論理(1)
「この度はご愁傷様でした」
私の存在に反応し、自動ドアが開くとともに、その言葉が私の耳に届いた。
二十メートルほど離れたカウンターの中で、ポロシャツを着た小柄な女性が深く頭を下げている。その頭上には、例の風景画がある。
私も、建物内部に入るとすぐに、洞爺に対して、深く頭を下げる。お腹の中でくうっと音が鳴ったような、そんな気がした。
洞爺は、以前会った時と同様の可愛らしい仕草で、私の元へと小走りで駆けてくる。
そして、次は、私のことを気遣った。
「福丸様、ご体調は大丈夫でしょうか? 一日がかりの大手術をしたと聞きましたが」
「大丈夫です。頗る元気です。入院は少し長引きましたが」
「良かったです。私、福丸様のこと、すごく心配してたんです」
洞爺が私に見せた笑顔には、屈託はなかった。まさしく天使の笑顔である。
「第三病棟までご案内差し上げれば良いんですよね? 行きましょう」
「ちょっと待ってください」
私は、洞爺が一歩踏み出すのを制止した。
「今日は洞爺さんとも話したいことがあるんです」
「何の話ですか?」
「羽中さんの事件の黒幕についてです」
「黒幕?」
「羽中さんを操って、殺人の道具にした黒幕がいるかもしれません」
洞爺は、私の目をじっと見つめる。私に向けられた感情は、憐れみ――だろうか。
「福丸様が報われないのは分かります。しかし、警察の方によれば、羽中さんの事件に黒幕はいないそうです」
洞爺も、回数は私ほどではないとは思うが、警察の事情聴取を受けているのだろう。
「つまり、羽中さんは、完全なる被害妄想によって、私たちを襲ったということですね」
「警察の方の結論はそういうことです。福丸様が納得いかない気持ちは分かりますが」
「たしかに納得いかない面はあります。ただ、それは決して感情的な意味でではありません」
「論理的にです」と私は言う。
「……論理的に納得がいかない? どういう意味ですか?」
「まず、これを見てください」
私は、鞄の中から、A四サイズの紙を一枚取り出し、洞爺に手渡す。
…………
六月十九日 予備カードキー使用履歴
・第八病棟
十四時四十二分
・第三病棟
十四時五十分
…………
「これは……」
「私が警察官から内緒で受け取った、『予備カードキー』の使用履歴です。青浄玻璃精神病院の二重扉では、カードキーを使うごとに、カードキーの使用履歴が登録されるようになっています。ちなみに『二重扉』ですので、厳密にいうと、出入りするごとに一つ目の扉と二つ目の扉とでそれぞれの使用履歴が残りますが、それは数秒か十数秒差で一致するので、一体のものとして一つの履歴として考えています」
「六月十九日というのは、事件が起きた日ですよね?」
「そうです。私たちが羽中さんに襲われた日です。そして、『予備カードキー』は、その日、羽中さんが病棟の二重扉を開けるために使っていたものです」
青浄玻璃精神病院には、各職員に一枚ずつ名札と兼用のカードキーが付与されている。
予備カードキーは、職員が自らのカードキーを紛失した際などのために、病院で保管されているものである。
なお、羽中が予備カードキーを用いて病棟の二重扉を開けていたことは、動かしがたい事実である。
路下に羽交締めにされた際、羽中の病院着のポケットから、予備カードキーがポロリと落ちたのだから。
また、事件の当日、羽中のために自らのカードキーを使ったり、羽中に自らのカードキーを使わせたりしたことはない、というのが、青浄玻璃精神病院の職員の一致した証言である。
「私たちが羽中さんに襲われたのは、十六時ちょうど頃でした。羽中さんが入院している病室は第八病棟です。またレクリエーション室も同じ第八病棟にあります。羽中さんは、レクリエーション室の小刀を持参して、十四時四十二分に第八病棟から出て、そのままの足で八分後には第三病棟に到着し、そこで一時間強、私たちを待ち伏せしていたのです」
これは予備カードキーの使用履歴等から明らかとなっている客観的事実である。
「警察の見解によれば、事件の流れは概ねこのようになります。まず、事件に先立って、病院職員の誰かが、偶然、予備カードキーを敷地内で落としてしまった。それを偶然羽中さんが拾い、病院職員に黙ったまま持ち続けていた。そして、事件の日、偶然ミナコの頭が取れてしまう『事故』が発生した。頭が取れたミナコを見て狂乱した羽中さんは、ミナコは誰かに殺されたのだとの妄想を展開して、その犯人が、最近病院に出入りしている不審人物である私たちであると妄想した。そして、何らかの理由で、私たちが第三病棟にいることを察した羽中さんは、レクリエーション室にあった小刀を持ち出し、予備カードキーを使い、第三病棟に移動した」
「私も、警察からそのように聞きましたが、どこか矛盾してますでしょうか……?」
洞爺が首を傾げる。
「矛盾……そうですね。病院職員が予備カードキーを落とした下りについては少し気になる点もありますが、決定的に矛盾しているとまではいえないかもしれません」
ただ、と私は続ける。
「ギリギリ矛盾はしていないとしても、不自然だとは思います。『偶然』だとか、『妄想』だとか、『何らかの理由で』だとか、そういう要素があまりにも多過ぎると思うんです」
「言われてみるとそうですね……」
「もちろん、可能性自体は否定しません。地球に生命が誕生したのは『偶然』でしょうし、誰かの『妄想』を起源として生まれた宗教が多数の信者を集めることだってあります。この世の全てに理由がなければならないと考えることは、明らかに行き過ぎた科学信奉で、傲慢そのものです」
「では、福丸様も、警察の方の描いたストーリーに納得されているということでしょうか?」
私は首を二度横に振る。
「納得はしていません。少なくとも現段階では。警察のストーリーどおりのことが起こった可能性はあるでしょう。しかし、その可能性は決して高くないと思っています。ゆえに、警察の見解を補強するために、それ以外の可能性はないことの証明――消去法を試す必要があるんです」
「消去法……ですか?」
「つまり、警察が結論付けた『完全なる妄想説』ではない方の見解――『間接正犯説』を否定することよって、はじめて『完全なる妄想説』が証明されると思うんです。洞爺さん、消去法の検討にお付き合いいただけないでしょうか?」