思索
「ダメだ。分からない」
私は、自分の部屋の机に、突っ伏す。
今日は会社を休んだ。入社したてでまだ有給は使えないので、無給休暇である。
まあ、一ヶ月以上入院していた身としては、今更そんなことは少しも気にしていないのだが。
小学生の頃から使っている学習机は、昨日までは綺麗に整頓されていたが、今や、海原の家から持ってきた紙の資料で埋め尽くされようとしている。
かろうじて確保されていたスペースに、今、私の頭が沈んでいる。
臓器だけでなく、脳も海原から移植してもらえば良かった――と私は後悔する。手術台で意識を失っている場合ではなかったのだ。
海原は、資料によって、「ある法律」の関連も含め、史乃の事件を解くためのヒントを与えてくれた。
――しかし、それは決して答えではなかった。
乱雑な字で書かれたルーズリーフには、夢遊病事件の真相に至るまでの過程が書かれている。
――ただし、途中まで。
思い返してみると、海原と出会った日の段階では、海原は、まだ事件の謎を解き切っていなかったのである。
海原が「全部分かった」と宣言したのは、海原と出会って二日目――海原が殺された日である。
海原の部屋に残された資料とルーズリーフは、海原と出会った日の段階のものであり、海原が真実に至る過程のものなのだ。
そこに答えが書いてあるはずはない。
ゆえに、私が事件の謎を解くためには、海原が私に託した資料を読み込むだけではダメなのである。
今ある資料だけでは欠けている重要な「ラストピース」を見つけ、この難関なパズルを完成させなければならないのである。
その「ラストピース」が何なのか――それが私には分からないのである。
「ああ。もう。分からないよ」
分からない――果たしてそうだろうか?
私は、パッと机から顔を上げる。就職を機に黒染めをした髪がバサリと跳ね上がる。
「ラストピース」が何なのかは分からない――しかし、それがどこにあるのかは分かっているはずだ。
史乃との最後の面談である。
あの面談によって、海原は、事件の真相に辿り着いたのだ。海原は、そこで「ラストピース」を拾い上げたのである。
私は、両手で頭を抱える。
思い出せ――思い出すんだ――
たしかあの時――
海原が、メモ帳で、私に指示した質問は三つである。
一つ目は、「寝る前に睡眠薬を飲まなかったのかどうか」。
二つ目は、「普段見る悪夢の中身について詳しく」。
そして、三つ目は、「悪夢の全体を訊いてくれ。両親が燃えている前後の場面を」。
一つ目は、事件の核心に迫るもののようにも思える。真犯人が史乃に睡眠薬を飲ませた可能性を示唆するものだからだ。
ただ、この質問は、あくまでも確認である。海原は、この質問をする前から、夢遊病殺人の夜、史乃が第三者によって睡眠薬を飲まされている可能性に気付いていた。
一つ目の質問は、念のためにしたものに過ぎず、海原に新たな発見をもたらしたものではないだろう。
二つ目と三つ目の質問は、まとめて一つと考えて良いだろう。
そして、これらの質問によっては、何ら新しい情報は得られていない。
史乃は、夢の内容は「家の中に血塗れになった両親がいて、メラメラと燃える炎に包まれていく」というもので、その前後はないと話した。要するに、前日に話した以上のものでも以下でもない、と回答したのだ。
すると、やはり、これらの質問も、海原に新たな知見を与えてはいないのだ。
すると、これらの質問は、あくまでも地固めのためになされた、と考えられそうだ。
つまり、海原は、質問の前からすでに真実を見つけていたのである。
だとすれば、「ラストピース」が隠されているのは、海原が介入する前の、私と史乃のやりとりということになりそうだ。
一体どういうやりとりをしていただろうか――
印象的だったのは――
「冤罪……」
私とのやりとりの中で、史乃は、谷之岸沙弥が冤罪である可能性について言及していたのである。
これは、かなり独特な視点だ。
なぜなら、海原が集めた谷之岸沙弥関連の新聞や雑誌の中にも、谷之岸沙弥が冤罪かもしれないという見解は、どこにも示されていないからである。
この観点は、この時点での海原の調査から抜け落ちているのだ。
私は、谷之岸沙弥の冤罪疑惑に関し、史乃との具体的なやりとりを思い出してみる。
たしか――
「……もう一つの放火殺人」
史乃は、谷之岸沙弥が拘置所内で死亡した後にも、同様の事件が起きたことを指摘していたのである。つまり、谷之岸沙弥の死後も、連続殺人は止まらなかった、と。
私は、海原が集めた谷之岸沙弥関連の資料を一から丁寧に見返す。
――やはり、谷之岸沙弥の死亡後に起きた放火殺人に関する資料は一つもなかった。
私は、素早く椅子から立ち上がる。
私には、海原のような推理力はない。
しかし、私には、海原にはない行動力がある。