天使(1)
病院の入り口のロータリーで、私を降ろし、客のいないバスは山道へと引き返す。
「青浄玻璃精神病院」。
見上げると、銅色の、ほとんど消えかかった字が、建物に刻まれている。
青浄玻璃。
地名でもないし、ましてや人物名ではない、なんだか宗教めいた病院名。
一体何に由来して付けられているのだろうか――
清らかな単語の並びが、逆に不審感を高めていると感じるのは、きっと私だけではない。
バスから降りて、少しホッとしたのは、この怪しげな名前の病院が、案外、普通の病院の外観をしている点である。
鉄筋造りで、五、六階建ての四角い建物。白壁は年季が入って燻んでいるが、神保町から来た私がそれにとやかく言う資格はないだろう。
名前さえ普通であれば、さらに欲を言えば「精神」の文字が付かない名前であれば、フラリと寄って行っても構わないくらいの外観だ。ガラス張りの巨大な自動ドアも、決して人を寄せ付けないという感じではない。
私は、一度だけ深呼吸してから、大きな一歩を踏み出す。自動ドアはちゃんと反応し、私を出迎えてくれた。
果たして病院の中は――
「こんにちは」
「……あ、こ、こんにちは」
建物内に入って早々、挨拶をされたので、驚いて、まるで陰キャのような吃り方をしてしまった。
私に声を掛けてくれた女性は、私の正面にいた。
――とは言っても、決して近い距離ではない。私からは二十メートルほど離れている。
女性は、そんな距離から私をすぐに見つけて、声を掛けてくれたのだ。
その理由は明らかだ。
病院の中はガランドウなのである。女性と私の間を遮るような人も物も音もない。
広いホールに、ポツンと受付のカウンターだけが置かれている、そしてそのカウンターの向こうに黒いポロシャツを着た女性が一人だけいる。それだけのスペースなのである。
女性も、私に挨拶をするのに、決して声を張り上げたわけではない。
「あのお、私、本日、東京の……」
「福丸叉雨様ですよね。お待ちしておりました」
ポロシャツの女性は、そう言ってお辞儀をした。
私も、慌ててお辞儀を返す。
この病院に来る前に、特段アポは取っていない。事前に来訪を伝える電話をしたわけでもない。
――おそらく賀城だろう。私がオフィスを出た後、賀城が病院に電話をしたのだ。
案の定――
「株式会社不可知世界の賀城編集長から、福丸様のことは聞いております。貴社に、久々に優秀な記者が入社された、と」
「そんな。滅相もないです」
賀城は、私のことを買ってくれているということだろうか。それとも単なるおべっかだろうか――いずれにせよ、部外者である精神病院の職員にそのような話をする必要はないと思う。
もちろん悪い気はしないし、ニヤけ顔を抑えるのに必死な私がいるのだが。
「賀城様には、日頃大変お世話になっております」
「え?」
どういうことだろうか? この精神病院は、賀城と何らかの繋がりがあるということだろうか?
とりあえず訊いてみよう。
「編集長が、この病院と関係しているのですか?」
「はい。賀城様には、昔から、この病院の『ある業務』を手伝っていただいているんです」
ある業務? 一体何の業務だろうか? オカルト雑誌社の編集長が、精神病院のお役に立てるようなことが果たしてあるのだろうか?
「その『ある業務』ってなんなんですか?」
「賀城様に直接訊いてみてください」
そう言って、受付の女性は、うふふと口を手で押さえる。
色白で、小柄で、受付台からちょこんと肩を覗かせている感じがとても可愛らしい女性である。
話を勿体ぶられてしまったわけだが、少しも不愉快にはならなかった。
同じ会社の人間に直接訊け、というのも、至極ごもっともな指摘なのである。
「あのお、私、本日、こちらの病院に、ある件の取材に参っておりまして」
「それもすでに賀城様から聞き及んでおります。私が案内しますので、少しだけ、そちらでお待ちください」