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夢遊(2)

 顔を上げると、バスの乗客はいつの間にやら半分以下になっていた。そういえば、役所やら税務署やらのアナウンスがされていた気がするから、おそらく、そういう実用的な地で人がどんどん降りていったのだろう。


 今、バスは、人間をたくさん吐き出した停留所に止まったまま、信号が赤から青に変わるのを待っている。


 私のすぐそばにある席が空いた。


 ただ、座る気にはなれなかった。


 私は、左手で手すりに掴まったまま、右手に持ったスマホの小さな画面にまた目を落とす。

 そして、画像をスワイプし、最も新しい新聞記事を写したものを呼び出す。


 令和五年九月十二日――約一年前の記事だ。


 見出しは、「横浜市夢遊病殺人、高裁も責任能力を認めず」とある。


 記事の中身は、こうだ。




…………




 平成三十年十二月八日に神奈川県横浜市◯区の住宅において発生した横浜市夢遊病殺人事件(被告人:巳香月史乃)について、令和五年九月十二日、東京高等裁判所は、検察官の控訴を棄却し、一審同様、無罪判決を言い渡した。争点となった責任能力に関しては、「これまでの被告人の診断歴を踏まえても、被告人が詐病を用いているとは断言できず、被告人が夢遊病状態で犯行を行なった可能性が否めない」となどと判示し、責任能力がないとする一審の判断を維持した。

被告人は、神妙な面持ちで判決を聞き終えたのち、弁護人らに連れられ、入院中の青浄玻璃精神病院(神奈川県厚木市)へと帰っていった。

検察官は、判決を不服とし、最高裁判所へ上告をする予定である。




…………




 横浜駅に着くまでの電車の車内でググったことによれば、「責任能力」とは、刑事事件で有罪となる条件だということだ。裏を返せば、責任能力が無いとされれば、その時点で無罪となるのである。

 

 では、どういう場合に責任能力が無いと判断されるかといえば、一つは十四才未満の子どもである場合であり、もう一つは、刑法三十九条が規定するところの「心神喪失」の場合だということだ。


 つまり、心身喪失者が人を殺しても、処罰されないのである。


 そんなの不条理じゃないか。被害者が報われないじゃないか――


 強い憤りと強い不安を感じていた私だったが、さらにググったところで、「心の処方箋」を得た。


 現役の精神科医が更新しているブログに、こう書いてあったのである。



「殺人者が心身喪失によって無罪となっても、結局、半永久的に精神病院に強制入院させられることになるから、事実上、社会復帰することはない」



 ホッと一安心である。訳が分からないうちに人を殺してしまうような狂人が、野放しになることはないのだ。この社会は、やはりまともなものだった。


 たしかに新聞記事には、「被告人は、神妙な面持ちで判決を聞き終えたのち、弁護人らに連れられ、入院中の青浄玻璃精神病院(神奈川県厚木市)へと帰っていった」とあるのである。

 夢遊病状態で両親を殺害した巳香月史乃という人間は、無罪とはなったものの、精神病院に閉じ込められているのだ。精神病院という名の牢獄に。



 ふと気がつくと、バスは、ゴツゴツとした山道を進んでいる。左右の窓を見渡しても、人家の一つもなく、ただ緑の木が林立しているだけなのである。


 そして、バスの乗客は、もう私一人しかいなかった。


 誰もこんな山奥にある精神病院に用事などないのだ。

 私だって、本当は行きたくない。そんな世界とは切り離されて生きていきたい。狂人たちは、人里離れた場所に閉じ込めておいて、まともな人たちだけに囲まれて生きていきたい。


 夢遊病って一体何? 心身喪失で人を殺すって一体どういうこと?

 そんなバケモノに、なぜ私は会いに行かなければならないの――



 心の底から憂鬱な仕事である。

 念願の現地取材だからといって、少しも心が晴れるような要素はない。


 私は、大きなため息を吐くと、倒れ込むようにして、すぐそばの席に座った。


 スマホをジャケットのポケットに入れ、窓のサッシに肘をつき、頬杖をしながら、ボンヤリと切れ間のない曇り空を眺める。



「まもなく青浄玻璃精神病院に到着します」


 運転手の気怠いアナウンスは、唯一の客である私に対して発せられている。



 はあ――



「青浄玻璃精神病院です」



 はあ――



 ため息しか出ない。立ち上がるのがあまりにも億劫である。


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