情念(2)
史乃が繰り返し見ていた夢の主体は、放火殺人事件の加害者ではなく、被害者だった。
そして、その被害者は、犯人が両親を殺すシーンや、犯人が放火をするシーンを目撃していない。
それゆえ、史乃の夢には、両親が燃え盛る前後のシーンがなかったのである。
では、その被害者とは一体誰か――
「今から約四十年前、墨田区で放火殺人事件がありました。史乃さんの祖母である谷之岸沙弥の放火殺人同様、家の中の人を殺した後、放火するという手順の事件です。その事件の被害者は、当時三十一歳だった産科医の野茂戸泰明さん、当時三十歳だった妻の野茂戸雪音さん、そして、当時〇歳だった子の野茂戸寧々花さんであるとされています」
私は、目の前にいる寧々花の表情を確認する。寧々花は黙り込んだまま、私を睨み返す。
私は、淡々と説明を続ける。
「この放火殺人事件は、谷之岸沙弥が行ったとされる放火殺人事件とは一線を画するものです。それは、谷之岸沙弥の死後に行われている、というだけではありません。動機が違うのです。谷之岸沙弥が行ったとされる一連の事件の犯行動機は、正確には分かっていませんが、分類するのであれば、愉快犯の一種でしょう」
この点は、言葉選びに少し悩む。
そもそも、動機がない、ともいえそうだからだ。谷之岸沙弥が行ったとされる放火殺人事件では、財物の持ち出しはなく、また、被害者に一切の共通点がなかった。
無差別殺人――いや、無分別殺人だ。
それを「愉快犯」と表現できるのかどうかは、実際のところ、私にもよく分からない。
ただ、野茂戸一家の放火殺人とは動機がまるで違っている――それだけは断言できる。
「他方で、野茂戸一家の放火殺人事件には、もっと合理的で、世俗的な、動機らしい動機があるんです。大きく分けて、二つの動機が」
私は、やはり黙ったままの寧々花の鼻先に、二本の指を突き立てる。
「復讐、そして、子の連れ去りです」
寧々花は、短く、「へえ」と言う。
それは「なるほど」という相槌ではなく、「あんた、なかなかやるね」という趣旨なのだと思う。
寧々花は、一端の新人記者に過ぎない私が、どこまで真実に肉薄できているのかを試すため、私の推理を大人しく聞いているのだ。
「子の連れ去りの方から話をしましょう。犯人は、野茂戸夫妻の一人娘で、当時生後三ヶ月である寧々花さんの誘拐を企てた。その方法として、野茂戸一家の自宅に侵入して、野茂戸さん夫妻を殺害し、寧々花さんを連れ去り、家にガソリンをまき、火をつけ、証拠隠滅をすることにした」
そして、その非道な計画は、見事成功したのである。
「犯人が寧々花さんを連れ去った目的は、寧々花さんを『我が子』として育てるためだったのです。犯人は、犯人自身では子どもを産むことができなかったから」
私は、大きく息を吸い込む。
そして、野茂戸家における事件の犯人の名を指摘する。
「犯人は、巳香月墨一と巳香月弥栄子。横浜市夢遊病殺人で命を落とした巳香月夫妻です」
野茂戸夫妻を殺害し、野茂戸夫妻の子を連れ去ったのは、巳香月夫妻である。
そのことの帰結は――
「巳香月夫妻が『史乃』と名付けて育てていた子――つまり、巳香月史乃さんの正体は、実は、殺された野茂戸夫妻の一人娘――野茂戸寧々花さんだったのです。そして、史乃さんが繰り返し見ていた夢は、生後三ヶ月の寧々花さんが、実際に見た現実です」