表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/82

郷愁

「福丸君、ついに『ドグラ・マグラ』を読んだというのは本当かい?」


「はい。入院中、ずっと暇でしたので」


 賀城は目を丸くしている。無理はない。あの事件の前の私は、露骨なまでに「ドグラ・マグラ」を拒絶していたのである。読むと精神に異常をきたすという奇書を、心から恐れていたのだ。

 ただ、実際に読んでみた感想としては、「ドグラ・マグラ」は、精神に異常を与えるものというよりは、自らの精神に異常があることを気付かせてくれる良書だった。「ドグラ・マグラ」を読もうが読ままいが、人類みな最初から狂っている。その真理をこの本が教えてくれた。



「たしかに三週間も入院していれば、長編小説を読む時間もあったかもしれないが、まさか君が……」


「そんなにオカシイことですかね? 巳香月史乃の事件を扱う上で、必読の書かと思いますが」


 無論、私が「ドグラ・マグラ」を読んだのは、単なる暇つぶしとしてではない。史乃の事件の謎を明らかにするためのヒントを得るためである。

 それは、私が記者としての仕事を果たすためであると同時に、私が海原から与えられた役割を果たすためでもある。


 海原の代わりに史乃の事件の謎を明らかにすること――それが、海原が私に与えてくれた最後の指示だったのである。



「いやあ、福丸君、しばらく見ない間に立派になったね。見違えるようだよ」


 「死線を一つ潜り抜けましたからね」と、適当なことを言いつつ、私は心の中で笑みを浮かべる。



 株式会社不可知世界の社員は、それぞれ異なる方法で、私に起きた変化をあっという間に見破ってきた。

 賀城と会う前に、敦子と木乃葉に会ったのだが、二人とも、今の私が、今までの私ではないことを即座に見破った。


 敦子は、「叉雨」と名付けた藁人形を握り締めながら、「あなたは叉雨の生まれ変わり」と言い、木乃葉は、私の背後をじっと見つめながら、「海原さんがいます……」と言った。

 この二人の感受性は侮れない。私は、この二人が先輩であることを、心から誇りに思う。


 そして、賀城である。

 賀城は、もしかすると、私がこうなることを予見して、私を採用したのかもしれないとさえ思う。



「編集長、私が頼んでいた物って準備してもらえてますか?」


「もちろん。ただ、この部屋には持ってきてないんだ。ちょっと待っていてくれ」


 賀城がそそくさと面談室から去る。


 私は、四畳間の部屋で、青浄玻璃精神病院に入院しているという精神病者が描いた油絵と、ふたりきりとなる。


 元々好きな絵であった。


 もっとも、今では、この絵に描かれている田園風景に対して、懐かしささえ感じている。

 私は、この絵に描かれている場所には行ったことはなく、また、似たような場所にも行ったことはない。

 それでも、この絵には郷愁を感じる。


 きっと、この絵を描いた「サコウ」という精神病者も同じなのだろう。

 この絵は、万人に共通する心の故郷ふるさとを描いたものに違いないのだ。

 先祖の記憶が描かれている、と言っても差し支えないかもしれない。


 私は、油絵と正対しながら、ゆっくりと瞼を閉じる。


 心の目で見ること――それがこの絵の鑑賞態度として正しい。



「福丸君、持ってきたよ」


 賀城の声が聞こえたので、私は徐に目を開ける。


 賀城が私に向けて差し出した手には、黄金色のシリンダー錠が載っていた。



「これが海原さんが亡くなった時に持っていた鍵ですね」


「ああ。そうだ。マントの内側のポケットにしまってあったものだ」


 このシリンダー錠は、海原が生前住んでいた住居のものに違いない。まさに、私が求めていたものである。



「海原君は、天涯孤独だったんだよ。生まれてすぐに親に捨てられ、幼少期は孤児院で育てられたんだ。そんなわけで、海原君の遺品を引き渡す相手がいなくて、困っていてね」


 海原の葬式は、私の入院中に行われたそうだが、喪主は賀城が務め、参列者は敦子と木乃葉だけだったと聞く。海原には、我が社以外に人と繋がる場がなかったようである。



「大丈夫です。遺品は私が管理します」


「海原君が、死に際に、君を後継者に指名したとか」


「まあ、そんな感じです」


 正確には、私が直接指示されたのは、史乃の事件の謎を明らかにすることと、そのために海原の部屋に行って資料を見ることである。ただ、海原が私を後継者に指名したという解釈を、私が行っても文句はないだろう。今や私が海原なのだから。



「後継者ということは、福丸君は、記者兼探偵になるということかい?」


「それはまだ考え中です。ともかく――」


 私は、賀城の掌の上のシリンダー錠を摘み上げる。



「まずは目の前の事件から片付けます」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ