第2話 評価面談――英雄も聖女も「職員」に戻す
翌朝、城の鐘が鳴る前に前原誠二は起きた。
起きた、というより、眠りの浅いまま目を開けたに近い。
戦場の匂いが髪に残っている。火の粉の気配が肌のどこかにまとわりついている。眠っても消えない残業臭は、現実にも異世界にもあるらしい。
会議で決めたのは「型」だ。
型は決めた瞬間に勝ちではない。型を運用に落とした瞬間に初めて仕事になる。
前原は部屋の机に紙を広げた。厚い紙。濃いインク。封蝋が押された報告書の余白。そこにテンプレートを書き起こす。
誰が
いつ
どこで
何を決めたか
何を実行したか
結果はどうなったか
問題は何か
次の手は何か
現実ならフォームにして配布して終わりだが、この世界は紙と結晶の混在だ。書けば残る。残るが、回らない。回すために「窓口」を作る。
前原は、昨日の会議で一番疲れていた二人の顔を思い浮かべる。
補給担当と財務担当。背を丸めて、責められ慣れている目をしていた。ああいう人間に“基準”を渡すと、組織は呼吸を取り戻す。
朝の中庭は、まだ灰色だった。火は落ち着いたが、消えきっていない。負傷者の列は短くなった。しかし短くなったぶん、誰が先かの圧が濃くなっている。
補給倉庫へ向かう途中、兵が慌ただしく走り、視線が前原に触れるたびに一瞬だけ止まる。期待ではない。不安だ。新しい仕組みは、人を安心させる前に必ず不安にさせる。
倉庫前では、昨日の補給担当が眠そうな顔をして立っていた。名札のような札が胸にある。読み取れる。
――補給官ミルド。
「昨日の指示通り、窓口は一本にしたい。今から“あなたの権限”を確定させます」
ミルドは瞬きを繰り返し、少し遅れて頷いた。
「……権限、ですか」
「はい。今までは誰でも倉庫に口を出せた。だから在庫が読めなかった。今日から倉庫の出入りは、あなたの承認が必要です」
「でも……勇者様の班が……」
前原はそこで止める。勇者の名が出ると、現場の人間は自動的に縮む。縮むと組織が歪む。
「勇者班にも適用します。例外を作るなら、会議で記録する。記録が残るなら例外は運用できる。残らない例外は腐敗です」
ミルドは喉を鳴らし、息を吐いた。救われたようにも見えたし、恐怖のようにも見えた。権限とは、安心と同じ重さで責任を乗せるものだ。
「財務担当も呼んでください。隣で数字を合わせます」
「……分かりました」
ミルドが走り、倉庫の扉が開く。中は混乱の匂いがする。荷が積まれ、袋が散らばり、誰が何を持ち出したか分からない空気がある。
前原は倉庫の入口に立ち、声を張らずに言った。
「これから出入りを止めます。持ち出しは、必ず紙に記録する。記録のない持ち出しは禁止。現場が燃えているからこそ、燃料を勝手に動かさない」
兵たちが顔を見合わせる。反発は出ない。なぜなら現場は疲れている。疲れた現場は、強い言葉より「仕組み」を求める。
そこへ財務担当が来た。昨日顔を伏せていた男だ。名はオルン。彼は前原の紙を見て、目を少しだけ上げた。
「……記録、を回すのですか」
「回します。あなたに依頼したい。倉庫の出入りと、補給の消費を結晶に写して残してほしい。改竄不能の方がいい」
オルンは一瞬だけ怯えた。改竄不能は、誰かの悪意を暴く。悪意が出れば、矢面に立たされるのは財務だ。彼の恐れは正しい。
だから前原は、そこで言葉を添えた。
「あなたを守るためです。記録が残れば、責められるのは“あなた”ではなく“記録に残る行為”になる。個人攻撃を避けられる」
オルンは、ようやく頷いた。
頷いた瞬間、その目にほんの少しだけ芯が戻る。責められ慣れた人間は、守られると強くなる。
「……分かりました。やります」
「ありがとうございます。まず、今日の補給計画を作りましょう。作戦規模は、その数字で決まります。作戦が先ではない。補給が先です」
それは戦場の常識だろうか。
この世界では違うらしい。勇者の強さが先に来ていた。だから燃えた。
倉庫の端で紙を広げ、ミルドが在庫を読み上げ、オルンが数字を刻み、前原が「何が足りないか」を言語化する。
この時間だけ、戦場が少しだけ“職場”に戻る。
一刻ほどで、最低限の補給計画が形になった。
数字が出ると、誰もが静かになる。数字は感情より強い。
「これを会議に持ち込みます。補給を前提に作戦を決める。逆にしない」
ミルドが恐る恐る言った。
「……勇者様は、納得しないかもしれません」
前原は即答した。
「納得しなくても、運用します。納得するまで待つと、兵が死にます。兵が死ねば、勇者の物語も終わります」
ミルドが目を瞬かせた。
英雄の物語が終わる、という言い方は、この世界では刺さる。権威は権威の言葉で折れる。
倉庫を出ると、治療所の前で聖女庁の者たちが目を光らせていた。白い装束。清潔。だが、清潔すぎて現場の汗と噛み合っていない。
前原が通りかかると、背の高い女性が一歩前に出た。昨日の会議にいた聖女庁代表だ。顔は整っている。目が冷たい。言葉が硬い。
「神託の者。あなたが、奇跡の基準を作ると言ったと聞きました」
前原は立ち止まり、視線を合わせる。相手が権威で来るなら、こちらは制度で返す。
「はい。治療の優先順位は基準が必要です。現場が揉めています」
「揉めているのは、信仰が薄いからです。女神の導きに異議を唱える者が増えた」
前原は否定しない。否定すると宗教論争になり、論争は結論を遅らせる。
遅らせると人が死ぬ。
「信仰は尊重します。ただし、信仰を理由にして説明責任を放棄すると、組織が腐ります。腐ると信仰も傷つきます」
聖女庁代表の眉がわずかに寄った。
「あなたは、聖女を評価するのですか」
その問いが、彼女の本音だ。
聖女は評価される側ではなく、評価する側だと思っている。だから恐れている。制度は権威を奪う。
前原は淡々と答えた。
「聖女も評価対象です。聖女が悪いという話ではない。仕組みが悪い。仕組みを直すために、全員を同じ土俵に置く」
聖女庁代表は唇を結び、少しだけ声を落とした。
「……聖女は象徴です。あなたのような者に、土俵を用意される筋合いはありません」
前原は、そこで一歩踏み込んだ。
象徴は、象徴である限り休めない。休めない象徴は、いつか壊れる。壊れる前に職員に戻す必要がある。
「象徴であることは、あなた方を守っていません。むしろあなた方を消耗させています。今、治療所の列が短くなったのは、奇跡が増えたからですか。違います。現場が諦めたからです。諦めは、信仰ではありません」
聖女庁代表の目がほんの少し揺れた。
揺れたということは、彼女も現場を見ている。
前原は言葉の刃を抜き、代わりに手を差し出す。
「あなた方を責めたいわけではない。あなた方が矢面に立たされ続ける構造を変えたい。だから基準を一緒に作りましょう。あなた方の現場感覚を入れる必要があります」
聖女庁代表は、一拍置いて言った。
「……私の名前はセラフィナ。聖女庁の運用責任者です」
名乗った。
それは、交渉に入ったという合図だ。
「前原誠二です。人事部長。今日は会議の前に、面談をしたい。勇者と、あなたと、騎士団長。それぞれ十五分ずつ」
セラフィナが眉を上げる。
「面談?」
「評価面談です。現状把握のため。あなた方の言葉で、何が起きているかを聞きたい」
セラフィナは一瞬だけ不快そうに顔を歪めたが、すぐに整えた。
象徴の顔だ。整える癖がついている。
「……分かりました。だが、聖女の時間は貴重です」
「承知しています。だから十五分です。結論を急ぎます」
前原はその場を離れ、会議室へ向かった。
—
会議室の前に、勇者がいた。金髪。鎧。剣。
昨日よりも目が冴えている。怒りで眠れなかったのかもしれない。エース社員は、自分が縛られるのを嫌う。縛られると、成果が落ちるのを恐れる。成果が落ちると、居場所がなくなる。居場所がなくなるのが怖い。
前原は先に言った。
「十五分だけ時間をください」
勇者が腕を組んだ。
「……何のために」
「あなたの成果を守るために。あなたが孤立しないために。あなたが兵に恨まれないために」
勇者の目が細くなる。
兵に恨まれる。そこは痛点だ。英雄は愛されたい。愛されない英雄は、ただの強い暴力になる。
二人は会議室の端にある小さな机に座った。
前原は紙を一枚出し、記録結晶を置く。面談もログに残す。ログは守りになる。
「まず事実確認。あなたは昨日、単独で出撃しましたか」
勇者が舌打ちした。
「した。止められなかった」
「止められなかった理由は」
「敵が来た。時間がなかった。会議などしていたら民が死ぬ」
「あなたの判断は、短期的には正しい。ただし、組織を壊す。組織が壊れると、長期的に民が死ぬ」
勇者が睨む。
「お前は戦えない。戦えない者が口を出すな」
前原は否定しない。否定しないことで、相手の怒りの矛先を鈍らせる。
「戦えません。だから私は戦う人間が戦い続けられる仕組みを作る。あなたは最強の戦力です。最強の戦力は、消耗させてはいけない」
勇者が少しだけ黙る。
消耗。彼も自覚があるのだろう。英雄は最強であるほど、休めない。
「あなたは、自分の戦果が誰に利用されていると感じていますか」
唐突な質問に、勇者の視線が揺れた。
「……王だ。貴族だ。聖女庁も、俺を物語に使う」
前原は頷いた。
「つまりあなたは、象徴にされている。象徴は、組織にとって便利です。だが象徴は壊れます。壊れた象徴は、組織ごと崩壊させる」
勇者の口元が歪む。
「俺が壊れるとでも?」
「壊れます。人は壊れる。英雄も人です」
勇者が机を叩きかけ、止めた。
会議室安定化の加護が、ここでも効いている。暴力の衝動が、空気の粘りに吸われる。
前原は続けた。
「だから、あなたを“職員”に戻します。英雄という肩書きを奪うのではない。英雄を、組織の枠に戻す。あなたの役割を定義し、権限を定義し、責任を定義する。そうすれば、あなたは一人で全部背負わなくて済む」
勇者が低く笑った。
「俺を縛りたいだけだろう」
「縛ります。ですが同時に守ります。縛られて守られるのが、組織のルールです。あなたが自由に暴れる組織は、あなたが消えた瞬間に終わる」
勇者は黙り、視線を逸らした。
彼は理解している。だが納得していない。理解と納得の間を埋めるのが、人事の仕事だ。
「提案があります」
前原は紙に一行書いて見せた。
――勇者班:特殊戦力部隊(指揮系統:騎士団長直轄/作戦提案権:勇者)
「あなたの班を正式な“部隊”にします。今までは勇者個人の武勇に依存していた。部隊にすると、補給と治療が優先される。作戦提案権はあなたに残る。決裁は騎士団長。あなたは作戦で勝てばいい」
勇者の眉が動いた。
「俺の班が、優先される?」
「合理的な範囲で。あなたが倒れたら終わるからです。優先の根拠を制度にする。制度は、あなたを守る盾になる」
勇者がようやく、短く頷いた。
「……分かった。だが、遅い決裁は許さない」
前原は即答した。
「決裁を遅くしないために、会議体を作った。決裁の期限も決める。あなたの出撃判断を“止める”のではなく、“承認の線”を明確にする」
勇者は椅子から立ち上がり、背を向けた。
「……勝手にしろ。だが俺の戦果を汚すな」
前原は背中に言う。
「汚しません。戦果は数字で守ります」
勇者が去り、次に騎士団長が来た。
鎧の壮年の男。昨日よりも顔色は悪い。疲労が抜けていない。指揮を押し付けられたのだから当然だ。
前原は椅子を勧め、すぐに言った。
「あなたが決裁者になりました。負担が増えた。だから支える仕組みを入れます」
騎士団長は苦笑した。
「支える? 今まで支える側は俺だった」
「支える側ほど先に折れます。現実でもそうです。だから、折れないようにします」
騎士団長が目を細める。
「お前、人事屋はみんなこういう言い方をするのか」
「折れた人間を何人も見てきたので」
騎士団長は黙り、やがて低い声で言った。
「俺は、勇者を嫌いではない。あいつは強い。だが、兵が死ぬ」
「兵が死ぬと、あなたが責められる」
「そうだ。だから、お前の仕組みが必要だ」
前原は頷いた。
「あなたに必要なのは“会議で決めたことを現場に落とす代理”です。あなた一人で現場を回すと、あなたが燃えます。副官を一人付けたい。現場調整役」
騎士団長が少し驚いた顔をする。
「副官ならいる。だが、貴族の息子で……」
「貴族の息子でもいい。ですが“現場に嫌われない”人間が必要です。現場に嫌われる調整役は機能しない」
騎士団長が少し考えた。
「……いる。下級騎士だが、兵に信頼されている男が」
「その男を代理にしてください。役割を与える。役割があれば、権限が発生する。権限があれば、命令が通る」
騎士団長が頷き、少しだけ肩の力を抜いた。
彼も、仕組みが欲しいのだ。
最後にセラフィナが面談に来た。
白い装束。清潔。だが目の奥に疲れがある。象徴は疲れを隠す。隠し続けると、どこかで爆発する。
前原は、彼女にだけ違う問いを投げた。
「あなたは、聖女たちを守れていますか」
セラフィナが一瞬だけ固まった。
守れていますか、という問いは、評価よりも刺さる。運用責任者は、部下を守れないときに一番壊れる。
「……守っています」
「守っているのに、奇跡の配分で揉めている。揉めるということは、あなたが矢面に立っている。矢面に立ち続けると、あなたも聖女も壊れる。そうなる前に、基準を作りたい」
セラフィナは唇を噛み、やがて小さく言った。
「基準を作ると、聖女は……汚れる。数字で裁かれる」
前原は首を横に振った。
「数字で裁きません。数字は結果の一部です。聖女の仕事は、数字だけでは測れない。だから“傾向評価”にします。あなた方が、現場で何を優先しているか。何を苦手としているか。どこで消耗しているか」
セラフィナの目が少しだけ動いた。
「……傾向評価」
「はい。現実の人事でも、数字だけで評価すると腐ります。だから面談をする。あなた方は奇跡を使う。奇跡は資源です。資源の使い方に基準がないと、資源が権力になります」
セラフィナが息を吐いた。
「あなたの言い方は、神殿の者には不敬に聞こえるでしょう」
「不敬に聞こえても、現場は救われます。救われれば信仰は戻る。信仰は、命が守られることで育ちます」
セラフィナは少し黙り、やがて低い声で言った。
「……あなたは、聖女を職員に戻す気なのね」
前原は頷く。
「戻します。象徴から降ろします。象徴を降ろすのは、象徴を侮辱するためではない。象徴を生かすためです」
セラフィナの目がわずかに潤んだように見えた。
だが彼女はすぐにそれを隠し、整えた。
「分かった。基準作りに協力する。だが一つ条件がある」
「何ですか」
「聖女が治療を拒否したとき、その理由を“怠慢”と記録しないで。奇跡は、無限じゃない」
前原はすぐに頷いた。
「それは正しい。奇跡の残量もログに残します。残量が見えれば、誰も無茶を言えない」
セラフィナが、ようやく肩を落とした。
象徴の肩が、職員の肩に戻る瞬間だった。
—
面談が終わり、会議が始まった。
前原は最初に、補給計画を机に置いた。数字を先に出す。
「今日の補給はこれだけです。作戦規模はこの数字を超えられない。超えるなら、どこかを削る。削るのは兵の命です」
勇者が舌打ちする。騎士団長が頷く。王代理が青ざめる。
数字は、王の権威より強い。数字は、無言で責任を背負う。
次に、治療基準の叩き台を出した。
「治療は緊急度と回復可能性を軸にする。身分は入れない。例外は会議体で記録し、理由を残す。奇跡の残量をログに残す」
セラフィナが口を開き、短く補足した。
「奇跡には回復の限界がある。限界を越えると聖女が倒れる。倒れれば、治療が止まる。だから基準は必要だ」
聖女庁代表が自ら基準を語る。
それだけで会議室の空気が変わった。信仰の話ではなく、運用の話になった。
勇者が不満げに言った。
「身分を入れないなら、王はどうする」
王代理が息を呑む。
前原が代わりに答える。
「王は例外枠で扱う。ただし、例外を使ったらログに残す。ログが残るなら例外は運用できる。残らない例外は腐敗です」
王代理が震える。
だが否定できない。否定すれば、王が腐敗を望んでいると告白することになる。
騎士団長が、昨日よりも少しだけ強い声で言った。
「よし。決める。今日から運用する」
決裁が落ちた。
決裁が落ちれば、現場は動く。動けば、火は止まる。
前原は最後に、紙のテンプレートを配った。
「これを毎日出してください。勇者班、騎士団、聖女庁、補給、財務、治療。全員。提出はこの時間。遅れたら理由を書く。理由が積み重なると、改善点が見える」
勇者が紙を見て、鼻で笑った。
「書類仕事か」
前原は笑わない。
「書類仕事です。書類がなければ、あなたの戦果は物語に消費されるだけです。書類があれば、あなたの戦果は組織の資産になります」
勇者の目がわずかに動いた。
資産。自分の価値が消費されずに残る。エースが欲しいのは、それだ。
会議は終わり、全員が散った。
散るときの足取りが、昨日よりも少しだけ揃っている。秩序が生まれ始めている。
—
夜。ログが集まった。
紙が集まり、結晶に刻まれ、棚に並ぶ。
並ぶということは、回り始めたということだ。
前原は一枚一枚を眺め、問題点に印を付ける。
勇者班は戦果だけを書き、損耗を書かない。
騎士団は損耗ばかりを書き、改善を書かない。
聖女庁は奇跡の残量を書き、判断理由を書かない。
補給は数字を書き、現場の詰まりを書かない。
財務は支出を書き、リスクを書かない。
全部、現実でも見たことがある。
部署は、自分が責められたくない項目を書かない。
だからログが必要になる。ログが、責められる対象を「個人」から「構造」に移す。
胸元の札が熱を帯びた。
直通。
『お疲れ。どう?』
リュシアの声は、昨日より少しだけ軽い。燃えている世界が一つでも落ち着くと、彼女の肩から火種が一つ消えるのだろう。
「止血から、運用に入りました。ログが回り始めた。まだ偏りはありますが、これから整えます」
『好き。ログが回るの、好き』
女神が「好き」と言うのが、妙に生活臭い。
神話ではなく、仕事の会話だ。
「ただ、勇者班が損耗を書かない。自分の失点を残したくない」
『当然。英雄はそういうもの』
「評価面談をもう一回入れます。英雄を責めない。英雄の“守りたいもの”を言語化して、ログに落とす」
『それ、できるのあなたくらい』
リュシアが少し黙り、ふっと息を吐いた。
『…ねえ、前原』
「はい」
『この世界、まだ燃えると思う?』
前原は一拍置いて答えた。
「燃えます。燃えるのは仕組みがまだ弱いから。でも、延焼は止められる。今は燃え方が“見える”ようになった。見えれば、止められます」
『うん。そういう言い方、好き』
また好きと言った。
好き、という言葉の使い方が、管理職のそれだ。成果の言語化に対する肯定。褒めるのが上手い。上にいる人間は、褒めるのが上手くないと部下が死ぬ。
『じゃ、打ち上げ。業務』
「了解です。業務なら仕方ない」
前原が札を押すと、空気が澄み、神の執務室へと切り替わった。
相変わらず石造りで、役所の匂いがする部屋。書類の山。棚。封蝋。結晶板。
そして机に突っ伏す女神。
リュシア・ノクスディアは顔を上げ、疲れた目で前原を見た。
完璧な造形のまま、疲れている。疲れがあるから、完璧さが逆に痛々しい。
「お疲れ。第27世界、少し落ち着いた」
前原は椅子に座り、グラスを受け取った。
「まだです。運用はこれから崩れます。崩れたときにログが効く」
リュシアが薄く笑った。
「崩れる前提で話すの、ほんと好き」
前原は一口飲み、熱を喉に落とした。
酒が現実と同じ味なのが腹立たしい。異世界ならもっとファンタジーな味をしてほしい。だが、味が同じだから“仕事”として落ち着く。
「あなたは、255世界を見ている。崩れる前提でしか運用できないでしょう」
リュシアが肩をすくめた。
「崩れる。必ず崩れる。崩れない世界は、既に死んでる。動くから崩れる」
それは真理だ。組織も世界も、動くから摩耗する。
前原はグラスを置き、今日のログの束を机に置いた。
「これが今日の“運用”。偏りが見えました。明日、面談を追加します。聖女庁には判断理由の記録を入れる。勇者班には損耗の記録を入れる」
リュシアがログに触れ、目を細めた。疲れた目が、ほんの少しだけ冴える。
「うん。こういうの、好き。数字と人が一緒に載ってる」
前原は息を吐いた。
「現実の人事と同じです。数字だけだと腐る。人だけだと揉める。両方が必要です」
リュシアが少しだけ黙り、グラスを傾ける。
「……ねえ。あなた、現実で人事部長やってて、何が一番嫌いだった?」
唐突な問いだった。
だが、打ち上げは業務だ。業務の後処理は、感情の棚卸しでもある。
前原は少しだけ考え、淡々と答えた。
「静かに折れる人間を、最後まで止められなかったときです」
リュシアが頷く。
「私も同じ。静かに折れる世界がある。気づいたときには遅い。だから、あなたみたいなのが必要」
前原は苦笑した。
「私みたいなのが必要なら、時給を上げてください」
リュシアが真顔で言う。
「神界の最低賃金がそれ。危険手当込み」
「安いですね」
「安い。だから福利厚生で寿命を戻す」
二人の会話が、完全に職場のそれだった。神と人間の会話なのに、言っていることは残業と福利厚生だ。
グラスが空になりかけた頃、リュシアが机の端の砂時計を弾いた。砂が逆流し、前原のスマホに通知が落ちる。
《案件状況が更新されました》
《第七管理区画・第27世界:火勢:中→小》
《ただし:聖女庁内に不満兆候》
《ただし:勇者班に不服兆候》
前原は画面を見て、静かに頷いた。
「想定通り。制度が効き始めると、権威が反発する」
リュシアが疲れた顔のまま言う。
「反発、好きじゃない」
「誰も好きじゃない。でも必要です。反発が出るのは、制度が機能に触れている証拠です」
リュシアは少しだけ笑った。
「あなた、ほんとに嫌われ役が上手い」
前原はグラスを置いた。
「嫌われない改革は、改革じゃない」
リュシアが頷き、少しだけ声を落とした。
「第27世界、もう少しだけ頼む。ここが落ち着くと、私の255世界の燃え方が変わる」
前原は短く答えた。
「任せてください。英雄も聖女も、職員に戻します」
リュシアが小さく息を吐いた。
その息は、業務の安堵だった。
そして前原は、次の日の面談の質問項目を頭の中で組み立て始める。
評価は裁きではない。運用のための言語化だ。
言語化できれば、改善できる。
――第27世界の火は、まだ消えていない。
だが、火の位置が見えた。見えた火は、必ず消せる。




