白日に向かって走る子供ども
世はまさに、大返報時代。
令和の……何年だ? 6年とかくらい?
の、ホワイトデーが今年もやってきた。いや無論、令和6年のホワイトデーは、基本的にその瞬間にしかこない。遠い未来、日本国で……あるいは別の何処かの国で、再度「令和」の元号が採用され、それがしばらく続かない限りは、その呼称のホワイトデーはあくまでも一意の瞬間を指すのである。
それと本質的に同じく……ということでは実際にはないが、ある人の人生における平凡な一日というものも、二度と訪れることのない瞬きだと言える。それはたとえば細かな体調の差異であったり、前提条件にあたる細胞の老化具合であったり、あるいは関わり合いになる他の生物の状態の差異であったり――兎に角、同じものというのは二度と再現されない。
そこに「意味」を感じる人間はあまりいないが、先に挙げたような話は厳然たる事実でもある。二重振り子みたいな割とシンプルな構造のものですら、初期値のほんの僅かな差異が、最終的な軌道に予測のつかないものになる(※)ように、人の生きる過程もまた予測が付かず――しかし、それを
「どっちでも同じようなもんじゃろ」
と、意味を見出さなかった部分を切り詰めて同一視することで、人生は平坦でつまらないものに成り下がるのである。
そういうの、嫌ですよね。
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世はホワイトデーだというのに、バレンタインデーには「好きな人から貰った」という体で買ってきた激ニガのチョコレートを食ったくらいしかないので、ホワイトデーに3倍のお返しをするとは言っても、価値が3倍のものを自分に与えるくらいしかない。
つまり、カカオ含有率が……何%だっけ? 仮に93%だと仮定すると、カカオ含有率279%のチョコレートを手に入れれば、条件を満たせるというわけだ。
……ホワイトデーだっつってんだろ! なんでそんな明らかに真っ黒なんだよ!
などと愚にもつかない冗句はさておき、カカオ成分を濃縮するとかいう、方法も知らん上にクソ面倒そうで特に利益がないことをしたくないことから、昨日お友達にいただいたミスタードーナツの……ダブルチョコレートだっけ、を「3倍の返報」であるものとして、時節のイベントの満足を獲得することにする。ちなみに美味しかったです。
……この節の正解の解釈については構造上無駄にややこしいので、あまり細かく説明はしない。いつも通り、真面目腐って変なことを考えているだけで無害だ、と認識いただけると幸い。
本当はもうちょっと熱意があれば自分宛てに「ギリチョコ(※)」を作るくらいはしたかったが、それはどちらかというと来年のバレンタインデーにでも考えるとしよう。
ただ、ホワイトデーのことは正直どうでもよくて。
昨日は京都に行ってきたんですよ。久々に。割とそこそこの頻度で行っているような気もするが、何度も言う通り究極出不精であるところの私にとって――というよりもそれも含んだ大抵の「主観的認識」について、なんとなくそうじゃね? と思っているものは、一般的感性において全くそうではなく、たとえば
「今日はまぁ普通の、どちらかといえば控えめな食事だな!」
と思った1食の摂取カロリーが余裕で1200kcalくらい(※)あったり、その日のメインコンテンツ(というとだいぶ語弊があるが)であるところの人妻Aの愛娘Yちゃんについて、
「(会うのは)半年ぶりくらいだったかな」
「いや、普通にまる1年以上会ってないけど」
と突っ込みを賜るほどには、時間や事象の認識がズレたりしているのである。
Yちゃんはまだ3歳手前くらいだそうなので、Yちゃんにそう突っ込みをもらったわけではない。私が覚えていないのと同じように、Yちゃんもまた「前回」のことなど覚えているわけがない。そもそも私のことを覚えていないと思う。
んで、久々に会った瞬間の印象としては、こんなちゃんと人らしい顔してたっけな、という感じだった。といっても、もちろん失礼な意味ではなく。
記憶の中のYちゃんといえば、もっと赤子らしい……なんというのか。強いて言えば、ふくよかさだろうか。やわらかく、まるい感じの顔だったものだが。まぁ男児三日会わざれば――と、女の子だと言っているにもかかわらず、毎度性懲りもなく話をしている通り、せいぜい第二次性徴期以前のお子様というものは、ちょっと(※)会わない間にその姿を大きく変貌させるものである。そこに残るのは、過去の面影の記憶ばかり。
最初はそこそこ警戒されていたようにも思うが、とはいえ人妻Aの紹介で「おじさん」の呼称を得てからは、少なくとも一緒にいることを嫌われない程度には受け入れてもらえたらしい。なによりだ。
そうして、イオンモールの滑り台で楽しそうに遊ぶ姿やら、書店の中の知育玩具のお試しみたいなもので遊ぶ姿やらを沢山眺めさせていただいた。母親がその場を離れてしまう場面では少々不安もあったはあったが、特に大きな問題にはならなかったのでよし。
好奇心が旺盛なのか、あらゆるもの(私も含む)を指しては
「これはぁ?」
と可愛らしく聞かれ、私は
「日本地図のパズルかな」
「これ、ってどれのこと? 栃木県のパーツ……?」
「おじさん」
「どれのこと……?」
「なんか遊べるやつ……だけど呼称は知らんな。なんて言うんだコレ?」
などの微妙にパターンの少ない返答を駆使しながら「間違い」の選択を続けていた、というわけだ。我が子だったらもっと上手くやれるのか、というと一切自信はない。
飯時にはYちゃんから「アレを食べよ」という旨の指示を受けたりと、幼児の思考とは中々に深遠で、理解がし難いものが多い。そこそこしっかり話せるような年齢になってすら、そもそも何を感じてその発言をしているのか、その発言、単語の意図が我々の知っているそれとは異なる可能性もあるのでは、とか様々な理由から、思いとは果たして話されたとて分からない場合もあると知る。
これは本質的には、成熟した大人であっても変わらないと言える。
ある場合では、思いに合致する言葉を知らないから。
ある場合では、利用する言葉の使い方が合致していないから。
ある場合では、そもそも話す単語の意味の解釈が、それぞれで異なるから。
きっと貴方がたは「そんなことはない」と言えるのだろう。定型発達とはそういうものだ。そこにある複雑さを、概ね支障のない「典型」に丸めて解釈が出来る。それは、価値観の共有で――同じ世界に生きる、ということだから。
そこから零れた半端者は、常人の価値観をインストールして、模倣しながら生きるしかない。そして、その在り方はきっと万人で変わらないのだろう。その生存の作法にどれだけ迎合出来るか……その適性の多寡こそが、定型発達の本質なのだと、今日は思う。
とはいえ、そんなことはやはり今回の話題にはあまり関係もないし、定型発達の能力は私見ではそこそこの頻度で知性の発達を阻害するという予想も、どちらでもよい。もとより、この世をよく生きるのに対して、必ずしも知性が役に立つ能力とは限らないのである。
知性があろうとなかろうと、縁次第では人は不幸にも幸福にもなる。よりよく生きられるといいですね。それは高価値を指すのか、精神の充足を指すのか、それとももっと別のなにかなのかは、私にはわかりません。私にとっては、それは高価値の事であると言えますが。
昼飯を終えれば、イオンモールのなんか広場みたいなところで、走り回って遊んだわけだ。Yちゃんもかなり活発な方ではあるが、所詮は幼子ですからね。私の手にかかれば、追いかけるなど造作もありません。ここ1年ほど、減量を主な目的として運動習慣をつけていた効果を最も感じた瞬間だった。
なんていうかね、身体が軽やかなんですよ。少々の運動でバテるほどにやわではなくなった、それもまた自信の一部になるのかもしれません。もちろん、幼子に体力勝負で勝ったことを喜ぶという意味ではなく。そこは勝てろ。
きゃいきゃいと、楽しそうにはしゃぐYちゃんの姿を眺めながら、なんとなしに三十年ほどの昔を思い返す。当然ながら、私にもこれくらいの年齢の時期があって、当時は楽しくはしゃいで過ごしていたものだ。
その心はきっと、今でも大差はないのだけれど。責任を持つべき大人として、社会の要請や、自身の美意識などに支配されて、縛られながら生きている。不自由なようで、むしろ自由でもあるように感じるそれは、人の自我というものの不確実性を指すのかもしれない。なんにせよ、普段不活発なのは、別にはしゃぎたいってほどはしゃぎたい瞬間は最近は多くない、というだけでしかない。
願わくば、そのまま自由に、危険もなく、幸福なままに生きて欲しい。生まれたならば、どうせならその方がいい。
叶わなかった願いを託す形ではなく、生存の、命の根源的な願いとして。そこにないのではなく、ともに存在する一個の生命の同志に。
貴女の道行きが、ただ幸福でありますように。血縁もなにもない「おじさん」は、そう願います。
……まぁ、そんなわけで。
今後はある程度の頻度で顔を出せると良いなって思います。
(実際にそのようにするとは言っていない)
ちなみに2025年は令和7年だぜ!
※二重振り子のアレ:カオス理論。内容については全く詳しくない。でもたぶん追加の説明が要るほどの概念でもない。
※ギリチョコ:「ギリギリ『チョコレート』と呼称して差し支えない生成物」の略称。義理のチョコレートではない。
※控えめな1食(1200kcal):敢えて注釈するほどでもないが、成人男性の1日の摂取カロリー目安の半分程度とされる。なんなら人によっては半分どころではない。
※ちょっと会わない間に:概ね3ヶ月程度から10年程度の歳月の経過を指す概念。おとなになるってかなしいことなの……。