「自由もですか」
ヴァイツマンはすぐには答えなかった。
代わりにエデルマンが答える。
「それは薄い」
部屋の空気が少しだけ固くなる。
「だが、無いよりはましだ」
低く、苦く、しかしためらいなく言う。
その言葉だけで、共和国の内側にある現実の温度が見えた。
国家はある。
だが、自由は薄い。
それでも、無いよりはまし。
その“まし”でしかない国家を、人はどこまで国家と呼べるのだろう。
リヒターが机の上へ別の文書を広げた。
移送計画。
開拓区域。
緩衝帯配置。
治安負荷予測。
対スラブ系衝突想定。
言葉が露骨すぎて、逆に頭が冷えた。
「対スラブ盾」
誠二が読み上げると、リヒターは訂正しなかった。
「緩衝国家です」
「人口処理の受け皿でもある」
「結果としては」
「結果として、ではないでしょう」
そこまで言うと、リヒターは少しだけ口元を硬くした。
「東方秩序には、配置が必要です」
それがドイツ側の答えだった。
善悪ではない。
秩序。
虐殺ではない。
配置。
人道でもない。
管理。
きれいに言える。だからこそ嫌だった。
「国家にしたのではなく」
誠二は文書を見たまま言う。
「管理を国家の形にしただけですね」
ヴァイツマンは視線を上げた。
エデルマンは黙った。
リヒターだけが、ほとんど表情を変えずに答えた。
「その言い方は、外から見れば正しい」
否定しない。
それが一番不穏だった。
「ですが」
今度はヴァイツマンが静かに言う。
「国家の形は、人を人として残す最後の容器でもあります」
「容器」
「国家が無ければ、彼らは移送単位で終わる」
その言葉は、きれいすぎるのに、きれいだと切り捨てにくい痛みを含んでいた。
国家の形は管理の形だ。
同時に、人がただの輸送物にならないための最後の形式でもある。
そこが、この共和国の一番嫌なところなのだろう。
完全に偽物でもない。
完全に本物でもない。
だから、なお厄介だ。
窓の外に目をやると、別庁舎の向こうにクレムリンがある。
象徴は向こう。
旗はこちら。
だが決裁の太い導線は、たぶん向こうへ抜けている。
「本当の中枢は別にある」
誠二が言うと、エデルマンが小さく頷いた。
「そう」
「国家はある」
「ある」
「でも主権はそこにない」
「薄い」
その返しがいちばん正確だった。
無いと言えば反発が起きる。
あると言えば嘘になる。
薄い。
薄い主権。
薄い自由。
薄い国家。
それでも、無いよりはまし。
日本の承認について尋ねると、リヒターが即答した。
「最初でした」
「ずいぶん早かった」
「あなた方は、この問題に直接コミットしていない」
その言い方が、いかにもドイツ側の認識だった。
「だから、理念や贖罪の議論を背負わずに済む」
「実体だけを見る」
「ええ」
「政府があるか、行政単位があるか、対外交渉窓口があるか、航路と外交上扱える単位か。それで判断できる」
誠二は少しだけ納得した。
善意ではない。
距離だ。
近すぎないから、実体だけを見て国家承認しやすい。
日本はこの問題を自分の罪として背負っていない。だからこそ、逆に制度上の形だけで認めやすい。
「善悪ではなく、処理可能性で承認した」
「そうとも言えます」
リヒターは答える。
「実体がある国家を、実体として扱った」
それもまた嫌だと思った。
だが、嫌だからこそ本当らしい。
この世界では、国家承認すら道徳ではなく処理単位なのだ。
庁舎を出る頃には、空が少し暗くなり始めていた。
帰路、誠二は一度だけ足を止め、共和国庁舎と、その向こうに見えるクレムリンを見比べた。
旗はある。
政府もある。
代表者もいる。
住民台帳も、治安局も、移送管理局もある。
だが本当の中枢は別。
そこにあるのは、主権を持った国家ではなく、主権の薄い管理単位。
それでも人々はそこへ収められ、生きていく。
建国ではない。
敗者を収める場所がないから、収めるための国家を作っただけだ。
その理解が、誠二の中で一本の線になった。
神界へ戻ると、リュシアは今日は早い段階から椅子へ深く沈み、机に胸を乗せていた。こちらを見ると、少しだけ目を上げる。
「おかえり」
「戻りました」
「重いまま」
「そうですね」
「で」
短く促され、誠二はそのまま言った。
「国家はありました」
「うん」
「でも主権は薄い」
「そう」
「クレムリンはドイツ行政、共和国政府は別庁舎」
「二重」
「はい」
「国家があるのに、国家が無い感じでした」
リュシアが少しだけ目を細める。
「嫌」
「かなり」
「ヴァイツマンとエデルマンは?」
「いました」
「どう」
「ヴァイツマンは国家を語る側です。形の必要を言う」
「エデルマンは、形にされた痛みを知ってる側でした」
「薄い自由」
「ええ」
「でも無いよりまし」
「そう言っていました」
リュシアは小さく息を吐いた。
「それ好き」
誠二は少しだけ眉を上げた。
「そこですか」
「矛盾が残ってる感じ」
「好きなんですか」
「そういう嫌な複雑さ」
短い言い方なのに、妙にリュシアらしかった。
何でも単純に割り切れるより、割り切れないまま制度になっている方に、この人は強く反応する。
「建国ではないです」
誠二が言う。
「管理を国家の形にしただけです」
「そこ」
「今日の芯です」
「うん」
机の端から小瓶が押される。
「今日の分」
「飲むんですね」
「飲む」
リュシアは今日は机の向こうではなく、誠二の隣へ来た。
椅子を引いて、何も言わず隣に座る。
肩が近い。
昨日より自然に近い。
「はい」
グラスを渡される。
小さめのグラスが二つ。
量も少ない。
軽く一杯だけ。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
合わせて、一口飲む。
隣で同じ温度の酒を飲む人がいるだけで、気落ちの沈み方が少し変わる。
「どこが一番残ってるの」
リュシアが訊く。
「クレムリンです」
「向こうが本体」
「ええ」
「旗はあるのに」
「決裁が抜けてる」
「二重」
「そうです」
「日本は?」
「最初に承認しました」
「理由」
「理念を背負っていないからです」
「距離」
「はい。実体だけを見て判断しやすい」
「善意じゃない」
「処理可能性です」
リュシアはそこで少しだけ笑った。
大きくはない。
だが、さっきの「それ好き」と同じ種類の反応だった。
「それも好き」
「相変わらず嫌なところに反応しますね」
「きれいじゃない」
「きれいじゃないです」
「でも本当」
「たぶん」
少しの間、隣同士で黙って飲む。
その沈黙が、今日は悪くなかった。
「まだ沈んでる」
リュシアが言う。
「分かりますか」
「分かる」
「そんなに」
「今日は深い」
短い。
だが、その短さがありがたい。
「国家があるのに無い感じ、かなり嫌でした」
誠二が言う。
「うん」
「昨日までの重さの上に、さらに別の嫌さが乗ってる感じです」
「分かる」
「管理で人を救ってるふりをして、管理で配置してる」
「そう」
「しかも当人たちには無いよりまし、が本当でもある」
「そこ好き」
また言う。
誠二は少しだけ笑った。
「やっぱりそこなんですね」
「単純に悪い、だと薄い」
「複雑な方が本当っぽい」
「本当だから」
短く、きっぱり。
それが妙に効いた。
飲み終わっても、気落ちが抜け切らないのをリュシアは見ていた。
グラスを机へ戻し、隣に座ったまま少しだけこちらを向く。
「誠二」
「はい」
「今日は仮眠室、ひとりだと沈む」
誠二は返事を少しだけ遅らせた。
「……そうかもしれません」
「だから」
リュシアが言う。
「隣にいる」
それだけだった。
余計な説明も、甘い言い方もない。
だが断る理由も無いくらいには、ちょうどよかった。
仮眠室へ向かう廊下を、二人で並んで歩く。
足音は小さい。
神界の静けさは相変わらず深い。
だが今日は、隣に人の気配がある分だけ、少し温度があった。
仮眠室へ入ると、ベッドの上には枕が二つ並んでいた。
誠二はそこで少しだけ立ち止まった。
今までこの部屋で、二つの枕を意識したことはなかった。
見えていなかったわけではない。
だが今日は違う。
今日は、使う前提でそこにある。
「今日、これ使うんですね」
「使う」
リュシアは短く答えた。
「初めてです」
「そう」
「少し変な感じがします」
「すぐ慣れる」
言いながら、先にベッドの端へ腰を下ろす。
それから靴を脱ぎ、いつものだるそうな動きで横になる。
誠二も少し遅れて横になった。
距離は近い。
だが抱き合うほどではない。
肩と腕が軽く触れるくらい。
それだけで十分だった。
リュシアが横を向く。
暗さの中で、声だけが落ちる。
「今日はそれでいい」
「はい」
「寝て」
「隣にいてくれるんですね」
「いる」
端的で、曖昧さがない。
誠二は枕へ頭を沈めた。
隣にもう一つの枕が使われている。
それだけで、今日は少し違う夜だった。
「リュシア」
「ん」
「ありがとうございます」
少しだけ間があって、返事が来る。
「いい」
それだけ。
だが、その短さが今はちょうど良かった。
しばらく沈黙が続く。
肩に触れる熱だけがある。
近い。
だが静かだ。
何もしない。
それで十分だった。
共和国庁舎。
クレムリン。
別の中枢。
薄い主権。
配置された人々。
国家の形にされた緩衝地帯。
嫌なものはまだ頭の中に残っている。
だが、ひとりで沈む時の沈み方ではなくなっていた。
「誠二」
リュシアが低く言う。
「はい」
「今日はもう考えない」
「努力します」
「考えてる声」
少しだけ笑ってしまった。
「分かりますか」
「分かる」
「見る仕事」
「そう」
短い会話が終わると、また静かになる。
枕が二つ並んでいる。
その事実だけが、今日は妙に優しかった。
誠二は目を閉じた。
国家はある。
だが主権はそこにない。
敗者を収める場所がないから、管理を国家の形にしただけ。
それでも、そこへ収まるしかない人間がいる。
その重さは消えなかった。
だが、隣に人がいるだけで、少しだけ角が取れていた。
肩に触れる熱を感じながら、誠二はゆっくりと眠りへ落ちていった。




