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情念(7)

 寧々花の笑い声が、面会室中に響き渡る。


 アハハハハ――


 アハハハハ――



 普段であれば、この笑い声は面会室の外にまで響き、不審に思った誰かが面会室を訪れたかもしれない。


 しかし、今は、外は激しい雨である。雷の音もしきりに鳴り続けている。



 アハハハハ――


 アハハハハ――



 幼稚な笑い声である。


 幼稚――そう。寧々花が実行した犯罪は、いずれも幼稚なものなのだ。


 巳香月夫妻の殺人は、果たして後先を考えて行なったものなのだろうか。

 地裁と高裁で史乃は無罪となったのだが、あくまでも結果論である。史乃に責任能力があるかどうかは熾烈に争われ、史乃の夢遊症状は「詐病」であるという判断がなされる可能性は十分にあった。

 史乃が死刑になる――つまり、寧々花自身の生も絶たれるかもしれなかったのだ。



 羽中の事件では、たまたま海原が護身用のナイフを持っていて、それをたまたま羽中が奪うことに成功したため、海原を殺し、私にも致命傷を与えることができた。

 しかし、寧々花が羽中に使わせた元々の武器は、彫刻刀の小刀だったのである。殺傷能力には大いに疑問がある。


 加えて、羽中の事件が完全なる妄想説によって片付けられたのは、洞爺が機転を利かせ、人形のミナコの首を取ってくれたおかげなのである。


 第一、洞爺が手紙のことを黙ってくれるという保証もなかったはずなのである。



 寧々花の企てた犯行は、いずれも幼稚なものであり、たまたま上手くいっただけ、とも評せる。



 それにもかかわらず、寧々花は延々と笑っている。



 アハハハハ――


 アハハハハ――



 笑っている――本当にそうだろうか。



――泣いている。


 寧々花は、笑いながら、泣いている――



 寧々花の目からはポト、ポト、と涙が落ちている――



 アハハハハ――



 ポト、ポト――



 アハハハハ――



 ポト、ポト――



 そして、寧々花は、笑いながら、泣きながら、私に言う。



「アハハハハ。殺してよ」



 ポト、ポト――



「アハハハハ。早くわたしを殺してよ。アハハハハ」



 ポト、ポト――



 私に真相を看破され、自棄っぱちになっている――というわけでは決してない。


 早く殺して欲しい――それこそが寧々花の紛れもない本心なのである。



 寧々花は、巳香月夫妻を殺し、海原を殺した。


 それは仕方がなかったことなのだ。


 野茂戸寧々花の人格が残っている以上、そうするほかに選択肢がなかったのである。



 しかし、寧々花が、本当に殺したかったのは、紛れもない自分自身なのである。

 

 醜い情念に塗れ切っている自分。生きるために人を殺し続けてしまう自分。制御のできない自分。自分という悪魔――



 寧々花は分かっている。



――本当に死すべきなのは自分自身なのだと。



 殺して、と懇願する寧々花に、私は言う。



「これでおしまいです」


と。



 寧々花の笑い声がやんだ。



「おしまい? どういうこと?」


「文字どおり『おしまい』です。もう私の役割は終わりました」



 私の役割――それは「事件の謎を明らかにすること」である。

 

 それは、海原が死に際に私に託したことだったのだ。


 ゆえに、私は、海原のために、事件の謎を明らかにした。


 これで全てが終わったのだ。



 私は、天井を見上げる。



 探偵よ。聞こえただろうか。私が歌った鎮魂歌レクイエムが――



 そもそも、事件の謎を解き明かしたのは、私ではない。


 私の中の海原である。


 私は、天国の海原に向けて、言う。



 「脳髄は物を考える処に非ず」と。



「……福丸さん、わたしを殺さないの? マトモな精神病院に連れて行って、わたしの人格を消さないの? 最高裁で、わたしの存在を明らかにしないの?」


「なんで私がそんなことをしなくてはいけないんですか? 私はただのオカルト雑誌の記者ですよ」


 そもそも、事件の謎を解くことさえも、私にとっては明らかに出過ぎた作業だったのである。

 これ以上、私は、この事件にかかわるべきではない――



「福丸さん、わたしが憎くないの?」


 憎い――たしかに憎い。

 寧々花は、海原を殺したのである。一歩間違えれば、私も海原同様に死ぬところだった。


 憎しみという感情は、きっと食欲とか睡眠欲と同じで、気のせいだと誤魔化すことも、精神修行によって消すこともできないのだろう。


 寧々花は、ある意味では、そのことの「生き証人」である。



――しかし、憎しみを胸に抱えながら生き続けることは、きっとできる。



 それに、私は、寧々花が悪いのだとは思っていない。


 もっといえば、野茂戸泰明も、巳香月夫妻も、羽中も、誰も悪いのだとは思っていない。


 憎しみの連鎖の中に入ってしまったのは、彼ら彼女ら自身のせいではない。



――優生保護法のせいなのだ。



 人類の醜い思想――稚拙な思い込みが詰め込まれたこの法律こそ、全ての憎しみの元凶なのだ。


 だとすれば、もう良いではないか――


 すでに法律は廃止され、最高裁判所も憲法違反であることを断言した。


 これで良い――少なくとも、もう私の出る幕ではない。



 最後に、私はもう一度だけ宣言する。



「これでおしまいです」


と。


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