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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第5章 第七管理区画・第99世界

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第2話 着任――紅海入口、喉が詰まれば全部燃える

 受諾ボタンを押した直後の感覚は、いつものようで、少しだけ違った。


 落ちるわけではない。引き剥がされるわけでもない。現実の朝の空気が、輪郭だけを残して静かに薄れていく。その静かな切り替わりの中で、誠二は一つだけはっきり分かった。押す前より、押した後の方が静かだということだ。


 重い案件ほど、そうなる。


 迷っているうちは、いくらでも思考は騒ぐ。けれど受けると決めた瞬間、その騒がしさは消える。消えた後に残るのは、やることがある、という単純な事実だけだ。第99世界は重い。広い。長い。けれど、受けた以上は“重い案件”ではなく“今から処理する案件”になる。そこまで来ると、人の頭は逆に静かになる。


 次に目を開けた時、誠二は第七管理区画の運用区画に立っていた。


 石造りの壁。高い天井。乾いた空気。書類と結晶板と印章の匂い。神界の中でも、この区画は妙に“役所”の空気が濃い。神々しさはあるのに、実際に置かれているのは祈りや奇跡ではなく、分類と承認と保留と差し戻しだ。現実の役所が持っている、あの少し疲れた整然さが、神界仕様に拡大されている。


 リュシアは、もう管理者の姿に戻っていた。


 衣装は神々しい。だが、その目は昨夜の続きの温度を完全には捨てていない。黒髪を耳に払う仕草が一瞬だけ見えて、誠二は、ああ同じ人だ、と思った。街を歩いていた人と、ソファで眠そうにコーヒーを飲んでいた人と、今こうして第七管理区画の案件を捌いている管理者は、ちゃんと全部同じ人だ。


「受諾確認」


 リュシアは淡々と告げた。


「第七管理区画・第99世界。案件受理済。現実時間停止、正常。加護付与準備、正常。神界仮眠室利用権限、継続」


「確認されるんですね」


「重い案件だから」


 短い返事だった。短いのに、十分だった。


 リュシアは目の前の結晶板を軽く撫でた。板の表面に光が走り、複数の層に分かれた情報が展開される。世界番号、案件種別、危険区分、歴史分岐、主要勢力、特記事項。いつもの案件票よりも、画面の奥行きが一段深い。


「第99世界。かなり重い」


 そう言って、彼女は誠二を見た。


「見れば分かります」


 誠二は肩の力を抜いたまま答える。


「ただ、重さの種類がまだ曖昧です」


 リュシアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「そこは、あなたらしい」


「重いにも色々ありますからね」


「ある」


 彼女は頷いた。


「燃えてる重さ。凍ってる重さ。遅れて崩れる重さ」


「今回は」


「終わってるのに危ない重さ」


 その表現が、第99世界にはよく合っていた。


 終わっている。だから危ない。

 燃えているものは、まだ見える。凍っているものも、触れば分かる。終わったことになっているものは、表面上は静かだ。静かだから、人はそこに手を入れるのを後回しにする。後回しにされた火種ほど、厄介だ。


「あなたの世界と、地続きだから」


 リュシアは言った。


「だから余計に重い」


 その一言で、誠二の意識が一段深く案件に入った。


 地続き。つまり第99世界は、完全に別の異世界ではない。誠二の知っている地球と、ある時点までは同じ形をしていた世界だ。そこから少しずつ分かれて、今ここにある。そういう世界は、制度の差分がそのまま怖い。知らない怪物がいる世界より、知っているはずの地図の上で、知っているはずの手続きだけが存在しない世界の方がよほど気持ち悪い。


 リュシアが、結晶板の表示を切り替える。


 年表が二本、並んだ。


 左に第100世界。

 右に第99世界。


 誠二はすぐに、その最初の大きな差分へ目を止めた。


 一九四〇年。

 アメリカ大統領選。


 第100世界――ルーズベルト再選。

 第99世界――ウィルキー当選。


「……ウィルキー」


 口に出すと、文字が少しだけ現実味を持つ。知識として知らない名前ではない。だが、知っているのに、自分の歴史の本流にはいない人物だ。


「そこが最初の大きな分岐」


 リュシアが言う。


「ルーズベルトが負けた」


「うん」


「ウィルキーが勝った」


「うん」


 彼女はそのまま、さらに一行だけ表示を拡大した。


 モンロー主義継続。

 欧州戦争への本格介入回避。


 たったそれだけの記述なのに、誠二には、その一行の向こうでどれだけ多くの工程が消えたのかが分かる気がした。


「そして、アメリカは外へ出なかった」


 リュシアの声は平板だった。だが、その平板さの中に、この案件の根の深さがあった。


 アメリカが外へ出ない。

 それは単に参戦しない、という意味ではない。

 戦争を止める側にもならない。

 戦後を設計する側にもならない。

 その両方をやらないという意味だ。


「モンロー主義を継続」


 結晶板の文字を追いながら、誠二はゆっくり言った。


「欧州戦争への本格介入を避ける」


「レンドリースも伸びない」


 リュシアが補足する。


「“戦争を止める側”にも、“戦後を作る側”にもならない」


 その言葉を聞いた瞬間、誠二の中で第99世界の嫌さが一段明確になった。


「アメリカが均衡役をやらなかった」


「そう」


「だから、戦争が終わっても、戦後をまとめる側がいない」


「そう」


 リュシアは同じ返事を繰り返した。繰り返すたびに、その単純さが逆に怖い。世界が壊れる理由は、案外こういう単純な一手違いから来る。誰かが暴れたからではなく、誰かが“やるはずだったことをやらなかった”から崩れる。


「なるほど」


 誠二は結晶板へ視線を戻した。


「ドイツが勝った世界、じゃないんですね」


「違う」


 リュシアはすぐに否定した。


「アメリカが外へ出なかった世界」


「その結果として、ドイツが欧州を押さえ、日本が東亜を押さえた」


「うん」


「でも、誰も戦後を組んでない」


「そう」


 誠二は小さく息を吐いた。

 戦争の勝敗だけなら、歴史IFとして読める。

 けれど、その先にあるはずの“処理”が無いとなると話は別だ。裁判、補償、国境、難民、通商、占領、撤兵、連合、再建。戦後とは、勝った負けたのあとに置かれる膨大な工程の総称だ。それが無いなら、戦争は終わったというより“中断された”に近い。


 結晶板の表示が切り替わり、主要勢力一覧が並ぶ。


 ドイツ――欧州大陸支配。

 日本――東亜支配・海洋均衡参加。

 英国――本土健在・海洋帝国維持。

 米国――不介入超大国。

 ソ連残存政府――東方退避。

 東方エルサレム共和国――緩衝国家。


 誠二はその並びを見て、少しだけ眉を寄せた。


「勝者しかいないように見えますね」


「敗者はいる」


 リュシアがすぐに返した。


「でも敗者処理の制度がない」


 その一言で、表示の意味が裏返る。


 勝者しかいないのではない。

 敗者が制度の外に押し出されているだけだ。


 ソ連残存政府。

 東方エルサレム共和国。

 そこには“終わらされた側”の気配がある。しかもそれを受け止める国際枠組みが無いなら、怒りも移動も記録も、全部がそのまま地面の下へ沈殿する。


「勝った側だけで止まってるわけじゃない」


 誠二は独り言みたいに言う。


「負けた側が、制度の外にいる」


「そう」


「そっちの方が嫌ですね」


「だから重い」


 重い。

 その言葉が今度は、かなり具体的な意味を持って響く。


 次に表示されたのは、核に関する項目だった。


 ドイツ――スターリングラードで実戦使用。

 米国――ネヴァダ砂漠で実験。

 日本――ビキニ環礁で実験。


 誠二はそこを読み、無意識に少しだけ目を細めた。


「未使用じゃないんですね」


「一度使われてる」


「ドイツが」


「うん」


「スターリングラードで」


「そう」


 リュシアの返答は短い。だが短いからこそ、重い。


 核が“ある”だけの世界なら、まだ抑止という言葉で処理できる。

 だが一度使われたなら、それはもう神話か傷跡のどちらかになる。しかも第99世界では、都市が一つ死んだにもかかわらず、それを止める仕組みが育っていない。


「一度使われてるのに」


 誠二はゆっくりと言葉を置いた。


「止める制度がない」


「そう」


「都市が一つ死んでるのに、世界の側は学んでない」


 その一言に対して、リュシアはすぐには返事をしなかった。

 少しだけ視線を落としてから、静かに言う。


「学ばなかった、の方が近い」


 誠二は結晶板を見たまま頷いた。

 学べなかったではない。

 勝者にとって都合の悪い学びは、制度にならない。

 それが第99世界の怖さだった。


「俺はどこまでやれるんです」


 誠二は目線を情報から外し、リュシアへ戻した。


「観察」


 彼女は即答する。


「記録」


「勧告」


「会議の提案」


「工程の整理」


「それだけ」


「命令は?」


「できない」


「強制は?」


「できない」


「裁定は?」


「直接はできない」


「軍の運用指示は」


「もちろん無理」


 淡々とした確認だった。だがそれで十分だった。


 誠二が持ち込めるのは正しさではない。手続きを止めないための枠だ。世界を救うのではなく、事故率を下げる。裁くのではなく、次に燃えにくくする。


「あなたは裁きに行くんじゃない」


 リュシアが言う。


「止まる工程を置きに行く」


「延焼防止ですね」


「そう」


 そのやり取りで、誠二の中の焦点が定まった。

 第99世界は広い。

 広いから全部は触れない。

 全部を触れないなら、一番燃えやすい喉元から手を入れるしかない。


「どこに降ります」


 誠二が訊くと、リュシアは結晶板の表示を世界地図へ切り替えた。


 欧州。

 地中海。

 スエズ。

 紅海。

 アデン湾。


 細い海路が、まるで本当に喉みたいに見える。北へ詰まれば地中海が苦しくなる。南へ詰まればインド洋が止まる。その一点に、欧州の物流と中東の原油と東亜の補給が集まっている。


「ここ」


 リュシアが示したのは、アデンだった。


「アデン」


「火種の喉」


 その言い方は少しだけ詩的で、でも内容は徹底的に実務的だった。


「スエズが止まれば、欧州物流が荒れる」


「原油が止まれば、英国も日本も荒れる」


「海が詰まれば、軍の判断も荒れる」


「核保有国の均衡も連動して不安定化する」


 並べられる因果がすべて嫌だった。

 物流、燃料、海軍、帝国、核。

 全部が細い海路に集約される。

 喉という表現が、比喩ではなく構造として正しい。


「前線じゃないですね」


 誠二は地図を見たまま言った。


「うん」


 少しだけ間を置いて、言葉が落ちる。


「喉だ」


 リュシアは小さく頷いた。


「そう」


「だから最初にそこへ降ろす」


 誠二はもう一度地図を見た。

 戦争が終わっている。

 だが戦後が始まっていない。

 その世界の最初の現場が、戦場ではなく物流の喉元だというのは、妙にこのシリーズらしかった。


「分かりました」


 誠二が言うと、リュシアは最後の確認を済ませるように結晶板を一つ閉じた。


「加護はいつもの基本に加えて、海図・航路理解、通信規格理解、権威耐性、事故回避」


「戦闘用途は?」


「想定しない」


「いいですね」


「でも巻き込まれない保証はない」


「でしょうね」


「だから」


 リュシアはほんの少しだけ声を落とした。


「死なないで」


 短い言葉だった。

 業務連絡にしては、少しだけ私情が混じっている。

 混じっているのに、線は越えていない。

 それが今の二人には、たぶんちょうどいい。


「努力します」


 誠二がそう返すと、リュシアは不満そうでも満足そうでもない顔で、ただ指を鳴らした。


 世界が切り替わる。


 神界の乾いた静けさから、一気に熱が押し寄せた。


 暑い。


 最初の感想は、それだった。

 強い日差し。

 白い石。

 塩の匂いを含んだ風。

 遠くの汽笛。

 湿気は少ないのに、熱だけが真っ直ぐ皮膚へ来る。神界の役所みたいな乾いた中立地帯から、生活と軍事が混ざった港湾都市へ一気に放り込まれた感じだ。


「暑いな」


 思わず口に出る。

 その人間くさい一言で、自分がちゃんと現場へ降りたことが分かった。


 目の前に広がるのはアデンの港だった。

 沖には複数の軍艦が見える。

 英艦の灰色。

 日本艦の輪郭。

 補給艦、駆逐艦、そして、見慣れていないのに何となく分かる空母の甲板。


 案内役の士官に導かれ、日本側の艦へ向かう。

 最初に日本に通されるのは、あらかじめそういう受け入れになっているからだ。第99世界において日本は、民族問題に深く関与していない分だけ、各勢力の間で比較的“最初に接触できる”側にいる。そのことが、この世界での日本の妙な立ち位置をよく表していた。


 艀で沖へ出る。

 水面の反射が強い。

 近づくにつれて、艦の大きさが現実味を持ち始める。


 旗艦は比叡だった。


 高い艦橋。

 無駄のない威圧感。

 古い血筋の戦艦なのに、妙に通信と運用の匂いがする。御召艦として整えられた経歴を持ち、その名残で司令設備が強い――そういう情報は受諾前に少し頭へ入っていたが、実物を前にすると理屈より先に“旗艦向きだな”という感覚が来る。


 その向こうには、翔鶴と瑞鶴の飛行甲板が見える。さらに金剛級の高速戦艦群。機動艦隊を、砲戦の時代の延長ではなく“本当に運用するため”に組んだ形だと分かる。


 比叡の甲板に上がると、日本側士官たちの動きは無駄が少なかった。過剰な緊張も、緩みもない。今この海域が“止まると全部燃える場所”だと分かっている人間の動きだ。


 案内された先で、山口多聞が待っていた。


 写真や資料の中で見た印象よりも、ずっと速い目をしている。立ち姿に余分がない。部屋へ入ってきた人間を、軍人として値踏みするのではなく、役割として即座に分類する視線だった。


「戦後観察官、と聞いています」


 挨拶は短い。

 誠二は少しだけ頭を下げた。


「観察と記録、助言です」


「それなら歓迎だ」


 山口は一拍で返した。


「ここは、誤解で燃える」


 その言い方が、艦隊司令官の口から出てくることに、誠二は少しだけ安心した。

 砲や機数の話ではない。

 誤解で燃える。

 そう言える相手なら、少なくとも話は通る。


「海戦の海域、というより」


 誠二が言いかけると、山口が先に続ける。


「物流の喉です」


 その一致に、ほんの少しだけ空気が軽くなる。


「空母、戦艦、駆逐艦を並べているから戦場に見えるが、実際に守っているのは石油と船腹だ」


 山口の言葉は無駄がない。


「ここが詰まれば、英国も日本も咳き込む」


「ドイツも、それを分かって狙う」


「ええ」


 誠二は頷いた。


「アメリカも見ている」


「見ているだけだが、見ている」


 皮肉にも聞こえるが、山口の口調は実務的だった。第99世界では、見ているだけの超大国もまた一つの圧になる。見ているだけだからこそ、責任も取らない。責任を取らない視線は、ある種の軍事圧力より厄介だ。


 艦内の会議室へ案内される。

 壁に海図。

 航路図。

 原油船団の運行予定。

 護衛艦の交代表。

 日英両方の記号が混ざった運用表。


 そこへ、英国側の連絡士官が入ってくる。その後ろから、スマーヴィル本人が姿を見せた。


 柔らかい顔つきの奥に、海を長く見てきた人間の鋭さがある。日本海軍を知らない英国提督ではない、と一目で分かった。


「ようこそ、観察官殿」


 スマーヴィルは流暢な口調で言った。


「見てもらう海は、あまり綺麗ではない」


「綺麗な海の方が、こちらもやりやすいんですけどね」


 誠二が答えると、英国提督は小さく笑った。


「それなら我々も、もう少し楽をしている」


 そのやり取りだけで、彼が日本側と共同運用を現実として受け入れていることが分かる。皮肉と礼儀が両立している。そういう相手は話が早い。


 山口が海図を指す。


「こちらが紅海入口。こちらがスエズ。こちらが中東側の積み出しと合流点。原油船団はここを上がる」


 スマーヴィルが別の線を重ねる。


「英国本国と地中海をつなぐのも、ここだ。インド洋と極東を結ぶのも、ここだ。止まると困る国が多すぎる」


「だから、日本と英国で分担している」


 誠二が言うと、山口が頷いた。


「日本は入口から東」


「英国はスエズから北」


 スマーヴィルが続ける。


「そして、どちらも本音では自分の側だけで全部見たい。だが、それをやる余力は無い」


 その言い方が、第99世界らしかった。

 友情ではない。

 分業だ。

 しかも、互いに相手を信用し切っていないままの分業。


「英国はアジア方面の負担を減らして本土へ戻したい」


 誠二が確認する。


「そうだ」


 スマーヴィルはあっさり認めた。


「日本は中東原油と航路を得る」


 今度は山口が頷く。


「海は、感情で守るものではない」


 それは山口の口から出ると、妙に重かった。


「艦隊は油で動く。油は港と航路で動く。だから、守る場所が決まる」


 その一言で、第5話に置くはずのテーマが先に少しだけ顔を出す。だがここではまだ深めない。今は理解の手触りだけでいい。


 誠二は海図へ視線を落とした。


 北へ細い水路が伸びる。

 スエズ。

 南へ開けばアデン湾。

 そこから先はインド洋。

 その一本の喉に、原油、船団、帝国、工業、軍事が全部集まる。


「ここは前線じゃない」


 自然に言葉が出た。


 山口もスマーヴィルも黙ってこちらを見る。


 誠二は海図から目を離さず、続けた。


「喉だ」


 山口が、ほんの少しだけ口元を動かした。


「その通りです」


 スマーヴィルは、もう少しだけ皮肉を混ぜる。


「喉が詰まれば、帝国も国家も咳き込む」


「しかも」


 誠二は言う。


「咳き込んだ拍子に、核保有国の判断まで荒れる」


 その言葉で、部屋が少しだけ静かになった。


 核は、ここでは海図の上に直接は描かれていない。けれど、海が詰まると燃料が止まり、燃料が止まると軍が荒れ、軍が荒れると判断が雑になる。核保有国の判断が雑になる場所として、この喉元は十分に危険だ。


「だから、観察官殿が要る」


 スマーヴィルが静かに言った。


「事故を、事故として記録する人間が」


 その表現に、誠二は少しだけ頷いた。

 事故。

 そうだ。戦争の再開と呼ぶより先に、第99世界では多くのものが“事故”として始まる。誤認。遅延。護衛の重複。管轄の曖昧さ。通報の遅れ。そこから国家が燃える。


 話が一段落したところで、海図の脇に置かれた運用表へ視線が移る。

 今日の船団。

 原油タンカー。

 護衛駆逐艦。

 日本側偵察予定。

 英側対潜哨戒。


 表面上はきれいに回っている。

 きれいに回っているものほど、裏の摩擦は見えにくい。


 その時、会議室の扉が短く叩かれた。


 入ってきたのは若い士官だった。日英どちらの軍服でもない、一瞬判別がつかないほど慌てている。だが、報告の文言は短く整えられていた。


「偵察機より報告」


 部屋の空気が、ほんの少しだけ引き締まる。


「潜航跡らしいものが確認されました」


 “らしいもの”。

 まだ確定ではない。

 その曖昧さが、逆に嫌だった。


 山口が一歩だけ前へ出る。


「位置は」


 士官が海図の一点を示す。船団予定航路から、少しだけ外れた場所。だが“少しだけ”が一番危ない。


「英国側へは」


「既に通報済みです」


 スマーヴィルの顔から、笑みの気配が消えた。柔らかい顔つきのまま、目だけが冷たくなる。


「来たかもしれん」


 山口が、ほとんど独り言みたいに言う。


「ドイツですか」


 誠二が訊くと、山口は海図を見たまま答えた。


「この海を狙うなら、まずあそこだ」


 “あそこ”の一言で十分だった。

 Uボート。

 原油船団。

 紅海入口。

 日英混成護衛。

 そして、その少し外側で見ているアメリカ。


 まだ何も起きていない。

 けれど、起きる前の静けさには独特の重さがある。

 海図の上では一本の線がずれるだけで済む。現実では、そのずれが帝国を咳き込ませ、国家を荒らし、核保有国の判断まで雑にする。


 誠二は会議室の窓から外の海を見た。

 青い。

 静かだ。

 静かだからこそ、止める場所が要る。


 喉が詰まれば、全部燃える。


 その輪郭だけが、アデンの熱の中でくっきりと立ち上がっていた。

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