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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第3章 第七管理区画・第238世界

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第5話 総括――いなくなっても、残るもの

離任条件が満たされる瞬間は、拍手の音もしない。


燃えている世界なら、火が消える音がする。凍っている世界なら、割れる音がする。だが若い世界の総括は、音が小さい。あまりにも小さいから、こちらが勝手に意味を盛りたくなる。盛った意味は英雄譚になり、英雄譚はこの世界に要らない。


前原誠二は、それを自分の中で何度も言い聞かせていた。


――呼ばれなくていい仕事をする。

――残るのは自分ではなく、工程であるべきだ。


第七管理区画・第238世界。

統一国家はない。英雄も聖女もいない。巫女がいる。

多国、多制度、人口多。誰も困っていないが、誰も整っていない。

そして今も、世界は未完成だ。


未完成のまま離れる覚悟が必要になる。


巫女局の庁舎は、いつも通り忙しかった。だが忙しさの質が変わっている。走る人間は減り、立ち止まって相談する時間が増えた。相談しても怒られない空気が生まれ始めている。相談ができる世界は燃えにくい。相談ができる世界は凍りにくい。相談ができる世界は育つ。


掲示板の前でユナが腕を組んでいた。前より目の奥が落ち着いている。抱え込みが減った顔だ。


「助言者さま。今日のログ、見てください」


紙束が渡される。短文ログが並び、分類が付いている。集合条件の判定が付いている。会合の要否が付いている。そして、最後に一行だけ、整然と書かれていた。


《離任条件:達成》


ユナが自分で書いたわけではない。巫女局の印が押されている。アヤの印。巫女局の代表が、工程として離任条件を確定した。確定できるということは、基準が運用されているということだ。


前原は紙束を返し、静かに言った。


「達成ですね」


ユナが頷く。頷き方が、少しだけ寂しそうだった。寂しさは悪いことではない。寂しさがあるから依存になる――そう単純に決めつけてはいけない。寂しさは人間の感情だ。感情は消せない。消そうとすると凍る。凍った感情は、いつか爆ぜる。


「助言者さまがいなくなると、困る人もいます」


「困っていいです」


前原は否定しなかった。否定すると、困りを隠す。隠すと燃える。


「困って、集まって、ログを残して、調整する。それが工程です。困った時に工程が動けば、私は要りません」


ユナは少しだけ目を丸くした。


「要らない……って、言い切れるの、すごいです」


前原は苦笑した。すごいのではない。怖いのだ。人は自分が要らないと言われるのが怖い。自分が要らないと言うのも怖い。怖いからこそ、制度に落とす。制度に落とせば、怖さは工程になる。


「私が要らない状態を作るのが、助言者の仕事です」


ユナはゆっくり頷いた。理解はした。感情は追いつかない。それでいい。感情が追いつくのは遅い。育てる制度は遅い。遅いから暴走しない。


会議室では、最後の確認会合が行われていた。会合というより、報告会に近い。議題は一つ。離任後の運用の確認。誰が何を抱えるかを決めるのではない。抱えないために工程を回すことを確認する。


アヤが前に立ち、いつもの柔らかい声で言った。


「助言者殿の離任条件が達成されました。今日の会合は、感謝の場ではありません。引き継ぎの場です。引き継ぐのは助言者殿の判断ではなく、工程です」


その言い方が、もう巫女局の言葉だ。聞く人の言葉だ。決めない人の言葉だ。彼女は決めないまま、場を回す人になった。最初からそうだったわけではない。工程が彼女をその位置に置いた。


北方の代表が、珍しく頭を下げた。


「助言者殿。感謝は言わない。だが……工程は認める。港湾の件以来、我々は止まれるようになった」


交易連合の執務官も静かに続ける。


「我々も同じです。正解が一つでない世界で、正解の出し方を学んだ。助言者殿がいなくなっても、続けられる」


沿岸の財務担当が、少しだけ面倒そうに言った。


「会合のコストは増えていない。むしろ、揉めてからのコストが減っている。……それなら良い」


その言葉で十分だった。評価の言葉ではない。現場の言葉だ。現場の言葉が残るなら、制度は残る。


前原は短く頷いた。


「私から最後に一つ。工程を“守るための工程”を作ってください。工程は形骸化します。形骸化は凍りです。凍る前に、見直す場を残す」


アヤがすぐに頷いた。


「月に一度、“工程の点検会”を設定します。集合条件を満たさない小さな詰まりも、そこで拾います」


ユナが続けた。


「担当はローテします。抱え込みません。詰まりが出たら、短会合を開きます。判断は各国で。巫女局は場を維持します」


その言葉が出るなら、離れていい。離れても燃えない。離れても凍らない。離れても育つ。


会合が終わると、前原は外へ出た。空は広い。風が柔らかい。世界は若い。若いままにしておくのが正しい。完成させようとした瞬間、統一の匂いが出る。統一の匂いは反発を生む。反発は燃える。


未完成のまま離れる。


それが、この世界の最適解だ。


前原は札を胸元で押した。帰還。神界へ。日次終業は神界。区切りの工程。今日の終業は、いつもより重い。重いのは疲労ではない。離れるという決断の重さだ。


空気が澄み、視界が白くなる。草と土の匂いが遠のき、神界の乾いた匂いが戻る。


神界の運用区画に戻ると、珍しく机の上が片づいていた。燃える世界のアラートが鳴っていない。凍りの世界の監査通知も今は静かだ。リュシアの今日が“大した事無かった日”なのかは分からない。だが、少なくとも今は、息ができる空気がある。


そして、その空気の中で、リュシアは珍しく完全にだらしなかった。


椅子に深く沈み、テーブルに胸を乗せるようにして、重そうにグラスを持っている。完璧な造形が、完璧な姿勢を放棄している。放棄しても許されるのが、この部屋の線だ。


前原が入ると、リュシアは顔を上げずに言った。


「おかえり。……終わった?」


「終わりました。離任条件、達成です」


リュシアが、机に胸を乗せたまま、短く息を吐いた。重さが机に移る音がする。音はしないはずなのに、そう感じる。


「区切り、できたね」


区切り。合言葉が、自然に出た。今日は最終終業だ。区切りができないと燃える。区切りができないと依存が始まる。依存が始まると、今日の離任が崩れる。


前原は椅子に腰を下ろし、グラスを受け取った。今日は少しだけ長めの口頭報告になる。長めになるのは、内容が多いからではない。離任の確認は、工程の締めだからだ。


「短い衝突が三回。全部、集合条件未満で処理。分類不一致が一回。短会合で暫定固定。解除まで工程で回しました。工程点検会の設定。ローテ運用の確認。巫女局は場を維持する役割を明文化。各国は判断を保持。……以上です」


リュシアは氷を鳴らし、短く頷いた。


「いい。あなたがいなくても回る」


「それが仕事です」


前原がそう言うと、リュシアは目だけ動かした。視線が少しだけ熱を含む。だが熱は線を越えない。越えると燃える。燃えると、彼女が困る。困ると、世界が燃える。


「呼ばれなくていい仕事、ってやつ?」


「そうです。呼ばれなくていい。呼ばれない方が成功です」


リュシアが、珍しく微笑んだ。微笑みは疲れている。だが、嬉しさも混じっている。管理者として嬉しい。人としても少し嬉しい。そこが混じるのが危険で、でも人間らしい。


「……好き。そういうの」


「それ、褒め言葉ですか」


「褒め言葉。私が一番好きなタイプの成果」


成果、という言葉が出た。第67世界では成果が人を黙らせた。ここでは成果が人を呼吸させた。成果の使い方が違う。管理者はその違いを知っている。


前原はグラスを一口飲み、胃の底に落ちる冷たさで言葉を整えた。


「打ち上げ、ですよね。契約条項どおり」


「うん。業務」


リュシアはだらしない姿勢のまま、つまみを前に寄せた。神界のつまみは相変わらず機能寄りだ。味気ない。だが今日は、味気なさが逆にちょうどいい。余計な情緒を増やさない。増やしすぎると境界が溶ける。


会話はゆっくりと、仕事と私事の境界まで来た。


「……あなた、今夜、現実に戻る?」


リュシアの質問は業務の質問に見える。だが、その奥にほんの少しだけ“残ってほしい”の気配が混じる。混じるのに、言葉は抑えてある。抑えてあるのが線だ。


前原は、その線を尊重する言い方を選んだ。


「戻りません。案件期間中の停止は継続です。今日は神界で休んで、区切りを完成させます」


「うん。区切り、最後までやって」


区切り。合言葉が二度目に出た。今日は何度も出ていい。出ていい言葉だからだ。恋の言葉ではない。依存の言葉でもない。燃えないための工程の言葉だ。


グラスが空になる頃、リュシアは一度だけ体勢を変えた。テーブルに乗せていた胸の重さを、腕で少し支え直す。重そうに息を吐く。完璧な造形のまま、疲れている。疲れているのに、ここでは隠さない。


前原は、その姿勢を見て思った。


気を抜いている。

気を抜いていると、心配が減る。

だから好きだ、と言いたくなる。


言えば温度が上がる。上げすぎると線が溶ける。溶けた線は燃える。


だから前原は言い換えた。


「……今日は、ちゃんと休めそうですか」


リュシアが眼鏡の奥で目を細める。


「休める。あなたが区切ったから」


区切った、という言い方が、仕事の言葉であり、少しだけ個人的でもあった。個人的が混じるのは仕方がない。混じったところで止めればいい。止められるなら燃えない。


最終終業の工程は、淡々と終わった。報告。確認。清算はまだ先だ。今日は“終わったこと”を終わったと認める日。


前原は立ち上がり、仮眠室へ向かった。扉の結晶鍵穴が淡く光る。鍵を当てると静かに開く。部屋の中はいつも通り空っぽで、いつも通り整っている。


今夜が、今回の派遣の最後の夜だ。


ベッドは広い。ダブルは相変わらず広い。広いのに、今日は落ち着かなかった。落ち着かない理由が違う。余白が怖いのではない。余白が“残る”ことが、少しだけ寂しい。だが寂しさを肯定しすぎると、依存になる。依存は燃える。


だから、工程として処理する。


前原はシャワーを浴び、タオルで髪を拭き、ベッドの前に立った。そして、初めて中央に横になった。


端へ寄らない。

一人分の空白を残さない。

残す空白に意味が生まれる前に、意味を作らない。


中央に眠ることは、誰かを招く意味ではない。

ただ、広いベッドを“広いベッドとして使う”というだけだ。

そのだけ、ができるようになったことが、区切りの成果だ。


天井を見上げながら、前原は今日の仕事を短く整理した。


未完成のまま離れる。

だが燃えにくい下地は残した。

残ったのは自分ではない。工程だ。

工程が残るなら、呼ばれなくていい。

呼ばれない方が、成功だ。


目を閉じると、何も起きない。


何も起きないことが、今夜の正しさだった。

それでいい。


前原はベッドの中央で、静かに眠りに落ちた。

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