情念(6)
「寧々花さん、あなたは、あなた自身の人格を抑圧し、作り出した別人格である巳香月史乃を『主人格』として、三十年以上もの間、巳香月夫妻の子どもとして生活し続けました」
私は、間髪を入れずに、言葉を吐き出し続ける。
「もっとも、野茂戸寧々花の人格は、無意識下で生き続けていました。ゆえに、睡眠中にだけ、野茂戸寧々花の人格を発露させ、行動をすることができたのです。それが『夢遊病』の正体です」
人間は、普段、意識下で生きている。
もっとも、睡眠時には、意識が遮断され、無意識の世界が顕在化する。
夢を見るということは、そうした無意識の世界へのアクセスなのだというのが、精神分析の前提となる理解である。
史乃の「夢遊病」は、無意識の世界に住む野茂戸寧々花がもたらしたものだった。
なお、史乃の「重度のうつ病」も、おそらくは野茂戸寧々花という「トラウマ的存在」がもたらした、ある種の「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」だと理解できるのかもしれない。
意識の世界の人格と、無意識の世界の人格との二重人格――
このやや特殊な二重人格は、意識的に作られた巳香月史乃の人格が、意識的に、意識下から野茂戸寧々花の人格を消し去ろうとした結果、生じたものである。
無意識の檻に閉じ込められてしまった元来の人格。
その人格がもたらした告発が「悪夢」だとすると、その人格がもたらした暴走が「夢遊」なのである。
「史乃さんには、小学四年生の頃から『夢遊病』の症状がありました。ベッドで寝ていたはずなのに、いつの間にやら廊下にいたり、さらには、家の玄関にいたり。中学二年生の頃には、家から二キロメートルも離れた駅のホームで発見されたこともあったそうです」
しかも、駅のホームで発見されたのは、台風の夜だったという。
「アハハハハ。懐かしいね。アハハハハ」
「これは、なるべく家から遠くへ行くことを目指した行動ではないでしょうか。すなわち、無意識の世界に閉じ込められた野茂戸寧々花の人格の、巳香月夫妻から逃げ出したいという願望の発露ではないでしょうか」
両親を殺した者の庇護下から抜け出すための逃避行――それが史乃が幼かった頃の「夢遊」である。
「しかし、この逃避行は、巳香月夫妻のアイデアによって止められてしまいます。手錠です。睡眠時に史乃が手錠を嵌めることによって、『夢遊症状』を物理的に制限したのです」
「アハハハハ。酷い扱いだね。えたひにん以下だ。まるで犯罪者扱いだよ。アハハハハ」
寧々花の解釈はそうなのだろう。
もっとも、史乃の『夢遊症状』を考えれば、史乃の身の安全を守るために、睡眠時に手錠で拘束することはやむを得なかったと思う。もっといえば、史乃自身もそれを歓迎し、十五年以上にわたって継続してきたのである。
手錠によって「夢遊症状」を抑えることはできた。
しかし――
「野茂戸寧々花の人格は、ただでさえ無意識の世界に閉じ込められていたのに、さらに、無意識下での行動まで制約されてしまいました。それは、あまりにも強度の抑圧です。野茂戸寧々花の人格は、強いフラストレーション、そして、巳香月夫妻に対する際限ない憎しみを蓄えていくことになります」
「アハハハハ。そのとおりだよ。憎い。憎い。憎い――本当に憎かった。どうしようもなく憎かったよ。アハハハハ」
その結果――
「老朽化した手錠が外れた瞬間、野茂戸寧々花の人格は大暴走しました。それが『横浜市夢遊病殺人事件』――巳香月夫妻の放火殺人です。この殺人の目的は、明確に一つしかありません」
「復讐です」と私は言う。
「アハハハハ。復讐。復讐。復讐。復讐。復讐――あれは最高の夜だった。スカッとしたよ」
――寧々花は、自らの犯行を認めた。
「巳香月夫妻に、巳香月夫妻が自分の両親に味わった苦しみと同じ苦しみを味わってもらいたい――そのために寧々花さんは、三十年以上前に巳香月夫妻が行った犯罪と同じ手口を用いました」
――まさしく復讐である。
寧々花は、巳香月夫妻は、刺殺され、血塗れになった上で、家ごと燃やされなければならないと考えていたのです。
「そして、寧々花さんは、十五年以上前の逃避行の失敗を反省していました――すなわち、逃げ切る前に目覚めてしまったことを反省していたのです。ゆえに、寧々花さんは、犯行途中で決して目覚めてしまうことがないように、犯行前に、史乃が常用していた睡眠薬を飲んだのです」
つまり、睡眠薬は、第三者に盛られたわけではなく、「夢遊状態」において、史乃自身が飲んだものだったのである。
「寧々花さんの復讐は、無事、成功しました。事件の後、史乃さんが例の『悪夢』を見なくなったのは、そのためでしょう。これで、野茂戸寧々花の人格が抱えていた鬱憤も晴らされました。しかし、寧々花さんの人格は、再び呼び覚まされてしまいました」
野茂戸寧々花を呼び戻してしまったのは、ほかでもない――
「海原さん、そして、私のせいです」
寧々花は、今までで一番大きな笑い声をあげた。
「アハハハハ。アハハハハ。アハハハハ。そうだよ。そのとおりだよ。お前らのせいだ。その報いで探偵は死んだ。お前も死ぬべきだったんだ。アハハハハ。アハハハハ。アハハハハ」
寧々花は、間断なく笑い続けている。
私は、笑い声に掻き消されないよう、声を張り上げる。
「海原さんと私は、連日、史乃さんとの面会を繰り返し、事件の真相――寧々花さんによる巳香月夫妻殺しに到達してしまいました」
正確にいうと、当時、事件の真相にまで到達していたのは、海原だけであった。
しかし、寧々花にはそのことを知る由がなかった。
「寧々花さんは、海原さんと私が、寧々花さんの犯罪を告発することを恐れたのです。青浄玻璃精神病院は、特殊な病院で、精神病者に対する治療を行っていません。しかし、史乃さんが二重人格であることがバレ、別の病院で、『邪魔な』人格を消す治療が行われてしまえば、野茂戸寧々花の人格が完全に『殺されて』しまう」
元々は野茂戸寧々花こそが基本人格であり、巳香月史乃の方が別人格であるとはいえ、治療によって抹消が目指される方の人格は、間違いなく野茂戸寧々花の人格である。
「窮地に陥った寧々花さんは、久しぶりに史乃さんを『夢遊病』状態にしました。そして、巳香月夫妻殺しの時と同様に、史乃さんに睡眠薬を飲ませました」
羽中の事件があった日の午前中、史乃はずっと寝ていたのだという。
あまりにも寝坊助である。
睡眠薬を飲まされていたに違いないのだ。
「そして、『夢遊病』状態で飯倉さんに二重扉を開けさせ、洞爺さんに手紙を渡して命令しました。そして、羽中さんを利用した犯罪を実現したのです。寧々花さんであれば、当然、私と海原さんがその日第三病棟に来ることを知ってましたから、手紙で、羽中さんの犯行場所を指示できますしね」
「アハハハハ。何でもお見通し。何でも分かってるだったら、わたしの思いどおり動いてよ。わたしの思いどおり、死んで。アハハハハ」