第7話 東へ――首都を失った国家
移送先の表示に出た都市名を見た時、誠二は最初、その地名そのものよりも、そこに付いている注記に目を引かれた。
東方中枢行政区。
都市名ではない。
首都でもない。
行政区。
「仮のままなんですね」
結晶板を見たまま言うと、隣に立っていたリュシアが短く答えた。
「仮のまま固定してる」
「首都とは言わない」
「言えない」
それだけで、嫌な感じは十分だった。
モスクワ陥落。
西側の象徴都市喪失。
政府中枢、東方移転。
スターリン生存。
国家機能継続。
結晶板に並ぶ要約は、相変わらず乾いている。
だが乾いているからこそ、そこに書かれていないものがよく見える。
負けた。
だが終わっていない。
終わっていないから、処理もされていない。
「死んでないんですね」
誠二が言うと、リュシアは頷いた。
「国家はまだ」
「首都を失っても」
「うん」
「スターリンも」
「生きてる」
そこが一番嫌だった。
指導者が生きている。
国家がまだ、自分を国家だと言い続けられる。
それは延命であり、同時に怨恨の保存でもある。
「終わってない」
誠二が小さく言う。
「処理されてない」
リュシアが返す。
その短いやり取りで十分だった。
それ以上整理する前に、現地を見た方が早い。
移送の光が足元へ広がる。
神界の静けさが薄れ、空気の重みだけが先に変わった。
落ちた先で最初に来たのは、匂いだった。
石炭。
油。
濡れた木材。
人の多さの匂い。
そこへ、暖房と汗と古い紙の匂いまで混じっている。
寒い地方のはずなのに、空気は重かった。
湿っているわけではない。
むしろ乾いている。
だが、狭い場所へ無理やり人と機能を押し込めた時の密度がある。
誠二は周囲を見た。
駅が近い。
いや、駅を中枢の骨にして、その周りへ政府機能を貼りつけた感じだ。
線路。
倉庫。
軍用車両。
荷の積み替え。
急ごしらえの庁舎。
石造りの古い建物へ、看板だけ新しく付けたもの。
兵士。
党職員。
事務官。
避難民。
全部が混ざっている。
首都ではない。
だが、国家の中枢であろうとしている場所だった。
「息苦しいですね」
思わず口に出すと、前で案内役の男が振り返った。
「そう見えるなら、正確です」
五十代半ばくらいだろうか。
軍人ではない。
党官僚か行政官に近いが、胸元の徽章から、政府直属の調整職らしいことが分かる。
顔色は悪くない。
だが、長く寝ていない人間の目をしていた。
「グロモフです」
短く名乗る。
「中枢行政移設委員会。現在の統合調整を担当しています」
「首都移転委員会、ではないんですね」
誠二が言うと、グロモフは一瞬だけ口元を固くした。
「我々は首都を失っていません」
予想どおりの返しだった。
認めない。
少なくとも言葉の上では。
「機能を移しただけです」
「一時的に」
「そうです」
その“一時的”が、もうかなり長い一時であることは、周囲を見れば分かる。
駅舎からつながる通路の先に、いくつもの事務棟が増築されていた。
軍用倉庫を仕切って使っている場所もある。
列車で届く物資。
列車で送る書類。
列車で来る避難官僚。
ここは都市というより、国家中枢を鉄道へ縫い止めた場所だった。
「モスクワを失っても」
誠二が言う。
「国家は止まらない」
「止めていません」
「止められない」
グロモフは訂正しなかった。
むしろ、その違いを気にしていない顔だった。
止めていない。
止められない。
どちらでも、ここでは結果は同じだ。
国家の手続きだけは続いている。
歩き出すと、通路の両側を忙しく人が通り過ぎていく。
軍服。
事務服。
農業関係らしい積算表を抱えた女。
鉄道輸送担当の腕章。
党機関の書記。
地図を持った将校。
誰もが急いでいて、誰もが余裕を持っていない。
それでも回っている。
その回り方が、余計に嫌だった。
「中枢機能はどこまで」
誠二が訊く。
「配給、軍需、鉄道、党機関、治安、対外連絡」
グロモフが即答する。
「司法は」
「縮退」
「外交は」
「最小限」
「首都機能そのものではなく」
「国家機能の生存に必要なものから先に移しました」
それは、正しい。
正しいからこそ不気味だった。
飾りではなく、国家が国家であり続けるための骨だけを先に持ち出した。
その結果、ここには首都の厚みが無い。
文化も、余裕も、象徴も、正統性を演出する広さもない。
だが骨だけはある。
だから生きている。
「首都じゃない」
誠二が低く言う。
「でも国家の骨はある」
「ええ」
グロモフは頷いた。
「それで十分です」
十分。
その言葉に、誠二は少しだけ寒気を覚えた。
国家は、案外それだけで生き延びるのかもしれない。
人がいる。
書類が回る。
命令が下りる。
鉄道が走る。
配給が届く。
軍が従う。
それだけで国家は死なない。
部屋を移るたび、壁の地図が目に入る。
西側は赤線や記号で塗りつぶされ、モスクワには黒い印がある。
ヴォルゴグラード方面も、別の色で抹消に近い扱いを受けていた。
失ったものを明示しながら、なお国家としての地図を作り続けている。
「西側の住民感情は」
誠二が訊くと、グロモフは少しだけ言葉を選んだ。
「整理中です」
「整理できていますか」
「している最中です」
できていない、ということだ。
「再配置」
「避難」
「再編」
「再教育」
男は乾いた声で並べる。
「言葉はあります」
「感情は」
「残ります」
「怨みますか」
グロモフはそこで初めて、誠二をまっすぐ見た。
「首都と象徴都市を失った国家が、何を残すと思われます」
それが答えだった。
怨む。
しかも個人ではなく、国家の形で怨む。
グロモフは歩きながら続けた。
「負けた兵士が怒っているのではありません」
「はい」
「失地と死者と飢えを、配給表と鉄道計画と軍需命令の形で抱えた国家が残っています」
それは誠二が欲しかった言葉に近かった。
個人の恨みではない。
行政命令へ埋め込まれた怨恨だ。
案内された部屋は、会議室というより暫定中枢執務室だった。
広くない。
天井も高くない。
だが電話があり、電信があり、地図があり、鉄道時刻があり、配給一覧があり、軍需表がある。
国家として必要なものだけが詰まっている。
「首都を失っても」
誠二が言う。
「国家は死なないんですね」
グロモフは少しだけ眉を動かした。
「死にません」
「死なないから」
「はい」
「怨恨も国家のまま残る」
その一言に、男はしばらく黙った。
やがて、小さく言った。
「その通りです」
認めるのか、と思った。
だが、ここまで来ると隠す意味もないのかもしれない。
少なくとも、現場で国家を延命させている人間には、感情の実態が見えている。
「スターリン同志は健在です」
グロモフは、その後で言った。
「国家の意志は断絶していない」
やはり、そこへ戻る。
「お会いできますか」
誠二が訊くと、男は首を横に振った。
「必要ありません」
「必要ない」
「ええ」
「命令は生きています。署名もある」
それで十分だ、という意味だった。
姿を見せる必要がない。
存在していることだけで、国家の連続性が成立する。
部屋の奥の机に、最新の指示文書が置かれていた。
そこには確かにスターリンの名がある。
直接の声も、姿もいらない。
名前と署名と命令系統が残る限り、この国家は“まだ国家だ”と自称できる。
「会わない方が怖いですね」
誠二が漏らすと、グロモフは少しだけ口元を引いた。
「そう思われるなら、たぶん正しい」
それもまた、その通りだと思った。
人物として出てこない。
だが、命令の形で全体を押さえている。
それは権力の生存としては、むしろ完成している。
窓の外では、列車が入ってくる音がした。
金属が軋む。
車輪が減速する。
遠くから人の怒鳴り声。
荷を運ぶ声。
ここでは鉄道が血管なのだろう。
西を失ってなお国家が続くのは、東にまだ移せる線路と人員があるからだ。
「敗戦処理は」
誠二が訊く。
グロモフは即答した。
「存在しません」
「講和も」
「ありません」
「補償も」
「ありません」
「国境整理も」
「未了」
「再建工程も」
「無い」
短い返答が積み重なるたびに、誠二はこの場所の危険がはっきりしていくのを感じた。
負けた。
だが処理されていない。
だから国家としての怨恨が、宙に浮いたまま残っている。
「勝者しかいないように見えるんですよ」
誠二は言った。
「この世界」
「表面だけです」
グロモフが返す。
「我々は消えていない」
「ええ」
「消えていないのに、どこにも収められていない」
それを言うと、男は初めて苦く笑った。
「正確です」
誠二は、その笑いの方が怖かった。
怒鳴るでもなく、憎悪をむき出しにするでもなく、現実をそのまま認めた上で残っている。
それが一番危ない。
負けた国家が感情を失っていない。
しかも、その感情が個人の叫びではなく、配給、鉄道、徴兵、教育、宣伝の形で埋め込まれている。
なら、それは時間が経つほど薄まるのではなく、むしろ維持されていく。
「一番危ないのは」
誠二は、地図の黒い印を見ながら言った。
「敗者が消えていないことですね」
「そうです」
「消えていないのに、処理されていない」
「ええ」
「だから国家の形で怨む」
グロモフは頷いた。
その頷きが、今日一日の答えだった。
都市は死ぬ。
だが国家は死にきれない。
死にきれないから、怨恨もまた国家機構の中へ保存される。
しばらくして案内が終わり、誠二はその場を離れた。
駅の裏手へ出ると、積まれた箱、凍りつきかけた泥、倉庫の陰に並ぶ避難民、遠くの煙突、代用庁舎の窓明かりが目に入る。
希望ではない。
再建でもない。
ただ延命のために回している。
国家の執念だけで動いている。
首都を失った国家は、もっと崩れているものだと思っていた。
実際には違う。
崩れないように、必要最低限だけを切り出して東へ持ってきている。
そのみすぼらしさが、逆にしぶとい。
神界へ戻ると、報告区画はいつも通り静かだった。
扉を開けると、リュシアは今日は最初から机に突っ伏すほどではなく、椅子へ斜めに沈んでいた。誠二の顔を見てから、少しだけ姿勢を変え、やがていつも通り机へ胸を預ける。
「おかえり」
「戻りました」
「今日は昨日より、別の重さ」
「そうですね」
「で」
促されて、誠二はそのまま言った。
「国家は死んでませんでした」
「うん」
「首都を失っても」
「そう」
「スターリンも生きてる」
「生きてる」
「だから終わっていない」
リュシアが少しだけ目を細める。
「処理されてない」
「はい」
誠二は椅子へ腰を下ろした。
「都市は死にます。昨日それを見ました」
「うん」
「でも国家は死なない」
「死にきれない」
「その方が近いです」
リュシアは短く頷いた。
「怨みは」
「個人じゃなく、国家機構の中にありました」
「どういう形」
「配給、鉄道、軍需、再教育、宣伝」
「行政の形」
「そうです」
「最悪」
「かなり」
短いやり取りだったが、それで足りた。
「負けた兵士が怒ってるんじゃないんです」
誠二は続ける。
「負けた国家が、怒りを命令の形で持ってる」
リュシアは机に胸を乗せたまま、小さく息を吐いた。
「それは燃える」
「ええ」
「整理しないと残る」
「残ります」
「しかもスターリンが生きてる」
「そこがかなり嫌です」
「会った」
「会っていません」
「でもいる」
「命令書の名前で十分でした」
「そう」
それだけで、この国家はまだ国家だと主張できる。
その連続性が、いちばん面倒なのだ。
「消えてない」
リュシアが言う。
「はい」
「それが一番面倒」
「ええ」
「勝者しかいないように見えるのに」
「一番危ない敗者が残ってる」
「そうです」
リュシアは少しだけ顔を上げた。
「そこ」
「今日の芯です」
「いい」
短い。
だが、十分だった。
机の端から、小瓶が押される。
「今日の分」
「飲むんですね」
「飲む」
「軽く」
「軽く」
小さめのグラスが二つ。
リュシアは今日は机のこちら側ではなく、誠二の隣へ来た。
何も言わずに椅子を引き、すぐ隣へ座る。
肩が少しだけ近い。
それが今日にはちょうどよかった。
「はい」
短く言って、グラスを渡してくる。
「ありがとうございます」
「お疲れ」
「お疲れさまです」
軽く合わせて、一口飲む。
隣に人がいるだけで、重さの沈み方が少し変わる。
「どこが一番残ってるの」
リュシアが訊く。
「強がりです」
「ソ連」
「はい」
「負けたと言わない」
「持ちこたえた、と言う」
「ああ」
「それが国家を延命させてる」
「でも後処理は遅れる」
「そうです」
リュシアはグラスを軽く揺らしながら、少しだけ誠二の肩へ触れるくらいの距離で座っている。
「嫌」
「かなり」
「都市は終わった」
「昨日見ました」
「今日は国家が終わってない」
「ええ」
「だから怨みも残る」
「国家の形で」
「最悪」
「はい」
その一言が、今日見た東方中枢の全部をまとめていた。
「首都を失っても」
誠二が言う。
「国家は死なないんですね」
「うん」
「死なないから、怨恨も処理されない」
「そう」
少しの間、二人とも黙った。
隣同士で黙って飲む時間が、今日は妙に静かだった。
「誠二」
「はい」
「今日は沈み方、深い」
「そんなに」
「分かる」
短く言って、リュシアは肩を軽く寄せてきた。
抱き締めるほどではない。
ただ、隣へ座ったまま近づいて、腕と肩の熱が触れるくらいの距離になる。
「首都のない国家見るの、嫌でしょ」
「嫌です」
「知ってる」
そのまま、少しだけ黙る。
誠二はグラスを置いた。
「都市が終わってるのも嫌でしたけど」
「うん」
「終わってない国家も、かなり嫌でした」
「そう」
「死にきれていない感じがします」
「する」
「でも、だから危ない」
「そう」
リュシアは横から短く返す。
慰めようとしているのに、言葉は相変わらず短い。
それが逆にありがたかった。
「少し楽です」
誠二が言うと、リュシアはそれ以上詮索せず、小さく頷いた。
「それならいい」
しばらくして、また少しだけ肩が触れる。
意識してやっているのか、無意識なのか分からない。
だが、今日はそれで十分だった。
「もう一杯は」
「いりません」
「今日は素直」
「かなり」
「じゃあ寝る」
「はい」
そこで誠二は少し迷ってから言った。
「リュシア」
「ん」
「ありがとうございます」
リュシアは一瞬だけ黙り、それから短く答えた。
「いい」
またそれだけだった。
けれど、それで足りた。
「次は」
リュシアが言う。
「緩衝地帯」
「共和国ですね」
「そう」
「国家にされた区域」
「かなり嫌そうです」
「嫌」
短い断定だった。
「だから今日は寝る」
「はい」
「ちゃんと」
「分かってます」
「よろしい」
仮眠室へ向かう廊下は静かだった。
今日の静けさには、人の熱が少しだけ残っていた。
首都を失った国家は、もっと崩れているものだと思っていた。
実際には違った。
骨だけを東へ運び、命令と鉄道と配給をつないで、国家の形だけは生かしている。
そのしぶとさが、一番危険だった。
仮眠室へ入り、横になる。
目を閉じると、モスクワを失った地図と、東方中枢の雑然とした通路が浮かぶ。
都市は死ぬ。
だが国家は死にきれない。
死にきれないから、怨恨も国家の形で残る。
それを収める制度は、まだどこにもない。
その理解だけを抱えたまま、誠二は静かに意識を手放した。




