なぜ、ピザはチーズ面から床に着地するのか?
その夜、僕はいつもより高級なピザを頼んだ。
ドアを開けると、熱を帯びた箱が僕の腕に滑り込んだ。
慎重に持ち帰り、愛用の皿に盛りテーブルへと向かう途中、指先が滑った。
次の瞬間、ピザはチーズ面から床に着地した。
それは宇宙が僕に「おまえは選ばれなかった」と告げるような、静かな暴力だった。
……なぜピザは、チーズ面から落ちるのか。
僕の中で、何かが静かに壊れた。
そして、僕は哲学者になった。
ピザと重力と、人間の運命について考えずにはいられなかったのだ。
床に押しつぶされ、モッツァレラがぐにゅっとはみ出したその姿は、まるで人生の敗北そのものだった。
たった今まで、僕はこのピザを心の支えにしていた。
冷えたビールを冷蔵庫から取り出す瞬間、ピザと乾杯する自分を想像していた。
それなのに。どうして……。
僕の期待と愛情は、いとも簡単に重力に裏切られた。
「なぜ、チーズ面から落ちるのか……?」
その問いは、意外なほど重く、僕の心に沈んでいった。
床に着地したのはピザだけではない。
僕の尊厳も、幸福感も、さっきまでの“ご褒美の夜”も、すべてがひっくり返された。
まるでこの世界は、最初から僕の期待を裏切るように設計されていたのではないか。
これは偶然か? 必然か?
神の不在か? 重力の暴力か?
僕はビールを置き、スマホを閉じ、正座して床を見つめた。
ピザが静かに冷えていくように、僕の心も冷えていくのを感じた。
「人間とは、落ちるチーズに抗えない存在なのかもしれないな……」
その夜から、僕は“ピザ哲学”を探求し始めた。
人はなぜ、落ちたピザを見捨てるのか。
落ちたものには、もう価値がないのか。
——それとも、落ちたからこそ見える世界があるのか。
ピザが落ちた瞬間、僕の中で“死に至る儀式”は崩壊した。
完璧な最期の晩餐だったはずだ。
チーズたっぷり、トリュフオイル、ちょっと贅沢な夜。
……それすら、うまくいかないのか。
僕はうつ伏せに倒れたピザをしばらく見つめ、ふと思った。
「ピザの気持ちになってみよう」と。
これが“最後のステージ”だと思って、あったかい体温で運ばれてきて——
いざテーブルに着く前に、床に叩きつけられる。
……想像以上に惨めだ。
でも、不思議と笑えてくる。
「ピザですら、死にきれないんだな」
くだらなすぎて、笑いながら、泣いた。
……いや、違う。
ピザにすら、見放されたのか。
——自然に手が伸びていた。
床からピザを拾う。
チーズは取れかけていたけど、端の方はまだ食える。
ひと口かじった。
……すっかり冷えてこわばっていたが、味は、まあまあだった。
「……食えなくはないな」
口に出してみたら、バカバカしくて、でもそれほど悪くない気もしてきた。
拾われるのを待っていたのは——僕の方だったのかもしれない。
無心になって、床を拭いた。
チーズの油は意外としつこく、ティッシュでは拭ききれなかった。
油のシミが、じんわり残った。
なんだか、人生みたいだった。
空箱とティッシュの山を、ゴミ袋に捨てながら思った。
——捨てるのは簡単だ。
それもまた——人生みたいだった。
山になっていた不採用通知を、まとめて破って捨てた。
求人誌を開き、指が止まったところにあった“清掃スタッフ募集”の文字。
引き出しの奥に残っていた履歴書を取り出し、志望動機の欄をじっと見つめた。
なぜ清掃の仕事を志すのか。
……いや、違う。
なぜ、チーズ面から落ちたのか——その問いが、志望動機だった。
ペンを走らせるうちに、気づけば夜が明けていた。
窓の外が白んできていた。まるで、くだらない夢を醒ますかのように。
そんなことを思い出しながら、僕は床を磨いていた。
誰かが溢したコーヒーをモップで丁寧に拭きながら、神の不在と、重力の暴力に抗えぬ人の弱さに、思いを馳せずにはいられなかった。
僕は、あの夜から“ピザ哲学”を探求し続けていた。
「山田くん、お疲れ様。お昼行こうか。今日は何食べる?」
「ピザなんて、どうですか?」
「たまにはいいね。ピザ好きなの?」
くだらない話をするのも、いいだろう。
誰かと笑える副菜になるなら——
あの日のピザの味わいも、まあ悪くないもんだ。
作者は新品のファブリックチェアに、ミルクたっぷりのコーヒーをぶち撒けて絶望した夜があります。
泣きながら数日かけて掃除しました……。今も現役で使用しています。