情念(1)
部屋が急に暗くなった。
停電か、と天井を見上げた私だったが、蛍光灯はしっかりと――ただし、弱々しく――点いたままである。
蛍光灯のせいではない。
窓の外が暗くなったのである。
ザーザーと雨が降る音。
それがどんどん激しくなり、エアコンの送風音を完全に打ち消してしまう。
白い閃光。
頭を揺さぶる雷鳴。
突然のスコール。
窓の向こうの木々が、強風でしなり、悲鳴を上げる。
急変したのは、外の天気だけではない――
私が、机越しに両手を掴んでいる相手もである。
それは史乃ではなくなっていた――
私の両手を乱暴に振り解き、鋭い目つきで私を睨みつけている相手。それは――
「はじめまして。寧々花さん、きっと出てきてくれると思っていました」
野茂戸寧々花――羽中の事件の、そして、夢遊病殺人事件の黒幕の登場である。
「……探偵を殺っただけじゃダメだったね」
寧々花の声は、史乃の声とは似ても似つかず、唸るような低い声である。話している間、ほとんど口を動かしているような素振りもない。
この声は一体どこから出ているのだろうか、と私は不思議に思う。
「役立たずのクソババアが、あんたを殺し損ねたせいだね。まさか、あんたがわたしの正体を見破るとは思ってなかったけどさ」
「海原さんが教えてくれたんです。『夢は現実』だって」
「夢は現実」――この言葉がルーズリーフ丸々一枚を使い、大きく書かれていたのだ。それは、海原の部屋に遺されていた資料のうち、史乃の夢遊病殺人関連の資料の上に載せられていた。
ここでいう「夢」とは、間違いなく、史乃が繰り返し見ていた燃え盛る両親の夢だろう。
とはいえ、燃え盛る両親の夢が現実――つまり、史乃が実際に体験した事実だとすると、あまりにも大きな矛盾が生じる。
夢遊病殺人が起きるまで、史乃の両親は生きていたのである。
史乃の両親は、一度殺された後にまた生き返った、ということになってしまう。
「夢は現実」というフレーズを前提としつつ、この矛盾を乗り越える手段は、おそらく一つしかない。
それは史乃の「両親」を二組存在させることである。
そんなことは普通はあり得ないことである。
しかし、仮にそれがあり得るのだとすると、史乃は、夢遊病殺人と合わせて、二回「両親」を殺しているということとなる。
他方、史乃には、一回目の「両親」殺しの記憶が全くない。
史乃の場合、殺したことの記憶がないということは、あり得るのである。一回目の「両親」殺しの最中も、二回目の「両親」殺しの時と同様に、史乃は夢遊病状態で、無意識下だった可能性があるのだ。
しかし、そもそも、史乃には、一回目に殺した「両親」が存在していたことの記憶すらないのである。
史乃に、二組の「両親」がいたのだとすると、これは明らかにオカシイ。
それこそ、心理遺伝の考え方を適用して、一回目の「両親」の殺害を谷之岸沙弥の記憶とし、その両親とは谷之岸沙弥の仕業としなければならないのである。
私の思索は、ここでストップしてしまった。私の脳は、海原の脳のようには働かなかったのである。
愚鈍な私には、もっと資料が必要だった。もっとヒントが必要だった。
そのヒントこそ、国立図書館で見つけた古い新聞記事――野茂戸一家を被害者とする放火殺人事件の記事だったのである。
その記事と出会ったことで、私の脳はようやく働き出した。
そして、発想の転換を行うことができたのである。
「史乃さんが繰り返し見ていた夢の内容は、燃える家の中で血塗れの両親が倒れているというものです。史乃さんから聞いたところによれば、夢の内容はそれ以上でもそれ以下でもなく、前後もないと。つまり、両親を殺害するシーンも、その後に火をつけるシーンも、夢の内容には含まれていないのです」
海原が史乃に対して最後にした質問は、まさにこのことを確認するためだったのである。
夢には、両親を殺害するシーンも、その後に火をつけるシーンもない――この事実を使えば、私が当然の前提として思い込んでいた、ある事実をひっくり返すことができる。
「私はずっと勘違いをしていたのです。燃え盛る両親の夢は、加害者視点の映像なのだと。しかし、実際には、あの夢は、被害者視点の映像だったのです」