表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

なぜ、ピザはチーズ面から床に着地するのか?

作者: 綾白

 その夜、僕はいつもより高級なピザを頼んだ。


 ドアを開けると、熱を帯びた箱が僕の腕に滑り込んだ。

 慎重に持ち帰り、愛用の皿に盛りテーブルへと向かう途中、指先が滑った。


 次の瞬間、ピザはチーズ面から床に着地した。


 それは宇宙が僕に「おまえは選ばれなかった」と告げるような、静かな暴力だった。



 ……なぜピザは、チーズ面から落ちるのか。



 僕の中で、何かが静かに壊れた。


 そして、僕は哲学者になった。


 ピザと重力と、人間の運命について考えずにはいられなかったのだ。


 床に押しつぶされ、モッツァレラがぐにゅっとはみ出したその姿は、まるで人生の敗北そのものだった。


 たった今まで、僕はこのピザを心の支えにしていた。

 冷えたビールを冷蔵庫から取り出す瞬間、ピザと乾杯する自分を想像していた。


 それなのに。どうして……。


 僕の期待と愛情は、いとも簡単に重力に裏切られた。


「なぜ、チーズ面から落ちるのか……?」


 その問いは、意外なほど重く、僕の心に沈んでいった。


 床に着地したのはピザだけではない。

 僕の尊厳も、幸福感も、さっきまでの“ご褒美の夜”も、すべてがひっくり返された。

 まるでこの世界は、最初から僕の期待を裏切るように設計されていたのではないか。


 これは偶然か? 必然か?


 神の不在か? 重力の暴力か?


 僕はビールを置き、スマホを閉じ、正座して床を見つめた。

 ピザが静かに冷えていくように、僕の心も冷えていくのを感じた。


「人間とは、落ちるチーズに抗えない存在なのかもしれないな……」


 その夜から、僕は“ピザ哲学”を探求し始めた。


 人はなぜ、落ちたピザを見捨てるのか。


 落ちたものには、もう価値がないのか。



 ——それとも、落ちたからこそ見える世界があるのか。



 ピザが落ちた瞬間、僕の中で“死に至る儀式”は崩壊した。


 完璧な最期の晩餐だったはずだ。

 チーズたっぷり、トリュフオイル、ちょっと贅沢な夜。


 ……それすら、うまくいかないのか。


 僕はうつ伏せに倒れたピザをしばらく見つめ、ふと思った。


 「ピザの気持ちになってみよう」と。


 これが“最後のステージ”だと思って、あったかい体温で運ばれてきて——

 いざテーブルに着く前に、床に叩きつけられる。


 ……想像以上に惨めだ。


 でも、不思議と笑えてくる。


「ピザですら、死にきれないんだな」


 くだらなすぎて、笑いながら、泣いた。



 ……いや、違う。



 ピザにすら、見放されたのか。


 ——自然に手が伸びていた。


 床からピザを拾う。


 チーズは取れかけていたけど、端の方はまだ食える。


 ひと口かじった。


 ……すっかり冷えてこわばっていたが、味は、まあまあだった。


「……食えなくはないな」


 口に出してみたら、バカバカしくて、でもそれほど悪くない気もしてきた。



 拾われるのを待っていたのは——僕の方だったのかもしれない。



 無心になって、床を拭いた。


 チーズの油は意外としつこく、ティッシュでは拭ききれなかった。

 油のシミが、じんわり残った。


 なんだか、人生みたいだった。


 空箱とティッシュの山を、ゴミ袋に捨てながら思った。



 ——捨てるのは簡単だ。


 それもまた——人生みたいだった。



 山になっていた不採用通知を、まとめて破って捨てた。

 求人誌を開き、指が止まったところにあった“清掃スタッフ募集”の文字。


 引き出しの奥に残っていた履歴書を取り出し、志望動機の欄をじっと見つめた。


 なぜ清掃の仕事を志すのか。


 ……いや、違う。


 なぜ、チーズ面から落ちたのか——その問いが、志望動機だった。


 ペンを走らせるうちに、気づけば夜が明けていた。

 窓の外が白んできていた。まるで、くだらない夢を醒ますかのように。



 そんなことを思い出しながら、僕は床を磨いていた。


 誰かが溢したコーヒーをモップで丁寧に拭きながら、神の不在と、重力の暴力に抗えぬ人の弱さに、思いを馳せずにはいられなかった。


 僕は、あの夜から“ピザ哲学”を探求し続けていた。


「山田くん、お疲れ様。お昼行こうか。今日は何食べる?」


「ピザなんて、どうですか?」


「たまにはいいね。ピザ好きなの?」


 くだらない話をするのも、いいだろう。


 誰かと笑える副菜になるなら——


 あの日のピザの味わいも、まあ悪くないもんだ。

作者は新品のファブリックチェアに、ミルクたっぷりのコーヒーをぶち撒けて絶望した夜があります。

泣きながら数日かけて掃除しました……。今も現役で使用しています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ