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情念(3)

 寧々花は、突然大声をあげて笑い始めた。



「アハハハハ! あんた、すごいね! わたしの正体がよく分かったね! アハハハハ!」


 史乃と同じ身体なのに、笑い方といい、テンションといい、完全に史乃とは別人だ。


 目の前の人物は、いわゆる「多重人格」なのである。


 巳香月史乃と野茂戸寧々花――二つの人格が、華奢な身体の中に詰まっている。


 彼女は、普段、巳香月史乃として生活している。

 野茂戸寧々花の人格が現れるのは、基本的には、巳香月史乃の睡眠中――巳香月史乃の意識が消えたときだけである。


 彼女が二つの人格を持つに至ったのは、巳香月夫妻のせいだ。


――ただ、彼女に捻れた人生を歩ませた巳香月夫妻も、また同様に、人生の歯車を狂わされた被害者なのである。


――その元凶は、やはり、あの法律だ。



 私は、「アハハハハ」と狂ったように笑い続ける寧々花を無視し、説明を続ける。



「先ほど、野茂戸一家の放火殺人事件には、主に二つの動機があるとお話ししました。子の連れ去りと、もう一つ動機があるのです。それは復讐です」


「アハハハハ。復讐。復讐。復讐――なんて素敵な響きなの。アハハハハ」


 

 寧々花はすっかり壊れてしまっているようだ。無視し続けるほかない。



「巳香月夫妻は、野茂戸泰明さんに対して、強い恨みを抱いていました。関係のない妻を巻き込んでしまっても構わないと思えるくらいの強い恨みを」


「アハハハハ。恨み。恨み。恨み――良いねえ。わたしはこれも大好き」


「なぜ巳香月夫妻は野茂戸泰明さんを恨んでいたのか――それは、野茂戸泰明さんが、巳香月夫妻の子――『巳香月史乃』を殺したからです」


「アハハハハ。アハハハハ。アハハハハ」


「野茂戸泰明は、腕の良い産科医でした。お腹に子を宿した巳香月弥栄子さんは、出産のために、野茂戸泰明のいる病院を訪れ、入院したのです」


 この偶然の出会いが、巳香月家と野茂戸家の両家にとって、最悪の出会いだった――



「出産間近の巳香月弥栄子さんを患者として受け入れた野茂戸泰明さんは、ある悩みに直面しました。それは、巳香月弥栄子に出産をさせて良いのかどうかというものです」


 通常、産科医がそのような悩みを抱くことはない。


 しかし、巳香月弥栄子の場合、「特別な事情」があった。


「巳香月弥栄子の母親は、連続殺人狂の谷之岸沙弥でした。ゆえに、野茂戸泰明さんは、谷之岸沙弥の精神狂いが、巳香月弥栄子のお腹の子に隔世遺伝することを危惧したのです」


 野茂戸泰明が巳香月弥栄子に出会ったのは、昭和五十八年(一九八三年)のことである。当時、この国においては、ある種の精神疾患は遺伝すると考えられていたのだ。



「自分が取り上げた子が、将来、大量殺人犯になっしまっては困る。そのようなモンスターを、万が一にも自分が野に放つわけにはいかない、と頭を悩ませた野茂戸泰明さんは、ついに、優生保護法に基づく強制手術を決意します」


 新聞の記事によると、野茂戸泰明は、「真面目で正義感の強い人格者」だったという。そのような人格ゆえ、野茂戸泰明は、粛清のため、非道な手段を選んだのである。



「おそらくですが、巳香月弥栄子さんにも何らかの精神疾患があった……寧々花さん、そうですよね?」


「よく知ってるね。軽度だけどね。あんた物知りだね。アハハハハ」


――やはりそうか。野茂戸泰明は、巳香月弥栄子の精神疾患を理由とし、優生保護法を適用することができたのである。

 とはいえ、仮に、巳香月弥栄子が完全な健常者であったとしても、おそらく野茂戸泰明は、書類を偽造する等し、無理やり強制手術を行ったことだろう。

 人間の正義感というものは、そういうことを容易に可能とするものである。

 


「当時は、優生保護法に基づく強制手術はほとんど行われていませんでした。しかし、全く行われていなかったわけではありません。野茂戸泰明さんは、法律で決められた手続に則り、合法的に『殺人』を行うことができたのです」


「アハハハハ。殺人。殺人。殺人――楽しいねえ」


「実際に手術室で何が行われたのかは、私には分かりません。ただ、巳香月弥栄子さんは出産間近でしたから、お腹の中の子を棒で掻き出すようなことはできません。おそらく中絶薬を飲ませた上で、陣痛促進薬を飲ませ、無理やり死産させたのでしょう。強制堕胎手術と同時に強制避妊手術も行われたはずです」


「アハハハハ。愉快。愉快。愉快」


「野茂戸泰明さんの判断を、巳香月夫妻は決して許すことができませんでした。巳香月夫妻は、谷之岸沙弥が冤罪である可能性すらあると考えていたので、なおさらです。こうして、巳香月夫妻は、野茂戸泰明への強い恨みと、子への強い憧れを同時に抱くことになりました」


 「それが野茂戸一家の放火殺人の引き金なのです」と、私は言う。



「アハハハハ。ドロドロだね。情念塗れで実に醜いよ。醜い醜いクソ人間だ」


 この点に関しては、私も、寧々花に共感するし、同情もする。


 人間は、情念塗れで、実に醜い生き物だ。


 そして、寧々花は、巳香月夫妻に、自らの両親を殺されたのである。

 寧々花が、巳香月夫妻のことを憎み、悪し様に言うのはやむを得ないように思えるのである。



「偶然なことに、巳香月弥栄子さんの出産予定日とほとんど重なる時期に、野茂戸泰明さんの妻である野茂戸雪音さんが出産を控えていました」


 これも、巳香月弥栄子と野茂戸泰明との出会い同様、不幸な偶然だった――と私は思う。

 とはいえ、この場でそう表現してはならない。

――当然だ。目の前にいる女性が生を受けたことを「不幸」などと評するわけにはいかないのである。



「そして、野茂戸雪音さんの方は、無事、女の子を出産します。寧々花さん、あなたです。その事実を知った巳香月夫妻は、あまりの不均衡に憤るとともに、凶悪な計画を思いつきます。それが、復讐と子の連れ去りを目的とした、野茂戸一家の殺人放火事件なのです」


「クズだ。クズだ。本当にクズだ。どこまでもクズだ。アハハハハ」


 巳香月夫妻の動機についての説明は、以上である。

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