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『人事部長、空き時間でスポットワーク始めました』──英雄も聖女も評価対象です  作者: 月白ふゆ
第2章 第七管理区画・第67世界

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第3話 面談――「例外ゼロ」の聖女庁が凍らせたもの

聖女庁の空気は、執政局よりも白かった。


白い壁、白い床、白い衣。香は薄く、清潔さだけが漂う。血の匂いも、汗の匂いも、苦痛の匂いも、ここには“残ってはいけない”のだろう。残した瞬間に、正しさが汚れる。そういう気配があった。


前原誠二は受付に標章を示し、静かに通された。ここでも手続きは早い。権威が通る。通ること自体が、また一つの圧になる。誰かのために使う権威が、誰かの喉を締める。そういう世界だ。


廊下の奥から、担架が二つ、黙って運ばれてきた。布の下の輪郭が、小さく震えている。運ぶ者も受け取る者も、声を上げない。声を上げるのは“感情”で、感情は“規程外”だから。


救済が迅速で公平に見えるのは、正しい。正しいのに、息ができない。


前原はそれを確かめるように、足を止めずに運用ログの閲覧室へ入った。


結晶板を手に取ると、光が浮く。


治療の割り当ては明確。優先順位は緊急度と回復可能性。前回の世界で彼が提案したような運用が、既に“完成形”として存在している。治療の処理速度も高い。奇跡の使用量も最適化されている。余剰はない。無駄もない。感情もない。


美しい。


だから、危ない。


前原は次に、境界ケースを探した。数値が完璧な組織は、端に歪みが出る。救えるはずの人間が、端で落ちる。落ちたこと自体が記録にならないよう、分類の外へ押し出される。


境界はすぐに見つかった。


「回復可能性:低」

「規程上の治療対象外」

「補助処置のみ」

「経過観察」

「奇跡適用:否」


その項目の横に、医療ログの赤が重なっている。疼痛悪化。睡眠障害。無気力。食欲低下。職務継続不能。だが離職はゼロ。欠勤は吸収。苦情はゼロ。


救える人が、規程上救われない。


救われない人は、声を出さない。声を出せない。


前原は結晶板を戻し、運用責任者の部屋へ向かった。


聖女庁運用責任者――名は、エステラ。白い衣の上に、責任者の証である銀の帯を巻いている。顔立ちは穏やかで、言葉も丁寧だ。善人だと分かる。善人であることが、この世界を凍らせている。


「代理人殿。お越しいただきありがとうございます。聖女庁の運用は規程どおりに行われております」


「規程どおりであることは確認しました」


前原は椅子に座り、余計な前置きを捨てた。相手は条文で殴ってくる。ならこちらも、事実で刺すしかない。


「境界ケースが切り捨てられている」


エステラは表情を変えなかった。怒らない。動揺しない。否定もしない。すぐに条文を取り出す。


「奇跡の運用規程、第十二条。『奇跡は回復可能性が一定以上の者に適用する』。第十三条。『適用の判定は医療ログの所見に基づく』。第十四条。『判定は個人の感情に依存しない』」


完璧だ。反論の余地がない。


前原は頷いた。


「正しい。ですが、その正しさが救える人を救わない」


「救えない者に奇跡を使えば、救える者が救えなくなります。公平性が崩れます。恣意が入り、腐敗が始まります」


善人の言葉だ。世界を守るための言葉だ。否定できない。否定した瞬間、こちらが“悪”になる。だから前原は、言葉の焦点を変えた。


「私が求めているのは、余白ではありません」


エステラの眉が、ごく僅かに動く。余白という単語が、彼女の辞書では怠慢に聞こえる。感情に聞こえる。規程外に聞こえる。


「余白は、運用の緩みを生みます」


「違います。破裂防止工程です」


前原は声を落とし、しかし言葉の硬さは増やした。


「境界ケースはゼロになりません。現場は常に境界を抱える。境界を切り捨て続けると、切り捨てられた側は沈黙する。沈黙は医療ログに出る。出た時点で遅い。だから“破裂する前に処理する工程”が必要です」


エステラは、条文を探すように視線を結晶板へ落とした。だが条文にはない。条文にないものを扱うのが、人事の仕事だ。


「……工程、とは」


「標準手順にする」


前原は一枚の紙を広げた。ここでは紙もまだ使われている。結晶板に刻む前の、手で持てる“現場の道具”として。


「救済を例外枠にしない。例外枠にすると恣意になる。だから、発動条件・手順・監査まで含めて標準化する。規程に組み込む」


エステラが目を細める。反射的な拒否ではない。理解しようとしている善人の目だ。


「具体には、二階建てにします」


前原は指を折った。


「第一階。一次救済。軽微な奇跡ではなく、休養・配置調整・心理的負荷の軽減を“治療工程”として認める。ここは治療ログに残すが、評価と切る。報復禁止。上長共有は原則しない。共有するなら本人同意と必要最小限」


「共有しない、は」


「共有しない、ではなく“共有条件を定義する”です」


前原はすぐに言い換えた。言い換えを誤ると、善人は“規程違反”と断じてしまう。


「第二階。二次救済。奇跡の適用境界を扱う決裁工程。これは会議体で決め、ログに残す。個人の感情ではなく、ケース定義で判断する。ケースは類型化し、再利用する。そうすれば恣意が減る」


エステラは黙った。黙って、ゆっくり頷く。


「それは……例外を制度に戻す、ということですか」


「そうです。例外を例外のまま扱わない。工程として扱う。安全装置として扱う。安全装置は、普段は目立たない。でも必要な時にだけ働く。働いた記録は残し、次に活かす」


余白という単語を捨てた瞬間、相手の耳が開いた。余白は怠慢に聞こえるが、安全装置は責任に聞こえる。破裂防止工程は管理の言葉だ。管理の言葉なら、善人は受け止められる。


エステラは指先で結晶板をなぞり、低い声で言った。


「……しかし、現場はそれを“甘え”として利用しませんか」


前原は即答した。


「利用されます。だから監査を入れます」


善人は、監査という言葉に安心する。


「一次救済は件数と傾向だけを監査する。個別の内容は守る。二次救済はケース定義と決裁理由を監査する。判断が偏り始めたら、手順を修正する。安全装置は、放置すると形骸化する。だから“運用の運用”まで規程に入れる」


エステラは、ようやく人間らしく息を吐いた。


「……あなたは、正しさを壊さないで、救おうとしている」


「壊すと燃える。燃えると死ぬ。だから壊さない」


前原はそこで、もう一枚の結晶板を机に置いた。


「もう一つ。英雄隊長のログを見せてください」


エステラの表情が僅かに硬くなる。英雄隊長は“聖女庁の運用対象”ではない。だが聖女庁の奇跡運用と、英雄の稼働は繋がっている。繋がっているのに、規程上は別扱いにされている。そこに凍りがある。


エステラは迷い、しかし標章の権限を見て頷いた。


結晶板が光る。


英雄隊長の稼働時間は、異常だ。休息が少ない。睡眠ログも薄い。痛みの自己申告はゼロ。治療申請もゼロ。だが周辺の損耗ログを見ると、彼が穴を塞いでいることが分かる。誰かが欠けた穴、誰かが倒れた穴、誰かが判断を先送りした穴を、彼が黙って埋めている。


前原の胸に、昨日の小声が蘇る。


「ここは息ができない」


息ができないのに、息を吐かずに働いている。働くことで周りを救い、周りは救われることでさらに依存する。依存は余白を奪う。余白が消える。全員が英雄の献身を前提に動き始める。


献身が税になっている。


前原は結晶板を置き、静かに言った。


「英雄隊長の沈黙が、献身税になっている」


エステラの指先が止まる。否定しない。否定できない。


「……英雄は、自ら望んで」


「望んでいるかどうかではありません」


前原は柔らかく、しかし逃げ道を塞ぐ言い方で切った。


「彼が望んで沈黙しているなら、なお悪い。望んで沈黙する人間ほど、最後に壊れます。壊れた時、誰も責任を取れない。彼の沈黙に依存した全員が共犯になります」


聖女庁の空気が、一瞬だけ重くなった。白さの中に、影が落ちる。


エステラは、唇を噛んだ。善人の顔で。


「……では、どうすれば」


前原は、今日の答えを置いた。


「献身税を制度で返す。英雄の稼働を見える化し、稼働上限を決める。限界を超える前に一次救済を発動する。英雄が沈黙しなくても済むように、吐き出し工程を作る。英雄のために作るのではない。全員の依存を断ち切るために作る」


エステラは、小さく頷いた。


「……安全装置」


「安全装置です」


余白ではない。怠慢ではない。正しさを守るための装置だ。


面談は、それ以上は伸ばさなかった。善人は、一度に変えようとすると守りに入る。守りに入ると氷が厚くなる。今日は、氷の構造を見せるだけでいい。構造が見えれば、工程に落とせる。


前原は席を立ち、礼をした。


「二階建ての提案、正式に起案します。監査項目まで含めます。あなたに“恣意”を背負わせません」


エステラは、深く頭を下げた。


「……助かります。私は、恣意が怖いのです」


怖い。善人が怖いと言う世界は、冷たい。だから凍る。凍るから爆ぜる。


前原は廊下へ出ると、偶然を装って英雄隊長の動線に出た。偶然ではない。確認だ。


英雄隊長は、壁際で立っていた。周囲に人はいない。いると本音が出ないからだ。


前原が目を合わせると、英雄隊長は視線を逸らさず、低い声で言った。


「……面談、したのか」


「しました」


「ここは、変わるのか」


問いが小さい。声が小さい。だが重い。最強が小声でしか問いを出せない組織は、もう危険域だ。


前原は言葉を選んだ。希望を煽らず、絶望を置かず、仕事として返す。


「変えます。あなたが黙らなくて済むように」


英雄隊長の瞳が、ほんの僅かに揺れた。だがすぐに無表情に戻る。揺れを見せることが危険だから。彼はまた沈黙を選ぶ。


その沈黙を、前原は責めなかった。責めても、献身税は増えるだけだ。


「今日は、これだけです」


前原はそう言って引いた。引くことも仕事だ。押し込むと、相手は凍る。凍ったまま壊れる。


標章に触れ、神界へ戻った。



リュシアの執務室は、今日も忙しさの痕跡が積もっていた。結晶板の山、砂時計、未処理の通知。女神の仕事は神託ではなく、運用だ。運用は終わらない。終わらない仕事は、息を奪う。


前原が報告を始めると、リュシアはいつもより長く座って聞いた。いつもは短い相槌だけなのに、今日は途中で口を挟まない。挟めない。聖女庁の話は、彼女にも刺さるのだろう。


「……善人ばかりだね」


報告が終わった後、リュシアがぽつりと漏らした。


「善人ほど、折れる」


その言い方に、疲れが混じっていた。神の言葉ではない。責任者の言葉でもない。中間管理職が、誰にも聞かれない場所でだけ吐ける、本音だった。


前原は、すぐに返した。否定もしない。慰めもしない。仕事として返す。


「折れる前に、折れない仕組みを入れます」


リュシアが、少しだけ目を細めた。柔らかいというより、安心に近い。


「……あなたが言うと、信用できる」


距離が、一段だけ近づく。近づいても、線は越えない。越えないことが、二人の秩序だ。


リュシアは指を鳴らし、今日の“業務の最後”を用意した。瓶とグラス、つまみ。昨日より少しだけ量が多い。愚痴聞きが長くなる日は、こうなるのだろう。彼女なりの運用ルール。


「飲もう。業務」


「業務なら仕方ないですね」


前原がそう返すと、リュシアは短く笑った。笑いが漏れた、という程度の微かな音だ。それでも、彼女の呼吸が一つ戻ったのが分かった。


正しさを壊さずに、呼吸を戻す。


それがこの仕事だ。


前原はグラスを口に運び、氷の音を聞きながら、次の起案の骨子を頭の中で組み立てた。二階建ての安全装置。一次救済の守秘。二次救済の決裁。監査項目。献身税の見える化。英雄の稼働上限。


凍りは、溶かすのではない。割るのでもない。工程で呼吸の穴を開ける。


そのための仕事が、明日も続く。

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