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天使(2)

 受付の女性は、「とうや」と名乗った。一体どんな漢字を書くのだろうかという疑問は、彼女の胸に付いたバッジの名札を見ることで解消した。

 「洞爺」と書くようだ。北海道の著名な湖と同じ漢字である。



 洞爺は、建物の内部ではなく、外部へと私を案内した。つまり、私は、自分が入ってきた自動ドアをまたくぐり直すこととなったのである。



「これから案内するのは第八病棟になります」


「そんなにたくさん病棟があるんですか?」


「第十病棟まであります。まあ、病棟とは名ばかりの、ただの掘立て小屋みたいな建物も中には含まれてるんですけど」


 病棟が十棟もある――バスから降りた時、私はそんな様子に微塵も気付いていなかった。一体どこにそんなにたくさんの建物があったのだろうか。緊張し過ぎて、私の視界が狭まっていただけなのだろうか。


 呆気に取られていたのが表情にも分かりやすく出ていたようで、受付のあった病棟から出るやいなや、洞爺は、またもやうふふと口を押さえる。



「ここに初めて来る方は、みなさん驚かれるんですよ。一体どこにそんなたくさん病棟があるのか、って。無理もありません。すごく目立たないところにありますので」


「はあ」


 私は、洞爺の話を聞くというよりは、彼女の、黒髪をかき上げた初々しいうなじを見入ってしまっていた。


 我ながらシュールなことに、先ほどまで、私は自動ドアの前にいて、洞爺は受付の台の後ろにいて、二十メートルほどの距離を隔てたまま、二人はやりとりをしていたのである。


 しかし、今は、うなじを触ることもできそうな距離に、洞爺がいる。


 まるで天使のようだ――


 小さな手で口を押さえながら上品に笑う仕草も、ヒールを履いているのに私よりも十センチばかり背が低いところも、とても可愛らしいのである。無地のポロシャツに、ただ後ろに結いただけの黒髪という飾り気のないところも、また良い。


 精神病院にだって天使はいる。


 もしも私が男性だったら、こういう庇護欲を掻き立てるタイプの子と付き合いたいな、と思う。

 


 洞爺は、クイッと右に曲がると、ヒールの靴をカツカツと鳴らしながら、石畳の上を闊歩していく。

 洞爺の横顔にぼおっと見惚れていた私は、置いていかれないように、慌ててその背中を追う。


 そして――



「あっ……」


 石畳の溝につまづき、つんのめって倒れそうになった。



「福丸様、大丈夫ですか!?」


「……全然、全然、大丈夫です!」


 残念ながら、庇護欲を掻き立ててしまっているのは、どちらかというと私の方であった。



 私の無事を確認すると、洞爺は、今度は、私の方を何度も振り返りながら、ゆっくりと歩を進めていく。

 洞爺と目が合うたび、私は気まずくなって苦笑いをする。完全に要保護者扱いである。



 洞爺と目を合わせないために、私は、空を見上げる。

 朝方降っていた雨は止んだとはいえ、太陽が顔を出す気配はない。

 重い雲に覆われた曇天である。

 横から吹きつける風は、湿ってはいつつも、とても冷たい。



「福丸様、ここで左に曲がります」


「……え? ここでですか?」


 いつの間にやら足元の石畳は無くなり、二人は苔むした土の上にいる。


 そして、洞爺が指差している先は、森――木々の背後にさらに木々しか見えない、鬱蒼とした森なのである。



「病棟は森の中にあるんですか?」


「そうです。山奥の病院なので」


 私の表情が曇ったことを素早く察した洞爺は、急いで付け加える。



「そんな森深くにあるわけではないですよ。ここからすぐそばにはあるんです。ただ、地理的な関係で、ここからは見えないだけで」


 洞爺が言った「地理的な関係」という言葉の意味が、私にはよく分からなかった。


 ただ、私は、洞爺のことを信じていたので、黙って洞爺の後について行った。

 別に洞爺に誘われて、樹海を彷徨うことになったって、それはそれで構わない。

 可憐な天使と心中できるのであれば、それはそれで本望なのだ――



 しかし、私の覚悟は、すぐに意味を失った。


 洞爺の言うとおり、先ほどの地点からは、地理的な関係で、病棟が見えなかったのだった。


 木々の間を少し進んだ時、視界は一気に開けたのである。



――つまり、森の中は下りの傾斜になっていたのだ。

 そして、坂の下に、いくつもの病棟が並んで建っていたのである。



 壮観だった――


 まるで、森の中にエルフが住む村を見つけたような、そんな不思議な気分だったのである。



「すごい……」


 目をまんまるにして立ち尽くした私に対して、洞爺は、「ここに初めて来る方は、みなさん驚かれるんですよ」と先ほども言った言葉をそのまま繰り返した。



「この病院の病棟は、山あいの窪んだところに作られているんです。まるで隠れ家か秘密基地みたいですよね」


 「うふふ」という洞爺の愛嬌のある笑い声が隣から聞こえる。目の前の光景に見入っていた私は、大好きな洞爺の仕草を見逃してしまった。



「福丸様、もう少し景色を楽しんだら、階段で下に降りましょう。風が冷たいので、あまり長居していたら風邪を引いてしまいますよ」


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