人格(5)
これで羽中の事件の真相は全て説明され尽くした――わけではない。
そのことに、史乃もちゃんと気付いていた。
「福丸さん、まだ大きな矛盾が残されてるよ。洞爺さんが病室に手紙とカードキーを置いただけだとすると、なぜ人形のミナコの首が取れてたの? 洞爺さんが病室に入った時には、ミナコは羽中さんと一緒にレクリエーション室にいて、病室にはいなかったんだよね?」
そのとおりである。洞爺が手紙とカードキーを置いたタイミングでは、洞爺はミナコを『殺す』機会はなかった。機会だけではない。理由もないのである。
しかし、それは、あくまでもそのタイミングでの話である。
「史乃さん、先ほどの紙を裏返しにしてみてください」
「……分かった」
裏面に書かれている情報は、表面に書かれている情報とほとんど同じである。
「ほとんど同じ」であり、少し異なっている。相違点は、裏面の方が情報が充実していることだ。具体的には、表面は、羽中が第八病棟から出た十四時四十二分までの履歴である。対して、裏面は、それ以降のカードキー使用履歴も載っているのである。
要するに、表面は抜粋された資料であり、裏面は抜粋なしの原資料なのだ。
‥………
六月十九日 第八病棟 カードキー使用履歴
〇時〇二分 松田
〇時三十四分 松田
五時四十五分 飯倉
六時〇〇分 飯倉
八時二十一分 氷室
八時三十分 氷室
八時五十六分 久野
九時二十二分 飯倉
十一時〇六分 久野
十一時二十分 洞爺
十一時二十四分 洞爺
十二時十三分 飯倉
十二時三十七分 篠田
十二時四十一分 篠田
十四時四十二分 予備(羽中)
十五時十八分 路下
十五時二十三分 路下
十六時十五分 洞爺
十六時二十分 洞爺
十六時五十七分 紙元
十七時四十四分 久野
十七時〇八分 紙元
十八時五十五分 久野
二十時〇五分 篠田
二十一時三十二分 篠田
二十三時四十分 根津
二十三時五十二分 根津
…………
史乃は、紙に書かれた使用履歴にしばらく目を通した後、「十四時四十二分より後の履歴に何の意味があるの?」と訊いてきた。
普通はそう思うだろう。
普通に考えたら、その履歴には意味がないだろう。
しかし――
「注目すべきは、十六時十五分と十六時二十の洞爺さんの入退館履歴です。これは、事件が発生してから十数分後ということになります」
「その入退館履歴がどうしたの? 事件の発生後なんでしょう?」
「それでも、今回の事件と密接に関連しています。なぜなら、洞爺さんは、この時、羽中さんの病室に行って、ミナコの首を捻って、『殺した』のですから」
史乃が呆気にとられた表情を見せる。
そのようなストーリーを一切想定していなかったのだろう。
「どうして? どうして洞爺さんは、わざわざ事件の発生後に羽中さんの病室に行って、ミナコを『殺した』の?」
「今の史乃さんの疑問は、二つに分解して考えるべきでしょう。まず、一つ目は、なぜ洞爺さんは事件の発生後に羽中さんの病室に行ったのか、そして、二つ目は、なぜ洞爺さんはミナコを『殺した』のか」
この二つの『ワイダニット』にこそ、洞爺の色が強く出ている。
「まず、一つ目、なぜ洞爺さんは事件の発生後に羽中さんの病室に行ったのか。洞爺さんは、この前に、病院の内線で呼び出されて第三病棟に行き、海原さんと私が血塗れで倒れ、羽中さんが男性職員に取り押さえられている姿を目撃しています」
先ほど、洞爺は、私に対して、そのように証言をしている。
「その光景を見て、洞爺さんが何を思ったのか。この点は、洞爺さんならではだと思います。洞爺さんの頭に真っ先に浮かんだこと――それは、このままだと警察が羽中さんの病室を調べて、手紙を見つけられてしまうという危惧だったのです」
「……え?」
史乃が拍子の抜けた声を上げるのもやむを得ないだろう。この場面での洞爺は、あまりにも愚直過ぎる。
「黒幕から洞爺さんに与えられた命令は、手紙の存在と出処の口止めなのです。それを遂行するためには、警察より先に羽中さんの病室に行って手紙を回収する必要があります」
「……そのために、事件現場を離れて、羽中さんの病室に行ったということ?」
「そういうことです。この場面で病院から洞爺さんに与えられた業務は、受付のある第一病棟に行き、救急車が来た際の対応をすることでした。しかし、この病院は山奥なので、救急車を呼んでも三十分以上到着しません。ゆえに、救急車が来るまでの間、洞爺さんには時間があったのです」
その時間を活用して、洞爺さんは、黒幕からの命令を遂行したのだ。
「洞爺さんが羽中さんの病室に着くと、手紙は封筒から出され、広げてありました。つまり、洞爺さんは手紙の内容を見たのです。それにより、洞爺さんは、事件の全容を知ることになります」
「黒幕の悪意を知ったということだね」
「そういうことです。ここで、二点目の疑問についてです。なぜ洞爺さんは『ミナコ』を殺したのか――ここでは、洞爺さんらしい忖度が働いたのです」
「忖度……?」
「ただし、ここで洞爺さんが、主に慮ったのは、黒幕ではなく、もう一方の主人の方です」
もう一方の主人。それは――
「洞爺さんは、青浄玻璃精神病院のことを忖度し、この病院を守るために、黒幕の犯行を隠蔽しようと考えたのです」
依頼主と雇い主――この場面では双方の主人の思惑が一致するのである。
「洞爺さんは、事件現場を目撃し、羽中さんが『あいつらが美奈子を殺した』と繰り返し言っているのを聞いています。ここでの『美奈子』が、人形ではなく、人間の『美奈子』であることは、手紙を読んだ洞爺さんには分かっていました。手紙を回収し、処分したとしても、このままだと警察は真相に辿り着いてしまうかもしれない。そして、警察に真相を知られるわけにはいかないと洞爺さんは考えました」
「どうして? 真相を知られると病院は困るの?」
「もちろん、困ります。病院内部で、間接正犯を用いた故意による殺人事件が起きたということになれば、大きく報道され、好奇の目も含め、病院に衆目からの注目が集まることになります。そうなれば、『楽園の喪失』です。病院が『殺される』も同然です」
紙元の話によれば、この病院の最大の存在意義は、社会の精神病者嫌悪から精神病者を守る「楽園」であることだという。
その「楽園」を守るため、洞爺は、機転を利かせたのである。
「手紙を読んだ洞爺さんは、『あいつらが美奈子を殺した』という羽中さんの発言の、『美奈子』の部分を人形の『ミナコ』とすり替えることで、間接正犯を使った故意の殺人事件という真相を、羽中さんが一方的な被害妄想によって起こした事件――もはやこれは『事件』ではなく『事故』とさえ呼べるかもしれません――に書き換えようとしたのです」
「そのために洞爺さんは、事件発生後に人形の首を取ったということ?」
私は、深く頷く。
「そういうことです。羽中さんは、犯行現場に人形のミナコを連れて行かず、病室に置いたままとしました。私は、それを、自らが復讐の鬼となる姿をミナコに見せないための、一種の『親心』だと思っています。本当にそうなのかどうかはともかく、羽中さんは、病室にミナコを置いて行った。そして、洞爺さんは、そのミナコの首を捻り、『殺した』のです」
もちろん、その瞬間の洞爺には良心の呵責が生じたに違いない。
ミナコは人形であるが、ただの人形ではない。羽中にとって、人間の美奈子の代わりなのだから。
それでも、洞爺は、ミナコを殺さざるを得なかった。青浄玻璃精神病院を守るために。
もしかすると、海原と私を殺した羽中の様子を見て、羽中はもう再起不能であり、いずれにしてもミナコとはもう再会することはないだろうと高を括ったのかもしれない。
とにかく、洞爺は、それを決行した。そして、警察は、洞爺の描いた絵のとおり、完全なる妄想説を採用し、捜査を終結させた。
そして、羽中の事件については、多少の報道こそあったものの、あくまでも「キチガイが暴れた」だけの一件として処理され、扇情的な話題となることを回避した。
こうして、洞爺の手によって、青浄玻璃精神病院は、以前の平穏を取り戻し、「楽園」としての存続が許されたのである。