情念(4)
次に説明すべきなのは、巳香月夫妻が用いた手段についてだろう。
「巳香月夫妻は、野茂戸一家の自宅建物に侵入し、野茂戸夫妻を殺害の上、建物に火を放ちました。なぜ火を放たなければならなかったのか――それは言うまでもなく、生後三ヶ月の寧々花さんの死亡を偽造するためです」
巳香月夫妻は、寧々花を誘拐し、我が子として育てようとしたのだ。そのためには、寧々花を社会的に「殺す」のが都合が良かった。
「当時の新聞記事には、このように書かれています。『焼け跡からは、乳児と見られる死体も発見されており、未だ身元特定には至っていないものの、三ヶ月前に生まれたばかりの野茂戸夫妻の長女である寧々花さん(〇歳)のものと見られている』と。焼け跡からは『乳児と見られる』死体が見つかっていて、これが寧々花さんの死体だとみなされることになります」
乳児の死体の特定は難しい。特定でよく用いられる歯の治療跡は存在していない。そもそも歯が生えていないのだから当然である。そのほかの個人識別情報も、乳児の段階では揃っていない。
しかも、ガソリンがまかれ、激しく焼かれているのである。
死体のすり替えが可能な条件が満たされている。
――問題は、乳児の死体の入手経路である。
今となっては、実際に何が起きたのか、事実を確かめることはできない。
――とはいえ、次のような仮説を立てることはできる。
「事件前に話を戻します。野茂戸泰明さんは、強制手術後、自分が強制手術をしたことを巳香月夫妻に隠そうとしました。そこで『自然と死産になった』『なんとか母体は救えたが、生殖機能は維持できなかった』などと説明したのです」
巳香月弥栄子には精神疾患があったかもしれないが、軽度のものであり、強制手術が当然と考えられるようなものではない。かといって、隔世遺伝の可能性を声高に叫ぶのは旗色が悪い、と野茂戸泰明は判断したのだろう。谷之岸沙弥は、有罪判決の前に命を絶っており、巳香月夫妻が言うような冤罪の可能性も、完全には否定できない。
「野茂戸泰明さんの説明がどうしても納得できなかった巳香月夫妻は、死産の原因を明らかにするために、野茂戸泰明さんに対して、こう要求しました。『死んだ子どもの死体を渡せ』と」
「アハハハハ。酔狂だね。実に狂ってる」
「巳香月夫妻は、子どもの死体から毒薬が発見されるはずだ、と考えたのです。そして、実際に、子どもは薬によって殺されていました。野茂戸泰明さんにとって、これは緊急事態です。自分の行った『正義のための悪事』が巳香月夫妻にバレてしまいます」
「死体はすでに廃棄した」と嘘を吐けば良いと考えるかもしれない。しかし、巳香月夫妻が、手術後すぐに産科医を詰めたのであれば、その言い訳は使えないだろう。
それに、死体を一切見せずに、巳香月夫妻に「死産だった」と説明するのは、かえって怪しい。野茂戸泰明は、必ず一度は、巳香月夫妻が死体を見る機会を与えなければならないはずなのだ。
「野茂戸泰明さんは、できれば死体を巳香月夫妻に提供したくなかったはずです。しかし、結果として、死体を提供せざるを得ませんでした。それが本物の巳香月夫妻の子どもだったのか、それとも、ちょうど同じ時期に死産となった別の子どもの死体だったのか、それは分かりません。とにかく、巳香月夫妻が、誰かしらの乳児の死体を所持していた、という事実がここでは重要です。巳香月夫妻は、その死体を、冷凍庫に入れ、丁寧に保管していたのでしょう」
巳香月夫妻が、この死体を手にする前から放火殺人に死体を利用するつもりだったのか、鑑定目的で死体を手にした後に事後的に放火殺人を思いついたのかは分からない。
ただ、この乳児の死体が、巳香月夫妻の犯行計画に必要不可欠なものだったことは間違いないのだ。