第1話 第七管理区画・第27世界(着任)
石畳に足を着いた瞬間、前原誠二は鼻腔の奥に刺さる匂いで「これは現場だ」と悟った。
煙。血。焦げた木材。湿った土。鉄のような汗。
それらが混ざり合って、戦場の外縁にだけ漂う独特の重さを作っている。
城の中庭は、戦場と後方が分離できていなかった。負傷者が担架で運ばれ、鎧のまま膝をつく兵がいて、魔法使いが水を撒いている横で、補給の荷車が通れずに詰まっている。誰もが何かをしているのに、全体は回っていない。忙しさの割に、秩序が薄い。
前原はまず、視線を走らせて“誰が指揮権を持っている空気か”を読む。
人事部長の視線は、個人の強さよりも「組織の癖」を先に拾う。誰が正しいかより、誰が止められないかの方が重要だ。
そして、止められない空気が濃かった。
兵たちの視線が、城壁側へと集まっている。歓声にも似た緊張がある。英雄がいる。強い者がいる。そこに重心が偏っている。
偏りは、燃える。
背後で足音が乱れた。白い装束の男が駆け寄り、膝をつきかける。儀礼が先に出るタイプだ。前原は手を上げて止めた。
「形式は後でいい。状況を教えてください。今、誰が指揮を取っている」
男は息を切らしながら、言葉を選ぶ目をした。
“正しい答え”が分からないときの目だ。
「……勇者様が……」
前原の胸の奥が、わずかに沈む。
それは指揮ではなく、象徴だ。象徴に寄りかかっている現場は、象徴が機嫌を損ねた瞬間に折れる。
「勇者がどこまで指揮している。騎士団長はどこ。補給は誰が見ている。治療は聖女庁か医師団か。意思決定の会議体は存在するか。最終決裁者は誰か」
矢継ぎ早の質問に、男の顔から血の気が引いた。質問に答えられないということは、その機能がないということだ。
前原はそれ以上、答えを待たない。
「今すぐ会議体を作る。関係者を集めて。勇者、聖女庁代表、騎士団長、補給担当、治療担当、財務担当、王の代理。全員」
男が「はい」と言って駆け出す前に、前原は付け足した。
「集める場所は静かな室内。扉が閉まる部屋。机があるところ。会議は座ってやります。立ったままは、殴り合いになる」
男は一瞬だけきょとんとした顔をし、それでも頷いて走った。
前原は自分の呼吸を整えた。
派遣中は現実時間が停止している。つまり、現実の自分の机の上の残務も、帰り道の電車も、全部凍ったままだ。だからといって、ここでの一分が軽いわけではない。むしろ逆だ。ここでの一分が“その世界の一分”として積み重なる。
スマホを取り出す。圏外表示のはずなのに、TIMIYの通知バーだけが生きている。妙に現実的なUIが、石造りの世界に浮いて見えた。
《案件:第七管理区画・第27世界》
《ステータス:稼働中》
《付与加護:有効》
《残り受諾猶予:—》
《本案件の業務範囲:対応~打ち上げ》
“打ち上げまでが業務”。
思い出しただけで、ため息が出そうになる。制度としては理解できる。だが業務範囲に飲み会が含まれる世界に、慣れたくはない。
背後で、鋭い声が飛んだ。
「お前が神託の者か!」
振り向くと、金髪の若い男が立っていた。鎧が光り、腰の剣が誇らしげに揺れている。周囲の兵が自然に道を開けているのが、彼が“象徴”である証拠だった。
勇者だ。
彼の視線は、前原の服装を舐めるように見て、明確に軽蔑の色を乗せた。派遣の人事部長は、戦場の英雄から見れば「地味な雑務」に見えるのだろう。
「随分と地味だな。剣も持たぬのか」
前原は、言い返す言葉を選ばない。選ぶのは言葉の順番だ。
相手の立場を潰さず、こちらの立場を確立する。人事の基本。
「持ちません。私の武器は秤です」
勇者が鼻で笑う。
「秤? 戦場で何を量る。敵の首の重さか」
前原は笑わなかった。視線も逸らさない。
権威耐性の加護が、ここで効いているのだと分かった。普通なら“勇者の圧”に呼吸が乱れる。だが今は、成果主義のエース社員を相手にしている感覚に近い。
「あなたの成果です。あなたが守った民の数。あなたが損なった兵の数。あなたが作った秩序。あなたが壊した組織」
言葉が刺さったのが分かった。勇者の眉がわずかに動く。
“成果”という単語は、褒め言葉でもあり、鎖でもある。
「英雄は強い。しかし、組織は英雄の強さだけでは守れません」
勇者の手が剣に触れた。周囲の兵が息を止める。
ここで剣が抜かれれば、前原は死なないかもしれない。死亡回避は合理的範囲で保証されている。だが“会議体”が死ぬ。制度が始まる前に終わる。
前原は声量を変えずに続けた。
「斬れます。ですが斬った瞬間、あなたは女神の神託を踏みにじる。王は守れない。聖女庁は恐れる。騎士団は割れる。結果、あなたは孤立します。合理的ではありません」
“合理的ではありません”。
その言葉に、勇者の指が止まった。理屈が通るタイプだ。感情で突っ走るだけの英雄なら、ここで終わっている。
前原は息を吸い直す。
「今夜、会議があります。あなたの意見はそこで聞きます。ただし会議は決裂のためにやるものじゃない。意思決定するためにやるものです。あなたは英雄として戦い続けるために、形式に従ってください」
勇者は唇を噛み、視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
完全な合意ではない。だが“引き金”は外れた。
前原は内心で一つだけチェックを付ける。
――この勇者は、制度を嫌う。しかし、制度の利益は理解する。
“扱える”。
勇者が去ったあと、前原は中庭の端に目を向けた。治療の列がある。負傷者の中には、鎧の装飾が派手な者もいれば、粗末な布を巻いただけの者もいる。順番が不自然に感じる。
身分が割り込んでいるか、声の大きさが割り込んでいるか。どちらにせよ、現場の不満は溜まっている。
そのとき、胸元の白金の札が熱を帯びた。
“直通”。
指で軽く押すと、耳の奥に澄んだ声が落ちる。直接頭に届くのに、電話のように雑音がない。
『聞こえる?』
女神の声。
リュシア・ノクスディア。第七管理区画長。
あの完璧な造形に、疲れが滲んでいたのを思い出す。巨乳が“豊か”ではなく“重そう”に見えたことまで、妙に鮮明だ。美しさと過労が同居している存在は、見ているこちらの判断を鈍らせる。だから前原は意識的に切り離した。女神は女神で、現場責任者だ。
「聞こえます。現場に入りました」
『どう? 燃え方は』
前原は短く答える。
「指揮系統がない。象徴に寄りかかっている。治療と補給が詰まり、会議体が未整備です。今夜の会議で決裂したら割れます」
『うん。いつもの燃え方』
いつもの燃え方。
255世界を担当している女神の口から出ると、冗談にならない。
それでも彼女は、愚痴の温度ではなく、業務報告の温度で言った。
「会議室安定化の加護、これから使います。会議を座らせます」
『助かる。あなたが座らせるのが一番早い。私は神託で座らせると、上に怒られる』
神託の乱用が評価に響く。
神界にも査定がある。中間管理職の悲哀が、ここにもある。
「ところで、補給担当と財務担当が“誰か”分かりません。こちらの資料、追加できますか」
札の向こうで、紙をめくる音がした。神なのに、紙をめくる。
神界が官僚機構であることが、こういう音で確定する。
『案件票、今送る』
前原のスマホが軽く震え、画面に添付ファイルのようなものが表示された。
ファンタジーとITの融合というより、単に役所のシステムが別世界に乗っている感覚に近い。
『あと、気をつけて。第27世界は“聖女庁が強い”』
「権力構造が歪んでいる?」
『うん。奇跡の配分が、実質“人事権”になってる。治療を握ると、誰でも偉くなるでしょ』
前原は無意識に頷いた。
人事部長として、痛いほど分かる。評価と報酬を握る部署は、組織の心臓だ。心臓が独走すれば、全身が痙攣する。
「了解しました。会議で“基準”を作ります」
『好き、その言い方。じゃ、行って。今日は…私も忙しい』
忙しい、という言葉の重みが違う。255世界の忙しさは、普通の残業と尺度が違う。
それでも声は淡々としていた。淡々としていなければ潰れるのだろう。
通話が切れ、札が冷えた。
前原は歩き出す。目的は二つ。
一つは会議室の確保。もう一つは、会議に呼ぶ人材の“顔”を見ること。
人事の仕事は、制度を作る前に人を見ることから始まる。
制度は人に適用される。人が分からない制度は、ただの紙だ。
城の廊下を進むと、兵が道を空ける。神託の印があるからだろう。だが視線には期待と不安が混ざっている。
期待されるのは歓迎ではなく、責任の押し付けだ。誰かに背負わせたい。燃えている組織の典型だ。
通された会議室は、石造りで、長机が一本。椅子は数脚しかない。
“座らせる”以前に、座る場所が足りない。
前原は即断した。
「椅子を増やしてください。なければ運んでください。座らない会議は、会議になりません」
近くにいた従者が困惑する。
「しかし、この城の椅子は…」
「椅子の格で揉めるなら、板でもいい。背もたれがなくてもいい。全員が座って同じ目線になることが重要です」
従者は理解していない顔だったが、言葉の圧に押されて走った。
会議室安定化の加護は万能ではない。環境が整っていない会議は、それだけで荒れる。
前原は机の上にある書類を見た。封蝋が押された報告書、戦果の記録、治療の記録、補給の記録。
だが形式がバラバラだ。文字は読める。言語理解の加護が、異世界の文字を“意味として”脳に落とし込んでくる。
読めるのに、比較できない。比較できないから評価できない。評価できないから、権威が暴れる。
そこへ、先ほどの神官が戻ってきた。息を切らし、汗で髪が額に貼り付いている。
「集まりました。勇者様…聖女庁代表…騎士団長…補給担当…治療担当…財務担当…そして王の代理が」
前原は頷き、短く指示する。
「入室順は決めません。ただし席は指定します。勇者は端。聖女庁は反対側。騎士団長は中央寄り。王代理は出口に近い席。補給と財務は隣。治療担当は聖女庁の隣」
神官が驚いた顔をする。
「なぜ、そのように…」
「衝突する者同士を真正面に置くと、会議は殴り合いになります。隣に置くと、喧嘩が“囁き”に変わる。中央は調整者が座る。出口に近い者は逃げやすいので、責任を取らせたいときに出口を塞がない」
人事部長の知恵は、戦場より会議室で生きる。
神官は納得したような、していないような顔で走っていった。
前原は深く息を吐き、机の端に紙を置いた。異世界の紙は厚い。インクも濃い。
そこに、簡易の議題を書き出す。
第一:指揮系統の確立(今夜から)
第二:補給計画(明日から)
第三:治療と奇跡の基準(即日)
“今夜から”“明日から”“即日”。
期限を切らない改革は、改革ではない。
期限を切ると反発される。だが反発される改革だけが、機能に触れている。
扉が開いた。
金髪の勇者が先に入ってくる。堂々と。
次に、白い衣装の女性。清廉な顔をしているが、目が冷たい。聖女庁代表だ。
その後ろに、鎧の壮年の男。疲れている。騎士団長。
さらに、背を丸めた男が二人。補給担当と財務担当。
最後に、青ざめた若い男。王の代理。
前原は立ち上がらない。
ここで立って迎えると、儀礼が始まる。儀礼が始まると、実務が遅れる。
会議は、儀礼ではなく決裁だ。
「座ってください。時間がありません」
勇者が眉を動かす。聖女庁代表が不快そうに視線を寄越す。王代理が戸惑う。
その一瞬の揺れを、会議室安定化の加護が薄く抑える。空気が“硬直”せず、“粘る”感覚に変わる。
これなら言葉が刺さっても、殴り合いになりにくい。
全員が座った。椅子の格差はある。だが、座るという行為だけで上下が一段落ちる。
前原は、最初に“型”を告げた。
「結論から言います。この会議で決めるのは三つ。第一に今夜からの指揮系統。第二に明日の補給計画。第三に治療と奇跡の使用基準。以上です」
王代理が反射的に口を開きかける。前原は先に制した。
「議題追加は緊急性がある場合のみ。感情的な非難は禁止。個人攻撃は禁止。誰が悪いかではなく、何が起きているかを扱います」
騎士団長が机を叩きそうになったが、拳を止めた。
加護の力か、理屈の力か。両方だ。
「まず事実確認。現在、戦場の最終決裁者は誰ですか」
王代理が震える声で言う。
「勇者様が…」
勇者が胸を張る。
「当然だ。俺が一番強い」
前原はうなずいた。否定しない。
「強いことは事実です。ただし“強い”と“決裁できる”は別です。決裁とは、責任を負うことです。あなたは責任を負えますか。兵の死者数、補給の破綻、城の損耗、民の避難、それらの責任を」
勇者が眉を寄せる。
責任を問われると、強者は黙る。どの世界でも。
聖女庁代表が静かに口を挟んだ。
「女神の恩寵を受けた勇者に責任を問うのは、不敬では」
前原はその言葉を“待って”いた。
権威の言葉が出た瞬間に、制度の言葉を差し込む。
「質問します。あなた方は、誰のために奇跡を使っていますか」
聖女庁代表は迷いなく答えた。
「民と兵のために」
「ならば、その順番と基準を明文化してください。明文化しないと、あなた方は“恣意的に救っている”と疑われ続けます。疑われると、現場は腐ります」
聖女庁代表の目が細くなる。
この世界で“疑い”を口にするのは危険だ。だが前原は止めない。疑いを封じる組織は、内部で腐敗する。
騎士団長が堪えきれずに言った。
「実際、揉めている! 負傷者の治療が、身分で前後した!」
補給担当が小さく頷く。財務担当が顔を伏せる。王代理が目を逸らす。
事実だ。
聖女庁代表の頬がわずかに強張った。
「それは……状況に応じて……」
前原は静かに言った。
「状況に応じるのが悪いのではない。状況に応じた判断が“説明できない”のが問題です。説明できない判断は、必ず権力になります。そして権力は、必ず腐敗します」
空気が冷えた。
だが会議室安定化の加護が、冷えた空気を“凍らせない”。凍ると破裂する。粘ると、言葉が続く。
前原は紙を一枚取り出し、机に置いた。
簡易のテンプレートだ。
「明日から、全員の行動を同じ様式で記録します。誰が、いつ、何を決めたか。何が改善したか。何が悪化したか。勇者班、騎士団、聖女庁、補給、治療、財務。全員です」
勇者が低い声を出す。
「……俺もか」
前原は即答した。
「あなたもです。英雄も聖女も評価対象です」
聖女庁代表の唇がわずかに震える。
勇者は苛立ちを隠せない顔をする。
だが騎士団長は、どこか救われたような息を吐いた。補給担当も、財務担当も、目がわずかに上がる。
“見える化”は、弱い部署を救う。
前原は続ける。
「指揮系統を決めます。戦場の最終決裁は騎士団長。勇者は特殊戦力として作戦に組み込む。作戦提案権はあるが単独決裁は不可。聖女庁は治療と士気の領域を担当。奇跡は治療優先。攻撃用途は会議体決裁。補給は数値で提示し、作戦規模を決める。財務はその裏付けを持つ」
王代理が震える声で言った。
「……勇者様の権威が……」
前原は視線を逸らさず、短く切る。
「権威は守ります。ただし権威を守るために兵を死なせない。兵が死ねば権威も死ぬ」
勇者が椅子を蹴りそうになり、止めた。
怒りの矛先が“前原”に向くのは構わない。制度は、最初は嫌われる。
聖女庁代表が言った。
「奇跡の基準など、女神の導きで十分です」
前原は頷く。
そのうえで、否定する。
「導きは大切です。ただし導きの説明責任がない組織は腐敗します。あなた方を守るために基準を作る。基準があれば、矢面に立つ回数が減る。あなた方が楽になる」
“楽になる”。
その言葉が、聖女庁代表の表情を一瞬だけ揺らした。
清廉な顔の裏に、疲れがある。英雄主義の組織は、象徴も疲弊する。象徴は休めない。休めない象徴は、いつか壊れる。
前原は、ここで畳みかけない。
一気に改革すると反発が爆発する。まずは“止血”。
「今夜からの運用だけ決めます。細部は明日、改めて詰める。今日は火を止めるのが目的です」
騎士団長が、ようやく頷いた。
「……分かった。俺が決裁する。勇者殿は、作戦会議に出てくれ」
勇者は歯を噛み、目を逸らした。
だが否定しない。否定しないということは、乗ったということだ。
補給担当が、震える声で言った。
「数値……出せます。だが今は、倉庫が混乱して……」
前原は即答した。
「混乱を止めます。補給は“窓口”を一つにする。今日からあなたが窓口です。勝手な持ち出しは、ログに残す。持ち出しが減れば、在庫が読める。読めれば、作戦が立つ」
財務担当が小さく頷く。
財務はいつだって、ログの味方だ。
会議は二刻(この世界の時間単位)ほど続き、最低限の決裁がなされた。
全員が不満を抱えたまま終わった。それでいい。全員が満足する決裁は、たいてい何も決めていない。
前原は席を立ち、最後に言った。
「明日、再度集まります。今日は現場に戻ってください。作戦に従う。奇跡は治療優先。補給は窓口一本化。ログを残す。以上です」
扉が閉まり、会議室に静寂が戻った。
石の壁が、ようやく呼吸を許してくれる。
前原は深く息を吐き、机の端に置いた記録結晶を手に取った。
改竄不能の記録媒体。リュシアが用意したのだろう。神界は“仕組み”が好きだ。上が好きなのか、彼女が好きなのか。どちらにせよ、これは武器になる。
結晶に触れると、淡い光が走り、今日の決裁事項が刻まれる。
ログが残る。残るということは、責任が残る。責任が残るということは、制度が回り始める。
その瞬間、胸元の札が再び熱を帯びた。
『どうだった?』
リュシアの声は、少しだけ掠れている。
疲れているのに、まだ仕事をしている声だ。
「最低限、止血しました。指揮系統と補給窓口、奇跡の優先順位だけ決めた。全員不満顔です」
『最高。全員が不満な決裁は、だいたい正しい』
それを“最高”と言える女神は、完全に中間管理職だ。
前原は小さく笑いそうになり、堪えた。
「明日からテンプレで記録を回します。英雄と聖女も含めます」
『うん。好き。英雄も聖女も評価対象。第27世界は、その宣言が一番効く』
一拍置いて、リュシアが言った。
『…ねえ、前原』
「はい」
『あなた、現実でどれくらい削ってる?』
唐突な問いだった。
だが、職場の管理職同士なら分かる。数値ではなく“顔色”の問いだ。
前原は少しだけ視線を落とした。
「削っている自覚はあります。だから副業に手を出した。笑えない話ですが」
『笑えるようにするために呼んでる。こっちも、削りすぎてるから』
女神が自分の過労を口にするのは珍しい。
それだけ、この案件が重いのだろう。あるいは、前原が“同僚枠”に入ったのかもしれない。
「打ち上げで吐き出してください。業務ですから」
自分で言っておいて、馬鹿みたいだと思う。
だがリュシアの返事は、ほんの少し笑っていた。
『そう。業務。終わったら飲もう』
通信が切れ、札が冷えた。
前原は会議室を出て、再び中庭へ向かった。
火はまだ消えていない。だが延焼の速度が落ちているのが分かる。人が動き始めると、空気が変わる。
制度が空気を変えるのは、いつもこういう小さな瞬間からだ。
歩きながら、自分の手を見る。
指先の皺が、ほんの少し薄い気がした。
気のせいかもしれない。だが報酬は確かに、身体に反映される。
寿命復元。
働いた時間分だけ、戻る。
現実の自分は、時が止まった机の前にいる。
この世界の自分は、火の中にいる。
そしてその火は、誰かの人生を燃やしている。
人事部長の仕事は、誰かの摩耗を見ないふりできない仕事だ。
異世界でも、その本質は変わらない。
前原は、城壁の向こうの赤い光を見上げた。
今夜の決裁は終わった。
だが本当の仕事は、ここからだ。決めたことを“運用”に落とす。運用は、決裁よりも難しい。人は決めたことを守らない。守らないから、制度が必要になる。
そして制度は、必ず誰かに嫌われる。
嫌われる役目を引き受けるのが、管理職だ。
管理職が嫌われなければ、現場が嫌われる。現場が嫌われれば、組織は折れる。
折らせない。
前原は、次の紙を用意するために歩く。
テンプレートを増やす。窓口を固める。ログを回す。
英雄も聖女も、例外にしない。
その背中に、風が煙を運んだ。焦げの匂いが濃くなる。
現場はまだ燃えている。だが、火は止められる。止め方を知っている。
だから、ここにいる。




