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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第3章 第七管理区画・第238世界

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転章 引き継ぎ――報酬清算と、次の準備

神界の清算窓口は、いつも通り乾いていた。


豪奢でも、神々しくもない。帳簿と結晶板と印章と、最低限の椅子。働いた分だけを淡々と切り出し、揉める余地を残さないための空気がある。役所の空気だ。前原誠二はこの匂いに慣れてしまった自分を、少しだけ怖いと思った。


窓口の奥に座っているのは、神官というより経理担当に見える人物だった。羽根の紋章が刺繍された袖口だけが、ここが神界だと主張する。


「第七管理区画。第238世界。助言者案件。清算を開始します」


経理担当が結晶板を弾くと、数字が空中に並んだ。報酬が現実的なフォーマットで提示されるのは、相変わらず皮肉だ。


「稼働時間、確定。日別内訳」


前原は目を細める。提示されたのは、昨日までの稼働時間だった。


十、八、八、七、五。


合計三十八時間。第238世界で過ごした“現場時間”だ。燃えも凍りもしない世界で、根を張るための時間。派手な勝利もないまま、静かに工程を置き続けた時間。


「日次報告。口頭報告一時間×五日。合計五時間」


三十八に五が足され、四十三時間。


現実側の時給は、千四百二十円。危険手当込み。危険が低いほど単価が上がる理屈は、未だに慣れない。若い世界は手間が増える。火を消すより、育てる方が難しい。そういうことなのだろう。


経理担当が続けた。


「規定により、十時間稼働日の超過二時間分は、割増係数一・二五で計算します」


前原は頷いた。十時間の日は、最初の日だった。着任の日。誰も壊れていない世界の“危うさ”を嗅ぎ、止まれる枠を置いた日だ。疲労の質が違った。体力ではなく判断の摩耗が大きい日だった。


数字が、もう一段だけ並び直される。


「基礎賃金:千四百二十円×四十三時間=六万一千六十円」

「割増差額:二時間×千四百二十円×〇・二五=七百十円」

「現実報酬合計:六万一千七百七十円」


六万一千七百七十円。


妙に現実的な金額が、神界の空中に浮かぶ。前原は笑いそうになって、喉の奥で止めた。笑うと、何かが軽くなりすぎる。軽くしすぎると、線が溶ける。


「異世界報酬。寿命復元は稼働時間に準拠。三十八時間相当を復元対象に計上。日次報告時間は精神負荷として扱い、復元対象に含めません」


経理担当の声は淡々としている。精神負荷を賃金に含め、寿命復元からは外す。神界の福利厚生は歪んでいるのに、やけに理屈が通っている。


「寿命復元の反映は、帰還後の睡眠と生活により段階的に実感されます。急激な変化は起こりません。上限は運用規定に従います」


前原は短く頷いた。急激に若返るのは困る。急激な変化は現実側の生活を壊す。壊れた生活の上に制度は乗らない。


「以上。現実報酬は、現実側の指定口座に振込。反映は現実時間再開後の翌営業日扱い」


翌営業日、という言い方に笑いそうになる。神界の経理が“営業日”を使う。制度で世界を回す、と言っているのは、もはや比喩ではない。


清算が終わると、区画長の執務室に呼ばれた。引き継ぎというほどの引き継ぎではない。第238世界は燃えていない。凍ってもいない。だからこそ、長い報告は要らない。工程が残っていれば、それでいい。


リュシアは机の端に肘をつき、今日はいつもより軽い顔をしていた。神々しい衣装のまま、疲れが薄い日。こういう日もある。こういう日があると、安心する。


「清算、終わった?」


「終わりました。現実報酬は六万一千七百七十円。寿命復元は三十八時間相当」


「よし」


短い。短いのに、確かに区切りが入る。


「第238世界は、当面観測だけにする。巫女局が工程を回しているなら、急に燃えない」


「急に燃える場合もあります」


前原が言うと、リュシアは氷の入ったグラスを軽く鳴らした。


「急に燃えるのは、工程の外で詰まりが溜まった時。あなたは“点検会”を置いた。ローテも入った。今は大丈夫」


今は、という言葉が現実的だった。大丈夫は永遠じゃない。永遠の大丈夫は幻想で、幻想は遅れて爆ぜる。


「次は……」


前原が言いかけると、リュシアは首を振った。


「今日は、次の話はしない。区切りを完成させる日。現実に戻って、通常業務をやって、生活を戻す。そこまでが工程」


区切り。合言葉がここでも出る。区切りを工程に落とせるのが、彼女の強さだ。


「戻る場所は分かってる?」


「はい」


前原は自分の中で、現実復帰の位置を確認した。


前回、リュシアと飲んで迎えた自宅の朝。

照れくさい目覚め。

「それで、どうする?」と聞かれて、受諾ボタンを押した場面。

あそこへ戻る。時間停止は解除され、現実の時間は再開する。押した瞬間の続きへ復帰する。契約通りだ。


「……ひとつだけ」


リュシアが、珍しく言いよどんだ。机の上に胸を乗せるほど崩れてはいないが、視線が一瞬だけ落ちる。照れの前触れに近い。


「専用仮眠室の鍵は、持ったままでいい。案件がない期間でも、臨時使用の許可は有効。現実が燃えそうな時に逃げていい」


逃げていい、がまた出た。神が言う言葉ではない。だが区画長の言葉としては正しい。燃える前に逃げる工程。逃げ道は制度の一部だ。


「ありがとうございます」


前原は丁寧に言った。丁寧に言うしかない。軽く受け取ると、線が歪む。


リュシアは「うん」とだけ返し、指を鳴らした。


床の紋が淡く光る。切り替わりの準備。神界の空気が薄くなり、現実の温度が遠くから戻ってくる。


「……いってらっしゃい、人事部長」


その言い方が、あまりにも現実の同僚みたいで、前原は一瞬だけ笑いそうになった。笑う前に、白が弾けた。


 


戻ったのは、やはりあの朝だった。


自宅の台所。ケトルの音。水の匂い。カーテンの隙間から射す白い光。スマホの画面の余韻が、指先に残っている。受諾ボタンを押した直後の空気。


そして――リュシアはいない。


当たり前だ。彼女は神界にいる。現実側の時間が再開している以上、ここに彼女が居続ける理由はない。居続けたら線が溶ける。溶けた線は燃える。


前原は一度、深呼吸した。


部屋は静かだ。昨日までの“同じ空間に別の気配がある”静けさではない。完全な独りの静けさ。独りの静けさは、安心でもあり、空洞でもある。空洞が大きくなると燃える。だから、生活の工程に戻る。


スーツに着替え、髪を整え、家を出る。通勤路はいつも通りだ。電車の混雑、広告、スマホを眺める人々。異世界の話など誰もしていない。時間が止まっていたことなど、世界は知らない。知らないまま進む。


会社に着くと、机の上には現実の火種が並んでいた。


次期採用計画。モチベーション研修の計画案。総務との打ち合わせ資料。社員からの相談メール。面談枠の調整。評価制度の細部修正。燃えていない。だが燃える前の燻りはある。現実の火種は、声が小さい。だから厄介だ。


午前中は採用計画の見直し。市場の動き、母集団形成、内定辞退率。数字を整えながら、前原は“雰囲気”という曖昧な言葉にまた触れる。雰囲気は測れない。だが雰囲気は必ず燃料になる。燃える前に、工程を置く必要がある。


午後はモチベーション研修の計画。研修という言葉は便利だ。便利すぎて、現場が嫌う。嫌われる研修は形骸化する。形骸化は凍りだ。凍る前に、狙いを絞る。狙いは一つ。「声を上げる前に相談できる線を作る」。第67世界で作った一次窓口の発想が、ここでも活きる。世界は違っても、人は同じだ。


総務との打ち合わせでは、休職者の増加が話題に上がった。離職は増えていない。苦情も少ない。数字は綺麗だ。だが医療ログに似た形で、欠勤の理由だけが増えている。眠れない。胃が痛い。気力が出ない。


前原は内心で苦くなる。凍りの匂いがする。


「今の段階で、詰まりを拾いましょう。数字が崩れてからだと遅い」


総務担当が頷く。現実の総務も、現場の火種を嫌というほど見てきた顔だ。


気づけば定時を過ぎていた。いつも通りだ。いつも通りなのに、今日は少しだけ違う。帰宅しても、異世界へ行く必要はない。案件は区切った。報酬清算も終えた。今日の仕事は現実だけだ。現実だけで区切れる日は、貴重だ。


退社した瞬間、空気が変わった。


会社の入口の少し先。人の流れの端。そこに、ありえないほど馴染んだOLが立っていた。


黒髪ショート。細縁の眼鏡。薄いコート。白いニットに、落ち着いた色のスカート。足元は歩きやすい靴。露出は少ないのに、造形の強さだけが隠せていない。胸腰尻のシルエットが、どうしても整いすぎている。


前原は一瞬、足が止まりかけた。


「……リュシア?」


彼女は眼鏡の奥でほんの少し笑う。


「正解。下界視察」


下界視察。便利な名目だ。便利すぎる。


「迎えに来たんですか」


「迎えに来た。視察は一人だと偏る。現実の基準が分からない」


現実の基準が分からない、という言い方が彼女らしい。神のくせに、基準の話をする。基準がないと燃えることを知っているからだ。


前原は周囲を見た。誰も気づいていない。気づいても、ただの仕事帰りのOLにしか見えない。見えないように“撫でられている”のだろう。撫でられていることが、妙に腹立たしいほど合理的だ。


「……渋谷、ですか」


「渋谷。服と小物。視察。あなたも、何か買いたいものある?」


買いたいもの。前原は一拍置いた。今日が“区切りを現実側で完成させる日”だということを思い出す。仕事の顔のまま行けば燃える。だから少しだけ、顔を崩す工程が要る。


「バイト代、入ったんで」


前原がそう言うと、リュシアは目を細めた。


「バイト代って言い方、好き」


好き、が出る。だが熱ではない。現実の言語に寄せている好きだ。安心の好きだ。


渋谷は情報の洪水だった。人の波、音、光、看板、香水、タバコ、甘い匂い。神界の廊下にはない密度。密度が高いのに、皆が勝手に歩いている。勝手に歩ける世界は、ある意味成熟している。


リュシアは最初、歩幅が少しだけぎこちなかった。だが、すぐに馴染む。馴染む速度が早いのが怖い。怖いから、線を引く。


「視察、の範囲は」


前原が聞くと、リュシアは即答する。


「今日は買い物して、食べて、帰る。案件の話は居酒屋で軽く。判断は迫らない。猶予がある」


猶予。彼女が猶予を言うのが不思議な安心になりつつある。走らせない判断をする管理者。走らない判断をする助言者。二人の間の制度は、こういうところで育つ。


服屋に入ると、リュシアの目が変わった。棚の配置、導線、客層、価格帯。視察の目だ。買い物の目ではなく、運用の目。運用の目が楽しいと言ってしまうのが、職業病だ。


「これ、売り場の導線が良い」


「視察が本気ですね」


「本気。神界には店舗がない。こういう“選択の場”が羨ましい」


選択の場。選択は責任を生む。責任は燃えることもある。だが、選べること自体が成熟でもある。


小物屋で、前原は小さなアクセサリーを見つけた。派手ではない。薄い金属の光。シンプルな形。眼鏡の近くに置いても邪魔にならない程度の控えめなもの。


「これ」


前原が手に取ると、リュシアが首を傾げる。


「私に?」


「バイト代で、何か。……視察の記念、ということで」


言い方が照れくさい。照れくさいから、名目を付ける。名目は線を守る。


リュシアは一瞬だけ固まって、それから眼鏡の奥で目を細めた。


「……それずるい」


前に聞いた言葉。だが今日は温度が違う。困っているのに、嬉しい。嬉しいのに、線を意識している。


「業務外です。だから、押し付けない」


前原がそう言うと、リュシアは小さく頷いた。


「……受け取る。業務外なら」


視察の名目で始まり、業務外で受け取る。線は崩れていない。だから熱が少しだけ増しても燃えない。


渋谷の雑居ビルの居酒屋は、三回目の空気に似ていた。煙と醤油の匂い。騒がしさ。勝手に喋って勝手に帰る人々。ここが余白だ。


カウンターに並んで座り、前原が生を頼み、リュシアがハイボールを頼む。氷の音が小さく鳴る。今日は業務ではない。だが、引き継ぎは自然に始まる。


「次の案件通知、もう出てる」


リュシアが淡々と言った。


「第197世界、ですね」


「そう。多民族。魔族主導。人族は一種族。獣人も悪魔も巨人も人魚もエルフもいる。交配も可能。……燃えてない。凍ってもない。でも、複雑」


複雑、という言い方が重い。複雑は燃料になる。複雑は誤解を生む。誤解は衝突を生む。衝突は燃えるか凍る。どちらに転ぶかは、制度と空気次第だ。


前原は、今夜は考えない線を守るために、話を短く受け止める。


「理解しました。判断は朝にします」


「うん。今日、走らない」


「今日、走らない」


合言葉のように繰り返すと、リュシアの肩がほんの少しだけ落ちた。重さが抜ける。抜けると安心する。安心すると、余計な熱を欲しがる。欲しがり方を間違えると燃える。だから、コンビニへ寄る。


居酒屋を出て、夜風に当たる。渋谷の光は強い。神界の光とは違う種類の疲れが来る。リュシアはコートの前を少し開け、息を吐いた。


「暑い」


薄着になる、というほどではない。だが、コートの下のニットが少し軽い素材で、首元がわずかに開いているのが分かる。本人は気にしていない。気にしていないから、前原が気にしすぎると線が溶ける。


コンビニに入り、いつものように棚を眺める。今日は前原が支払うとは言わない。前回と同じ流れは作らない。今日は別の寄せ方にする。自然に、息抜きの延長として買い物をする。


リュシアが選んだのは、少し甘い缶。つまみは塩気のあるもの。アイスは今日は選ばない。代わりに、小さなチョコを一つ。選び方が人間臭い。


前原は支払いを済ませ、袋を持った。


「行きますか」


「うん」


前原の部屋に着くまで、余計な言葉は増やさない。増やすと熱が上がる。上げない。上げないために、歩幅を揃える。


部屋に入ると、リュシアは迷いなく靴を揃えた。揃える癖がもう付いている。生活に馴染む速度が早い。早いと危険だ。危険だから、線を言葉にする。


「今日は、業務外です」


前原が言うと、リュシアは眼鏡の位置を直しながら頷く。


「業務外。だから、何も決めない」


その言い方が、もう合言葉になっている。


テーブルに飲み物とつまみを並べ、缶を開ける。プシュッという音。区切りの音。今日の区切りは、神界ではなく現実側で完成させる。だから宅飲みが要る。宅飲みは息抜きの息抜きだ。区切りのための余白だ。


リュシアはコートを脱ぎ、薄いニット一枚になった。袖を少しまくる。首元が少しだけ見える。本人は暑いからそうしただけだ。だがその“気の抜け方”は、見ている側の熱を増やす。増える。増えるが、線は越えない。


リュシアが床に座り、胡座をかき、テーブルに上半身を寄せた。胸元の重さを少し預ける。今日も重そうに、だるそうに、でも楽そうに飲む。


「……こういうの、好き」


「だらっとしてるのが?」


「だらっとしてても許される空気、好き」


前原は短く頷いた。


「許されます。ここは」


リュシアが目を細める。眼鏡の奥の瞳が少しだけ熱を含む。だが、熱は線の内側で止まる。


「あなた、今日、ちゃんと現実の仕事やった」


「やりました。燃えてはいないけど、火種はあります」


「火種、好きじゃない」


「好きじゃないです。でも、見ないふりすると燃えます」


「うん。見て、線を引いて、区切る。……あなた、そういうの得意」


得意、という評価が出る。評価は危険だ。評価は依存になる。依存は燃える。だから前原は、評価を受け止めすぎない言い方をする。


「得意というより、逃げ道がないだけです」


リュシアが小さく笑った。


「それも好き」


好きが増える夜は危険だ。危険だが、今日は区切りを現実で完成させる夜だ。完成させるためには、少しだけ熱が必要になる。熱がない区切りは、ただの空白になる。空白は凍りに寄る。凍りに寄ると、後で爆ぜる。


だから、ちょうどいい熱を置く。


前原は、テーブルの上の小さな袋を指で押した。渋谷で買ったアクセサリー。受け取ったまま、まだ使っていない。


「……それ、付けます?」


リュシアは一瞬だけ固まり、そして視線を落とした。


「今?」


「今は、業務外なので」


業務外という言葉が、今日の免罪符になっている。免罪符は危険だが、今日だけは工程として使う。


リュシアは袋を開け、小さなアクセサリーを手のひらに乗せた。指先で触れ、軽く笑う。


「……これ、控えめでいい」


「目立つと面倒なので」


「面倒、嫌い」


そう言って、彼女は自分で付けた。付け方が不器用ではない。だが、少しだけ丁寧すぎる。丁寧すぎるのは、受け取った重さを分かっているからだ。


前原は、その姿を見て胸の奥が熱くなるのを感じた。熱くなる。だが手は伸びない。伸ばすと線が溶ける。溶けた線は燃える。燃えるのは、まだ早い。


リュシアが、まるで心を読んだみたいに言う。


「気になってるのに、手が伸びないのも、好き」


前原は息を吸い、温度を一定に戻す。


「線がある方が、安心するんです」


「……ちょうどいい」


彼女はそう言って缶を一口飲んだ。言葉が短い。短いのに、妙に満たされる。


しばらく、何も決めない夜が続いた。渋谷の話、服屋の導線の話、神界のつまみの味気なさの話。現実の研修の話。どれも仕事の匂いがするのに、どれも仕事の結論には繋げない。繋げないことが、区切りになる。


やがて缶が空に近づき、部屋の空気が少しだけ静かになる。


リュシアが、薄いニットの袖をもう一度まくり直し、ぽつりと言った。


「……次は、もっと複雑」


「ええ」


前原は、それ以上を言わなかった。今夜は考えない。考えないという線を守る。


リュシアも、それ以上を言わなかった。言えば走りたくなる。走れば燃える。燃えると、区切りが崩れる。


その代わり、彼女は小さく息を吐いて言った。


「区切り、できた?」


前原は頷いた。


「できました」


合言葉だ。二人の間の制度だ。恋ではない。依存でもない。燃えないための同盟の言葉だ。


リュシアは眼鏡の奥で目を細め、ほんの少しだけ笑った。


「……好き。そういうの」


前原は苦笑し、テーブルの上の空き缶をまとめた。片づけも区切りの工程だ。区切りができると、明日の判断ができる。判断ができると、走らずに受諾できる。走らずに受諾できれば、世界を燃やさずに済む。


燃え方も、凍り方も、世界ごとに違う。

——次は、もっと複雑だ。


その複雑さに向かうために、今夜は確かに“現実側の区切り”が完成した。

後書き

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第3章「第七管理区画・第238世界」は、燃えても凍ってもいない――まだ若い世界に、問題が起きる前の“下地”を植える章でした。

火事の消火でも、凍りを割る是正でもない。正解を与えず、制度を揃えず、それでも衝突した時に止まれるようにする。助言者の仕事がいちばん見えにくく、いちばん評価されにくい形で描かれています。


統一国家はなく、英雄も聖女もいない。巫女だけがいる。

だからこそ誰も突出せず、誰も救ってくれず、全員がそれぞれの言葉と恐れで動く世界でした。

若い世界は、ぶつかって学びます。

止めすぎれば育たない。放置すれば燃える。

その中間を探し続けるのが、前原誠二の役割でした。


港の摩擦は、小さな失敗でした。けれど小さな失敗を「燃えない火」にすることで、世界は少しだけ強くなります。

分類不一致を“事象”としてログに残し、中間策で流し、短会合で条件付き固定する。

正しさのぶつかり合いを「誰が悪い」にせず、「どう止まるか」に落とす。

第238世界が学んだのは、勝ち方ではなく、止まり方だったと思います。


そして、ここで描きたかったもう一つは「区切り」です。

派遣中、現実の時間は止まっている。けれど区切りは作れる。

神界での口頭報告と“飲みつつ”の打ち上げ、専用仮眠室、そして現実側での渋谷視察と宅飲み。

制度は世界を回しますが、区切りは人を回します。

燃えないための同盟は、結局この「区切り」を共有できるかどうかに支えられていました。


リュシアとの距離も、この章で一段変わりました。

神であり区画長であり中間管理職であり、二百五十五の世界を抱えている。完璧な造形のまま疲れていて、正しいほど危ないことを知っている。

そんな彼女が、現実の余白に懐いていくのは、恋愛というよりも“燃えないための生活”を共有し始めたからです。

熱は増えるけれど、依存線は越えない。越えないから続けられる。

その関係性もまた、この物語の制度の一つです。


次は第197世界。

燃えても凍ってもいないのに、最初から複雑な世界です。

多民族、多種族、主導権の分散、価値観の混線。

燃え方も凍り方も、世界ごとに違う。

前原誠二の“空き時間スポットワーク”は、ここからさらに難易度が上がっていきます。


引き続き、よろしければお付き合いください。

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