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人格(4)

 「優生保護法」という言葉を出した途端、一瞬、時間が止まった――


――というのは、私の錯覚で、実際には、エアコンの送風の音は絶えず聞こえ続けている。



 史乃が、手で口を押さえる。そして、指の隙間から、震えた声を漏らす。



「……そんな……そんな酷いことを……」


「その反応からすると、史乃さんは知ってるんですね。羽中さんが持っている人形のミナコが、羽中さんの実子の美奈子との関係を」


「……詳しくは知らないけど、病院内では噂になってたから」


「噂?」


「羽中さんが優生保護法の被害者で、若い頃に、せっかく授かった子を強制堕胎させられた。羽中さんは、その現実が受け入れられず、人形に、堕した子と同じ名前を付け、我が子同様に可愛がるようになった。だけど、未だに我が子を殺した者を探している、と」


 おそらくその噂は事実に基づくのだろう。


 私も、若い頃に、羽中の身に、一体何が具体的に起こったのかを知らない。


 私が知っているのは、「お前らがミナコを殺した」と言いながら私を刺していた時の羽中の憎悪に満ちた目、それから、私が「優生保護法」の名前を出した時に、獣となった羽中が再度私に襲いかかってきたことである。


 ただ、私が経験した事実から、今、史乃が言ったような羽中の過去の存在が、容易に想像できるのである。



 優生保護法に基づく強制手術は、多くが騙し討ちによって行われた。たとえば、別の病気を治療すると言われて連れて行かれた病院で、知らぬ間に麻酔を打たれ、意識を失っているうちに手術台に運ばれて、去勢や堕胎が行われたのである。


 それゆえ、中絶をさせられた者の中には、現実を受け入れられない者がいる。

 

 また、誰が何のために我が子を奪ったのかが分からず、混乱の中、その「犯人」を探そうとする者もいるだろう。


 

 羽中が、優生保護法に基づいて強制手術を受けさせられたということは、羽中が精神薄弱なのは若い頃からのものなのだと考えられる。人形のミナコに接している態度を見る限り、一種の知的障害だったのかもしれない。



 羽中は今やあのような状態であり、羽中の過去の詮索には限界があるだろう。


 とりあえず、今、事件の謎を解く上で必要なことは、人形のミナコが、中絶させられた子である美奈子の代替であること。そして、羽中が、子である美奈子を殺した「犯人」を探していたということである。



「話を事件の日に戻します。黒幕が洞爺さんを利用して行ったこと、それは人形であるミナコの『殺害』ではなく、すでに何十年も前に『殺害』されている人間の美奈子を殺害した犯人の密告です。『海原という探偵と福丸という記者のペアは、強制手術で美奈子を殺した組織の人間だ』という虚偽の事実を伝えたのだと思います」


 羽中は、海原のことはともかく、私のことは知っている。このような誣告であれば、海原と私がターゲットだと伝わるだろう。

 また、羽中が強制堕胎された時期には、おそらく私たちはまだ生まれてすらいないが、私たちが『強制手術で美奈子を殺した組織の人間』だとしておけば、その点で矛盾を孕むことはない。



「ちょっと待って。洞爺さんがいくら従順な人とはいえ、そんな嘘八百を羽中さんに言えという指示を守るのかしら? そんなことを伝えたら、その後どのようなことになるのか、洞爺さんにも分かるはずだよね? 洞爺さんならきっと自制するはず」


 史乃の指摘のとおりだと私も思う。洞爺の頭はそこまで空っぽではない。


 ただ――



「黒幕が洞爺さんに与えた指示は、手紙を渡すことだったんです」


「手紙?」


「『海原という探偵と福丸という記者のペアは、強制手術で美奈子を殺した組織の人間だ』という狂言が書かれた手紙です。それを封筒に入れた状態で、洞爺さんに渡し、羽中さんの病室に置いておくよう頼んだのです」


 要するに、洞爺は、手紙の内容を知らず、黒幕の思惑も知らなかったのである。


 ゆえに、洞爺は、黒幕の指示に素直に従った。


 それだけではない――



「黒幕は、洞爺さんに手紙を渡す際に、この手紙の存在の出処は絶対に明かさないように頼んでいたのです。黒幕がこの手紙を渡したことを絶対に言うな、と」


「口止めだね」


「まあ、そういうことです。この口止めこそ、今回の事件の真相を皆から遠ざけたのです」


 単に手紙を羽中の病室に置くだけであれば、黒幕は、別の病院職員を使っても良かったはずだ。もっとも、口止めが必要だったからこそ、それを最も愚直に守ってくれそうな洞爺を利用することにしたのだ。


 そして、洞爺は、それを黒幕の意図を遥かに超えるレベルで実現した――



「史乃さん、先ほどの紙をまた見てみてください」


「はい」



‥………



六月十九日 第八病棟 カードキー使用履歴


〇時〇二分    松田

〇時三十四分   松田

五時四十五分   飯倉

六時〇〇分    飯倉

八時二十一分   氷室

八時三十分    氷室

八時五十六分   久野

九時二十二分   飯倉

十一時〇六分   久野

十一時二十分   洞爺

十一時二十四分  洞爺

十二時十三分   飯倉

十二時三十七分  篠田

十二時四十一分  篠田

十四時四十二分  予備(羽中)


‥………



「先ほど確認したとおり、羽中さんの昼寝時間である十三時頃から十四時半頃までの間には、病院職員は誰も第八病棟にし立ち入っていません。しかし、その前の時刻である十一時二十分から十一時二十四分までの短時間、洞爺さんは第八病棟に立ち入っています」


「その時に、手紙を持って羽中さんの病室に行ったということ?」


「そのとおりです。警察によれば、この日の午前中は、羽中さんは基本的にレクリエーション室で過ごしていたようです。つまり、洞爺さんが羽中さんの病室に行った時には、羽中さんは留守でした。ゆえに、黒幕の言いつけどおり、洞爺さんは羽中さんの部屋に手紙をそっと置くことができたのです」


「それで、十三時頃、昼寝のために病室に戻ってきた羽中さんが手紙の存在に気付き、それを読み、発狂した」


 私は大きく頷く。



「そういうことです。『発狂した』と言っても、別に暴れたり騒いだりしたわけではないと思います。羽中さんは、私たちへの『復讐』の火を心の中で静かに燃やしたのです。羽中さんは、第三病棟の廊下で、私たちを一時間もそっと待ち伏せしてました。その意味では、羽中さんは冷静だったのです。さすがに昼寝どころではなくなったとは思いますが」



 史乃が、ふと気付いて指摘する。



「予備カードキーは? 羽中さんはどうやって予備カードキーを手に入れたの?」


「簡単です。手紙と一緒に羽中さんの病室に置いたのです」


「だとすると、黒幕は事前に予備カードキーを入手してたってことだよね? どうやって?」


「盗んだという可能性もありますが、もっと簡単に入手したのだと思います。単純な話です。洞爺さんに頼んだのです」


 予備カードキーは、洞爺がいる第一病棟で保管されている。洞爺はそれを簡単に持ち出すことができた。


 仮に洞爺が予備カードキーの使用目的を知っていたら、黒幕の依頼に応じなかっただろう。


 しかし、黒幕は、羽中を殺人の道具とするという目的を洞爺に対して秘していたのである。洞爺は、まさか予備カードキーが殺人の手段として使われるとは想像しないまま、黒幕の指示に素直に応じたのだろう。

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