夢遊(1)
あーーア。生きたながらのこの世の地獄じゃ。それも貧乏暇なし地獄や。浮いた浮いたの川竹地獄。義理と人情のカスガイ地獄。又は犯した悪事のむくいで。御用、捕ったぞ、キリキリ歩めと。タタキ込まれる有期や、無期の。地獄なんぞと大きな違いじゃ。そんな道理がミジンも通らぬ。息も吐かれず、日の目も見えぬ。広さ、深さもわからぬ地獄じゃ。そこの閻魔は医学の博士で。学士連中が牛頭馬頭どころじゃ。但し地獄で名物道具の。昔の罪科、見分けて嗅ぎ出す。見る眼、嗅ぐ鼻、閻魔の帳面。人の心を裏から裏まで。透かし見通す青浄玻璃の。鏡なんぞは影さえ見えない。罪があろうが、又、無かろうが。本気、狂気の見分けも附けずに。滅多矢鱈に追い込み蹴込むと。聞いただけでも身の毛が逆立つ。地獄というのがそこらに在ります。見かけは立派な精神病院。嘘というなら這入って見なされ。責め苦の数々お望み次第じゃ。ナント恐ろしキチガイ地獄……チャカポコチャカポコチャカポコ……
夢野久作「ドグラ・マグラ」より
…………
「お客さん、行き先は?」
「えーっと、セイジョウ……えーっと」
「青浄玻璃精神病院ですね」
「はい。そうです」
バスが出発するターミナルは、本厚木駅にあった。
私が人生で一度も聞いたことのない地名が終着点にはなっていたが、それなりに利用者は多いらしく、私がバスに乗り込んだ際には全ての席が埋まっていた。
ソワソワと落ち着かず、座ってホッと一息という心境ではなかったため、私は、ちょうど良いと思いつつ、バスの中ほどの手すりに掴まる。
一裂きの雲の切れ間もない、灰色の空の下、路線バスは出発した。
「『横浜市夢遊病殺人事件、被告人の責任能力を否定』……かあ……」
私はここに来る前に読んだ新聞記事の見出しをボヤく。
その事件が発生したのは、今から五年前である。その頃、私は十七歳だった。
記事を読みながら、ぼんやりと、当時の報道状況を思い出す。その事件について、ネットニュースで何度か見かけた気はする。ただ、そこまで報道が加熱していたという記憶はない。この社会で連日起こる殺人事件のうちの一つとして、右から左に流れていったという印象である。
不可知世界の面談室で読んだ記事は、私の手提げ鞄の中のファイルに入っている。
同時に、同じものを、精神病院に行く道すがらに目を通すために、スマホで撮影もしておいた。
私は、親指と人差し指を使って、新聞記事の画像を拡大する。
事件の概要については、以下のように書かれていた。
…………
平成三十年十二月八日、神奈川県横浜市◯区の住宅において、巳香月史乃(当時三十五歳)が、父の墨一(六十七歳)と母の弥栄子(六十四歳)を殺害した事件。史乃は、寝ながら無意識のうちに行動をする夢遊状態の中、深夜二時頃に、寝室で眠っていた両親の首を絞めて殺害。両親の遺骸の上に灯油をまいた上、自宅に火を放った。放火後、史乃は、自宅そばの公園で、血塗れの服を着た状態で横になり、眠っていた。史乃には、若年より夢遊病の症状が見られ、精神科の通院歴もあった。
…………
ただならぬ事件であることは疑いない。
まず、日常生活ではほとんど使わない「夢遊病」という言葉が、この事件のキーワードになっている。
夢遊病――夢の中での殺人。
そんなことが、果たして本当にありえるのだろうか、と疑問に思う。
たしかに夢の中では何でもアリである。私だって、夢の中で誰かを殺した記憶こそはあまりないが、夢の中で誰かに殺されたことは何度かある気がする。少なくとも、崖から飛び降りて死んでしまったことは何度もある。
それでも、あくまでもそれは夢の中の話であり、実際の私は、冷や汗をかいたり、ウンウンと魘されたりするだけで、布団の中でじっとしたままなのだ。
夢というのは、そういうものであり、眠るということは、そういうことなのである。
しかし、夢遊病たる病気に罹った者は、睡眠中、夢を見るだけでなく、行動もするというのだ。
眠りながら、夢の中で人を殺し、現実世界でも人を殺すというのである。
もしかすると、私は「夢遊病」という文字ヅラに引っ張られ過ぎていて、実際は夢遊病患者は夢など見ていないのかもしれない。
眠りながら起き上がったり歩いたり走ったり人を殺したりする――ただそれだけなのかもしれない。
いずれにせよ、私は絶対にそんなことはできないし、私と同じ人間にそんなことができるだなんて、にわかに信じがたい。
しかし、私がこれから会う人間――巳香月史乃という人間は、正真正銘の夢遊病患者なのだという。
それは、新聞記事に書かれているし、裁判所も認定しているのだ。
記事には、このように書いてある。
…………
令和三年六月三日、横浜地方裁判所は、巳香月史乃に対して、無罪判決を言い渡した。同裁判所は、巳香月史乃が両親を殺害し、自宅に放火した事実は認定しつつ、他方、犯行当時、巳香月史乃が夢遊状態にあったとして、責任能力を否定した。検察は「詐病の可能性があるとする検察側の鑑定が無視されている」などとして、控訴をする方針だという。
…………