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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2.5章 区切り

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閑話① 日常――止まっているのに、忙しい日(誠二)

現実は、止まらない。

止められるのは時間だけで、仕事や責任や判断は、相変わらず積み上がる。


世界を救う仕事と、今日の会議。

異世界の制度設計と、部下の評価面談。

どちらも同じ重さで、どちらも後回しにできない。


だから、区切りが必要になる。

何もしない時間。

決めない夜。

走らないと決める判断。


この閑話は、世界の話ではない。

だが、世界を壊さないために必要な、

“止まっているのに忙しい日”の話だ。

翌日の業務は、いつも通りに終わった。


人事部長としての会議、採用の進捗、退職面談の予定調整、評価制度の細かな修正。社内は燃えていない。だが燃える手前で燻っている案件はいくらでもある。前原誠二はそれを淡々と処理した。処理という言葉が正しいのかは分からないが、少なくとも“破裂しないように押さえる”ことはできる。


火が見える案件は、まだ優しい。最悪を想像できる。想像できるなら、止血点を探せる。


厄介なのは、火にもならない摩耗だ。静かな疲弊。数字に出ないため息。誰にも拾われない小さな“無理”。それは燃えないまま堆積して、ある日、別の場所で破裂する。


朝イチの定例会議では、採用担当が資料をめくりながら言った。応募数は昨年比で落ちている。内定辞退が増え、辞退理由は建前だけが並ぶ。給与や働き方の話より、“雰囲気”という曖昧な言葉が増えている。


「雰囲気って、何が刺さってるんだろうな」


誰に向けたでもない独り言が口をついて出た。


隣の課長が苦笑した。曖昧な言葉ほど、人事は責められる。原因を説明しろ、対策を出せ、と言われる。だが、雰囲気を測る秤はない。あるのは指標だけだ。定着率、離職率、満足度、エンゲージメント。どれも“結果”にしかならない。


「離職が増える前に、面接の録画をもう一回見直します。言い回し、刺さってないか」


前原がそう言うと、採用担当は小さく頷いた。現場に負担を増やさない範囲で、できることからやる。人事は派手に動くより、少しだけ歯車の噛み合わせを直す方が効く。


昼前には、部長会議が入った。部署間の評価のブレが話題になり、数字と主観の話が混ざり始める。例年通りの議論。例年通りの衝突。例年通りの“結論の先送り”。


「先に枠だけ決めましょう。配分の上限と下限。それが決まらないと、議論が散ります」


言った瞬間、空気が少し戻る。結局、会議は議題を絞れば前に進む。絞らなければ感情だけが残る。前原はそれを、異世界でも現実でも同じだけ見てきた気がした。


異世界、という言葉が脳裏をよぎった時点で、胸の奥が妙にざわついた。


自分の生活の中に、別の現場がある。その現場では、火が文字通り燃える。だが、現実のオフィスも燃え方が違うだけで、同じように人が摩耗する。前原は、笑ってしまいそうになった。こんな仕事をしていると、どこへ行っても“仕事”から逃げられない。


逃げないために、区切りが要る。


その日の午後は退職面談が二件続いた。辞める理由は、綺麗に整えられていた。キャリアアップ、家庭の事情、体調。どれも嘘ではないのだろう。だが、どれも本音の核心ではない。


面談室の空気を乱さない範囲で、前原は静かに質問を置く。


「辞めるって決めた時、最後に背中を押したのって、何でした?」


相手は少しだけ黙り、視線を落とした。言葉が出るまで待つ。待つ時間も仕事だ。


「……やっても、誰も見てない気がして」


そういう答えが返ってきた時、前原は頷くしかなかった。“見ている”という感覚は、評価制度よりも人を支える。評価が公平でも、見ていなければ折れる。見ていても、仕組みがなければ燃える。結局、両方が必要だ。


面談を終える頃には、首筋のあたりが重くなっていた。仕事の疲れというより、他人の人生に触れ続けた疲れだ。人事は、誰かの“決断”に立ち会う仕事で、決断はいつも疲れている。受け止める側も疲れる。


それでも、業務は終わる。終わらせなければならない。


定時を少し過ぎた頃、机の上の紙がようやく片づき始めた。前原は最後に、評価制度の修正案をもう一度読み返し、赤字を入れる。点数の定義が曖昧な箇所は、運用で必ず揉める。揉めた時、揉める側が悪者になる。制度の曖昧さを人間の責任に転嫁しないように、言葉を固める。


それができる時は、まだ余力がある証拠だ。できなくなったら、燃える。


スマホが震えたのは、その“儀式”の途中だった。


反射的に画面を見る。通知。白金の円環に羽根の紋章。乾いた温度の文面。見覚えがある。見覚えがありすぎる。


アプリ名は短い英字で、「TIMIY」。


前原は、息を吸った。心臓の鼓動が一段だけ早くなる。異世界に行く、という事実より、“受諾ボタンがある”という構造が恐い。押せば始まる。押さなければ始まらない。選べる。だからこそ、選ぶ責任が生まれる。


画面に表示されたのは、淡々とした業務連絡だった。


《新規案件が発行されました》

職種:人事部長(臨時)

勤務地:異世界 第七管理区画・第238世界

報酬(現実):時給 1,360円(危険手当込)

報酬(異世界):稼働時間に応じた寿命復元(身体的若返り)

稼働条件:派遣中、現実世界の時間停止

付与:業務遂行に相応の加護(派遣時間中のみ)

特記事項:案件終了後の打ち上げまでが業務(費用は当方負担)

受諾期限:――


前原は指を止めた。


受諾期限が、出ていない。


それは、これまでの仕様と違っていた。期限がないということは、急がなくていい。急がなくていいということは、燃えていない。燃えていない世界が、ある。


胸の奥に、少しだけ空気が入る感覚があった。息ができる。息ができる仕事。そんなものが、異世界の派遣案件に存在する。


しかし、すぐに次の表示が追いかけてきた。追伸のように、小さな文字が下に増えた。


《追伸》

当該世界は現時点で致命的問題なし。緊急対応の必要はありません。

受諾猶予:5日。慌てなくて大丈夫です。


前原は、短く笑ってしまった。


「……慌てなくて大丈夫です、って」


誰に言っているのか分からない。自分に言っているのか、神界の担当に言っているのか。だが、言葉の方向性は確かにこちらを向いていた。急かさない。追い込まない。走らせない。そんな運用が、あちら側に存在する。


その事実が、妙に刺さった。


現実の仕事は、急がなくていいと言われることがほとんどない。いつも急げ、いつも今すぐ、いつも早く。早く決めろ、早く動け、早く結果を出せ。焦らせることで、責任の所在が曖昧になる。焦らせることで、判断の粗さが正当化される。


だが、焦らない判断は、もっと難しい。猶予があるなら、猶予をどう使うかが問われる。余白があるなら、余白をどう守るかが問われる。


前原はスマホを伏せ、画面を隠した。


押さない。


この線は、守る。


受諾は朝にする。生活の中で判断する。勢いで押さない。これを守ること自体が、今の自分の制度だ。制度は人を守る。自分を守る制度もまた必要だ。


仕事を終えてオフィスを出ると、冬の空気が冷たかった。駅までの道、街の灯りはいつも通りで、異世界の火も凍りも見えない。見えないまま、現実は進む。時間は止まっていない。


それが、少しだけ新鮮だった。


“派遣中は現実が止まる”という仕様は、便利で残酷だ。便利だから受けたくなる。残酷だから、生活の中でズレが出る。自分だけが別の時間を生きる。戻った瞬間に、周囲の時間は何もなかった顔をしている。誰にも言えない。言っても意味がない。結局、抱えて生きるしかない。


だから、区切りが要る。


帰り道のコンビニの明かりが、やけに優しく見えた。平日の夜。仕事終わり。誰かと飲む予定はない。だが今日は、スマホの通知が怖くなかった。猶予がある。それだけで、呼吸が戻る。


店に入ると、弁当棚の前で若い店員が慌ただしく動いていた。新商品。割引シール。いつもの風景。前原は習慣で、サラダとヨーグルトを手に取ってから、棚の端に置かれた缶ビールを見た。


飲むか。


迷う。


迷えるのは、まだ余白がある証拠だ。余白がない時は、迷わない。飲むか飲まないかではなく、“飲まないと切れない”から飲む。あるいは、“飲んでいる場合じゃない”から飲まない。選べない時、人は燃える。


前原は一缶だけ取って、レジに向かった。


帰宅すると、部屋は静かだった。灯りをつけ、コートを掛け、靴を揃える。習慣が体を動かす。こういう小さな整えが、崩れる時に燃える。前原は自分の中の火種を、毎日少しずつ押さえている。


シャワーを浴びながら、ふと、神界の仮眠室を思い出した。


シャワー完備。乾いた清潔さ。役所の匂いが薄い、宿泊施設に近い空間。あれを見た時、思わず漏れた感想があった。神界にもビジネスホテルがあるんだな、と。


今思うと、あれは違ったのかもしれない。ホテルというより、仮の住まい。長期案件のための、仮の生活。そういう発想が、あちら側にあるということ自体が、恐ろしく現実的だった。


シャワーを終えて、テーブルに座り、缶を開ける。プシュッという音が、部屋の静けさを一瞬だけ割る。最初の一口は冷たく、喉の奥を通って胃の底に落ちた。酒の味というより、“区切り”の味だった。


スマホはテーブルの端に伏せたままだ。画面を見れば、受諾ボタンがある。押せば始まる。押さなければ始まらない。猶予五日。慌てなくて大丈夫。そう書かれている。


慌てなくて大丈夫です。


その一文が、現実の仕事ではほとんど聞けない言葉であることに、前原は改めて気づいた。人は、慌てなくていいと言われると、逆に怖くなる。慌てなくていいなら、何を優先するべきか。何を守るべきか。問われるからだ。


守るべきものは、まず生活だ。


前原は手帳を開き、明日以降の予定を確認した。採用面接、評価の説明会、ハラスメント相談のフォロー、部長会議の再設定。全部、現実だ。全部、火種だ。だが、火になっていない。まだ止められる。


“燃えていない仕事”は、現実にもある。だがその多くは、燃える前に誰かが気づいて止めているだけだ。止めているのは、大抵、声の大きい人間ではない。静かに踏ん張っている人間から先に折れる。


異世界の第67世界は、凍っていた。完璧な規程が人を黙らせる世界。正しいのに折れる。正しいから折れる。そこに息継ぎを入れる仕事は、骨が折れた。だが、あの仕事で一つだけ確かなものができた。


区切りを作る感覚だ。


区切らなければ、燃える。区切れなければ、凍る。区切りは、制度だ。制度は、仕事のためだけではない。人のためにある。人が燃えないために、制度がある。なら、自分にも制度が要る。


前原は缶を置き、スマホに手を伸ばした。画面を起こす。白金の円環。羽根の紋章。淡々とした案件票。


《受諾》

《辞退》


そして、その下に追伸。


受諾猶予:5日。慌てなくて大丈夫です。


指が、止まる。


押したいわけではない。押したら寿命が戻る、という報酬は確かに魅力だ。身体的若返り。削られた時間が戻る。それは、現実のどんな副業にもない報酬だ。だが、それ以上に魅力的なのは、“現実が止まる”という仕様だ。生活を壊さずに働ける。そう設計されている。


だからこそ、危ない。


便利な制度ほど、人は依存する。依存した制度は、いつか折れる。折れた時に、人が燃える。


前原はスマホを閉じた。


押さない。


今夜は押さない。


猶予があるなら、猶予を使う。使い方を間違えない。焦って決めない。自分の予定を見て、朝に判断する。朝に押すなら、押せるだけの余白を確保する。押せないなら、押さない。押さないという判断もまた、仕事だ。


缶の残りを飲み干すと、少しだけ体の力が抜けた。眠気が来る。眠気が来ること自体が、今夜はまだ大丈夫だという証拠だった。余白がある。眠れる。眠れるのに、別の世界へ行く必要はない。


前原は歯を磨き、灯りを落とし、ベッドに横になった。天井の白が、静かに暗くなる。スマホは枕元に置かない。見れば押したくなる。押したくなるなら、制度が弱い。制度が弱い時は、距離を取る。距離を取ることも、制度の一部だ。


目を閉じる前に、ふと、あの言葉が浮かんだ。


“慌てなくて大丈夫です。”


誰かが自分を走らせないようにしている。走らせない判断をする存在がいる。それは、恐ろしいほどありがたい。


だが、ありがたいという感情に呑まれるのは危ない。


前原は、最後に自分にだけ聞こえる声で言った。


「朝にする」


そう言って、呼吸を整えた。


異世界の仕事は、確かに仕事だ。だが、現実の自分の生活もまた、仕事の土台だ。土台が揺れれば、制度も評価も全部崩れる。崩れた時、一番先に折れるのは、静かに踏ん張っている人間だ。


その中に、自分も含まれる。


だから、区切る。


今夜は眠る。

明日の朝、受諾するなら受諾する。

しないなら、しない。


猶予があるということは、選べるということだ。

選べるということは、責任を持てるということだ。


それは、燃えていない世界に向き合うための、最初の条件だった。

忙しさは、火事の音だけじゃない。

静かな机の上でも、人は削れていく。


この回で描いたのは、

「何も起きていない時間」がどれほど貴重か、という話です。

燃えていないから大丈夫、ではない。

凍っていないから安心、でもない。


受諾しない判断。

急がない選択。

それを“できる状態”にあること自体が、

すでに救済の一部になっています。


次の閑話では、

その判断を支える側――管理する者の視点に移ります。

走らせない、という決断もまた、仕事なのだという話を。


区切りは、まだ続きます。

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