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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第6話 廃都――ヴォルゴグラード

 移動先表示に出た地名を見た時、誠二は最初、少しだけ目を止めた。


 ヴォルゴグラード。


 見慣れたはずの地名だ。

 知らないわけではない。

 だが、第99世界のここまでの流れを考えると、むしろ引っかかる。


「スターリングラードじゃないんですね」


 神界の移送区画で、誠二は結晶板を見たまま言った。


 隣に立つリュシアは、今日もやる気があるのか無いのかよく分からない姿勢だった。立ってはいる。だが立っているだけで、ちゃんと立つ気はあまり無さそうだ。肩から力が抜けていて、けれど視線だけは結晶板の文字をきっちり追っている。


「戻ってる」


 短く答える。


「戻した、の方が近いですか」


「そっち」


 それだけで、もう嫌だった。


 スターリングラード。

 ソ連にとっては象徴の名だ。

 それがヴォルゴグラードへ戻っている。

 もし平時の話なら、政治的な整理や歴史的な修正とも言える。

 だが第99世界で、その名前の戻り方は違う。


「維持できなかった」


 誠二が言うと、リュシアは頷いた。


「うん」


「だから、名前ごと抱えきれなくなった」


「そう」


 結晶板には短い管理要約しか出ていない。


 第99世界。

 スターリングラードにおいてドイツが核を実戦使用。

 都市機能壊滅。

 ソ連残存行政、都市維持不能。

 行政単位をヴォルゴグラードへ再編。

 人口・産業・軍政機能、大幅喪失。


 あまりにも乾いた書き方だった。

 だが、乾いた書き方だからこそ逆に分かる。


 これは再建ではない。

 再編という名の放棄だ。


「案内は」


 誠二が訊く。


「ソ連残存政府の地方行政担当」


「残存政府」


「国家は死んでない、って言いたい側」


「でも都市は死んだ」


「そう」


 相変わらず短い。

 短いが、その短さの中に要るものは全部ある。


 誠二はもう一度、ヴォルゴグラードの文字を見た。


「核は一度使われた」


「使われた」


「都市は終わった」


「終わった」


「でも止める制度はない」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「嫌」


「かなり」


「だから行く」


「はい」


 結晶板が閉じる。

 移送準備の光が足元に広がる。


 誠二は小さく息を吐いた。


 海の話は、まだ乾いていた。

 油と港と時間。

 嫌でも動かす理由が見える。

 だが、これから見るのは都市の死だ。

 しかも、一度死んだ都市を誰もちゃんと制度へ入れられていない世界の現実だった。


 移送が始まる。


 神界の無音から落ちた先で、最初に来たのは風だった。


 熱ではない。

 海の塩気もない。

 乾いていて、細かい砂と灰みたいなものを含んだ風。


 誠二は目を細めた。


 空は広かった。

 広すぎて、余計に嫌だと思った。

 都市の空は、本来ならもっと狭い。建物が切り取り、煙突が線を引き、どこかで人の音が跳ね返ってくる。ここは違う。開きすぎている。何も支えていない空が、そのまま剥き出しになっていた。


「……広いですね」


 独り言みたいに出た言葉に、横で案内役の男が反応した。


「都市だった頃より、です」


 ロシア語訛りの残る、少し硬い共通語だった。


 男は五十前後だろうか。軍人ではない。行政官の痩せ方をしている。制服とも背広ともつかない実務服に、寒冷地仕様だった名残を感じる厚めの布地。だが、この風の中ではそれすら少し場違いに見えた。


「イワノフと申します」


 短く名乗る。


「現地行政調整局。……正確には、旧スターリングラード地区の残存整理を担当しています」


 “旧”を入れるところに、本人の諦めと意地の両方があった。


 誠二は周囲を見た。


 道路はあった。

 だが道路として使われている感じが薄い。

 直線だけが遠くまで伸び、その両側に、建物だったものの残骸と、空地と、剥がれた壁面と、半端に残った梁が見える。

 壊れたというより、都市が途中で機能を止めたあと、そのまま放置された感じだった。


 駅舎らしいものが遠くに見える。

 だが窓は抜け、屋根も半ば落ち、そこへ人が集まり列車を待つ情景は、どう想像しても乗らない。

 広場らしき空間もある。

 だが広場として使われていない。

 人の流れも、店も、掲示も、何もない。

 空間だけが残っている。


「都市ではないですね」


 誠二が言うと、イワノフは少しだけ口元を引いた。


「厳密には、行政単位としての都市です」


「機能は」


「最低限」


「人口は」


「残っています」


「都市としては」


「……答えにくい質問です」


 答えにくいという返し方が、むしろ答えになっていた。

 残っている。

 だが戻ってはいない。

 ここは“都市の残骸に人が住んでいる区域”であって、もう普通の意味の都市ではない。


 イワノフは歩きながら説明した。


「名称はヴォルゴグラードへ戻しました」


「スターリングラードを維持できなかったから」


 誠二がそのまま言うと、男は一瞬だけこちらを見た。

 否定しない。

 だが、簡単にも肯定しない。


「スターリングラードという名は、戦いと勝利の象徴でした」


「はい」


「象徴を維持するには、維持できる都市が必要です」


 それは静かな言い方だった。

 けれど、かなり痛い言葉だった。


「いまここにあるのは、象徴ではない」


「最低限の行政と、最低限の居住です」


「だからヴォルゴグラードへ戻した」


「そうです」


 誠二は、その返答に少しだけ寒気を覚えた。

 名前が戻ったのではない。

 名前ごと抱えきれなくなったのだ。

 スターリングラードという名は、勝利と抵抗の象徴として重すぎた。核で死んだあと、その重さに行政が耐えられなくなった。だから、元の名へ戻した。戻したというより、降ろした。


 風がまた吹いた。

 細かい灰か砂か分からないものが靴の周りを流れていく。


「爆心地の方へ行きますか」


 イワノフが言う。


「見せるために案内しているなら、そこですよね」


「ええ」


 皮肉を言ったつもりはなかったが、少しそう聞こえたかもしれない。

 男は気にしない様子で歩き続ける。


 途中、標識が一本だけ立っていた。

 塗装は剥げかけている。

 それでも文字は読めた。


 ヴォルゴグラード。


 誠二は足を止めて、その標識をしばらく見た。


 新しく作り直したものではない。

 古い看板の上へ、名前だけ修正したような安っぽい処理だ。

 それがまた嫌だった。

 都市の復活を宣言する看板ではない。

 行政区画の名札を、とりあえず付け替えただけの看板。


「再建のためではありません」


 イワノフが、誠二の視線の先を見ながら言う。


「残ったものを扱うためです」


「住民、土地、台帳、徴発、配給」


「……はい」


「都市を生かすためじゃない」


「そうです」


 その答えは、誠二の中でかなり重く沈んだ。


 核は都市を壊すだけではない。

 壊れたあと、残骸を“行政単位”としてしか扱えなくする。

 人がまだいる。

 土地もある。

 道路も線路も、完全には消えない。

 だが都市機能は戻らない。

 すると行政は、都市ではなく区域として扱い始める。

 その瞬間、街は街であることを終える。


 爆心地に近づくにつれ、その感覚はさらに強くなった。


 何もないわけではない。

 むしろ、何かが残りすぎている。

 壁の一部。

 半分だけ立った建物。

 骨組みだけ残った工場。

 途中で切れた配管。

 道路のひび割れた線。

 だが、それらが互いに都市として繋がっていない。

 全部が切れている。

 切れているから、見れば見るほど“終わった”感じがする。


「破壊そのものより」


 誠二は言った。


「繋がってないのが嫌ですね」


 イワノフは少しだけ驚いたようだった。


「繋がっていない」


「はい。建物が壊れているのは分かる。でも、それ以上に、都市として回るはずの線が全部切れてる」


「水道」


「ええ」


「電力」


「交通」


「配給」


「行政」


 男は一つずつ頷く。


「その通りです」


「一撃で勝つための兵器じゃない」


 誠二は、目の前の空白を見ながら続けた。


「一撃で都市を行政不能にする兵器だ」


 イワノフはそこで、足を止めた。


 少しだけこちらを見る。

 気分を害したのではない。

 むしろ、その言い方の方が実務に近いと思った顔だった。


「軍人は、別の言い方をします」


「戦局決定、とか」


「ええ」


「戦争短縮、効率化、決定打」


「そういう言葉ですね」


 誠二は小さく息を吐いた。

 やはりそうかと思う。

 ドイツ側はたぶん、都市を殺したことを軍事用語へ翻訳している。

 合理化。

 決定。

 短縮。

 そういう言葉で包めば、一度使った核も戦局処理の一手として並ぶ。


「ですが」


 イワノフが静かに言う。


「こちらから見ると、都市が終わっただけです」


 その一言が、目の前の空白よりずっと重く響いた。


 都市が終わった。

 人が死んだ、建物が壊れたではなく、都市という単位が終わった。

 広場も駅も工場も役所も、互いにつながらなくなった。

 だからスターリングラードではいられない。

 だからヴォルゴグラードへ戻る。

 それは後退ではなく、終わりを認める行政処理だった。


 少し離れた場所に、仮設めいた建物群が見えた。

 行政の残存拠点らしい。

 人の出入りがある。

 だが少ない。

 都市を支える流れではなく、残務処理の流れだ。


「ソ連残存政府は、ここをどう見ているんです」


 誠二が訊く。


 イワノフは即答しなかった。

 歩きながら、少しだけ時間を置いて言う。


「失ったとは言いません」


「でしょうね」


「奪われたとも、なるべく言わない」


「では」


「持ちこたえた、と言います」


 誠二は少しだけ目を閉じた。

 その言葉の痛さが、よく分かる。

 国家は、簡単に“負けた”とは言わない。

 都市を維持できなくても、首都を失っても、国家そのものが残る限り、言葉だけは立たせ続ける。

 その強がりが、国家を延命させることもある。

 だが同時に、後処理を遅らせる。


「国家は死んでない」


「はい」


「でも都市は死んだ」


「そうです」


 それで十分だった。


 少しして、ドイツ側が残した行政記録の写しを見せられた。

 戦局決定。

 戦闘長期化防止。

 包囲継続による消耗回避。

 敵戦力の機能的停止。

 言葉は乾いていた。

 だが、乾いているからこそ余計に嫌だった。


 ここには怒りも狂気も書かれていない。

 あるのは計算だけだ。

 都市を殺したという現実を、“決定打”という軍事言語へきれいに折り畳んでいる。


「合理化されてる」


 誠二が言うと、イワノフは答えた。


「そうでなければ、使えません」


 それも事実だった。

 兵器を使う側は、使ったあとに自分を保つための言葉を要る。

 だから合理化する。

 効率化と言う。

 短縮と言う。

 戦局決定と言う。

 その言葉が育つ限り、一度使われた核は、次にも使われうる。


 誠二はヴォルゴグラードの標識をもう一度見た。

 戻った名前。

 だが再生の名前ではない。

 捨てた象徴の代わりにつけた、最低限の行政名だ。


 都市が一つ死んでいる。

 それなのに世界の側は、まだそれを管理対象にできていない。


 一度使われた。

 それなのに次を止める仕組みが無い。


 そこまで考えた時、誠二はようやくこの重さを自分の中へ収められた気がした。


 海は、まだ回している場所だった。

 ここは違う。

 ここはもう、回らなくなったあとを片付け続けている場所だ。


 神界へ戻った時、誠二は昨日よりさらに静かに疲れていた。


 報告区画の扉を開けると、リュシアはやっぱりやる気の無い姿勢で座っていた。椅子に深く沈んでいて、誠二の顔を見ると少しだけ視線を上げ、そのまま机へ身体を預ける。机に胸を乗せるまでの動きが、すでにいつも通りだった。


「おかえり」


「戻りました」


「重い顔」


「重かったです」


「で」


 短く促されて、誠二はそのまま言った。


「スターリングラードは、壊れたんじゃないです」


「うん」


「終わってました」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「ヴォルゴグラード」


「はい」


「戻した」


「戻したというより、抱えきれなくなって降ろした感じです」


「そう」


「再建ではありません。放棄に近い」


「重い」


「かなり」


 誠二は椅子へ腰を下ろし、続けた。


「建物が残っている場所はあります。でも、都市として繋がっていない。駅も広場も役所も、全部が区域単位で残っているだけです」


「都市じゃない」


「ええ」


「死んでる」


「そうです」


 リュシアは一度だけ目を閉じた。


「嫌」


「かなり嫌でした」


「核」


「兵器じゃないです」


「うん」


「都市終了装置です」


 それを聞いて、リュシアは静かに頷いた。


「そこ」


「今日の一番嫌なところです」


「いい」


 短い。

 だが、それで足りた。


「ドイツ側は合理化しています」


 誠二が言う。


「戦局決定、戦争短縮、効率化」


「そう言う」


「はい」


「使った側は、そう言わないと次も使う」


 その言い方は短かったが、十分に嫌だった。


「ソ連側は」


 リュシアが続きを促す。


「負けたと言わない」


「言わない」


「持ちこたえた、と言う」


「ああ」


「国家は死んでない」


「でも都市は死んだ」


「そうです」


 机に胸を乗せたまま、リュシアは少しだけ息を吐いた。


「一回使って終わりじゃない」


「なってません」


「それが最悪」


「ええ」


 そこで誠二は、胸の奥に残っていたものを、そのまま言葉にした。


「爆発の瞬間より、そのあと街が街じゃなくなってる方が嫌でした」


 リュシアは少しだけ顔を上げた。


「死ぬのは人だけじゃない」


 それだけだった。

 だが、その短さの中に今日見たものが全部入っていた。


 リュシアが机の端の小瓶を指先で押す。


「今日の分」


「飲むんですね」


「飲む」


「軽く」


「軽く」


 いつもの小さめのグラスが二つ。

 注がれる量も少ない。

 誠二が受け取ると、リュシアは机に胸を乗せたまま片手で自分のグラスを持った。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 軽く合わせて、一口だけ飲む。

 喉を落ちていく温度に合わせて、ヴォルゴグラードの空白が少しだけ遠くなる。


「どこが一番残ってるの」


 リュシアが訊く。


「名前です」


「ヴォルゴグラード」


「はい」


「戻ったんじゃない」


「降ろしたんです」


「スターリングラードを」


「維持できないから」


「そう」


 リュシアは短く頷いた。


「象徴を抱えきれない」


「ええ」


「だから名前を外す」


「それが一番、終わった感じでした」


 リュシアは少しの間、何も言わなかった。

 机へ身体を預けたまま、グラスを持つ指だけがわずかに動く。


「国家は残る」


 やがて、そう言った。


「はい」


「でも都市は残らない」


「ええ」


「それでも、みんな次を止める話をしない」


「しません」


「嫌」


「かなり」


 誠二はグラスを見たまま続ける。


「一度使われたのに、次を止める制度が無いんです」


「うん」


「都市が一つ死んでるのに、世界の側はまだそれを管理対象にできていない」


「そう」


 リュシアはそこで、机から少しだけ身体を起こした。


「誠二」


「はい」


「こっち」


 一瞬だけ意味を取り損ねたが、すぐに分かった。


 誠二が立って机の方へ寄ると、リュシアはそのまま腕を伸ばし、軽く引き寄せた。前にやったような、短く、けれど逃がさない抱き方だった。机越しではあるが、距離は思ったより近い。肩口に額が触れそうなくらいで止まる。


「今日は沈んでる」


 リュシアが言う。


「そんなに分かりますか」


「分かる」


 誠二は少しだけ目を閉じた。

 海の上で張っていたものとも違う。

 今日の沈み方は、もっと底の方へ重い。


「都市が死んだの見たから」


 リュシアが続ける。


「嫌でしょ」


「嫌です」


「知ってる」


 そのまま、もう一拍だけ置く。

 慰めるための長さではない。

 けれど、短すぎもしない。

 それが妙にちょうどよかった。


 誠二は低く言った。


「……少し、楽です」


「そう」


 リュシアはそれ以上言わず、今度はすぐに離さなかった。さっきより近い。強くはないが、離す気配も急がない。誠二の肩へ軽く額を預けたまま、声だけが落ちる。


「重いの見た日は、少し寄せた方が戻る」


 その言い方が、妙にリュシアらしかった。

 優しいことを言っているのに、言葉の形はあくまで短い。

 甘やかしているのに、口調は管理に近い。


「戻れてますか」


「まだ少し沈んでる」


「正直ですね」


「見る仕事」


 誠二は、そこで少しだけ笑った。

 そういう返し方をするから、この人はリュシアなのだと思う。


 ようやく手が離れる。

 離れたあとも、距離はさっきまでより近いままだった。

 誠二が椅子へ戻るまで、リュシアは机に肘をついたままこちらを見ている。


「もう一杯は」


「いりません」


「今日は素直」


「かなり」


「じゃあ寝る」


「はい」


 そこで誠二は少し迷ったが、そのまま言った。


「リュシア」


「ん」


「ありがとうございます」


 リュシアは一瞬だけ黙って、それから短く答えた。


「いい」


 それだけだった。

 けれど、それで十分だった。


「明日は東」


 リュシアが言う。


「首都を失った国家ですね」


「そう」


「今日より、たぶん政治が重い」


「でしょうね」


「だから寝て」


「はい」


「今日はちゃんと」


「分かってます」


「よろしい」


 報告区画を出て、仮眠室へ向かう廊下は静かだった。

 今日の静けさは、少しだけ違った。

 ヴォルゴグラードの空白はまだ残っている。

 だが、それだけではない。

 肩と胸元に残った短い熱も、まだある。


 仮眠室へ入って横になる。

 目を閉じると、標識の文字が浮かぶ。


 ヴォルゴグラード。


 戻った名前ではない。

 抱えきれなくなって降ろした名前だ。


 核は都市を壊したのではない。

 都市を終わらせた。

 それなのに、この世界にはまだ次を止める制度がない。


 その理解は重いままだった。

 だが、さっきより少しだけ、人の身体へ戻っている感覚もあった。


 誠二は、そのまま静かに意識を手放した。

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