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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2章 第七管理区画・第67世界

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転章 引き継ぎ――日本居酒屋、二次会は宅飲み

神界の仮眠室の朝は、音がしなかった。


換気の気配だけがある。白い壁、無駄のない照明、シーツは新品みたいに張ってあって、枕の高さまで「規程」で決められていそうだ。シャワールームのガラス扉は曇りひとつなく、タオルは畳まれた角が揃っている。寝起きの身体が一番先に理解するのは、ここが“休むための設備”として完成している、という事実だった。


前原はベッドの縁に腰を下ろし、靴下を履き直した。疲れは残っている。けれど、昨日までの“息が浅い”感じが、ほんの少し薄い。凍りの世界は、割れ始めた。割れ始めた瞬間が一番危ない、と人事の経験が言う。油断するとまた凍るし、凍ったまま放置すると遅れて爆ぜる。だから区切りが要る。現実側の余白で、きちんと締める。


ドアの外で、短いノックが一度だけ鳴った。


開けると、廊下の明かりがきれいに伸びている。そこに立っていたのは、いつもの“女神”の姿ではなかった。けれど変装の気配もない。ただ、目の奥にある冷たさだけが、人ではないことを示している。


リュシアは前原の顔を見るなり、息をひとつ吐いて、わずかに口角を上げた。


「起きてる。助かる」


助かる、という言葉が相変わらず現実的で、前原は小さく頷いた。挨拶より先に、仕事の言葉が出る。


「今日で区切りですね」


「うん。区切る。あなたが言う区切り、好き」


好き、の音が少し柔らかい。けれどそこに甘さを乗せすぎないのが、彼女の“線”の引き方でもある。前原は一歩も踏み越えず、踏み越えないまま近づく言い方を選んだ。


「清算、お願いします」


リュシアが指を軽く弾くと、空気に透明な画面が浮かんだ。TIMIYの通知のような、乾いたUI。数字と条項が並び、余計な修辞はない。


《稼働清算(第七管理区画・第67世界)》 ・基本稼働:8.0h × 4日 = 32.0h ・日次終業(口頭報告・愚痴聴取):1.0h × 4日 = 4.0h ・打ち上げ(業務内):1.0h × 3日 = 3.0h ・合計:39.0h ・現実報酬:時給 1,360円(危険手当込) ・支払:53,040円


下の方に、注意書きが淡々と出ている。


《注:休憩は無給(仮眠室・シャワー利用を含む)》 《注:派遣期間中、現実世界の時間は継続停止》 《注:本清算は案件の離任条件を満たした時点で確定》


前原は数字を目でなぞり、頭の中で何度か整合を取った。計算は合っている。合っていることが、妙に安心に繋がる。現実の人事が数字に救われる瞬間は、こういう時だ。


「そういえば時給、下がってましたね」


「下がった。危険手当の内訳が変わった。燃えてないから」


リュシアは言い切ってから、少しだけ視線を逸らした。


「……燃えてない方が、難しいのにね」


その一言に、昨日の英雄隊長の声が重なる。“ここは息ができない”。燃えない世界は静かに人を殺す。だから危険手当が下がるのは、制度設計としては正しい。でも現場感覚としては、どこか腑に落ちない。


前原は、腑に落ちない部分をそのまま飲み込む。飲み込める形にするのが、仕事だ。


「内訳は理解しました。精算、受領します」


リュシアは小さく頷いた。それから、廊下の奥を示すように顎を動かす。


「現実に戻る前に、確認。次の引き継ぎは、現実側でやる。今日の夜」


「分かってます。現実の余白で締める。区切り」


リュシアが、ほんの少しだけ笑った。疲れているのに、笑う時だけ呼吸が戻る。それが腹立たしいほど人間くさい。


「そう。区切り。あなたの生活も守る」


生活を守る、という言葉が、彼女の口から出るのは珍しかった。世界の運営者が、個人の生活を口にする。中間管理職のくせに、そこだけ妙に“人事”の言葉を使う。


前原は軽く息を吐いた。


「戻ったら、通常業務です」


「うん。現実は燃えてない。燃える手前で燻ってるだけ」


前原は、その表現に苦笑しかけた。燻っている、という言い方が、異世界よりもよほど自分の職場に正確だったからだ。


リュシアが指を鳴らす。白い光が一瞬だけ視界の端に走り、空気の密度が入れ替わる。


落下感はない。場所が切り替わるだけだ。



戻った瞬間、オフィスの蛍光灯の白さが目に刺さった。


机の上の書類は、派遣に入った時と寸分違わない位置にある。ペンの向きまで、同じだ。時計の針も同じ場所で止まっていて、前原の身体だけが数日分の記憶と疲労を持ち帰っている。時間が止まる、というのはこういう不公平さを含む。世界は動かず、働いたのは自分だけ。それでも、戻れることが重要だ。戻れるから区切れる。区切れるから、燃えない。


前原は息を整え、椅子に座り直した。


メールを開く。会議のアジェンダを確認する。採用の進捗。退職面談の予定調整。評価制度の微修正。社内は燃えていない。だが燃える手前の火種は、いつものように散らばっている。


前原は淡々と処理した。


淡々、という言葉は軽く聞こえるが、実際は火種を一つずつ握りつぶして回る作業だ。握りつぶす時、強く握ると燃える。弱く握ると爆ぜる。その加減が、人事部長の技能で、そして寿命を削る原因でもある。


だからこそ今日の終業が、やけに“普通”であることが救いだった。普通に終える。普通に帰る。普通に、店の提灯が明るい道を歩く。現実側の余白で区切るために。



駅前の居酒屋は、平日なのに賑やかだった。


暖簾をくぐると、焼き鳥の煙と醤油の匂いが鼻に刺さる。カウンター席が一つ空いていた。前原はそこに腰を下ろし、生を頼んだ。今日の一杯は、慰労ではなく区切りだ。区切りに必要なのは、味より空気だ。


ジョッキが置かれ、最初の一口を飲もうとした瞬間、横から控えめな声がした。


「……すみません、ここ」


振り向くと、黒髪のショートに細縁の眼鏡。白いブラウスに紺のタイトスカート。黒いストッキング。肩にカーディガン。完璧な造形を、完璧に“仕事帰りのOL”へ落とし込んだ姿だった。


二回目だ。だから分かる。違和感は減る。でも、馴染みすぎる不気味さは残る。周囲の客も店員も、誰も気にしない。気にしないように世界の認識が撫でられている。そういう“運用”の上手さが、彼女が中間管理職であることを証明している。


前原は小さく頷いた。


「どうぞ。リュシア」


眼鏡の奥で、彼女が少しだけ笑う。


「正解。今日は合流、早いね」


「二回目ですから」


「好き。学習が早い人、好き」


好き、という言葉がまた出る。熱が薄く混じる。混じるが、溶けない。溶かさない。溶かすと依存になる。依存は燃える。だから“好き”を言うなら、相手を縛らない形で言う。彼女は、その線だけはきちんと持っている。


リュシアは自然にハイボールを頼んだ。仕草が手慣れている。ここが好きだと言っていたのは、本当だろう。正しさを要求されない空気が、彼女の肩を少しだけ下げる。


枝豆、冷奴、焼き鳥。いつもの布陣がカウンターに並び始める。前原はジョッキを置き、仕事の入り口に戻す。


「第238世界の概要、聞きます」


リュシアは氷の鳴る音を小さく鳴らしてから、言った。


「若い世界。燃えてない。凍ってない。まだ“癖”が固まってない」


若い世界。前原はその言葉を反芻した。若い組織ほど、制度の入れ方で未来が変わる。今のうちに工程を入れれば燃えない。今のうちに余白を許せば凍らない。育てる仕事だ。


「まだ、英雄も聖女も“役”になりきってない」


リュシアが続ける。


「今なら“役割”を整えるだけで済む。火消しじゃない。育成」


前原は頷いた。火消しより難しい可能性がある。火消しは火が見える。育成は火が見えない。見えない火を育てないために、最初から空気を作る必要がある。


「時給は?」


「同じ基準で少し変わる。危険手当がまた違う。今日の通知で出る」


リュシアはそこまで言って、ほんの一瞬だけ前原の顔を見た。眼鏡の奥の目が、冷たいのに、少しだけ柔らかい。


「……今日、ちゃんと区切る」


それが宣言なのか、お願いなのか、どちらでも成り立つ言い方だった。前原は同じ温度で返した。


「区切ります。現実側で」


「うん」


会話がそこで一度、食事に戻る。焼き鳥の塩が濃い。ビールが冷たい。周囲の笑い声が雑に混ざり、誰も正しさを求めない。異世界の結晶の光に晒されていた目が、ようやく暗さに慣れていく。


しばらくして、リュシアがぽつりと言った。


「燃えないの、好き」


前原は、反射で笑いそうになった。燃えないを好きと言う女神。だが、それは彼女の担当世界が二百五十五あることを考えれば、笑い事ではない。燃えない世界は、彼女の睡眠を少しだけ戻す。


「爆ぜないのも、好き」


さらに言う。


「それ作れる人、好き」


三つ目の好きは、少しだけ熱が強い。前原の胸の奥に薄い痛みが走る。褒められると、人は縛られたくなる。縛られたくなる前に線を引く必要がある。


だから前原は、仕事の言い方で受け止めた。


「燃えないのは、私一人の成果じゃないです。回す側が協力した。ルドヴィクもエステラも、英雄隊長も」


リュシアは不満そうにもしない。ただ、ハイボールを一口飲み、氷を鳴らした。


「分かってる。だから好き。独り占めしないところも好き」


独り占めしない。そこに依存線を越えない匂いがある。彼女も分かっている。自分が世界を回しているのではない。回す仕組みを作る人が必要で、仕組みが回るには現場が必要だ。関係は対等でなければ長続きしない。対等であることが、恋未満の熱を長持ちさせる。


前原はジョッキを置き、軽く息を吐いた。


「二次会、どうします」


リュシアが眼鏡の奥で目を細めた。


「宅飲み。静かな余白が欲しい」


言い方は柔らかいが、欲求ははっきりしている。仕事の疲れを置く場所が欲しい。神界ではなく、現実の温度で。彼女にとってそれは珍しい“お願い”に近い。


前原は線を確認する。越えない。越えないが、拒否もしない。区切りの場として、宅飲みは機能する。機能するなら、仕事になる。仕事になるなら、区切れる。区切れるなら、燃えない。


「分かりました。帰りに買い出しします」


リュシアが当然のように言った。


「経費で落とす」


「領収書は」


「不要。神界の経理は雑じゃないけど、これは雑でいい。今日の目的は区切り」


前原は笑いを喉の奥に留めた。雑でいい、という女神の言葉が、妙に救いになる。



店を出ると夜風が少し冷たかった。


二人で駅前のコンビニに入る。自動ドアが開く音に、リュシアが一瞬だけ目を丸くした。驚くのかと思ったが、驚き方が違う。機械そのものではなく、運用の滑らかさに興味が向いている。


棚を見て、彼女は小さく息を吐いた。


「情報量、すごい」


おにぎりの包装、缶チューハイのラベル、つまみの種類、雑誌の見出し。全部が“売るための言葉”で埋まっている。世界運営部の中間管理職が、現実の流通の現場を見て、純粋に感心している。


リュシアは手に取ったポテトチップスの袋を裏返し、成分表を読んだ。


「規程が細かい。アレルギー表示、優しい」


「燃えないための仕組みです」


前原が言うと、彼女が小さく笑う。


「ほんとに、燃えないが好きだね」


つまみを数点、缶を数本。氷は家にある。前原は会計へ向かおうとしたが、リュシアが先にスマホを出した。コンビニの決済端末にかざす動きが、妙に手慣れている。


「……いつの間に」


「さっき覚えた。学習が早い人、好きって言ったでしょ。私もやる」


会計が終わる。袋を持つ手が、自然に前原の横に並ぶ。歩幅が揃う。揃い方が、同僚と帰る夜のそれで、恋未満の熱が少しだけ増す。増すが、踏み越えない。踏み越えないために、前原は話題を“区切り”に寄せる。


「今日は、ここまでが現実の余白です」


「うん。余白。吐き出して、整理して、区切る」


彼女が、前に自分で言った言葉を繰り返す。覚えている。覚えていることが、懐きの一歩だと前原は理解した。人は、自分の弱音を覚えていてくれる相手に近づく。



前原の部屋は、広くない。整ってはいるが、モデルルームみたいな清潔さはない。生活の角が残っている。その角が、今日の二人にはちょうどいい。


テーブルに買ってきたものを並べると、リュシアは靴を揃え、自然に胡座をかいた。スカートの皺を気にするような素振りもなく、むしろそのまま“だらける”姿勢に移行するのが早い。完璧な造形の人間が、完璧にだるい。


そして、テーブルに前屈みになった瞬間、胸元が自然にテーブルに乗った。重そうだ。本人も、肩を少し回して息を吐く。


「……やっと置けた」


前原は視線を泳がせず、淡々と言った。


「それ、重労働ですね」


リュシアが眼鏡の奥で笑った。


「胸重い。世界も重い。ここは軽い」


軽い、という言葉が出るのが、今日の勝ちだ。軽い場所を知っているだけで、人は折れにくい。女神も同じらしい。


缶が開く音。氷がグラスに落ちる音。テレビはつけない。静けさが欲しいと言っていた。静けさの中で、雑談がゆっくり溶けていく。


リュシアがふと、前原の顔を見て言った。


「誠二」


呼び方が変わった。前原は一瞬だけ呼吸を止めそうになり、すぐに戻した。呼び方が変わるのは近さの更新だ。更新は嬉しいが、線は守る。


「はい」


「今日から、そう呼ぶ」


「理由は」


「呼びやすい。あと、距離が一定の人を、少しだけ近く呼びたい日がある」


言い方がずるい。甘くないのに甘い。依存線を越えずに、熱だけ増やす言い方だ。前原は同じルールで返した。


「了解です。リュシア」


彼女が小さく頷く。頷きの後、少しだけ目が細くなる。目の奥の冷たさが薄くなって、疲れが先に出る。


「燃えないのが好き。爆ぜないのが好き。……それ作れる人が好き」


同じ言葉を、さっきよりも少しだけ真剣な温度で言った。宅飲みは余白だ。余白は本音が出る。出た本音を、どう扱うかが仕事になる。扱い方を間違えると、余白が燃える。


前原はグラスを置き、短く返す。


「好き、は重いですよ」


リュシアが即座に言い返した。


「重くしない。依存しない。分かってる」


その言葉が出るのが、彼女の強さだった。女神である前に、中間管理職であることの強さ。線を引ける強さ。引けるから、近づける。


前原は、少しだけ表情を緩めた。


「なら、受け取ります。ありがとうございます」


リュシアの肩が、ほんの少しだけ落ちた。受け取られることは、依存とは違う。依存は“相手がいないと回らない”だが、受け取りは“相手がいてもいい”だ。違いは大きい。違いを分かっている人間同士は、壊れにくい。


しばらく、二人は飲みながら、第67世界の後処理を言葉にした。ルドヴィクの硬さ、エステラの正義、英雄隊長の沈黙。一次が動いた瞬間の怖さ。二次決裁が刻まれた時の、会議室の空気の変化。凍りが割れる時の音が、実際には鳴らないこと。鳴らないからこそ気づけない人がいること。


リュシアはときどき、だらしない姿勢のまま頷いた。胸をテーブルに乗せたまま、グラスだけ動かす。完璧な造形が、疲労で“ほどけている”のが分かる。ほどけているのに、崩れていない。崩れないように自分で支えている。そういう支え方をする人間の懐き方は、急には変わらない。だから一歩でいい。


前原が息を吐いて言う。


「区切れました」


リュシアが、その言葉を繰り返す。


「区切れた。……それが好き」


好きの熱が、また少しだけ増す。増しても線は越えない。越えないように、リュシアはふっと視線を逸らし、話題を仕事に戻した。


「第238世界は、育てる仕事」


「若い、というのは」


「制度がまだ“物語”になってない。英雄も聖女も、まだ役割の入口。今なら、最初から会議体を置ける。ログを“恐れ”にしないで済む」


前原は頷いた。ログが恐れになるのは、ログが評価に直結するからだ。評価が直結しても、入口に安全地帯があれば恐れは薄まる。最初から息継ぎを入れておけば、凍りが生まれにくい。育てる仕事は、壊れない仕事だ。


リュシアがグラスを置き、テーブルに頬を少しだけ近づけた。胸をテーブルに乗せたまま、完全にだるそうだ。それでも目だけは前原を見ている。


「誠二。次は、押すのは朝?」


「朝です」


「守って」


「守ります」


そのやり取りが、二人の間の契約みたいに機能し始めている。契約は縛るためではなく、燃えないためにある。燃えないのが好きなら、契約は必要だ。


その瞬間、前原のスマホが震えた。


通知音は鳴らない。鳴らないように設定されているのか、鳴らないように“運用”されているのか。どちらでもいい。鳴らないことが、夜の余白を守る。


画面には、白金の円環に羽根の紋章。


TIMIY。


前原はすぐに開かない。夜に押さない。夜は区切りの時間だ。押すのは朝。生活を守るための線。


だが通知の見出しだけは、画面の上部に表示される。


《新規案件の事前通知(受諾は朝に解放されます)》


リュシアが、眠そうな顔のまま言った。


「出た。第238」


前原は画面を伏せ、グラスを持ったまま頷く。


「若い世界、ですね」


「若い。燃えてない。凍ってない。……まだ、伸びる」


伸びる、という言い方が、彼女の中にある“育てる喜び”を示していた。担当世界が二百五十五ある女神が、伸びる世界を少し楽しみにしている。そのこと自体が、彼女の疲労の裏返しにも見えた。燃えた世界は、終わらない火消し。凍った世界は、息をするための穴あけ。若い世界は、最初から息ができるように作れるかもしれない。だから少しだけ、希望に近い。


リュシアが小さく言う。


「育てるの、あなた向き」


前原はすぐに否定しない。否定すると熱が逃げる。熱が逃げると、余白が死ぬ。余白が死ぬと、また凍る。


「向いてるかどうかは分かりません。でも、壊すよりは好きです」


リュシアが、眼鏡の奥で笑った。


「好き、って言う」


「あなたが言うからです」


「じゃあ、もっと言う」


その言い方が、冗談みたいで、でも冗談にしきれない温度を持っていた。恋未満の熱が、確かに一歩進んだ。進んだが、依存線は越えていない。越えないから、進める。


前原はグラスを空にして、立ち上がる。片付けを始める動きが、区切りの合図になる。


「今日はここまで。区切ります」


リュシアが頷く。だらしない姿勢のまま、胸をテーブルに乗せたまま、それでもきちんと頷く。


「区切る。好き」


前原は流しに向かい、グラスを洗う。水の音が静かに響く。背後で、リュシアが立ち上がる気配がした。立ち上がる時、ほんの少しだけ肩を回す。重さを支える癖が出る。完璧な造形の“疲れ”が、人間みたいに見える瞬間だった。


玄関で、リュシアが靴を揃える。


「帰る」


「はい」


「誠二。明日、朝に」


「朝に」


彼女は一瞬だけためらうように視線を落とし、それから、いつもの淡々とした声に戻した。


「燃えないように。爆ぜないように。育てるように」


前原は頷いた。


「燃えないように。爆ぜないように」


ドアが閉まる直前、リュシアが小さく言った。


「……それ作れる人、やっぱり好き」


言い逃げみたいに残して、気配が薄れる。夜の廊下に、女神の存在だけが上手に溶けていく。近づいたのに、押しつけない。押しつけないから、残る。


前原はドアに手を置いたまま、しばらく動かなかった。


通知はまだ開かない。押すのは朝。 けれど、区切りはできた。現実側の余白で締められた。締められたから、次が受けられる。


机の上に伏せたスマホが、微かに震える気がした。受諾の解放はまだ先だ。朝になれば、現実の予定を見て判断できる。生活を守れると判断した時だけ、押す。


燃えても凍ってもいない世界へ。 “育てる”仕事へ。


前原は照明を落とし、静かな部屋で息を深くした。今日は、息ができる。息ができる夜を守ることが、明日の仕事を守ることだと、ようやく身体が理解し始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第二章は、前原誠二が「燃えている職場」ではなく、

「燃えていないのに壊れていく職場」と向き合う章でした。

怒鳴り声も離職も苦情もない。会議体も評価もログも揃っている。

だからこそ、誰も助けを求めない。

完璧な規程が、正しさの皮を被ったまま人を黙らせ、

黙った人から静かに折れていく――

第67世界は、その不気味さで出来ていました。


今回の敵は、悪人ではありません。

むしろ善人ばかりです。

執政局長も、聖女庁の運用責任者も、

「世界を燃やさない」という一点で正しかった。

過去の火事が、救済を権力にし、奇跡を私物化し、

英雄を道具にし、世界を焼いた。

その恐れがあるからこそ、例外をゼロにした。凍らせた。

それは理解できるし、責める話でもありません。


だから前原は、正しさを否定せずに

“呼吸”を制度に書く、というやり方を選びました。


「余白」を情緒で語ると、この世界では怠慢に聞こえる。

だから言い換える。

「破裂防止工程」「安全装置」「ログの手前に作る安全地帯」。

相談や詰まりを評価から切り離し、報復を禁じ、担当をローテする。

一方で、救済や強制休養、配置転換といった重い決裁は、

必ずログに残し、責任を明確にする。

一次と二次の二階建てにして、

抜け道にも権力にも腐らない形を作る。

凍りにヒビを入れるのではなく、

凍りが割れても崩れない設計――

第二章は、その構造を通すまでの章でした。


そして、もう一つ。

ここで描きたかったのは「区切り」です。


派遣期間中、現実の時間は止まっています。

それでも、区切りは作れる。

神界の仮眠室、日次の口頭報告と愚痴聞き、

現実の居酒屋と宅飲み。

仕事を“仕事として終わらせる”ための余白があるから、

前原は次の案件へ行ける。

世界を回すのは制度ですが、

人を回すのは区切りです。


リュシアとの距離も、この章で少しだけ変わりました。

神であり、区画長であり、中間管理職であり、

二百五十五の世界を抱えている存在。

完璧な造形のまま疲れていて、

正しいほど危ないことを知っている。

そんな彼女が現実の余白に懐いていくのは、

恋愛というよりも「燃えないための同盟」に近いものです。

熱は増えるけれど、依存線は越えない。

越えないから、続けられる。

その関係性もまた、この物語の“制度”の一つだと思っています。


さて、ここからは少し息を整える時間です。

次の世界へ行く前に、

判断しない日、決めない夜、

仕事でも制度でもない時間を挟みます。


区切りの、その続きを描くための閑話へ。

よろしければ、もう少しだけお付き合いください。

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