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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2.5章 区切り

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閑話③ 息抜き――何も決めない夜

仕事には、終業がある。

だが、疲れには境界線がない。


報告が終わっても、

判断を保留しても、

人はすぐには休めない。


だから、何も決めない夜が要る。

正しさを使わない時間。

評価されない距離。

肩の力を抜いても、許される空気。


この閑話は、

業務でも制度でもない。

ただの“息抜き”の話だ。


——そして、

その息抜きがどれほど大事かを、

二人が少しだけ理解する夜でもある。

翌日の業務も、いつも通りに終わった。


人事部長としての会議、採用の進捗、退職面談の予定調整、評価制度の細かな修正。燃えていない職場ほど、火種の種類が多い。声に出せない不満、上司への諦め、現場の疲れ、数字の綺麗さの裏にある無理。前原誠二はそれらを“破裂しないように押さえる”ことだけは、今日もできた。


できたからこそ、余白が少しだけ怖い。


帰り道、スマホの通知は静かなままだった。第67世界の案件が片づいてから、通知の“圧”は弱まった。急かさない運用。猶予。慌てなくて大丈夫だと書かれることの違和感。その違和感が、まだ胸の奥に残っている。


駅前の居酒屋の提灯が見えた。三回目。行く理由は、今日ははっきりしている。神界の報告を、現実の空気で区切るため。業務として。


店に入ると、焼き鳥の煙と醤油の匂いが鼻に刺さった。カウンターの端が空いている。前原が腰を下ろすと、店員が「いつもの?」という顔をした。そんなに通っているつもりはないのに、こういう小さな“認識”が現実の重さを増やす。


生を頼んだ。ジョッキが置かれた瞬間、隣の席に、ほんの少し遅れて気配が座る。


黒髪ショート。細縁の眼鏡。白いブラウスに紺のタイトスカート。三回目ともなると、もう一瞬で分かった。完璧に馴染んでいるのに、馴染みすぎて逆に“異物”になっている。整いすぎているからだ。それでも今日の彼女は、昨日より少しだけ呼吸が浅い。


「遅くなった」


小声で言う。声は抑えているのに、疲れが抜けない。


「お疲れさまです」


誠二がそう返すと、彼女は眼鏡の奥でほんの少しだけ口元を緩めた。微笑みというより、緊張がほどける前段みたいな表情だった。


「今日は、ちゃんと“業務”。報告して、愚痴を吐いて、区切る。それで終わり」


区切る、という言葉を彼女が使うたびに、誠二は妙に安心する。神の言葉ではない。管理者の言葉だ。管理者が自分に課す手順の言葉。


二人の前に、枝豆と冷奴が置かれた。誠二の生と、彼女のハイボール。氷の音が、カウンターのざわめきの中で小さく鳴った。


「第238世界、見た?」


リュシアが先に切り込んできた。仕事の入り方だ。


「見ました。猶予五日、って」


「うん。走らせない。走らせたら失敗する」


短い断言。理由を説明する余裕がない断言ではなく、理由を飲み込んだ上での断言だと分かる。彼女はそういう言い方をする時ほど、裏で何枚も稟議を通している。


誠二はジョッキを一口飲み、喉の奥の冷たさで思考を整えた。


「走らせない判断って、簡単じゃないですよね」


「簡単じゃない。上が嫌う。猶予は怠慢に見える。監査は猶予を嫌う」


彼女の声には、淡々とした苛立ちが混じっている。苛立ちが混じっているのに、語気は上げない。上げたら“燃える”と分かっている顔だ。


「でも、猶予がないと、現実側が壊れる。壊れた助言者は、制度を歪ませる」


誠二は頷いた。歪むのは助言者だけじゃない。歪んだ制度は、現場を燃やす。


「今日の報告、先に出します」


誠二は、居酒屋の音に埋もれる程度の小さな声で、現実側の業務の状況を短く共有した。採用の詰まり、評価のブレ、退職面談の“見られてない感”。大きな火事ではない。だが、積もる火種だ。


リュシアは、途中で口を挟まなかった。聞く時の姿勢が、あまりにも“同僚”だった。否定しない。解決を急がない。最後まで聞いてから、必要な一言だけ返す。


「燃えてないのに忙しい、ってやつ」


「そうです」


誠二は苦笑した。止まっているのに忙しい。止まっているから忙しい。矛盾しているのに、確かに成立する言い回しだった。


「それで、今日の愚痴は?」


リュシアが、ハイボールを一口飲んで言った。愚痴聞きまでが業務。自分で契約に書いたくせに、こういう言い方をするのが彼女らしい。


誠二は少しだけ間を置いた。言葉を選ぶのは、相手を守るためでもあるし、自分を守るためでもある。


「……正直に言うと、猶予五日って書かれて、安心したのに、怖くなりました」


「怖い?」


「猶予があると、判断の責任が残ります。押すのが正しい、押さないのが正しい、じゃなくて。自分で選ぶ」


リュシアは、すぐに頷かなかった。氷の音だけが鳴る。眼鏡の奥の瞳が、ほんの少し細くなる。言葉を探している顔だった。


「うん。そう。だから猶予は、上が嫌う。責任が残るから」


同じ理由を、彼女は別方向から言った。上は責任が残るのが嫌いだ。現実も、神界も。


誠二が焼き鳥を一本取ると、リュシアの視線が一瞬だけ串先に落ちた。興味というより、現実の食べ物への反射みたいな目だった。


「神界、飯が味気ないんですか」


「味気ない。栄養は満たす。満たすだけ。余白がない」


その一言が、妙に刺さる。栄養だけ満たす食事は、確かに生きられる。だが、息ができない。余白がない世界と同じ構造だ。


誠二が笑いそうになるのをこらえながら言った。


「じゃあ、ここは必要ですね」


「必要。ここ、好き」


三回目でも同じ言葉が出る。言葉が固定され始めている。固定される言葉は、支えになる。支えになる言葉は、依存にもなる。だから誠二は、嬉しさを表に出しすぎないように、声の温度を一定に保った。


「好き、って言う割に、顔が疲れてます」


「疲れてる。第七区画、世界数が多い。燃えるのも凍るのも、全部一緒に来る」


「降りたり、同行はしないって言ってましたもんね」


「しない。できない。私が現場に降りると、別の世界が燃える」


彼女の言葉は淡々としているのに、背負っているものが重い。完璧な造形の女神、という外側が、むしろ“重さ”を増やしている。完璧であるほど、弱音が許されない。


そのせいか、リュシアは今日はいつもより言葉が少ない。少ないのに、少しだけ距離が近い。カウンターで横に座っているだけで、肩の気配が分かる。


誠二はジョッキを置き、話を戻した。


「238世界の件、今夜は決めません。朝にします。線を守ります」


リュシアは、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。安心した顔だった。


「それでいい。走らない判断、好き」


好き、という言葉がまた出た。軽いのに、軽くない。媚びではない。管理者が、管理者としての判断を評価している言い方だ。


誠二は視線を落とし、枝豆を一粒つまんで口に入れた。塩味が、現実の輪郭を戻す。


「……業務としての報告は、これで終わりですか」


「終わり。今日の私は、ここで区切る。次は業務外」


リュシアはそう言って、グラスを置いた。区切ると言った通り、区切った。そこに迷いがない。迷いがないのに、寂しさが一瞬だけ瞳に落ちる。誠二はそれを見てしまって、見なかったことにしようとして失敗した。


見た以上、扱い方を間違えない。


「じゃあ、帰りにコンビニ寄りますか」


誠二がそう言うと、リュシアは少しだけ目を丸くした。興味が出た顔だ。


「また行ける?」


「行けます。今日は……俺が払います。バイト代入ったんで」


自分で言って、少しだけ照れくさくなった。現実の時給の話を、神界の担当にするのは妙だ。だが妙さが、今日のテーマでもある。何も決めない夜。何も決めないから、妙さが許される。


リュシアは、ハイボールの氷を鳴らしながら言った。


「業務外、ってこと?」


「業務外です。ここからは息抜きの息抜き」


彼女は小さく頷いた。頷き方が、きちんと線を確認する管理者のそれだった。


店を出ると夜風が冷たく、提灯の光が背中に残った。人の声が遠ざかり、駅前の明かりが強くなる。三回目の居酒屋は、確かに“業務”として区切れた。だからこそ、次の余白を入れられる。


コンビニは二回目だ。自動ドアの音、白い照明、棚の整然さ。神界の実務室に似ているのに、匂いが違う。生活の匂いがする。


リュシアは、入った瞬間に目の動きが変わった。棚を“読み始める”目になる。情報を拾う目。楽しい時の目だ。


「これ、全部売り物?」


「全部売り物です」


「この棚、補給計画が要る。欠品したら怒られるやつ」


「怒られますね」


誠二が笑うと、リュシアも小さく笑った。神界の笑いではない。現実に馴染む笑いだ。


彼女はおにぎりの棚の前で立ち止まった。手に取って、戻して、また取る。迷っている。迷うこと自体が、余白だ。


「どれが正解?」


「正解ないです。好きなのを選べばいい」


その言葉に、リュシアは少しだけ眉を上げた。正解がない選択。正しいのに怖い選択。


「……じゃあ、これ。鮭」


「いいと思います」


誠二は缶チューハイを二本、つまみをいくつか、氷を買った。リュシアは、おにぎりと、スナックと、アイスを一つ。アイスを選んだ時の表情が、妙に子どもっぽかった。


レジで支払いをしながら、誠二は財布をしまって言った。


「今日は俺が払います。現実の金で。業務外です」


リュシアが横から、少しだけ意地悪そうに言う。


「領収書は?」


「要りません。俺の息抜きなんで」


「……それ、ずるい」


小声だった。眼鏡の奥の瞳が、少しだけ揺れる。ずるい、と言うのは感情の言葉だ。業務の言葉じゃない。


誠二は、あえて真面目に返した。


「ずるくないです。線を守るために必要です」


リュシアは一拍置いて、ふっと笑った。


「でも、好き」


好き、がまた来た。今日は多い。多い理由は分かっている。彼女が疲れているからだ。疲れている時、人は好きという言葉に寄りかかる。寄りかかりすぎると燃える。だから誠二は、温度を上げずに受け止める。


「……ありがとうございます」


それ以上は言わない。


前原の部屋に入ると、空気が少しだけ緩んだ。ここは現実で、誰も監査していない。誰も神託を持ち出さない。誰も評価しない。評価しないから、息ができる。


リュシアは靴を揃える癖があった。二回目なのに、もう自然に揃える。誠二はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。生活に馴染む速度が早い。馴染むことは、危険でもある。


だから、何も決めない。


テーブルに買ってきたものを並べ、缶を開けた。氷がコップに落ちる音が、小さく響く。居酒屋は業務だった。ここは業務外。だから話題も、決め事も、いったん置く。


リュシアは床に座り、胡座をかき、背中を壁に預けた。だらしない、というより、許された姿勢だった。完璧な造形が、完璧じゃない姿勢を取ると、それだけで安心感が出る。誠二は、それを言葉にしたくなって、言うべきか迷った。


迷えるのは、余白だ。


「……ここ、楽」


リュシアが、アイスを一口食べて言った。言い方が柔らかい。


「楽でいいです」


誠二が返すと、彼女は視線だけ寄せた。眼鏡の奥の瞳が、少しだけ笑っている。


「だらっとしてても許される空気、好き」


「許されますよ。ここは」


「乗せてても許されるの、好き」


言いながら、彼女はテーブルに上半身を寄せた。胸元が重いのか、無意識に、ほんの少しだけテーブルに預ける。悪気のない仕草。だが目の前にそれを置かれると、誠二の意識がそこに引っ張られるのは仕方がない。


引っ張られて、でも手は伸びない。


伸ばしたら線が溶ける。溶けた線は燃える。燃えたら、彼女はもっと疲れる。疲れた管理者に、さらに疲れる理由を増やしたくない。


だから伸ばさない。


リュシアが、まるで心を読んだみたいに言った。


「気になってるのに、手が伸びないのも、好き」


息が止まりかけた。だが誠二は、止めないように呼吸を戻してから、淡々と返した。


「線がある方が、安心するんです」


「……ちょうどいい」


彼女はそう言って、缶を一口飲んだ。言葉が短い。短いのに、妙に満たされた響きがある。


少しだけ沈黙が落ちる。沈黙が重くない。沈黙が重くないのは、双方が沈黙を“工程”として扱っているからだ。話すのを義務にしない。沈黙を悪にしない。沈黙を評価しない。


「今日、走らなかった」


リュシアがぽつりと言った。


「はい」


「走らせなかった」


「はい」


「それ、上には嫌われる。でも現場は救う」


誠二は頷く。救う、という言葉を簡単に使うと危ない。でも彼女は、そこを分かった上で使っている。救うのは人ではなく、仕組みだ。仕組みが人を救う。今日の話は、そういう意味での救いだ。


誠二は、さっき言いかけた言葉を、少しだけ形を変えて出した。


「……逆に、気を抜いてるところを見ると、心配が減るので、好きですよ」


言った瞬間、しまったと思った。温度が上がる。だが上がり方が、危険な上がり方ではないように、言葉を選んだつもりだった。好意の押し付けではなく、安心の共有。


リュシアが固まった。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ泳ぐ。完璧な造形が、感情の処理に遅れる。処理に遅れた感情は、顔に出る。


「……それ、ずるい」


さっきと同じ言葉なのに、今度は少し違う温度だった。怒っていない。困っている。嬉しいのに困っている。


誠二は、笑わずに頷いた。


「ずるいなら、撤回します」


「撤回はだめ」


即答だった。即答は、余白がない。余白がない即答は、本音だ。


リュシアは視線を落とし、缶の水滴を指でなぞる。誠二はそれを黙って見た。見つめすぎない。見なさすぎない。ちょうどいい距離。ちょうどいい温度。


「……でも、好き」


最後は、やっぱりその言葉で締まった。


誠二は短く息を吐いて、話題を変えた。変えるのも仕事の癖だ。燃えないために話題を変える。凍らないために話題を変える。


「アイス、美味いですか」


「美味しい。冷たい。こういう冷たさは、凍りじゃない」


それが妙にうまい言い換えで、誠二はようやく笑った。笑っても大丈夫な笑いだった。


しばらく、他愛のない話をした。コンビニの棚の配置の合理性。居酒屋の焼き鳥の味のブレ。現実の評価制度と、神界の監査の似ているところ。似ているのに、決定的に違うところ。違うところは、逃げ道があるかどうかだ。


時計を見ると、いつの間にか遅い時間になっていた。だが、今日の夜は何も決めないと決めている。決め事を増やさない。案件の話に戻らない。受諾の話をしない。猶予五日を、猶予として扱う。


リュシアが、テーブルに額を少しだけ近づけたまま言った。


「ねえ」


「はい」


「今日は、何も決めない夜でいい?」


「いいです。何も決めないで、寝ましょう」


「寝る、って言い方、好き」


また好きが出た。だが、今日はもうその言葉に驚かない。驚かない方が、安定する。


誠二は立ち上がり、布団を用意した。彼女が人間みたいに眠るのは、いまだに不思議だ。神なのに疲れる。神なのに眠る。だが、疲れる存在だからこそ、管理者なんだろうと思う。


電気を落とす前に、誠二はスマホを確認しなかった。通知が来ているかもしれない。来ていないかもしれない。どちらでもいい。猶予は五日ある。今夜は業務外。息抜きの息抜き。


暗い部屋の中で、リュシアが小さく言った。


「今日みたいなの、好き。爆ぜない。燃えない。何も決めない」


誠二は、布団の端を整えながら返した。


「燃えない夜があるから、燃えない仕事ができます」


「……それ、覚えとく」


彼女の声が少しだけ眠そうになった。眠そうな声は、安心の音だ。誠二はそれを聞いて、胸の奥の警報が一段だけ下がるのを感じた。


今夜は、決めない。

決めないことを、二人で同意する。

それが、今日の制度だった。


そして、その制度は、たぶん正しかった。

決めなかったことには、名前が付かない。

進展でも、後退でもない。

ただ、少しだけ呼吸が楽になった夜だ。


仕事として三回目の居酒屋。

業務外として二回目のコンビニ。

息抜きの、そのまた息抜きとしての宅飲み。


線は越えていない。

でも距離は、確実に変わっている。


「だらっとしてもいい」

「乗せてても許される」

そんな空気を“好き”と言える関係は、

もう赤の他人ではない。


次の閑話では、

その関係に“形”が与えられる。

休む場所。

戻れる場所。

そして、受諾の朝。


区切りは、まだ続く。

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