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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第4話 帰還――沈められた者が戦場へ戻れる

 海は、沈めたあとも静かだった。


 英側の駆逐艦が速度をわずかに落とし、船団の外へ救助艇を出す準備に入っているのが、比叡の昼戦艦橋からでも分かった。水柱はもう消え、海面には薄く油が広がっている。黒い。だが一面を覆うほどではない。その半端さが、つい今しがたまでそこに一隻の潜水艦がいたことを、かえって生々しくしていた。


 誠二は双眼鏡を受け取り、海面の一点へ向けた。


 油膜。

 破片。

 波の谷に沈み、次のうねりで押し上げられる黒い点。


「生存者らしきもの、三」


 見張りの声が飛ぶ。


「いや、四」


 別の声が重なった。


 数字が揺れるのが嫌だった。揺れているということは、まだ人として確定していないということだ。破片と人影の境目が曖昧な海の上では、救助は人命保護である前に確認作業になる。


「英側救助艇、降下」


 通信士官が伝える。


「日本側補助艇、待機」


 船団はそのまま北へ進ませる。そこを止めないのが、この海の最優先だ。沈んだ潜水艦より、積まれた原油の方が国家の喉に近い。理屈としては分かる。だが、理屈として分かることと、目の前で人影が浮いているのを見ることは別だった。


 山口は双眼鏡を下ろさなかった。


「二隻目に注意」


 命令が短い。


「英艇の回収域外、引き続き索敵」


 航空参謀が応じる。


「流星、なお追尾圏維持。海面変化の再確認に入らせます」


 流星。

 翔鶴から上がった三人乗りの艦攻。

 翼下に六十キロ爆弾を四つぶら下げたまま、結局一発も使わず、今日は目として働き続けている。


 日本が見つけた。

 英国が沈めた。

 その分担は綺麗だった。

 だが、綺麗に見えるものほど、どこで無理をしているのか分かりにくい。


 救助艇が海面へ下りる。英側が先行し、日本側は外へ寄りすぎない距離を維持している。撃沈地点そのものに日本が前へ出ないのは、さっきと同じだ。役割分担。責任の線。救助ですら、誰がどこまで前へ出るかが、そのまま次の処理権へつながる。


「徹底してますね」


 誠二が言うと、山口は視線を海へ向けたまま答えた。


「徹底しないと荒れます」


「助けるだけでも」


「助けるだけでも」


 乾いた返答だったが、事実なのだろう。海の上では、善意だけで手を伸ばすと、そのあとで国が揉める。


 しばらくして、英側から第一報が入る。


「生存者を確認。収容開始」


 誰も安堵しない。

 確認できたから終わりではない。

 むしろそこからが始まりだと、この艦橋の空気は最初から知っている。


 第二報。


「生存者、複数。士官級らしき人物一名」


 それで空気が少し変わった。


 海の上で“士官級”は、ただの人命ではない。

 情報だ。

 責任だ。

 戦後処理の火種だ。


 山口がようやく双眼鏡を下ろす。


「収容先は」


「英側駆逐艦が先行します」


 当然だった。撃沈の主体は英国。近接対潜処理も英側管轄。ここでの一次収容を英側が取るのは筋が通っている。だから日本側は止めない。止めないが、それで全部を渡し切るとも限らない。その曖昧さが、第99世界ではいつも後から効いてくるのだろう。


 昼戦艦橋には熱が溜まり続けていた。朝から貼りついていた熱が、正午を越えてもう一段だけ重くなったように感じる。誠二は双眼鏡を返し、海図へ視線を落とした。船団は速度維持。英駆逐艦一隻は救助へ回っているが、残りは近接護衛を外していない。流れを崩さない。その徹底ぶりは、この海が“戦場”ではなく“喉元”であることの証明でもあった。


 英側からの第三報が入ったのは、それから少ししてからだった。


「回収生存者、ドイツ語を使用。Uボート乗員であることを確認」


 当然といえば当然の確認だった。だが、確認されると現実味が増す。


「士官級一名、階級章あり」


 山口の目が少しだけ細くなった。


「誰だ」


「現在確認中」


 短い沈黙が落ちる。


 艦橋にいる全員が、それぞれ違う計算を始めているのが分かった。英側は尋問価値を測るだろう。日本側は扱いの線を考えるだろう。誠二は、そのどちらにも属さない位置で、それでもこの話が戦術から制度へ移る瞬間を見ていた。


 英側連絡士官が艦橋へ上がってきたのは、それから数分後だった。普段は抑えた顔つきの男だが、今回は明らかに顔色が違っている。


「確認が取れました」


 英語の響きが、いつもより少しだけ硬い。


「艦長です」


「名は」


 山口が訊く。


 連絡士官は一瞬だけ息を整えた。


「ヨアヒム・シェプケ」


 それだけだった。

 だが、それで十分だった。


 艦橋の空気が、一段だけ変わる。

 ただの生存者ではない。

 ただの士官でもない。

 名前が付いた瞬間に、沈没地点が政治案件へ変わる。


 英側連絡士官は続けた。


「U-100艦長。身元確認は英側で進行中ですが、ほぼ間違いありません」


 誠二はその名前を頭の中で反芻した。知らない名前ではない。軍事史の細部に明るくなくても、Uボート戦の象徴の一つとして耳に入る程度には有名だ。その男が今、英国に沈められ、日本の旗艦の管制下にある海域で拾われた。


「面倒だな」


 山口が低く言った。


 それは感想であり、結論でもあった。


「そんなに」


 誠二が訊くと、山口は短く答えた。


「有名人です」


 それで足りる。

 有名な艦長は兵で終わらない。

 宣伝になる。

 戦果になる。

 交渉材料にもなる。


 ほどなくして、英側から正式な要請が入った。


 スマーヴィルからの文面は簡潔で、実務的だった。


 撃沈の主体は英国海軍。

 近接対潜処理も英国担当。

 ゆえに回収生存者、特に艦長シェプケに対する管理、事情聴取、尋問権は英国側にある。

 これは戦果の所有を争う話ではなく、海戦処理の責任範囲に属する。


「筋は通っていますね」


 誠二が言うと、山口は頷いた。


「通っています」


「では、そのまま英側へ」


「そう簡単でもない」


 そこでようやく、山口は誠二の方を見た。


「日本はドイツと正式交戦していません」


 誠二は短く息を吸った。

 そうだ。そこがねじれている。

 海では英側と協力している。

 だが国際法的な立場としては、ドイツと全面戦争の当事者ではない。

 その曖昧さが、そのままシェプケの処理へ落ちてくる。


「英側が沈めた」


「ええ」


「しかし、日本側も海域運用と回収補助に関与している」


「ええ」


「交戦国でない以上、単純な英軍捕虜として流すと、こちらの立場も曖昧になる」


 その理屈は、正しい。

 そして正しいからこそ厄介だった。


「つまり」


 誠二が整理する。


「英国は英側処理として押さえたい。日本は日本で、全面的には渡し切れない」


「そうです」


 山口は頷く。


「喧嘩はしない。だが、線も渡し切らない」


 その言い方に、日本海軍の現実的な器用さが出ていた。英国に恥をかかせない。だが、自分の立場も曖昧にしない。正しさだけで押すより、よほど難しい。


 英側との短いやり取りの後、結論は“即時全面引き渡しではなく、共同確認のうえで日本側でも身元確認と事情聴取を行う”という形に落ち着いた。先送りといえば先送りだ。だがこの世界では、たいていの制度不在は先送りの形を取るのだろう。


 シェプケたちは、その後日本側の管理下へ一時的に移された。


 場所は比叡の一画でいい、という判断になった。旗艦であり、通信と記録の中心であり、しかも山口が自分の目の届く範囲に置きたがったのだろう。


 誠二は、その“短い事情聴取”の場にも立ち会った。


 部屋は広くない。

 取り調べ室というほど殺伐とはしていない。

 だが、海から上げられたばかりの人間を休ませる場所としては充分に事務的だった。


 シェプケは、思っていたよりずっと崩れていなかった。


 濡れた軍服は着替えさせられ、応急の処置も受けている。顔色は悪い。疲労もある。だが、目はまだ軍人のままだった。狼狽より先に状況把握が来る目。そこにいる人間たちの制服と階級を見て、自分がどこへ移されたのかをすぐに組み立てている。


 日本側士官が確認する。


「艦番号」


「U-100」


「艦長か」


「そうだ」


「海域任務」


「答える必要があるのか」


「確認だ」


 短い応酬。

 全部を喋らせるための場ではない。

 まずは身元と最低限の任務性格だけを確定する場だ。


 シェプケは少しだけ部屋を見回したあと、誠二の方へ一瞬視線を寄越した。制服の人間ではない。通訳でもない。どこの枠にもぴたりとはまらない男。そこに少しだけ引っかかったのだろう。


「日本艦か」


 低い声でそう言う。


「そうです」


 誠二が答えると、シェプケは眉をわずかに動かした。


「英国に沈められ、日本に拾われるとはな」


 皮肉とも感心ともつかない口調だった。だが、その一言だけで第99世界のねじれがそのまま言葉になった。


 英国に沈められた。

 日本に拾われた。

 そして今こうして、日本の旗艦で事情確認を受けている。


 戦場にいたはずなのに、処理の途中に落ちている。

 戦争の最中なのに、戦後処理の空白へ滑り落ちた人間の顔だと、誠二は思った。


「船団を狙ったのか」


 日本側士官が訊く。


 シェプケは少しだけ口元を動かした。


「この海にいる潜水艦に、他に何がある」


 答えているようで、細部は何も出していない。軍人としては正しい。それでいて、完全な沈黙でもない。名前に見合うだけの整い方だった。


 短い確認を終えて部屋を出ると、英側から再度の要請が届いていた。シェプケの価値は、時間が経つほど上がる。英国としては一刻も早く尋問したい。日本としては、そこをそのまま渡すと自分の立場が薄くなる。双方ともに理屈はある。双方ともに完全には間違っていない。


「最悪ですね」


 誠二が思わず言うと、山口は小さく頷いた。


「最悪です」


「英国の要求は正しい」


「ええ」


「日本の留保にも理屈がある」


「ええ」


「だから、止めにくい」


「そういうことです」


 誠二は、その答えに嫌な納得を覚えた。

 悪意がぶつかる方が、まだ処理しやすい。

 双方に理屈があり、双方に都合がある時の方が、制度の不在は露骨に効く。


 そして、その先に見えてくる方針がもっと嫌だった。


 英国へ即時全面引き渡しにはならない。

 日本は一時的な抑留・確認対象として保持する。

 その後、外交ルートや武官ルートを経て、ドイツへ戻れる可能性が高い。


 英国が沈めた。

 日本が拾った。

 そして、ドイツへ返る。


 その流れを頭の中で並べた時、誠二はようやく第99世界の嫌さを一本の言葉にできた。


「戦争が終わっていないんじゃない」


 小さく呟く。


「戦争の後処理制度が存在していない」


 山口は、それを否定しなかった。


「そこです」


 ただ、その一言だけを返した。


 その日の終業報告で神界へ戻った時、誠二は昨日よりずっと強く疲れていた。海戦そのものより、その後が重い。沈めるまでの判断は軍の速度で進む。だが、沈めたあとから制度の空白が顔を出す。そこに目を合わせる方が、ずっと神経を使う。


 報告区画の扉を開けると、リュシアは今日も椅子に深く座っていた。きっちり待っていたというより、先に座ってだらけていたという方が近い。誠二の顔を見ると、少しだけ視線を上げ、それから机へ身体を預けた。


「おかえり」


「戻りました」


「硬い」


 短くそう言って、リュシアは机に胸を乗せた。神界の執務机は相変わらず無駄に頑丈で、あの姿勢でも揺れ一つしない。


「で」


 促されて、誠二も余計な前置きを切った。


「生存者を回収しました。士官級一名。身元が出ています」


「誰」


「ヨアヒム・シェプケ。U-100艦長です」


 リュシアが少しだけ目を細める。


「……面倒」


「ええ」


「英側は引き取る」


「要求してきました」


「当然」


 そこで一拍。


「でも日本は、すぐ渡せない」


「そうです」


「交戦国ではないから」


「はい」


 リュシアは机に頬まで預けるような姿勢のまま、少しだけ息を吐いた。


「最悪」


「かなり」


「理屈は両方ある」


「あります」


「それが一番嫌」


「同感です」


 短い会話なのに、今日の嫌さはそれで足りた。


 英国の要求は正しい。

 日本の留保にも理屈がある。

 だからこそ、止めにくい。


「戻れそう?」


 リュシアが訊く。


「高確率で、日本経由です」


「沈めたのに」


「はい」


「終わってない」


 誠二は少しだけ頷いた。


「戦争が、ではなく」


「後処理がです」


「そう」


 それだけで、リュシアは続きを待った。

 促されて、誠二は今日の引っ掛かりを言葉にする。


「英国が沈めた」

「日本が拾った」

「そのままドイツへ戻れる可能性が高い」


「うん」


「戦争が続いているというより、戦争の後処理制度が存在していません」


 リュシアはそこでようやく少しだけ顔を上げた。


「そこ」


「はい」


「今日の芯」


「そう思います」


「いい」


 褒めているわけではない。

 ただ、拾うべきものを拾ったと確認しているだけだ。

 それで十分だった。


「海戦そのものより、その後が重いです」


 誠二が言うと、リュシアは頷いた。


「海はそうなる」


「救助した瞬間に、軍の話だけでは済まなくなる」


「沈めるまでは軍」

「その後は制度」


「ええ」


「でも制度がない」


「そうです」


「だから戻れる」


「はい」


 リュシアは少しだけ目を閉じた。眠いのではなく、嫌なものの形がきれいに見えた時の反応に近かった。


「嫌」


「かなり」


「あなたはそういうのを嫌う」


「嫌います」


「知ってる」


 その言い方は淡々としていたが、間違いなく普段のリュシアだった。言葉は短い。だが、芯だけは外さない。


 机の端に置いてあった小瓶を、彼女が指先で押す。


「今日の分」


「飲むんですか」


「軽く」


「今日は仮眠の方が先かと思ってました」


「先に一杯」


「顔に出てましたか」


「出てる」


 リュシアは小さめのグラスを二つ出した。量は多くない。いつもの、終業報告のあとに少しだけ緩めるための一杯だ。


 薄い琥珀色の酒が注がれる。誠二が受け取ると、リュシアは机に胸を乗せたまま片手で自分のグラスを持ち上げた。


「お疲れ」


「お疲れさまです」


 軽く合わせて、一口飲む。熱の中にいた身体には、それだけで少し楽だった。


「どこが一番嫌だったの」


 リュシアが訊く。


「日本が撃てたことです」


「撃てた」


「流星に軽爆装がありました。叩こうと思えば叩けた」


「でも撃たなかった」


「はい」


「それ自体は正しい」


「ええ」


「嫌なのは」


「それが制度ではなく、山口多聞の判断でしかないことです」


 リュシアは頷く。


「つまり」


「今回は、賢い司令官がいたから回った」

「別の司令官なら荒れます」


「そう」


「英側も、スマーヴィルがいたから受けた」

「結局、人で回っている」


「制度じゃない」


「そうです」


 リュシアはそこで、少しだけ酒を飲んだ。


「それは危ない」


「かなり」


「回っている時ほど危ない」


「ええ」


「見た目が綺麗だから」


「だから余計に嫌です」


「分かる」


 その一言は短かったが、十分だった。


「第99世界って、勝者しかいないように見えます」


 誠二はグラスを見ながら言う。


「見える」


「でも本当は、敗者を処理してないだけです」


「そう」


「だから静かなんですね」


「静かなまま、火種だけ残る」


「ええ」


「嫌」


 また短い。

 だが、その短さの方が、この世界には合う。


「次は油の話に入ると思います」


 誠二が言うと、リュシアは少しだけ首を傾けた。


「同盟の本音」


「友情ではなく、物流です」


「国家はそこを切れない」


「切れません」


「だから海を守る」


「はい」


「でも人は後回し」


「そうなります」


 リュシアはグラスを机に置いた。


「きれいじゃない」


「きれいじゃないです」


「でも、そういう世界」


「ええ」


 そこでリュシアはようやく机から少し身体を起こした。


「もう一杯は」


「いりません」


「今日は素直」


「疲れてるので」


「知ってる」


 それから、ほんの少しだけ間を置いて言う。


「仮眠」


「はい」


「今日は先に寝た方がいい」


「海の疲れはそういう感じですか」


「乾いてるのに重い」


 誠二は少しだけ笑った。


「たしかに」


「だから寝て」


「はい」


「よろしい」


 報告区画を出て、仮眠室へ向かう廊下は今日も静かだった。

 神界の静けさは、現実の夜より薄くて深い。

 何かが止まっているのではなく、最初から音を立てないように作られている静けさだ。


 仮眠室へ入ると、ちょうどいい暗さと温度が待っていた。ここは神界の中でも珍しく、ただ人間を休ませるためだけに調整されている場所だと分かる。


 横になる前に、誠二は目を閉じた。


 英国が沈めた。

 日本が拾った。

 ドイツへ戻れる可能性が高い。


 沈めたことより、戻れてしまうことの方が、この世界ではずっと厄介だった。


 戦争が終わっていないのではない。

 戦争の後処理制度が存在していない。


 その理解だけを抱えたまま、誠二は静かに意識を手放した。

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