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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2.5章 区切り

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閑話④ 付与――戻っていい場所

休む、という行為は曖昧だ。

気合でも、覚悟でも、責任感でも代替できてしまう。


だからこそ、

休む場所には“形”が要る。

鍵があり、

条件があり、

使っていい理由が明記されていること。


この閑話で描くのは、

与えられた報酬ではない。

逃げ場でも、甘えでもない。


「戻っていい場所」を

正式に渡す、という話だ。


そしてその朝、

誠二は問われる。

次の世界へ行くかどうかを。

朝の光は、昨日の夜よりも残酷に現実だった。


カーテンの隙間から差し込む白い光が、部屋の埃を浮かせて、空気の輪郭をはっきりさせる。前原誠二は目を開けた瞬間、自分がどこにいるかを一拍遅れて思い出した。自宅だ。いつもの天井だ。いつもの匂いだ。なのに、空気の密度が違う。


隣に“現実じゃない気配”がある。


布団の上、壁際。昨夜、何も決めない夜のまま眠ったはずの彼女が、まだそこにいた。黒髪ショートは寝癖で少し跳ねている。眼鏡は外され、枕元に丁寧に置かれていた。完璧な造形のはずの顔が、眠っている間だけ妙に人間臭い。眉間の力が抜け、口元が無防備に緩んでいる。胸元の重さを逃がすように、横向きで丸くなっている姿勢が、生活の疲れをそのまま語っていた。


見てはいけない、と頭では思うのに、目が逸れない。


前原は布団の中で小さく息を吸った。昨日は業務外。息抜きの息抜き。だからこそ、今の朝が照れくさい。余白の翌朝は、職務の顔を作るのに一拍遅れる。


彼女が小さく身じろぎした。肩が動き、呼吸が変わる。次の瞬間、目が開いた。眼鏡のない目は、鋭さが少しだけ増す。だが、その鋭さが今は寝起きのぼんやりに押し負けている。


「……おはよう」


声が低い。昨夜のハイボールの余韻というより、疲れの底から引き上げた声だった。


「おはようございます」


前原は反射的に敬語で返して、すぐに後悔した。昨日の夜の空気に対して硬すぎる。けれど、柔らかくしすぎるのも違う。ちょうどいい温度が難しい。


リュシアは寝ぼけた顔のまま、枕元の眼鏡に手を伸ばし、指先で探ってからようやく掴んだ。掛け直した途端、表情が少しだけ締まる。管理者の顔が戻るのが分かる。


「……昨日、何も決めないって言ったのに」


「言いましたね」


「朝は、決める?」


その言い方が、妙に可笑しかった。終電を逃した同僚が翌朝に“じゃあ今日どうする”と確認してくる時のトーン。神が言う台詞じゃないのに、彼女が言うと成立する。


前原は布団から出て、寝巻きのまま台所に向かった。水を汲み、ケトルを鳴らす。こういう動作が現実の輪郭を戻す。


「決めます。朝に判断する線を守ります」


リュシアは布団の中で小さく頷いた。頷き方が、安心した時のそれだった。


「……第七管理区画・第238世界」


彼女が世界番号を口にした瞬間、部屋の空気が少しだけ引き締まる。昨日の夜の“業務外”が、今朝の“業務”に触れる音がした。


「猶予五日。慌てなくていい、って追伸がありました」


前原が言うと、リュシアは目を細めた。


「書いた。上の承認も取った。走らせない運用は面倒だから、面倒を先に片づけた」


面倒を先に片づけた、という言い方が、どこまでも中間管理職だ。完璧な造形の神が言うと妙に生々しい。


「ありがとう、って言うと軽いですけど」


「軽くない。受け取って」


即答だった。受け取れ、と言われると、逆に受け取り方を間違えられない。


前原はコップに水を注いで、リュシアの前に置いた。彼女は礼も言わずに一口飲む。礼を言わない無遠慮ではなく、“気を遣わないでいい線”の確認に見えた。


「それで、どうする?」


リュシアがもう一度聞いた。今度は少しだけ声が整っている。業務の質問だ。


前原は自分の中の条件を、短い言葉に落とした。現実の予定。体力。区切り。逃げ道。猶予があるとはいえ、若い世界は“育てる”仕事だ。火事の消火とは違う。焦ると反発を生む。焦らないには、先に自分の線を確保しておく必要がある。


「受諾します」


言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。判断は摩耗する。だから決めるのは朝がいい。決めた瞬間に、今日の自分の輪郭が戻る。


リュシアは眼鏡の奥で、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「よかった。……来て」


「今から、ですか」


「今。契約確認と、付与の更新。あと、渡すものがある」


渡すもの。前原の脳裏に、以前見た神界の仮眠室が浮かぶ。簡素で清潔で、ビジネスホテルみたいな空気の部屋。シャワーが付いていて、最小限の休養が確保されていた。


けれど彼女の言い方は、何かが違う。


前原は軽く顔を洗い、最低限身支度を整えた。リュシアも同じように、いつの間にか“出勤前のOL”の整い方をしている。髪が整い、眼鏡の位置が決まり、姿勢が戻る。完璧な造形が、完璧なまま“現実に馴染む”準備をするのが、相変わらず不思議だった。


「行きます」


前原が言うと、リュシアは小さく頷いた。


「受諾はあなたのスマホで。現実は止める。止めたまま、神界へ」


その手順が、もう当たり前になりつつあるのが怖い。だが怖いからこそ、線を言語化して守れる。


前原はスマホを開いた。通知は来ていた。だが、赤い圧ではない。淡々とした業務仕様の文面だ。追伸の猶予が、最後に添えられている。


《新規案件が発行されました》

職種:人事部長(臨時)

勤務地:異世界 第七管理区画・第238世界

報酬(現実):時給 1,420円(危険手当込)

報酬(異世界):稼働時間に応じた寿命復元(身体的若返り)

稼働条件:派遣中、現実世界の時間停止(案件期間中継続)

休養:神界仮眠室を利用可(休憩は無給)

付与:業務遂行に相応の加護(派遣時間中のみ)

特記事項:終業時の口頭報告+愚痴聞き+打ち上げまでを当日の業務に含む(費用は当方負担)

受諾猶予:5日

受諾期限:72時間(※猶予内は自由)


数字が微妙に変わっているのが、妙に現実的だった。危険度が低いのに、単価が上がっている。若い世界ほど“調整の手間”がかかる、という理屈が透ける。神界の最低賃金という冗談みたいな概念が、冗談じゃなく制度になっている。


前原は受諾ボタンに指を置き、一度だけ呼吸を整えた。


「……受諾」


押した瞬間、世界が静かに切り替わる。落下感はない。音が遠のき、空気の密度が変わり、現実の部屋の温度が薄れていく。視界が白く弾ける直前、リュシアが小さく言った。


「朝に決めた。偉い」


褒め方が雑なのに、刺さる。刺さるのに、温度は上がりすぎない。その雑さが、彼女なりの線だ。


次に目を開けた時、神界の執務室の奥、いつもの運用区画に立っていた。天井は高い。石造りの壁。湿っぽさはなく、書類と結晶板と印章の匂いだけがする。役所の匂いだ。


リュシアはもう“女神の姿”に戻っていた。衣装は神々しいのに、顔は疲れている。疲れているのに、目だけが仕事の目だ。管理者の目。二百五十五の世界を背負う目。


「契約確認。内容は見た?」


「見ました。単価、上がってますね」


「若い世界は手間が増える。燃えてない分、仕組みを“先に”作る必要がある。先に作るのは時間がかかる」


理屈が通る。理屈が通るのに、彼女の声が少しだけ固い。固い理由は分かる。今日の本題は、契約じゃない。


「加護は更新する。言語理解、文書理解、権威耐性、事故回避。あと“会議室安定化”は継続」


「戦闘用途は?」


「想定しない。238は戦場じゃない。制度が芽吹く世界。芽を踏まないための加護にする」


芽を踏まないための加護。言い方がうまい。神託の言葉ではなく、運用の言葉だ。


リュシアは机の引き出しを開け、何かを取り出した。白金の札……ではない。もっと現実的な形のもの。小さな鍵束のように見えるが、金属ではなく、結晶のように淡く光っている。


「これ」


差し出されたそれを、前原は受け取った。冷たい。冷たいのに、手のひらに馴染む。権限札に似ているが、もっと“鍵”の感触が強い。


「鍵、ですか」


「専用鍵」


専用、という単語が、神界の乾いた空気の中で妙に生々しい。リュシアは表情を変えずに続けた。


「上の許可が通った。あなた用の仮眠室、カスタマイズ。単なる共有設備じゃない。専用」


「……どうして」


前原が聞くと、リュシアはすぐに答えなかった。代わりに、机の端を指で弾く。砂時計が逆流し、結晶板に簡易の承認ログが浮かぶ。


《福利厚生枠:業務効率改善に資する休養設備の個別割当》

《対象:派遣人員(前原誠二)》

《理由:現実側の生活維持/稼働安定/判断品質の維持》

《備考:臨時使用許可(時間停止を伴う)》

《アクセス権限:前原+管理者(第七区画長リュシア)》


ここまで並べられると、拒否の余地がない。拒否する理由が“感情”しか残らない。そして感情だけで拒否するのは、彼女の作った制度の上では不合理になる。


リュシアが淡々と付け足した。


「ボーナス扱い。あなたは現実で休めない。休めない人間が、制度を作ると歪む。歪んだ制度は燃える。だから先に歪みを減らす」


「……管理者の発想ですね」


「管理者だから」


言い切り方が硬い。硬いのに、わずかに頬が熱を持っているように見えた。見間違いかもしれない。だが見間違いにしては、目線が一瞬だけ逸れた。


照れ、だ。


神が照れるのはおかしい。けれど中間管理職が“部下の福利厚生”を通した後に照れるのは、妙に分かる。


前原は鍵を握り直した。


「入る権限は?」


「あなたと、管理者権限の私だけ。ほかは入れない。監査ログも最小化した。鍵を持ってる限り、物理的に開かない」


「……そこまで」


「そこまで。線を守るため」


線、という単語が出た瞬間、前原の胸の奥が少しだけ熱くなった。昨夜の“ちょうどいい”が、ここでも続いている。近づきすぎない線を、制度で守る。彼女らしい。


「行く。見せる」


リュシアが指を鳴らすと、床の紋が光った。前原の足元の感覚が切り替わる。神界の廊下を歩く感覚ではない。エレベーターで階が変わるような、生活に近い切り替わりだ。


次に立っていたのは、神界の“仮眠区画”だった。以前見た場所より奥。空気が少し柔らかい。照明が落ち着いている。壁の装飾も控えめで、神殿の威厳を削って“休養”に寄せている。


廊下の突き当たりに、扉があった。シンプルな扉。だが鍵穴の部分が結晶で出来ている。ここだけ現実のホテルのカードキーに似ていた。


リュシアが扉の前で止まり、前原の手元の鍵を指先で示した。


「あなたが開けて」


前原は一瞬だけ躊躇した。扉の向こうは“専用”。専用という言葉が、単なる設備以上の意味を持ち始める危険を感じる。


だが、これは制度だ。福利厚生だ。線を守るための装置だ。


前原は鍵を結晶穴に当てた。軽い抵抗の後、静かに音がして、扉が開く。


「……」


思わず息が漏れた。


中は、仮眠室というより、短期滞在用の部屋だった。ベッドがある。しかもダブル。以前はシングルだったはずだ。ベッドサイドに小さなテーブル。デスクと椅子。簡易のミニ冷蔵庫。タオルが揃った棚。シャワールーム。洗面台。洗濯物を干せるスペースまである。


生活のための部屋。休むための部屋。区切るための部屋。


前原は、ベッドを見てから、リュシアを見た。


「……ビジホかと思ってたら、ウイークリーマンションだったか」


リュシアが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「その表現、好き」


好き、がまた出た。だが、今の好きは熱ではない。仕事の言語が一致した時の好きだ。安心する好きだ。


「ダブルにしたのは」


前原が問いかけると、リュシアは一拍置いた。目線が少しだけ泳ぐ。照れがまた来た。だが彼女は、照れを“業務”の言葉で包む。


「睡眠の質。寝返りで落ちない。身体が大きい者でも負担が少ない。あと……寝具の規格が、神界の標準がこれ」


最後の理由は、たぶん嘘ではないが、全部ではない。全部じゃないことを、前原はあえて追わなかった。追った瞬間に線が溶ける。溶けた線は燃える。


前原は部屋を一通り見回し、シャワールームの扉を開けて頷いた。


「完備ですね」


「完備。案件中、現実に毎回戻るわけじゃない。神界で休んで次の稼働に入る。だから“最低限の生活”は要る」


「俺が現実で休めない時に、臨時使用も」


「許可した。時間停止を伴う。現実の火種が爆ぜる前に、ここに逃げていい」


逃げていい、という言葉が、彼女から出るのが意外だった。神が人間に逃げていいと言う世界。けれどそれは、逃避ではなく工程としての逃げ道だ。折れないための装置だ。


前原は鍵を握り直した。重さは変わらないのに、手のひらの感触だけが少し変わった。責任が増えた感触だ。使い方を間違えられない。


「ありがとうございます」


その言葉は軽くない。だから前原は、丁寧に言った。


リュシアは「うん」とだけ返した。照れを隠すように、視線を扉の外に向ける。入室しない線を、今も守っている。


「私は入らない。管理者権限があっても、必要がない限り入らない」


「……それが線ですね」


「そう」


短い肯定。短い肯定が、妙に強い。


前原は部屋の中に戻り、デスクの引き出しを開けた。中には何もない。空っぽだ。空っぽであることが、逆に“あなたのため”だと分かる。ここはまだ何色にも染まっていない。染めるのは自分だ。染め方を間違えないことが、制度の運用だ。


「238世界、行く前に一つ確認します」


前原は扉の方へ視線を向けた。リュシアは廊下側に立ったまま、入らない。


「この部屋、業務の延長にしない方がいいですね」


リュシアはすぐに頷いた。


「そう。ここは休養。ここで働いたら意味がない。あなたは、働きすぎる」


最後の一言が、淡々としているのに鋭い。図星だから刺さる。


前原は小さく息を吐き、鍵をポケットにしまった。


「じゃあ、行きましょう。238世界へ」


リュシアがようやく視線を戻す。眼鏡のない女神の目は、真っ直ぐだった。


「うん。若い世界。燃えてない。凍ってもない。だからこそ、あなたが“整える”」


「消火じゃなくて、育てる」


「そう。芽を踏まない。芽を支える。制度を押し付けない。制度を根付かせる」


彼女が言葉を重ねるほど、期待と不安が混じっているのが分かる。若い世界は可能性がある。可能性がある分、失敗の形も多い。失敗した時、燃えるのは遅れてだ。遅れて燃える火事ほど厄介なものはない。


前原は頷いた。


「走らないでやります」


リュシアは、その返事を待っていたみたいに、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「好き。そういう判断」


また好きだ。今日はその言葉が多い。だが、前原はもう驚かない。驚かない方が線が安定する。線が安定すると、燃えない。


リュシアが指を鳴らすと、床の紋が淡く光った。切り替わりの準備。現実の時間は止まっている。神界の仮眠室の鍵は、前原のポケットの中にある。逃げ道が一つ増えた。


前原はその事実を、息を吸って確かめた。


逃げ道がある。

だから走らない。

走らないから、育てられる。


光が強くなる直前、リュシアが小さく言った。


「今度さ」


「はい」


「……案件が終わって区切れたら、また何も決めない夜、やろう」


その言い方は、業務連絡に見せかけた私情の匂いが一瞬だけ混じっていた。混じっているのに、線の内側で止まっている。ちょうどいいところで止めている。


前原は、その“止め方”に安心して、同じ温度で返した。


「区切れてから、ですね」


「うん。区切って、それから」


合言葉みたいに繰り返して、リュシアは視線を逸らした。逸らし方が、照れのそれだった。


世界が白く弾ける。


現実の時間が止まったまま、前原誠二は第七管理区画・第238世界へ向かう。

消火ではなく、育てるために。

そして、燃えないように、先に逃げ道を持ったまま。

選ぶ前に、休める場所がある。

それは、判断を誤らせないための装置だ。


専用仮眠室は、贈り物ではない。

信頼でも、甘さでもない。

「戻ってきていい」という、明文化された許可だ。


だから誠二は、

走らずに受諾できた。

焦らずに、次の世界を選べた。


次に向かう第238世界は、

燃えても凍ってもいない。

若く、未完成で、だからこそ壊れやすい。


——育てる仕事が、始まる。


区切りは終わり、

物語は次の章へ進む。

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