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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第7話 東へ――首都を失った国家

 移送先の表示に出た都市名を見た時、誠二は最初、その地名そのものよりも、そこに付いている注記に目を引かれた。


 東方中枢行政区。


 都市名ではない。

 首都でもない。

 行政区。


「仮のままなんですね」


 結晶板を見たまま言うと、隣に立っていたリュシアが短く答えた。


「仮のまま固定してる」


「首都とは言わない」


「言えない」


 それだけで、嫌な感じは十分だった。


 モスクワ陥落。

 西側の象徴都市喪失。

 政府中枢、東方移転。

 スターリン生存。

 国家機能継続。


 結晶板に並ぶ要約は、相変わらず乾いている。

 だが乾いているからこそ、そこに書かれていないものがよく見える。


 負けた。

 だが終わっていない。

 終わっていないから、処理もされていない。


「死んでないんですね」


 誠二が言うと、リュシアは頷いた。


「国家はまだ」


「首都を失っても」


「うん」


「スターリンも」


「生きてる」


 そこが一番嫌だった。


 指導者が生きている。

 国家がまだ、自分を国家だと言い続けられる。

 それは延命であり、同時に怨恨の保存でもある。


「終わってない」


 誠二が小さく言う。


「処理されてない」


 リュシアが返す。


 その短いやり取りで十分だった。

 それ以上整理する前に、現地を見た方が早い。


 移送の光が足元へ広がる。

 神界の静けさが薄れ、空気の重みだけが先に変わった。


 落ちた先で最初に来たのは、匂いだった。


 石炭。

 油。

 濡れた木材。

 人の多さの匂い。

 そこへ、暖房と汗と古い紙の匂いまで混じっている。


 寒い地方のはずなのに、空気は重かった。

 湿っているわけではない。

 むしろ乾いている。

 だが、狭い場所へ無理やり人と機能を押し込めた時の密度がある。


 誠二は周囲を見た。


 駅が近い。

 いや、駅を中枢の骨にして、その周りへ政府機能を貼りつけた感じだ。

 線路。

 倉庫。

 軍用車両。

 荷の積み替え。

 急ごしらえの庁舎。

 石造りの古い建物へ、看板だけ新しく付けたもの。

 兵士。

 党職員。

 事務官。

 避難民。

 全部が混ざっている。


 首都ではない。

 だが、国家の中枢であろうとしている場所だった。


「息苦しいですね」


 思わず口に出すと、前で案内役の男が振り返った。


「そう見えるなら、正確です」


 五十代半ばくらいだろうか。

 軍人ではない。

 党官僚か行政官に近いが、胸元の徽章から、政府直属の調整職らしいことが分かる。

 顔色は悪くない。

 だが、長く寝ていない人間の目をしていた。


「グロモフです」


 短く名乗る。


「中枢行政移設委員会。現在の統合調整を担当しています」


「首都移転委員会、ではないんですね」


 誠二が言うと、グロモフは一瞬だけ口元を固くした。


「我々は首都を失っていません」


 予想どおりの返しだった。

 認めない。

 少なくとも言葉の上では。


「機能を移しただけです」


「一時的に」


「そうです」


 その“一時的”が、もうかなり長い一時であることは、周囲を見れば分かる。


 駅舎からつながる通路の先に、いくつもの事務棟が増築されていた。

 軍用倉庫を仕切って使っている場所もある。

 列車で届く物資。

 列車で送る書類。

 列車で来る避難官僚。

 ここは都市というより、国家中枢を鉄道へ縫い止めた場所だった。


「モスクワを失っても」


 誠二が言う。


「国家は止まらない」


「止めていません」


「止められない」


 グロモフは訂正しなかった。


 むしろ、その違いを気にしていない顔だった。

 止めていない。

 止められない。

 どちらでも、ここでは結果は同じだ。

 国家の手続きだけは続いている。


 歩き出すと、通路の両側を忙しく人が通り過ぎていく。

 軍服。

 事務服。

 農業関係らしい積算表を抱えた女。

 鉄道輸送担当の腕章。

 党機関の書記。

 地図を持った将校。

 誰もが急いでいて、誰もが余裕を持っていない。

 それでも回っている。


 その回り方が、余計に嫌だった。


「中枢機能はどこまで」


 誠二が訊く。


「配給、軍需、鉄道、党機関、治安、対外連絡」


 グロモフが即答する。


「司法は」


「縮退」


「外交は」


「最小限」


「首都機能そのものではなく」


「国家機能の生存に必要なものから先に移しました」


 それは、正しい。

 正しいからこそ不気味だった。


 飾りではなく、国家が国家であり続けるための骨だけを先に持ち出した。

 その結果、ここには首都の厚みが無い。

 文化も、余裕も、象徴も、正統性を演出する広さもない。

 だが骨だけはある。

 だから生きている。


「首都じゃない」


 誠二が低く言う。


「でも国家の骨はある」


「ええ」


 グロモフは頷いた。


「それで十分です」


 十分。

 その言葉に、誠二は少しだけ寒気を覚えた。

 国家は、案外それだけで生き延びるのかもしれない。

 人がいる。

 書類が回る。

 命令が下りる。

 鉄道が走る。

 配給が届く。

 軍が従う。

 それだけで国家は死なない。


 部屋を移るたび、壁の地図が目に入る。

 西側は赤線や記号で塗りつぶされ、モスクワには黒い印がある。

 ヴォルゴグラード方面も、別の色で抹消に近い扱いを受けていた。

 失ったものを明示しながら、なお国家としての地図を作り続けている。


「西側の住民感情は」


 誠二が訊くと、グロモフは少しだけ言葉を選んだ。


「整理中です」


「整理できていますか」


「している最中です」


 できていない、ということだ。


「再配置」


「避難」


「再編」


「再教育」


 男は乾いた声で並べる。


「言葉はあります」


「感情は」


「残ります」


「怨みますか」


 グロモフはそこで初めて、誠二をまっすぐ見た。


「首都と象徴都市を失った国家が、何を残すと思われます」


 それが答えだった。

 怨む。

 しかも個人ではなく、国家の形で怨む。


 グロモフは歩きながら続けた。


「負けた兵士が怒っているのではありません」


「はい」


「失地と死者と飢えを、配給表と鉄道計画と軍需命令の形で抱えた国家が残っています」


 それは誠二が欲しかった言葉に近かった。

 個人の恨みではない。

 行政命令へ埋め込まれた怨恨だ。


 案内された部屋は、会議室というより暫定中枢執務室だった。

 広くない。

 天井も高くない。

 だが電話があり、電信があり、地図があり、鉄道時刻があり、配給一覧があり、軍需表がある。

 国家として必要なものだけが詰まっている。


「首都を失っても」


 誠二が言う。


「国家は死なないんですね」


 グロモフは少しだけ眉を動かした。


「死にません」


「死なないから」


「はい」


「怨恨も国家のまま残る」


 その一言に、男はしばらく黙った。

 やがて、小さく言った。


「その通りです」


 認めるのか、と思った。

 だが、ここまで来ると隠す意味もないのかもしれない。

 少なくとも、現場で国家を延命させている人間には、感情の実態が見えている。


「スターリン同志は健在です」


 グロモフは、その後で言った。


「国家の意志は断絶していない」


 やはり、そこへ戻る。


「お会いできますか」


 誠二が訊くと、男は首を横に振った。


「必要ありません」


「必要ない」


「ええ」


「命令は生きています。署名もある」


 それで十分だ、という意味だった。

 姿を見せる必要がない。

 存在していることだけで、国家の連続性が成立する。


 部屋の奥の机に、最新の指示文書が置かれていた。

 そこには確かにスターリンの名がある。

 直接の声も、姿もいらない。

 名前と署名と命令系統が残る限り、この国家は“まだ国家だ”と自称できる。


「会わない方が怖いですね」


 誠二が漏らすと、グロモフは少しだけ口元を引いた。


「そう思われるなら、たぶん正しい」


 それもまた、その通りだと思った。

 人物として出てこない。

 だが、命令の形で全体を押さえている。

 それは権力の生存としては、むしろ完成している。


 窓の外では、列車が入ってくる音がした。

 金属が軋む。

 車輪が減速する。

 遠くから人の怒鳴り声。

 荷を運ぶ声。

 ここでは鉄道が血管なのだろう。

 西を失ってなお国家が続くのは、東にまだ移せる線路と人員があるからだ。


「敗戦処理は」


 誠二が訊く。


 グロモフは即答した。


「存在しません」


「講和も」


「ありません」


「補償も」


「ありません」


「国境整理も」


「未了」


「再建工程も」


「無い」


 短い返答が積み重なるたびに、誠二はこの場所の危険がはっきりしていくのを感じた。


 負けた。

 だが処理されていない。

 だから国家としての怨恨が、宙に浮いたまま残っている。


「勝者しかいないように見えるんですよ」


 誠二は言った。


「この世界」


「表面だけです」


 グロモフが返す。


「我々は消えていない」


「ええ」


「消えていないのに、どこにも収められていない」


 それを言うと、男は初めて苦く笑った。


「正確です」


 誠二は、その笑いの方が怖かった。

 怒鳴るでもなく、憎悪をむき出しにするでもなく、現実をそのまま認めた上で残っている。

 それが一番危ない。


 負けた国家が感情を失っていない。

 しかも、その感情が個人の叫びではなく、配給、鉄道、徴兵、教育、宣伝の形で埋め込まれている。

 なら、それは時間が経つほど薄まるのではなく、むしろ維持されていく。


「一番危ないのは」


 誠二は、地図の黒い印を見ながら言った。


「敗者が消えていないことですね」


「そうです」


「消えていないのに、処理されていない」


「ええ」


「だから国家の形で怨む」


 グロモフは頷いた。


 その頷きが、今日一日の答えだった。


 都市は死ぬ。

 だが国家は死にきれない。

 死にきれないから、怨恨もまた国家機構の中へ保存される。


 しばらくして案内が終わり、誠二はその場を離れた。

 駅の裏手へ出ると、積まれた箱、凍りつきかけた泥、倉庫の陰に並ぶ避難民、遠くの煙突、代用庁舎の窓明かりが目に入る。

 希望ではない。

 再建でもない。

 ただ延命のために回している。

 国家の執念だけで動いている。


 首都を失った国家は、もっと崩れているものだと思っていた。

 実際には違う。

 崩れないように、必要最低限だけを切り出して東へ持ってきている。

 そのみすぼらしさが、逆にしぶとい。


 神界へ戻ると、報告区画はいつも通り静かだった。


 扉を開けると、リュシアは今日は最初から机に突っ伏すほどではなく、椅子へ斜めに沈んでいた。誠二の顔を見てから、少しだけ姿勢を変え、やがていつも通り机へ胸を預ける。


「おかえり」


「戻りました」


「今日は昨日より、別の重さ」


「そうですね」


「で」


 促されて、誠二はそのまま言った。


「国家は死んでませんでした」


「うん」


「首都を失っても」


「そう」


「スターリンも生きてる」


「生きてる」


「だから終わっていない」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「処理されてない」


「はい」


 誠二は椅子へ腰を下ろした。


「都市は死にます。昨日それを見ました」


「うん」


「でも国家は死なない」


「死にきれない」


「その方が近いです」


 リュシアは短く頷いた。


「怨みは」


「個人じゃなく、国家機構の中にありました」


「どういう形」


「配給、鉄道、軍需、再教育、宣伝」


「行政の形」


「そうです」


「最悪」


「かなり」


 短いやり取りだったが、それで足りた。


「負けた兵士が怒ってるんじゃないんです」


 誠二は続ける。


「負けた国家が、怒りを命令の形で持ってる」


 リュシアは机に胸を乗せたまま、小さく息を吐いた。


「それは燃える」


「ええ」


「整理しないと残る」


「残ります」


「しかもスターリンが生きてる」


「そこがかなり嫌です」


「会った」


「会っていません」


「でもいる」


「命令書の名前で十分でした」


「そう」


 それだけで、この国家はまだ国家だと主張できる。

 その連続性が、いちばん面倒なのだ。


「消えてない」


 リュシアが言う。


「はい」


「それが一番面倒」


「ええ」


「勝者しかいないように見えるのに」


「一番危ない敗者が残ってる」


「そうです」


 リュシアは少しだけ顔を上げた。


「そこ」


「今日の芯です」


「いい」


 短い。

 だが、十分だった。


 机の端から、小瓶が押される。


「今日の分」


「飲むんですね」


「飲む」


「軽く」


「軽く」


 小さめのグラスが二つ。

 リュシアは今日は机のこちら側ではなく、誠二の隣へ来た。

 何も言わずに椅子を引き、すぐ隣へ座る。

 肩が少しだけ近い。

 それが今日にはちょうどよかった。


「はい」


 短く言って、グラスを渡してくる。


「ありがとうございます」


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 軽く合わせて、一口飲む。

 隣に人がいるだけで、重さの沈み方が少し変わる。


「どこが一番残ってるの」


 リュシアが訊く。


「強がりです」


「ソ連」


「はい」


「負けたと言わない」


「持ちこたえた、と言う」


「ああ」


「それが国家を延命させてる」


「でも後処理は遅れる」


「そうです」


 リュシアはグラスを軽く揺らしながら、少しだけ誠二の肩へ触れるくらいの距離で座っている。


「嫌」


「かなり」


「都市は終わった」


「昨日見ました」


「今日は国家が終わってない」


「ええ」


「だから怨みも残る」


「国家の形で」


「最悪」


「はい」


 その一言が、今日見た東方中枢の全部をまとめていた。


「首都を失っても」


 誠二が言う。


「国家は死なないんですね」


「うん」


「死なないから、怨恨も処理されない」


「そう」


 少しの間、二人とも黙った。

 隣同士で黙って飲む時間が、今日は妙に静かだった。


「誠二」


「はい」


「今日は沈み方、深い」


「そんなに」


「分かる」


 短く言って、リュシアは肩を軽く寄せてきた。

 抱き締めるほどではない。

 ただ、隣へ座ったまま近づいて、腕と肩の熱が触れるくらいの距離になる。


「首都のない国家見るの、嫌でしょ」


「嫌です」


「知ってる」


 そのまま、少しだけ黙る。


 誠二はグラスを置いた。


「都市が終わってるのも嫌でしたけど」


「うん」


「終わってない国家も、かなり嫌でした」


「そう」


「死にきれていない感じがします」


「する」


「でも、だから危ない」


「そう」


 リュシアは横から短く返す。

 慰めようとしているのに、言葉は相変わらず短い。

 それが逆にありがたかった。


「少し楽です」


 誠二が言うと、リュシアはそれ以上詮索せず、小さく頷いた。


「それならいい」


 しばらくして、また少しだけ肩が触れる。

 意識してやっているのか、無意識なのか分からない。

 だが、今日はそれで十分だった。


「もう一杯は」


「いりません」


「今日は素直」


「かなり」


「じゃあ寝る」


「はい」


 そこで誠二は少し迷ってから言った。


「リュシア」


「ん」


「ありがとうございます」


 リュシアは一瞬だけ黙り、それから短く答えた。


「いい」


 またそれだけだった。

 けれど、それで足りた。


「次は」


 リュシアが言う。


「緩衝地帯」


「共和国ですね」


「そう」


「国家にされた区域」


「かなり嫌そうです」


「嫌」


 短い断定だった。


「だから今日は寝る」


「はい」


「ちゃんと」


「分かってます」


「よろしい」


 仮眠室へ向かう廊下は静かだった。

 今日の静けさには、人の熱が少しだけ残っていた。


 首都を失った国家は、もっと崩れているものだと思っていた。

 実際には違った。

 骨だけを東へ運び、命令と鉄道と配給をつないで、国家の形だけは生かしている。

 そのしぶとさが、一番危険だった。


 仮眠室へ入り、横になる。

 目を閉じると、モスクワを失った地図と、東方中枢の雑然とした通路が浮かぶ。


 都市は死ぬ。

 だが国家は死にきれない。

 死にきれないから、怨恨も国家の形で残る。


 それを収める制度は、まだどこにもない。


 その理解だけを抱えたまま、誠二は静かに意識を手放した。

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